アンケート ― 選ばないという選択 ―

 その日の朝、美佳はカフェへ向かう途中で、同じ男に三度すれ違った。

 最初は駅の改札を出たところだった。三十代くらいの、特徴のない男だ。グレーのジャケットに黒いスラックス。顔立ちは平凡で、背丈も普通で、記憶に残るような要素が何もない。すれ違った瞬間に視界に入って、そのまま流れていった。

 二度目は商店街の入り口だった。向こうから歩いてきて、美佳の脇を通り過ぎていった。グレーのジャケット。同じ男だ、と思ったが、別人かもしれないとも思った。ありふれた服装だし、似たような人間は街に何人もいる。

 三度目は、カフェの前だった。

 美佳が扉を開けようとしたとき、道路の向こう側に男が立っていた。こちらを向いて、立っていた。視線が合った気がした。気がした、というだけで、確信はない。男はすぐに歩き始めて、角を曲がって、消えた。

 美佳はしばらく扉の前に立ったまま、男が消えた角を見ていた。

 気のせいかもしれない。藍都はそれほど広い街ではないし、同じ方向に向かっていれば、何度かすれ違うことはある。何かを根拠にしているわけじゃない。ただ、胃の底が少しだけ冷えた感覚があった。

 美佳は扉を開けて、店に入った。



 シフト中、美佳は窓の外を気にし続けた。

 カフェの窓は道路に面していて、通行人の足元が見える。グレーのジャケット、黒いスラックス。そういう組み合わせの人間を、無意識に探していた。見つかるたびに、あの男かどうか確認しようとして、顔まで確認できないまま通り過ぎていく。

 オーナーに「三枝さん、今日ちょっとぼんやりしてない?」と言われて、美佳は「すみません」と謝った。

 理由は言わなかった。言えなかった、というより、言うほどのことでもないと判断した。三度すれ違っただけだ。それだけのことだ。

 でも頭から離れなかった。

 休憩時間に、美佳は朝倉にメッセージを送ろうとして、やめた。何を送ればいいのか分からなかった。「今日、同じ男に三度すれ違った」と送っても、それが何かを意味するかどうか、美佳自身にも分からない。朝倉は事実と根拠を大切にする人間だ。根拠のない不安を送りつけても、困らせるだけかもしれない。

 美佳はスマートフォンをポケットに戻した。

 代わりに、シフトが終わってから翔に連絡を取ることを考えた。翔は「しばらく直接連絡を取らない方がいい」と言っていたが、それは翔自身への連絡を控えてほしい、という意味だったはずだ。美佳から翔への連絡を制限したわけじゃない──と解釈することもできた。

 でも確信はなかった。



 シフトが終わると、外はすっかり暗くなっていた。

 美佳はいつもと違う帰り道を選んだ。理由は単純で、試してみたかったからだ。もし誰かが尾行しているなら、道を変えても同じ人間が現れるはずだ。いつもの道を避けて、一本裏の通りを歩いてみる。

 誰もいなければ、ただの思い過ごし。

 ストリートライトの薄い光の中を歩きながら、美佳は後ろを確認した。一度、二度。誰もいない。普通に帰宅する人が何人か歩いているだけで、特定の人物が後をついてくる気配はない。

 やっぱり気のせいだったか。

 そう思いかけたとき、路地の入り口に人影があった。

 街灯の外側に立っていて、顔がよく見えない。ジャケットの色は、暗くて判別できなかった。ただ、その人影は動いていなかった。歩いてもいないし、スマートフォンを見ているわけでもない。ただ、立っていた。

 美佳は立ち止まらなかった。立ち止まることが正しい行動とは思えなかった。足を止めずに歩き続けながら、その人影との距離を意識した。近づいていく。十メートル、八メートル、五メートル──

 人影は動かなかった。

 美佳が路地の前を通り過ぎたとき、横目でそちらを見た。若い女性だった。スマートフォンの画面を見ながら、誰かを待っているようだった。グレーのジャケットでも、黒いスラックスでもない。

 美佳は正面に視線を戻して、歩き続けた。

 心臓が少し速くなっていた。



 アパートに戻ってドアを閉めた瞬間、美佳は深く息をついた。

 鍵を二重にかけた。いつもは一つしかかけない方の鍵も、今日は両方かけた。それから窓の鍵も確認した。全部閉まっていた。当たり前だ、外出前に確認したのだから。

 美佳はソファに座って、スマートフォンを見た。

 着信もメッセージも、何もなかった。

 第3話の夜に届いた空白のメッセージのことを思い出した。あれからずっと、削除せずに残してある。今もトーク画面の中にある。本文が空白で、送信者が非通知の、一件のメッセージ。

 美佳はそれを開いた。

 やはり、何も書かれていない。

 でも今日、同じ男に三度すれ違ったことを考えると、あのメッセージの意味が少し違って見えてくる気がした。根拠はない。ただの偶然かもしれない。でも──

 偶然が、重なりすぎている。

 美佳はスマートフォンを置いて、天井を見た。

 LAPISは終わった。サーバーは止まった。アンケートは消えた。

 でも朝倉は言っていた。終わり方が綺麗すぎる、と。端末のデータは消えていない、と。翔は「意図的かもしれない」と言った、と。

 美佳の端末に残っているログ。サーバー停止後に更新されたタイムスタンプ。空白のメッセージ。そして今日の男。

 一つ一つは、何でもないことかもしれない。

 でも並べると、輪郭のようなものが浮かんでくる気がした。まだはっきりとは見えない。ただ、何かがそこにある、という感覚。

 美佳は朝倉に電話をかけようとして、時計を見た。二十三時を回っていた。

 明日にしよう、と思った。

 電気を消して、ベッドに入る。目を閉じると、すぐに今日の光景が浮かんできた。グレーのジャケットの男。道路の向こうから、こちらを向いて立っていた人影。路地の入り口に動かずに立っていた人影——あれは若い女性で、スマートフォンを見ていただけだった。

 でも、もし違ったら。

 もし、見られていたら。

 美佳は目を開けた。暗い天井が見えた。

 誰も見ていないはずだ。LAPISは終わったのだから。選ばれる理由も、観察される理由も、もうないはずだ。

 でも──「はずだ」という言葉が、今の美佳にはひどく頼りなく聞こえた。

 寝付くまでに、かなりの時間がかかった。