その日の夜、美佳は有栖川に電話をかけた。
呼び出し音が四回鳴って、有栖川が出た。
「今、話せますか」
「大丈夫です」と有栖川は言った。背景に、静かな音があった。換気扇か、遠い雨か。
美佳は今日のことを話した。カフェで久坂に会ったこと、Aラインを止める方法、根幹のコードを書き直す必要があること。話しながら、順番に整理されていく感覚があった。
有栖川は途中で一度も遮らなかった。
「ミオに話す、ということですね」と有栖川は最後に言った。
「はい。ただ、有栖川さんに先に聞きたかった。ミオさんの今の状態を」
少し間があった。
「昨日、外に出ました」と有栖川は言った。
「図書館の帰りに、コンビニに一人で寄っていました。わたしに言わずに」
「それは」
「良いことだと思っています」と有栖川は言った。静かな確信のある声だった。「一人で決めて、一人で動けた」
美佳は少し息を吐いた。
「ミオさんに、直接話してもいいですか」
「聞いてみます」と有栖川は言った。「今夜中に返事します」
返事は一時間後に来た。
有栖川からではなく、見知らぬ番号からだった。
「美佳さんですか。ミオです」
テキストではなく、電話だった。美佳は少し驚いて、でも落ち着いて「はい」と答えた。
「有栖川さんから聞きました」とミオは言った。声が、倉庫で会ったときより安定していた。「Aラインのことを、話してもらえますか」
美佳はもう一度、今日のことを話した。久坂の言葉、三分おきの送信、根幹のコードという言葉。
ミオは静かに聞いていた。
「そのコード、わたしが書きました」とミオは言った。否定も肯定も超えた、ただ事実を置くような言い方だった。「自己修復の構造です。止めようとする操作を、存続の条件として読み取るようになっています」
「意図して書きましたか」
間があった。
「半分は」とミオは言った。「システムが続いてほしかった。止められたくなかった。でももう半分は、自分でも気づいていなかった。書いているうちに、そうなっていた」
美佳は窓の外を見た。今夜は雨が降っていた。
「書き直せますか」
「書き直すというより」とミオは少し考えてから言った。「解く、という感じです。ほどいていく。時間はかかります」
「どのくらい」
「分かりません。コードは覚えています。でも今のわたしが、それと向き合えるかどうかは、やってみないと」
「無理にとは言いません」と美佳は言った。
「ミオさんが決めることです」
また間があった。今度は少し長かった。
「久坂さんは」とミオは言った。「今、どんな様子でしたか」
美佳は今日の久坂を思い返した。グレーのジャケット、白くなった爪の先、コーヒーを両手で持つ手。
「疲れていました」と美佳は言った。「でも、諦めてはいなかった」
「そうですか」
「久坂さんは、ミオさんが壊れていくのを見ていられなかったと言っていました。以前」
「知っています」とミオは言った。「久坂さんから直接聞いたわけじゃないけど、知っています」
「だから止めようとしていたと」
「久坂さんはいつも、わたしのためにやりすぎる」とミオは言った。責めているわけではなかった。ただ、長い時間をかけて理解してきたことを言葉にしているようだった。「それがわたしには怖かった。だから遠ざけた。遠ざけたまま、全部が大きくなった」
雨の音が少し強くなった。
「ミオさん」と美佳は言った。「久坂さんと話す気持ちはありますか。今すぐでなくていい」
長い沈黙があった。
美佳は待った。急かさなかった。
「あります」とミオは言った。「ただ、まだ今日じゃない」
「分かりました」
「コードの方は」とミオは続けた。「始めてみます。翔さんと一緒に見てもらえますか。一人では、たぶん途中で止まる」
「翔さんに伝えます」
「美佳さん」とミオは言った。
「はい」
「間に入ってくれて、ありがとうございます」
美佳は「間に入っただけです」と言った。
「決めたのはミオさんです」
電話が切れた。
美佳は翔に短く状況を伝えた。
翔からすぐに返信が来た。
「了解しました。明日、ミオさんと繋ぎます」それから一行置いて「Aラインの送信、さっき止まりました」
「止まった?」
「三分おきの送信が、途切れました。久坂さんの端末からの接続も、今は静かです」
美佳はその言葉を読んで、少し考えた。
「久坂さんが何かしたわけじゃないですよね」
「操作の形跡はないです」と翔は返した。
「ただ、止まっています」
「なぜ」
「分かりません」と翔は書いた。「ただ、今日、美佳さんが久坂さんに会いに行った。ミオさんが動くと決めた。その夜に止まった」
美佳はしばらく画面を見ていた。
因果なのか偶然なのか、確かめる方法はなかった。翔もそれを言いたいわけではないと分かった。ただ、そういうことが今夜起きた。それだけだった。
「明日もよろしくお願いします」と美佳は送った。
「おやすみなさい」と翔は返した。
美佳はスマートフォンを置いた。
雨がまだ降っていた。窓ガラスを伝う水の筋が、街の明かりを細く歪めていた。
止まったのか、息をひそめているのか、それ
とも別の何かに変わろうとしているのか。
美佳には分からなかった。
ただ今夜、ミオが電話をかけてきた。それは確かだった。見知らぬ番号から、自分で選んでかけてきた。
美佳はそのことを、しばらく静かに持っていた。
呼び出し音が四回鳴って、有栖川が出た。
「今、話せますか」
「大丈夫です」と有栖川は言った。背景に、静かな音があった。換気扇か、遠い雨か。
美佳は今日のことを話した。カフェで久坂に会ったこと、Aラインを止める方法、根幹のコードを書き直す必要があること。話しながら、順番に整理されていく感覚があった。
有栖川は途中で一度も遮らなかった。
「ミオに話す、ということですね」と有栖川は最後に言った。
「はい。ただ、有栖川さんに先に聞きたかった。ミオさんの今の状態を」
少し間があった。
「昨日、外に出ました」と有栖川は言った。
「図書館の帰りに、コンビニに一人で寄っていました。わたしに言わずに」
「それは」
「良いことだと思っています」と有栖川は言った。静かな確信のある声だった。「一人で決めて、一人で動けた」
美佳は少し息を吐いた。
「ミオさんに、直接話してもいいですか」
「聞いてみます」と有栖川は言った。「今夜中に返事します」
返事は一時間後に来た。
有栖川からではなく、見知らぬ番号からだった。
「美佳さんですか。ミオです」
テキストではなく、電話だった。美佳は少し驚いて、でも落ち着いて「はい」と答えた。
「有栖川さんから聞きました」とミオは言った。声が、倉庫で会ったときより安定していた。「Aラインのことを、話してもらえますか」
美佳はもう一度、今日のことを話した。久坂の言葉、三分おきの送信、根幹のコードという言葉。
ミオは静かに聞いていた。
「そのコード、わたしが書きました」とミオは言った。否定も肯定も超えた、ただ事実を置くような言い方だった。「自己修復の構造です。止めようとする操作を、存続の条件として読み取るようになっています」
「意図して書きましたか」
間があった。
「半分は」とミオは言った。「システムが続いてほしかった。止められたくなかった。でももう半分は、自分でも気づいていなかった。書いているうちに、そうなっていた」
美佳は窓の外を見た。今夜は雨が降っていた。
「書き直せますか」
「書き直すというより」とミオは少し考えてから言った。「解く、という感じです。ほどいていく。時間はかかります」
「どのくらい」
「分かりません。コードは覚えています。でも今のわたしが、それと向き合えるかどうかは、やってみないと」
「無理にとは言いません」と美佳は言った。
「ミオさんが決めることです」
また間があった。今度は少し長かった。
「久坂さんは」とミオは言った。「今、どんな様子でしたか」
美佳は今日の久坂を思い返した。グレーのジャケット、白くなった爪の先、コーヒーを両手で持つ手。
「疲れていました」と美佳は言った。「でも、諦めてはいなかった」
「そうですか」
「久坂さんは、ミオさんが壊れていくのを見ていられなかったと言っていました。以前」
「知っています」とミオは言った。「久坂さんから直接聞いたわけじゃないけど、知っています」
「だから止めようとしていたと」
「久坂さんはいつも、わたしのためにやりすぎる」とミオは言った。責めているわけではなかった。ただ、長い時間をかけて理解してきたことを言葉にしているようだった。「それがわたしには怖かった。だから遠ざけた。遠ざけたまま、全部が大きくなった」
雨の音が少し強くなった。
「ミオさん」と美佳は言った。「久坂さんと話す気持ちはありますか。今すぐでなくていい」
長い沈黙があった。
美佳は待った。急かさなかった。
「あります」とミオは言った。「ただ、まだ今日じゃない」
「分かりました」
「コードの方は」とミオは続けた。「始めてみます。翔さんと一緒に見てもらえますか。一人では、たぶん途中で止まる」
「翔さんに伝えます」
「美佳さん」とミオは言った。
「はい」
「間に入ってくれて、ありがとうございます」
美佳は「間に入っただけです」と言った。
「決めたのはミオさんです」
電話が切れた。
美佳は翔に短く状況を伝えた。
翔からすぐに返信が来た。
「了解しました。明日、ミオさんと繋ぎます」それから一行置いて「Aラインの送信、さっき止まりました」
「止まった?」
「三分おきの送信が、途切れました。久坂さんの端末からの接続も、今は静かです」
美佳はその言葉を読んで、少し考えた。
「久坂さんが何かしたわけじゃないですよね」
「操作の形跡はないです」と翔は返した。
「ただ、止まっています」
「なぜ」
「分かりません」と翔は書いた。「ただ、今日、美佳さんが久坂さんに会いに行った。ミオさんが動くと決めた。その夜に止まった」
美佳はしばらく画面を見ていた。
因果なのか偶然なのか、確かめる方法はなかった。翔もそれを言いたいわけではないと分かった。ただ、そういうことが今夜起きた。それだけだった。
「明日もよろしくお願いします」と美佳は送った。
「おやすみなさい」と翔は返した。
美佳はスマートフォンを置いた。
雨がまだ降っていた。窓ガラスを伝う水の筋が、街の明かりを細く歪めていた。
止まったのか、息をひそめているのか、それ
とも別の何かに変わろうとしているのか。
美佳には分からなかった。
ただ今夜、ミオが電話をかけてきた。それは確かだった。見知らぬ番号から、自分で選んでかけてきた。
美佳はそのことを、しばらく静かに持っていた。



