翌朝、朝倉が七時半に迎えに来た。
インターフォンが鳴って、美佳がドアを開けると朝倉は「おはようございます」と言った。それだけだった。余分なことを言わない人だと、美佳は改めて思った。
二人で駅まで歩いた。
「翔さんから今朝、連絡がありましたか」と美佳は歩きながら言った。
「ありました」と朝倉は答えた。「接続、まだ続いているそうです」
「三分おきの送信も」
「はい」
二人はしばらく黙って歩いた。朝の街は人が少なかった。シャッターの閉まった店が並んでいて、その前を通り過ぎるたびに足音だけが響いた。
「朝倉さんは、久坂さんに会ったことはありますか」
「ありません」と朝倉は言った。「廃施設のとき、美佳さんたちが中に入ってから外で待っていました」
美佳は「そうでしたね」と言った。あの夜のことを思い出した。扉の向こうから聞こえたモールス信号、翔の声、そして一階の扉を開けて現れた黒いコートの女性。
「どんな人でしたか」と朝倉が聞いた。
美佳は少し考えた。
「静かな人でした」と言った。「怖い人だと思っていたのに、会ってみたら怖くなかった。ただ、静かだった」
「静かな人が、一番遠くまで設計できる」と朝倉は言った。
美佳は朝倉を見た。朝倉は前を向いたまま歩いていた。
彩音から聞いたカフェは、駅から二十分ほど歩いた住宅街の中にあった。
看板が小さくて、通り過ぎそうになった。木の扉を押すと、豆を焙煎する匂いがした。席は十二しかなかった。窓際に二人掛けのテーブルが四つ並んでいた。
久坂はいなかった。
美佳と朝倉は窓から離れた奥の席に座った。
コーヒーを二つ頼んだ。
「来ないかもしれません」と朝倉は言った。
「来るかもしれません」と美佳は言った。
どちらも責めているわけではなかった。ただ、両方が本当だった。
コーヒーが来て、美佳は一口飲んだ。苦かった。悪くなかった。
三十分が過ぎた。
美佳はスマートフォンで翔の最新の報告を確認した。接続は続いていた。三分おきの送信も続いていた。
「久坂さんは今、何をしているんでしょう」
と美佳は言った。独り言に近かった。
「送り続けている」と朝倉は言った。「止めようとして、送り続けている」
「止めようとすることが、送信になっている」
「そういう設計なのかもしれない」
美佳はカップを置いた。
ミオが書いたコードの中に、三分という単位がある。止めようとする動作そのものが、システムへの接続を維持する。抵抗がフィードバックになる。そういう構造を、ミオは意図して書いたのか、意図せず書いたのか。
どちらにしても、今それが久坂の端末で動いている。
一時間が過ぎようとしたとき、扉が開いた。
黒いコートではなかった。グレーの、薄手のジャケット。髪が廃施設のときより短くなっていた。顔が、少しやつれていた。
久坂は入口で二人を見て、止まった。
驚いた様子ではなかった。ただ、来るとも思っていなかった、という顔だった。
美佳は立ち上がらなかった。「座ってもらえますか」と言った。
久坂は少し間を置いてから、テーブルの前まで来た。椅子を引いて、座った。
「彩音さんから聞きましたか」と久坂は言った。
「はい」
「うまくいかなかった、というのは」と久坂は続けた。弁明するような声ではなかった。ただ説明しようとしていた。「Aラインを切ろうとするたびに、接続が維持されます。止めようとする操作が、止まらない理由になっている」
「知っています」と美佳は言った。「翔さんから聞きました」
久坂は少し目を細めた。「東郷くんが」
「三分おきに送信が来ています」
久坂はテーブルの上に手を置いた。爪の先が白くなるくらい、少し力が入っていた。
「ミオさんが書いたコードだそうですね」と
美佳は言った。
「そうです」と久坂は答えた。「わたしはそのコードの上に、機能を加えた。でも根幹は触っていない。触れなかった」
「なぜ」
久坂はしばらく黙った。
「ミオが書いたものだから」と、久坂は言った。声が、最初より低くなっていた。「壊せなかった。それだけです」
コーヒーを一杯追加した。久坂の分も頼んだ。
久坂は断らなかった。
「Aラインを止める方法は、本当にないんですか」と美佳は聞いた。
「今のやり方では」と久坂は言った。「抵抗するほど強くなる。無視しても、別の端末を探す。正面から切ろうとすると、経路を変える」
「では」
「根幹のコードを書き直すしかない」久坂はカップを両手で持った。「でもそれはわたしにはできない。ミオが書いたものだから、ではなくて」久坂は少し止まった。「構造を、わたしより深く理解している人間が必要です」
美佳は久坂を見た。
「ミオさんに頼むということですか」
久坂は答えなかった。答えないことが、答えだった。
自分が壊せなかったものを書いた人間に、壊してほしいと言えない。言えないまま、三分おきにシステムに向かって何かを送り続けている。
美佳は朝倉を見た。朝倉は久坂を見ていた。
「わたしから話します」と美佳は言った。
久坂がゆっくり顔を上げた。
「ミオさんに」と美佳は続けた。「久坂さんが頼めないなら、わたしが間に入ります。それがいいかどうかは、ミオさんが決めることですが」
久坂はしばらく美佳を見ていた。
何かを言いかけて、言わなかった。
代わりに、カップを置いた。
窓の外で、風が木の枝を揺らした。葉が数枚、ガラスの向こうを流れた。
「あなたは」と久坂は言った。「LAPISの設計者適性が最高位だと、ファイルに書かれていた」
「知っています」
「その意味を、理解していますか」
美佳は「完全にはわかりません」と答えた。
「でも、引き受けないは変わりません」
久坂は小さく、ほとんど聞こえないくらいの声で「そうですか」と言った。
それ以上は何も言わなかった。
コーヒーが三つ、テーブルの上に並んでいた。
インターフォンが鳴って、美佳がドアを開けると朝倉は「おはようございます」と言った。それだけだった。余分なことを言わない人だと、美佳は改めて思った。
二人で駅まで歩いた。
「翔さんから今朝、連絡がありましたか」と美佳は歩きながら言った。
「ありました」と朝倉は答えた。「接続、まだ続いているそうです」
「三分おきの送信も」
「はい」
二人はしばらく黙って歩いた。朝の街は人が少なかった。シャッターの閉まった店が並んでいて、その前を通り過ぎるたびに足音だけが響いた。
「朝倉さんは、久坂さんに会ったことはありますか」
「ありません」と朝倉は言った。「廃施設のとき、美佳さんたちが中に入ってから外で待っていました」
美佳は「そうでしたね」と言った。あの夜のことを思い出した。扉の向こうから聞こえたモールス信号、翔の声、そして一階の扉を開けて現れた黒いコートの女性。
「どんな人でしたか」と朝倉が聞いた。
美佳は少し考えた。
「静かな人でした」と言った。「怖い人だと思っていたのに、会ってみたら怖くなかった。ただ、静かだった」
「静かな人が、一番遠くまで設計できる」と朝倉は言った。
美佳は朝倉を見た。朝倉は前を向いたまま歩いていた。
彩音から聞いたカフェは、駅から二十分ほど歩いた住宅街の中にあった。
看板が小さくて、通り過ぎそうになった。木の扉を押すと、豆を焙煎する匂いがした。席は十二しかなかった。窓際に二人掛けのテーブルが四つ並んでいた。
久坂はいなかった。
美佳と朝倉は窓から離れた奥の席に座った。
コーヒーを二つ頼んだ。
「来ないかもしれません」と朝倉は言った。
「来るかもしれません」と美佳は言った。
どちらも責めているわけではなかった。ただ、両方が本当だった。
コーヒーが来て、美佳は一口飲んだ。苦かった。悪くなかった。
三十分が過ぎた。
美佳はスマートフォンで翔の最新の報告を確認した。接続は続いていた。三分おきの送信も続いていた。
「久坂さんは今、何をしているんでしょう」
と美佳は言った。独り言に近かった。
「送り続けている」と朝倉は言った。「止めようとして、送り続けている」
「止めようとすることが、送信になっている」
「そういう設計なのかもしれない」
美佳はカップを置いた。
ミオが書いたコードの中に、三分という単位がある。止めようとする動作そのものが、システムへの接続を維持する。抵抗がフィードバックになる。そういう構造を、ミオは意図して書いたのか、意図せず書いたのか。
どちらにしても、今それが久坂の端末で動いている。
一時間が過ぎようとしたとき、扉が開いた。
黒いコートではなかった。グレーの、薄手のジャケット。髪が廃施設のときより短くなっていた。顔が、少しやつれていた。
久坂は入口で二人を見て、止まった。
驚いた様子ではなかった。ただ、来るとも思っていなかった、という顔だった。
美佳は立ち上がらなかった。「座ってもらえますか」と言った。
久坂は少し間を置いてから、テーブルの前まで来た。椅子を引いて、座った。
「彩音さんから聞きましたか」と久坂は言った。
「はい」
「うまくいかなかった、というのは」と久坂は続けた。弁明するような声ではなかった。ただ説明しようとしていた。「Aラインを切ろうとするたびに、接続が維持されます。止めようとする操作が、止まらない理由になっている」
「知っています」と美佳は言った。「翔さんから聞きました」
久坂は少し目を細めた。「東郷くんが」
「三分おきに送信が来ています」
久坂はテーブルの上に手を置いた。爪の先が白くなるくらい、少し力が入っていた。
「ミオさんが書いたコードだそうですね」と
美佳は言った。
「そうです」と久坂は答えた。「わたしはそのコードの上に、機能を加えた。でも根幹は触っていない。触れなかった」
「なぜ」
久坂はしばらく黙った。
「ミオが書いたものだから」と、久坂は言った。声が、最初より低くなっていた。「壊せなかった。それだけです」
コーヒーを一杯追加した。久坂の分も頼んだ。
久坂は断らなかった。
「Aラインを止める方法は、本当にないんですか」と美佳は聞いた。
「今のやり方では」と久坂は言った。「抵抗するほど強くなる。無視しても、別の端末を探す。正面から切ろうとすると、経路を変える」
「では」
「根幹のコードを書き直すしかない」久坂はカップを両手で持った。「でもそれはわたしにはできない。ミオが書いたものだから、ではなくて」久坂は少し止まった。「構造を、わたしより深く理解している人間が必要です」
美佳は久坂を見た。
「ミオさんに頼むということですか」
久坂は答えなかった。答えないことが、答えだった。
自分が壊せなかったものを書いた人間に、壊してほしいと言えない。言えないまま、三分おきにシステムに向かって何かを送り続けている。
美佳は朝倉を見た。朝倉は久坂を見ていた。
「わたしから話します」と美佳は言った。
久坂がゆっくり顔を上げた。
「ミオさんに」と美佳は続けた。「久坂さんが頼めないなら、わたしが間に入ります。それがいいかどうかは、ミオさんが決めることですが」
久坂はしばらく美佳を見ていた。
何かを言いかけて、言わなかった。
代わりに、カップを置いた。
窓の外で、風が木の枝を揺らした。葉が数枚、ガラスの向こうを流れた。
「あなたは」と久坂は言った。「LAPISの設計者適性が最高位だと、ファイルに書かれていた」
「知っています」
「その意味を、理解していますか」
美佳は「完全にはわかりません」と答えた。
「でも、引き受けないは変わりません」
久坂は小さく、ほとんど聞こえないくらいの声で「そうですか」と言った。
それ以上は何も言わなかった。
コーヒーが三つ、テーブルの上に並んでいた。



