図書館の話は、結局その週の土曜日になった。
有栖川からミオが「来週」と言っていたのが、気づけば三日後に変わっていた。美佳は翌朝のシフトを朝倉に頼んで、午前中だけ空けた。
待ち合わせは図書館の正面入口。十時。
ミオは有栖川より五分遅れて来た。紺色のコートを着ていた。髪が少し伸びていた。倉庫で会ったときより、立っている姿に重さがあった。地面にちゃんと足がついている、と美佳は思った。
「久しぶりです」と美佳が言うと、ミオは
「久しぶりですね」と答えた。
声が、あのときより少し低かった。
三人は館内をそれぞれのペースで歩いた。
ミオは自然科学の棚の前で少し長く止まった。有栖川が隣で何かを手に取って、背表紙を読んでいた。美佳は少し離れたところから二人を見ていた。
声をかけるタイミングを測っているわけではなかった。ただ、この距離がちょうど良かった。
しばらくして、ミオが美佳の方に歩いてきた。
「美佳さんは、何か探していますか」
「いいえ」と美佳は答えた。「来ることが目的だったので」
ミオは少し考えるような間を置いてから「そういう来方ができるんですね」と言った。否定でも肯定でもなく、ただ確認するような言い方だった。
「ミオさんは?」
「わからないものを探しています。何かは分からないけど」と、ミオは棚を見ながら言った。「来る前は、もっと怖いと思っていました。外が」
「今は?」
「怖いことは怖い。でも、怖いだけじゃなかった」
昼前に三人は一階のロビーに戻った。
ベンチに並んで座って、有栖川が鞄から三つに分けたチョコレートを取り出した。「持ってきました」と言って渡した。理由は説明しなかった。美佳は受け取って、一つ口に入れた。
しばらく誰も話さなかった。
外から光が入ってきて、ロビーの床に長い四角を作っていた。
ミオが口を開いた。
「LAPISのことを、最近また考えます」
美佳は何も言わなかった。
「悪かったと思っています。でも、あの問いを作りたかったことは、悪かったと思っていない。そこが、整理できていない」
有栖川がチョコレートの包みを丁寧に折り畳みながら「整理しなくていいんじゃないか」と言った。
「整理できないまま持っていていいですか」とミオは言った。誰かに許可を求めているわけではなく、声に出して確かめているようだった。
美佳は「持っていていいと思います」と答えた。「渡せない問いは、渡さなくていい」
ミオは美佳を見た。
「渡さない、か」
「無理に手放さなくてもいいという意味です」と美佳は言った。「あなたが持っていることで、誰かが傷つくわけじゃない」
ミオはもう一度「渡さない」と繰り返した。
今度は小さく、自分に言い聞かせるような声だった。
図書館を出ると、空が思ったより広かった。
三人はしばらく同じ方向に歩いた。途中で有栖川とミオが角を曲がった。美佳は駅の方に向かった。
改札を抜けてホームに降りたとき、美佳のスマートフォンが振動した。
翔からだった。
「美佳さん、今どこですか」
「図書館の帰りです。駅にいます」
既読がついて、すぐに返信が来た。
「端末、今手元にありますか」
「あります」
「ログを見てください。設定の深いところ。アプリ一覧の一番下」
美佳はホームのベンチに座って、言われた通りに操作した。アプリ一覧をスクロールしていくと、一番下に名前のないアイコンがあった。インストールした覚えがなかった。タップすると、パスワード入力画面が開いた。
「これは」
「今朝、美佳さんの端末に外部から生成されたものです」と翔は書いた。「削除しようとしたら、再生成されました。二回」
美佳は画面を見たまま動かなかった。
「久坂さんが止めた、はずでは」
「止めたのは彩音さんが関わっていた部分です」と翔は返した。「これは別の経路です。Aラインから来ています」
電車が入ってきた。アナウンスが流れた。美佳はベンチから立ち上がらなかった。
「Aラインは、久坂さんが管理していた」
「はい」
「久坂さんが止めた、と彩音さんは言っていた」
「彩音さんにはそう伝えた、ということだと思います」
電車のドアが開いて、閉まった。美佳の乗るはずだった電車が、ホームを離れた。
翔からもう一行届いた。
「このアプリ、パスワード画面の下に一行だけテキストがあります。気づきましたか」
美佳は画面を下にスクロールした。
小さなフォントで、一行。
あなたはまだ、観察されています。
帰り道、美佳はその一行について誰にも連絡しなかった。
翔にだけ「見ました」と送った。
翔は「了解しました。今夜、もう少し調べます」と返した。
美佳はスマートフォンをポケットにしまって、歩いた。
渡さなくていい、と今日自分で言った。
でも渡す相手がいないまま持ち続けることと、渡すことを選んで持ち続けることは、同じではない。
美佳はそのことを考えながら、駅を出た。街の明かりがいつも通りに並んでいた。どこかで誰かが今夜も画面を開いて、問いを探しているかもしれなかった。それを止める方法は、まだ誰も持っていなかった。
有栖川からミオが「来週」と言っていたのが、気づけば三日後に変わっていた。美佳は翌朝のシフトを朝倉に頼んで、午前中だけ空けた。
待ち合わせは図書館の正面入口。十時。
ミオは有栖川より五分遅れて来た。紺色のコートを着ていた。髪が少し伸びていた。倉庫で会ったときより、立っている姿に重さがあった。地面にちゃんと足がついている、と美佳は思った。
「久しぶりです」と美佳が言うと、ミオは
「久しぶりですね」と答えた。
声が、あのときより少し低かった。
三人は館内をそれぞれのペースで歩いた。
ミオは自然科学の棚の前で少し長く止まった。有栖川が隣で何かを手に取って、背表紙を読んでいた。美佳は少し離れたところから二人を見ていた。
声をかけるタイミングを測っているわけではなかった。ただ、この距離がちょうど良かった。
しばらくして、ミオが美佳の方に歩いてきた。
「美佳さんは、何か探していますか」
「いいえ」と美佳は答えた。「来ることが目的だったので」
ミオは少し考えるような間を置いてから「そういう来方ができるんですね」と言った。否定でも肯定でもなく、ただ確認するような言い方だった。
「ミオさんは?」
「わからないものを探しています。何かは分からないけど」と、ミオは棚を見ながら言った。「来る前は、もっと怖いと思っていました。外が」
「今は?」
「怖いことは怖い。でも、怖いだけじゃなかった」
昼前に三人は一階のロビーに戻った。
ベンチに並んで座って、有栖川が鞄から三つに分けたチョコレートを取り出した。「持ってきました」と言って渡した。理由は説明しなかった。美佳は受け取って、一つ口に入れた。
しばらく誰も話さなかった。
外から光が入ってきて、ロビーの床に長い四角を作っていた。
ミオが口を開いた。
「LAPISのことを、最近また考えます」
美佳は何も言わなかった。
「悪かったと思っています。でも、あの問いを作りたかったことは、悪かったと思っていない。そこが、整理できていない」
有栖川がチョコレートの包みを丁寧に折り畳みながら「整理しなくていいんじゃないか」と言った。
「整理できないまま持っていていいですか」とミオは言った。誰かに許可を求めているわけではなく、声に出して確かめているようだった。
美佳は「持っていていいと思います」と答えた。「渡せない問いは、渡さなくていい」
ミオは美佳を見た。
「渡さない、か」
「無理に手放さなくてもいいという意味です」と美佳は言った。「あなたが持っていることで、誰かが傷つくわけじゃない」
ミオはもう一度「渡さない」と繰り返した。
今度は小さく、自分に言い聞かせるような声だった。
図書館を出ると、空が思ったより広かった。
三人はしばらく同じ方向に歩いた。途中で有栖川とミオが角を曲がった。美佳は駅の方に向かった。
改札を抜けてホームに降りたとき、美佳のスマートフォンが振動した。
翔からだった。
「美佳さん、今どこですか」
「図書館の帰りです。駅にいます」
既読がついて、すぐに返信が来た。
「端末、今手元にありますか」
「あります」
「ログを見てください。設定の深いところ。アプリ一覧の一番下」
美佳はホームのベンチに座って、言われた通りに操作した。アプリ一覧をスクロールしていくと、一番下に名前のないアイコンがあった。インストールした覚えがなかった。タップすると、パスワード入力画面が開いた。
「これは」
「今朝、美佳さんの端末に外部から生成されたものです」と翔は書いた。「削除しようとしたら、再生成されました。二回」
美佳は画面を見たまま動かなかった。
「久坂さんが止めた、はずでは」
「止めたのは彩音さんが関わっていた部分です」と翔は返した。「これは別の経路です。Aラインから来ています」
電車が入ってきた。アナウンスが流れた。美佳はベンチから立ち上がらなかった。
「Aラインは、久坂さんが管理していた」
「はい」
「久坂さんが止めた、と彩音さんは言っていた」
「彩音さんにはそう伝えた、ということだと思います」
電車のドアが開いて、閉まった。美佳の乗るはずだった電車が、ホームを離れた。
翔からもう一行届いた。
「このアプリ、パスワード画面の下に一行だけテキストがあります。気づきましたか」
美佳は画面を下にスクロールした。
小さなフォントで、一行。
あなたはまだ、観察されています。
帰り道、美佳はその一行について誰にも連絡しなかった。
翔にだけ「見ました」と送った。
翔は「了解しました。今夜、もう少し調べます」と返した。
美佳はスマートフォンをポケットにしまって、歩いた。
渡さなくていい、と今日自分で言った。
でも渡す相手がいないまま持ち続けることと、渡すことを選んで持ち続けることは、同じではない。
美佳はそのことを考えながら、駅を出た。街の明かりがいつも通りに並んでいた。どこかで誰かが今夜も画面を開いて、問いを探しているかもしれなかった。それを止める方法は、まだ誰も持っていなかった。



