美佳がカフェで働き始めてから、もうすぐ一年になる。
最初は「しばらくの間」のつもりだった。アンケートが終わって、気持ちが落ち着いたら、次のことを考えよう。そう思っていた。でも「しばらくの間」は気づけば長くなって、今では美佳にとってカフェのシフトが、一日の基準点になっていた。
午後二時に出勤して、七時に退勤する。その五時間だけは、余計なことを考えなくていい。注文を聞いて、飲み物を作って、レジを打って、テーブルを拭く。決まった手順があって、それをなぞるだけでいい。選択の余地が少ない時間。
それが、今の美佳には必要だった。
でもここ数日、その五時間すら、以前とは違う感触になっていた。
きっかけは、常連客の一人だった。
五十代くらいの男性で、週に三回ほどやってくる。いつもブレンドコーヒーを頼んで、窓際の席で一時間ほど過ごして帰っていく。特に会話をするわけでもなく、美佳も名前を知らない。ただ「いつもの方」として認識していた。
その男性が、先週から来なくなった。
それだけなら、何も思わなかったはずだ。常連客が来なくなることは、珍しいことではない。引っ越したのかもしれないし、別の店に移ったのかもしれない。理由はいくらでもある。
でも美佳の頭に、グレーのジャケットの男のことが浮かんだ。
あの常連客と、体型が似ていた。背丈も、肩幅も。服装は全然違うし、顔も違う──はずだ。でも美佳は、あの常連客の顔をそれほど注意して見たことがなかった。記憶の中にある顔と、実際の顔が、ちゃんと一致しているかどうか、自信が持てなかった。
考えすぎだ。
美佳は自分に言い聞かせた。でもカウンターを拭きながら、窓際の、その男性がいつも座っていた席を、何度か確認した。今日も空いていた。
シフトの終わり際に、新しい客が入ってきた。
二十代後半くらいの女性で、黒いコートを着ていた。美佳が「いらっしゃいませ」と言うと、女性は軽く頷いて、カウンター席に座った。メニューを開かずに「ホットのアメリカーノを」と言った。
美佳はコーヒーを用意しながら、その女性のことが少し気になった。
理由はうまく言えない。服装でも、顔立ちでもない。ただ、その女性の視線が、カウンターの中の美佳に向かっていることが多い気がした。スマートフォンを見ているわけでも、窓の外を見ているわけでもなく、ぼんやりとカウンターの方を向いている。
コーヒーを出すと、女性は「ありがとう」と言って、カップを両手で包んだ。それから、こう言った。
「ここで働いて、長いですか?」
客から聞かれることは、たまにある。美佳は「もうすぐ一年になります」と答えた。
「そうですか」女性はコーヒーを一口飲んだ。「藍都は、住みやすいですか?」
少し、間があった。
「ええ、まあ」美佳は笑顔を作って答えた。「静かで、過ごしやすいと思います」
女性はそれ以上、何も言わなかった。コーヒーを飲み終えると、代金を払って、店を出た。ごく普通のやり取りだった。世間話をする客は、珍しくない。
でも美佳は、その女性が出ていった後もしばらく、扉の方を見ていた。
何だったんだろう。
引っかかりの正体が分からない。ただ、引っかかった。
オーナーが「三枝さん、今日は上がっていいよ」と言ったのは、それから十分後だった。
退勤後、美佳はいつもと同じ道で帰り始めて、途中で足を止めた。
先週、一本裏の道を歩いたことを思い出した。あのとき、路地に人影があった。若い女性で、スマートフォンを見ていた——と思った。でも今になって考えると、スマートフォンの画面は光っていただろうか。記憶が曖昧だった。
美佳は今日もいつもと違う道を選んだ。
裏道は街灯が少なく、人通りも少ない。足音が自分のものしか聞こえない。美佳は歩きながら、何度か後ろを振り返った。誰もいない。誰も、いない。
でも「誰もいない」という事実が、今の美佳にはあまり安心材料にならなかった。見えないだけで、いるかもしれない。気づいていないだけで、ずっと前から、見られていたのかもしれない。
これが、paranoia というやつか。
美佳は自分の思考を、少し離れたところから見つめた。
根拠がない。同じ男に三度すれ違ったことも、常連客が来なくなったことも、女性に話しかけられたことも、全部偶然で説明がつく。繋がっているように見えるのは、美佳がそう見たいからかもしれない。LAPISのことが頭にあるから、何でも関連づけてしまっているだけかもしれない。
そう思えた。
でも、思えたからといって、感覚が消えるわけではなかった。
アパートに戻ると、朝倉からメッセージが届いていた。
『「@LAPIS_echo」に新しい動きがあった。明日、時間を作れるか?』
美佳はメッセージを見て、少しの間、考えた。
明日は午前中だけ空いている。カフェのシフトは午後からだ。「午前中なら」と返信しようとして、手が止まった。
朝倉に会いに行く。それは当然の選択に思えた。でも今の美佳には、その「当然」の感触が、少し信用できなかった。
当然だから動くのか。動くべきだから動くのか。あるいは──何かに動かされているのか。
また考えすぎだ。
美佳は「午前中なら大丈夫」と返信した。
スマートフォンを置いて、部屋の照明を落として、ベッドに横になる。天井の染みが、暗がりの中にぼんやりと見えた。
日常に戻りたいと思っていた。アンケートが終わったら、普通の毎日に戻れると思っていた。カフェで働いて、友達と話して、夜は眠る。それだけのことが、こんなにも遠く感じるようになるとは思っていなかった。
選択癖。尾行かもしれない視線。謎のアカウント。消えない端末のログ。常連客の不在。見知らぬ女性の言葉。
一つ一つは、小さいことだ。
でも積み重なると、重さになる。じわじわと、静かに、気づかないうちに。
美佳は目を閉じた。
日常に戻れない、と初めてはっきりと思った。戻ろうとしているのに、何かが戻らせてくれない。あるいは──もうあの日常は、どこにもないのかもしれない。
外では、藍都の夜が静かに続いていた。どこかで車が通り過ぎる音がして、それから、また静かになった。
最初は「しばらくの間」のつもりだった。アンケートが終わって、気持ちが落ち着いたら、次のことを考えよう。そう思っていた。でも「しばらくの間」は気づけば長くなって、今では美佳にとってカフェのシフトが、一日の基準点になっていた。
午後二時に出勤して、七時に退勤する。その五時間だけは、余計なことを考えなくていい。注文を聞いて、飲み物を作って、レジを打って、テーブルを拭く。決まった手順があって、それをなぞるだけでいい。選択の余地が少ない時間。
それが、今の美佳には必要だった。
でもここ数日、その五時間すら、以前とは違う感触になっていた。
きっかけは、常連客の一人だった。
五十代くらいの男性で、週に三回ほどやってくる。いつもブレンドコーヒーを頼んで、窓際の席で一時間ほど過ごして帰っていく。特に会話をするわけでもなく、美佳も名前を知らない。ただ「いつもの方」として認識していた。
その男性が、先週から来なくなった。
それだけなら、何も思わなかったはずだ。常連客が来なくなることは、珍しいことではない。引っ越したのかもしれないし、別の店に移ったのかもしれない。理由はいくらでもある。
でも美佳の頭に、グレーのジャケットの男のことが浮かんだ。
あの常連客と、体型が似ていた。背丈も、肩幅も。服装は全然違うし、顔も違う──はずだ。でも美佳は、あの常連客の顔をそれほど注意して見たことがなかった。記憶の中にある顔と、実際の顔が、ちゃんと一致しているかどうか、自信が持てなかった。
考えすぎだ。
美佳は自分に言い聞かせた。でもカウンターを拭きながら、窓際の、その男性がいつも座っていた席を、何度か確認した。今日も空いていた。
シフトの終わり際に、新しい客が入ってきた。
二十代後半くらいの女性で、黒いコートを着ていた。美佳が「いらっしゃいませ」と言うと、女性は軽く頷いて、カウンター席に座った。メニューを開かずに「ホットのアメリカーノを」と言った。
美佳はコーヒーを用意しながら、その女性のことが少し気になった。
理由はうまく言えない。服装でも、顔立ちでもない。ただ、その女性の視線が、カウンターの中の美佳に向かっていることが多い気がした。スマートフォンを見ているわけでも、窓の外を見ているわけでもなく、ぼんやりとカウンターの方を向いている。
コーヒーを出すと、女性は「ありがとう」と言って、カップを両手で包んだ。それから、こう言った。
「ここで働いて、長いですか?」
客から聞かれることは、たまにある。美佳は「もうすぐ一年になります」と答えた。
「そうですか」女性はコーヒーを一口飲んだ。「藍都は、住みやすいですか?」
少し、間があった。
「ええ、まあ」美佳は笑顔を作って答えた。「静かで、過ごしやすいと思います」
女性はそれ以上、何も言わなかった。コーヒーを飲み終えると、代金を払って、店を出た。ごく普通のやり取りだった。世間話をする客は、珍しくない。
でも美佳は、その女性が出ていった後もしばらく、扉の方を見ていた。
何だったんだろう。
引っかかりの正体が分からない。ただ、引っかかった。
オーナーが「三枝さん、今日は上がっていいよ」と言ったのは、それから十分後だった。
退勤後、美佳はいつもと同じ道で帰り始めて、途中で足を止めた。
先週、一本裏の道を歩いたことを思い出した。あのとき、路地に人影があった。若い女性で、スマートフォンを見ていた——と思った。でも今になって考えると、スマートフォンの画面は光っていただろうか。記憶が曖昧だった。
美佳は今日もいつもと違う道を選んだ。
裏道は街灯が少なく、人通りも少ない。足音が自分のものしか聞こえない。美佳は歩きながら、何度か後ろを振り返った。誰もいない。誰も、いない。
でも「誰もいない」という事実が、今の美佳にはあまり安心材料にならなかった。見えないだけで、いるかもしれない。気づいていないだけで、ずっと前から、見られていたのかもしれない。
これが、paranoia というやつか。
美佳は自分の思考を、少し離れたところから見つめた。
根拠がない。同じ男に三度すれ違ったことも、常連客が来なくなったことも、女性に話しかけられたことも、全部偶然で説明がつく。繋がっているように見えるのは、美佳がそう見たいからかもしれない。LAPISのことが頭にあるから、何でも関連づけてしまっているだけかもしれない。
そう思えた。
でも、思えたからといって、感覚が消えるわけではなかった。
アパートに戻ると、朝倉からメッセージが届いていた。
『「@LAPIS_echo」に新しい動きがあった。明日、時間を作れるか?』
美佳はメッセージを見て、少しの間、考えた。
明日は午前中だけ空いている。カフェのシフトは午後からだ。「午前中なら」と返信しようとして、手が止まった。
朝倉に会いに行く。それは当然の選択に思えた。でも今の美佳には、その「当然」の感触が、少し信用できなかった。
当然だから動くのか。動くべきだから動くのか。あるいは──何かに動かされているのか。
また考えすぎだ。
美佳は「午前中なら大丈夫」と返信した。
スマートフォンを置いて、部屋の照明を落として、ベッドに横になる。天井の染みが、暗がりの中にぼんやりと見えた。
日常に戻りたいと思っていた。アンケートが終わったら、普通の毎日に戻れると思っていた。カフェで働いて、友達と話して、夜は眠る。それだけのことが、こんなにも遠く感じるようになるとは思っていなかった。
選択癖。尾行かもしれない視線。謎のアカウント。消えない端末のログ。常連客の不在。見知らぬ女性の言葉。
一つ一つは、小さいことだ。
でも積み重なると、重さになる。じわじわと、静かに、気づかないうちに。
美佳は目を閉じた。
日常に戻れない、と初めてはっきりと思った。戻ろうとしているのに、何かが戻らせてくれない。あるいは──もうあの日常は、どこにもないのかもしれない。
外では、藍都の夜が静かに続いていた。どこかで車が通り過ぎる音がして、それから、また静かになった。



