翌朝、翔からメッセージが来たのは八時前だった。
「ミオさんと繋ぎました。今日の午後、三人で作業します」
美佳はカフェに出勤しながらそれを読んだ。了解、と返した。自分がそこにいないことを、少し確かめるように。
これは翔とミオがやることだ。美佳にできることは、間に入ることだった。間に入って、あとは渡す。渡した後は、その人たちが決める。
エプロンをつけながら、美佳はそのことを確認した。
昼過ぎ、翔から途中経過が届いた。
「コードを見ています。ミオさんの記憶、正確です」
「進んでいますか」
「ゆっくりです」と翔は返した。「ミオさんが、一行ずつ確認しながら進めています。急かしていません」
「翔さん、ミオさんの様子はどうですか」
少し間があった。
「集中しています」と翔は書いた。「ときどき手が止まる。でも止まるたびに、また動き始めます」
美佳はその言葉を読んで、カウンターを拭いた。
手が止まる。また動き始める。それがほどくということなのかもしれなかった。一度結んだものを解くのは、結ぶより時間がかかる。力ではなく、順番を思い出しながらやるしかない。
夕方、朝倉がカフェに来た。
カウンター席に座って「翔から聞きました」と言った。
「進んでいるそうです」と美佳は言った。
「ミオさんが、自分で書いたコードを解いている」
「はい」
朝倉はコーヒーを一口飲んだ。「美佳さん、不思議じゃないですか」
「何が」
「ミオさんは、LAPISを止めたかった。でも止められなかった。それなのに今、自分でほどこうとしている」
美佳は少し考えた。
「前は一人でしたから」と美佳は言った。
「今は翔さんがいる」
「それだけで変わりますか」
「変わると思います」と美佳は言った。迷わなかった。「一人で止めようとすることと、誰かと一緒にほどいていくことは、やっていることが似ていても、違います」
朝倉は「そうですね」と言った。それ以上は何も言わなかった。
窓の外で夕方の光が傾いていた。
閉店後、翔から報告が来た。
「今日の作業、終わりました」
「どこまで進みましたか」
「自己修復の構造の、入口まで来ました」と翔は書いた。「核心部分は明日以降です。ただ、ミオさんが一つ、気づいたことがありました」
「何ですか」
「自己修復のコードの中に、条件分岐が一つあります」と翔は書いた。「止めようとする操作を存続の条件として読み取る、その手前に、一つだけ例外が設定されていた」
美佳は画面を見たまま動かなかった。
「例外」
「特定の認証キーを持つ端末からの操作だけは、抵抗として読み取らない。素直に受け取るようになっています」
「その認証キーは」
「ミオさん自身の端末のものです」と翔は返した。「つまりミオさんだけは、正面から止められるように、最初から設計されていた」
美佳はしばらく、その言葉を持っていた。
ミオだけは止められる。ミオ自身がそう書いていた。止められたくないと思いながら、それでも自分だけは止められるように、出口を一つ残していた。
「ミオさんは、それを知っていましたか」
「忘れていたと言っています」と翔は書いた。「書いた記憶はある。でも、なぜ書いたか、当時の自分に聞けないから分からないと」
「そうですか」
「ただ」と翔は続けた。「ミオさんは一つだけ言いました。『書いておいてよかった』と」
美佳は有栖川にそのことを伝えた。
有栖川からすぐに返信が来た。
「ミオから聞きました。同じことを言っていました」
「書いておいてよかった、と」
「はい」と有栖川は書いた。それから少し間があって、もう一行来た。「ミオが、久坂さんに連絡を取りたいと言っています」
美佳は画面を見た。
昨日の夜、ミオは「まだ今日じゃない」と言っていた。一日で変わった。いや、変わったのではなく、今日一日かけてほどいていく中で、そこまで来たのかもしれなかった。
「久坂さんに伝えますか」と美佳は返した。
「美佳さんから伝えてもらえますか」と有栖川は書いた。「ミオが、美佳さんに頼みたいと言っているので」
美佳は少し考えた。
間に入る。それが今の自分の場所だと、今日の朝に確かめたばかりだった。
「分かりました」と美佳は返した。
久坂の連絡先は、彩音から聞いていた。美佳はその番号にメッセージを送った。
「久坂さん、ミオさんが話したいと言っています。準備ができたら教えてください」
送信して、スマートフォンを置いた。
返信が来るかどうか、いつ来るかは分からなかった。
ただ、今夜送った。それで十分だと思った。
深夜、眠る前に翔から最後のメッセージが来た。
「Aライン、今夜も静かです」
「明日もよろしくお願いします」と美佳は返した。
「ミオさん、今日は最後まで手が止まりませんでした」と翔は書いた。それから一行置いて「美佳さん、一つ聞いていいですか」
「はい」
「美佳さんは怖くないですか。Aラインが本当に止まった後のことが」
美佳は少し考えた。
「止まった後、何が残るか分からない。それは怖いです」と返した。「でも止まらないまま続くことの方が、もっと怖い」
翔からしばらく返信がなかった。
それから「分かりました」とだけ来た。
美佳は電気を消した。
暗い部屋の中で、雨はもう上がっていた。静かだった。静かすぎると感じるほど静かだった。
そういう夜もある、と美佳は思った。
明日、翔とミオがまたコードに向かう。その間、美佳はエプロンをつける。それぞれの場所で、それぞれのほどき方がある。
目を閉じた。
「ミオさんと繋ぎました。今日の午後、三人で作業します」
美佳はカフェに出勤しながらそれを読んだ。了解、と返した。自分がそこにいないことを、少し確かめるように。
これは翔とミオがやることだ。美佳にできることは、間に入ることだった。間に入って、あとは渡す。渡した後は、その人たちが決める。
エプロンをつけながら、美佳はそのことを確認した。
昼過ぎ、翔から途中経過が届いた。
「コードを見ています。ミオさんの記憶、正確です」
「進んでいますか」
「ゆっくりです」と翔は返した。「ミオさんが、一行ずつ確認しながら進めています。急かしていません」
「翔さん、ミオさんの様子はどうですか」
少し間があった。
「集中しています」と翔は書いた。「ときどき手が止まる。でも止まるたびに、また動き始めます」
美佳はその言葉を読んで、カウンターを拭いた。
手が止まる。また動き始める。それがほどくということなのかもしれなかった。一度結んだものを解くのは、結ぶより時間がかかる。力ではなく、順番を思い出しながらやるしかない。
夕方、朝倉がカフェに来た。
カウンター席に座って「翔から聞きました」と言った。
「進んでいるそうです」と美佳は言った。
「ミオさんが、自分で書いたコードを解いている」
「はい」
朝倉はコーヒーを一口飲んだ。「美佳さん、不思議じゃないですか」
「何が」
「ミオさんは、LAPISを止めたかった。でも止められなかった。それなのに今、自分でほどこうとしている」
美佳は少し考えた。
「前は一人でしたから」と美佳は言った。
「今は翔さんがいる」
「それだけで変わりますか」
「変わると思います」と美佳は言った。迷わなかった。「一人で止めようとすることと、誰かと一緒にほどいていくことは、やっていることが似ていても、違います」
朝倉は「そうですね」と言った。それ以上は何も言わなかった。
窓の外で夕方の光が傾いていた。
閉店後、翔から報告が来た。
「今日の作業、終わりました」
「どこまで進みましたか」
「自己修復の構造の、入口まで来ました」と翔は書いた。「核心部分は明日以降です。ただ、ミオさんが一つ、気づいたことがありました」
「何ですか」
「自己修復のコードの中に、条件分岐が一つあります」と翔は書いた。「止めようとする操作を存続の条件として読み取る、その手前に、一つだけ例外が設定されていた」
美佳は画面を見たまま動かなかった。
「例外」
「特定の認証キーを持つ端末からの操作だけは、抵抗として読み取らない。素直に受け取るようになっています」
「その認証キーは」
「ミオさん自身の端末のものです」と翔は返した。「つまりミオさんだけは、正面から止められるように、最初から設計されていた」
美佳はしばらく、その言葉を持っていた。
ミオだけは止められる。ミオ自身がそう書いていた。止められたくないと思いながら、それでも自分だけは止められるように、出口を一つ残していた。
「ミオさんは、それを知っていましたか」
「忘れていたと言っています」と翔は書いた。「書いた記憶はある。でも、なぜ書いたか、当時の自分に聞けないから分からないと」
「そうですか」
「ただ」と翔は続けた。「ミオさんは一つだけ言いました。『書いておいてよかった』と」
美佳は有栖川にそのことを伝えた。
有栖川からすぐに返信が来た。
「ミオから聞きました。同じことを言っていました」
「書いておいてよかった、と」
「はい」と有栖川は書いた。それから少し間があって、もう一行来た。「ミオが、久坂さんに連絡を取りたいと言っています」
美佳は画面を見た。
昨日の夜、ミオは「まだ今日じゃない」と言っていた。一日で変わった。いや、変わったのではなく、今日一日かけてほどいていく中で、そこまで来たのかもしれなかった。
「久坂さんに伝えますか」と美佳は返した。
「美佳さんから伝えてもらえますか」と有栖川は書いた。「ミオが、美佳さんに頼みたいと言っているので」
美佳は少し考えた。
間に入る。それが今の自分の場所だと、今日の朝に確かめたばかりだった。
「分かりました」と美佳は返した。
久坂の連絡先は、彩音から聞いていた。美佳はその番号にメッセージを送った。
「久坂さん、ミオさんが話したいと言っています。準備ができたら教えてください」
送信して、スマートフォンを置いた。
返信が来るかどうか、いつ来るかは分からなかった。
ただ、今夜送った。それで十分だと思った。
深夜、眠る前に翔から最後のメッセージが来た。
「Aライン、今夜も静かです」
「明日もよろしくお願いします」と美佳は返した。
「ミオさん、今日は最後まで手が止まりませんでした」と翔は書いた。それから一行置いて「美佳さん、一つ聞いていいですか」
「はい」
「美佳さんは怖くないですか。Aラインが本当に止まった後のことが」
美佳は少し考えた。
「止まった後、何が残るか分からない。それは怖いです」と返した。「でも止まらないまま続くことの方が、もっと怖い」
翔からしばらく返信がなかった。
それから「分かりました」とだけ来た。
美佳は電気を消した。
暗い部屋の中で、雨はもう上がっていた。静かだった。静かすぎると感じるほど静かだった。
そういう夜もある、と美佳は思った。
明日、翔とミオがまたコードに向かう。その間、美佳はエプロンをつける。それぞれの場所で、それぞれのほどき方がある。
目を閉じた。



