翌朝、六時半に目が覚めた。
目覚ましより三十分早かった。
天井を見た。薄い光がカーテンの端から入っていた。今日も晴れているようだった。
もう一度眠ろうとして、眠れなかった。体が起きていた。
しばらく布団の中にいて、七時に起き上がった。
シャワーを浴びた。
朝食を作った。トーストと目玉焼きだった。特別なものは何もなかった。でも、ちゃんと作って、ちゃんと食べた。
食べながら窓の外を見た。三日続けて晴れていた。
コーヒーを飲んだ。
端末を確認した。翔から来ていた。昨夜も静かでした。今朝も異常なし。おはようございます。
美佳はおはようございます。今日からカフェに出勤しますと返した。
翔からいってらっしゃいませと来た。
美佳は少し笑った。
出勤の準備をした。
着替えて、鞄に必要なものを入れた。財布、端末、鍵。それだけでよかった。
クローゼットを開けたとき、いつもと少し違う感覚があった。
服を選ぶときの、あの「選択癖」が、今日はなかった。
正確には──なくなったわけではないかもしれない。でも今日は、手が自然に動いた。これを着ようという気持ちが、理由より先に来た。
美佳はそのことに気づいて、少しの間、クローゼットの前に立っていた。
変わったのか、今日だけなのか、分からなかった。でも、今日はこれだった。
家を出た。
商店街を歩いた。朝の商店街は、昼とは違う顔をしていた。シャッターが開いていく途中の店があった。八百屋のおじさんが荷物を運んでいた。パン屋から焼ける匂いがしてきた。
美佳はその匂いの中を歩いた。
昨日朝倉と来た公園の前を通った。ベンチは空だった。落ち葉は誰かが掃いたのか、なくなっていた。
手書きのポスターが貼られていた壁の前を通った。
ポスターはまだあった。
問いを持って、今日も生きています。
風に少し端が折れていた。でも、剥がれていなかった。
美佳は立ち止まらずに、通り過ぎた。
カフェの前に着いた。
開店十分前だった。
ガラス越しに中を見ると、先輩が準備をしていた。美佳に気づいて、手招きした。
ドアを開けた。
「おかえり」と先輩は言った。
「ただいまです」と美佳は言った。
先輩が笑った。「久しぶりに聞いた、その声」
「しばらく休んでいたので」
「元気そうじゃん」
「元気です」と美佳は言った。それは本当だった。全部が解決したわけではないが、今日の美佳は元気だった。
ロッカーに荷物を入れた。
エプロンを手に取った。
畳んだまま棚に置いてあった。しばらく使っていなかったから、少し埃が積もっていた。美佳はそれを払って、広げた。
見慣れた濃紺のエプロンだった。紐が少し縒れていた。直した。
後ろで結んだ。
その動作の中に、何かが戻ってきた感じがした。名前はつけられないが、確かな何かが。
鏡を見た。
エプロンをつけた自分がいた。
しばらくの間、美佳はその自分を見ていた。怖くも、嬉しくもなかった。ただ、ここにいる、という感じがした。
開店した。
最初の一時間は静かだった。朝の常連が数人来た。
顔を見知った老夫婦が来た。美佳を見て、
「あら、戻ってきたの」と言った。
「戻ってきました」と美佳は言った。
「元気そうで良かった」と奥さんが言った。
「ありがとうございます」
老夫婦はいつものテーブルに座った。いつものコーヒーを頼んだ。美佳がいつものように入れた。
その普通のことが、今日は少し輝いて見えた。輝いて、という言葉が正確かどうか分からないが、他に言い方がなかった。
昼の混雑が始まった。
注文が続いた。レジを打った。料理を運んだ。カップを洗った。テーブルを拭いた。
忙しかった。でも、体が動いた。手順を覚えていた。体に残っていた。
先輩が「さすが、戻り早い」と言った。
「体が覚えていました」と美佳は言った。
「体の記憶ってあるよね。頭が忘れても、体は覚えてる」
美佳はその言葉を、少しの間持った。
頭が忘れても、体は覚えている。
選択癖も、依存も、問いへの執着も、頭で起きることだと思っていた。でも体は、ちゃんとエプロンの結び方を覚えていた。コーヒーの入れ方を覚えていた。カップの温め方を覚えていた。
それは小さなことだったが、今日の美佳には大きかった。
昼過ぎ、混雑が落ち着いた頃、ドアが開いた。
美佳はカウンターを拭きながら、顔を上げた。
ユリだった。
白いコートを着ていた。昨日とは違う顔をしていた。どこかが軽くなっていた。
「来ました」とユリは言った。
「来てくれましたね」と美佳は言った。
「コーヒー、いいですか」
「どうぞ」
ユリがカウンター席に座った。美佳がコーヒーを入れた。
ユリがカップを受け取った。一口飲んだ。
「おいしい」と言った。
「ありがとうございます」
「美佳さん、エプロン似合っています」とユリは言った。
美佳は「ありがとうございます」と言った。
カフェの中は静かだった。
数人の客が、それぞれのテーブルで、それぞれのことをしていた。本を読んでいる人がいた。パソコンを開いている人がいた。窓の外を見ている人がいた。
ユリはコーヒーを飲みながら、特に何もしていなかった。
「何か考えていますか」と美佳は聞いた。
「考えていないです」とユリは言った。「久しぶりに、何も考えていない気がします」
「それは良かったです」
「頭が静かなの、こんな感じだったんですね」とユリは言った。「忘れていました」
カウンターの奥で、先輩が小声で「友達?」と聞いてきた。
「知り合いです」と美佳は小声で答えた。
「なんか、ほっとした顔してるね、その子」
美佳は「そうですね」と言った。
「美佳もほっとした顔してる」と先輩は言った。「久しぶりに見た、その顔」
美佳は何も言わなかった。でも、否定しなかった。
午後の光が、窓から斜めに入ってきた。
カフェの中が、その光でゆっくり満たされていった。
ユリが二杯目を頼んだ。
美佳がコーヒーを入れている間、端末が一度振動した。
確認すると、朝倉からだった。
今日どうでしたか。
美佳は少しの間考えてから、返信した。
良かったです。ユリも来ています。
朝倉からすぐ来た。
それは良かった。翔も廃施設で静かに過ごしています。なぜか居心地が良いらしい。
美佳は翔らしいですねと返した。
有栖川さんからも連絡がありました。ミオさん、今日は外に出たそうです。少し歩いたと。
美佳は良かったですと返した。
それから一行付け加えた。
全員、今日も生きていますね。
朝倉からそうですねと来た。それだけだった。それで十分だった。
ユリが帰ったのは、三時頃だった。
「また来ます」と言って、出ていった。
美佳はその後ろ姿を、ドア越しに少し見た。
商店街に入ったユリが、ふと立ち止まった。何かを見ているようだった。手書きのポスターの前かもしれない、と美佳は思った。
しばらくして、ユリは歩き始めた。
閉店間際、最後の客が出ていった。
先輩と二人で片付けをした。
椅子を上げて、床を掃いて、カウンターを最後にもう一度拭いた。
電気を落とした。
ロッカーでエプロンを外した。
畳んで、棚に置いた。明日のために。
外に出た。
夜の商店街は、昼より静かだった。いくつかの店の明かりが消えていた。でも、まだ開いている店もあった。
美佳は少しの間、カフェの前に立っていた。
ガラスに自分が映っていた。コートを着た、普通の顔をした自分が。
エプロンをつけているときと、コートを着ているときと、どちらが本当の自分かと聞かれたら──どちらも本当だと思った。LAPISのログの中にいた自分も、岸壁でユリの隣に座っていた自分も、廃施設の暗がりの中にいた自分も。
全部、同じ人間だった。
歩き始めた。
手書きのポスターの前を通った。
夜の中でも、文字は読めた。
問いを持って、今日も生きています。
美佳は今日、問いを持っていたか。
持っていた。いくつか。でも、朝より夜の方が、少し軽かった気がした。
問いが消えたわけではなかった。でも、問いと一緒に、一日を生きた。
それで十分だった。
家に帰った。
コートを脱いだ。鞄を置いた。
お湯を沸かした。
窓の外を見た。星は見えなかった。でも、空は晴れていた。雲の向こうに、何かがあるはずだった。
美佳はほうじ茶を入れて、ソファに座った。
今日一日のことを思い返した。老夫婦。先輩の声。ユリの二杯目。コーヒーの温度。エプロンの重さ。
どれも、小さなことだった。
でも今日の美佳には、それが全部あった。
端末を見た。
着信もメッセージも、特に来ていなかった。
今夜は来なくていい、と思った。
マグカップを両手で包んだ。
温かかった。
目覚ましより三十分早かった。
天井を見た。薄い光がカーテンの端から入っていた。今日も晴れているようだった。
もう一度眠ろうとして、眠れなかった。体が起きていた。
しばらく布団の中にいて、七時に起き上がった。
シャワーを浴びた。
朝食を作った。トーストと目玉焼きだった。特別なものは何もなかった。でも、ちゃんと作って、ちゃんと食べた。
食べながら窓の外を見た。三日続けて晴れていた。
コーヒーを飲んだ。
端末を確認した。翔から来ていた。昨夜も静かでした。今朝も異常なし。おはようございます。
美佳はおはようございます。今日からカフェに出勤しますと返した。
翔からいってらっしゃいませと来た。
美佳は少し笑った。
出勤の準備をした。
着替えて、鞄に必要なものを入れた。財布、端末、鍵。それだけでよかった。
クローゼットを開けたとき、いつもと少し違う感覚があった。
服を選ぶときの、あの「選択癖」が、今日はなかった。
正確には──なくなったわけではないかもしれない。でも今日は、手が自然に動いた。これを着ようという気持ちが、理由より先に来た。
美佳はそのことに気づいて、少しの間、クローゼットの前に立っていた。
変わったのか、今日だけなのか、分からなかった。でも、今日はこれだった。
家を出た。
商店街を歩いた。朝の商店街は、昼とは違う顔をしていた。シャッターが開いていく途中の店があった。八百屋のおじさんが荷物を運んでいた。パン屋から焼ける匂いがしてきた。
美佳はその匂いの中を歩いた。
昨日朝倉と来た公園の前を通った。ベンチは空だった。落ち葉は誰かが掃いたのか、なくなっていた。
手書きのポスターが貼られていた壁の前を通った。
ポスターはまだあった。
問いを持って、今日も生きています。
風に少し端が折れていた。でも、剥がれていなかった。
美佳は立ち止まらずに、通り過ぎた。
カフェの前に着いた。
開店十分前だった。
ガラス越しに中を見ると、先輩が準備をしていた。美佳に気づいて、手招きした。
ドアを開けた。
「おかえり」と先輩は言った。
「ただいまです」と美佳は言った。
先輩が笑った。「久しぶりに聞いた、その声」
「しばらく休んでいたので」
「元気そうじゃん」
「元気です」と美佳は言った。それは本当だった。全部が解決したわけではないが、今日の美佳は元気だった。
ロッカーに荷物を入れた。
エプロンを手に取った。
畳んだまま棚に置いてあった。しばらく使っていなかったから、少し埃が積もっていた。美佳はそれを払って、広げた。
見慣れた濃紺のエプロンだった。紐が少し縒れていた。直した。
後ろで結んだ。
その動作の中に、何かが戻ってきた感じがした。名前はつけられないが、確かな何かが。
鏡を見た。
エプロンをつけた自分がいた。
しばらくの間、美佳はその自分を見ていた。怖くも、嬉しくもなかった。ただ、ここにいる、という感じがした。
開店した。
最初の一時間は静かだった。朝の常連が数人来た。
顔を見知った老夫婦が来た。美佳を見て、
「あら、戻ってきたの」と言った。
「戻ってきました」と美佳は言った。
「元気そうで良かった」と奥さんが言った。
「ありがとうございます」
老夫婦はいつものテーブルに座った。いつものコーヒーを頼んだ。美佳がいつものように入れた。
その普通のことが、今日は少し輝いて見えた。輝いて、という言葉が正確かどうか分からないが、他に言い方がなかった。
昼の混雑が始まった。
注文が続いた。レジを打った。料理を運んだ。カップを洗った。テーブルを拭いた。
忙しかった。でも、体が動いた。手順を覚えていた。体に残っていた。
先輩が「さすが、戻り早い」と言った。
「体が覚えていました」と美佳は言った。
「体の記憶ってあるよね。頭が忘れても、体は覚えてる」
美佳はその言葉を、少しの間持った。
頭が忘れても、体は覚えている。
選択癖も、依存も、問いへの執着も、頭で起きることだと思っていた。でも体は、ちゃんとエプロンの結び方を覚えていた。コーヒーの入れ方を覚えていた。カップの温め方を覚えていた。
それは小さなことだったが、今日の美佳には大きかった。
昼過ぎ、混雑が落ち着いた頃、ドアが開いた。
美佳はカウンターを拭きながら、顔を上げた。
ユリだった。
白いコートを着ていた。昨日とは違う顔をしていた。どこかが軽くなっていた。
「来ました」とユリは言った。
「来てくれましたね」と美佳は言った。
「コーヒー、いいですか」
「どうぞ」
ユリがカウンター席に座った。美佳がコーヒーを入れた。
ユリがカップを受け取った。一口飲んだ。
「おいしい」と言った。
「ありがとうございます」
「美佳さん、エプロン似合っています」とユリは言った。
美佳は「ありがとうございます」と言った。
カフェの中は静かだった。
数人の客が、それぞれのテーブルで、それぞれのことをしていた。本を読んでいる人がいた。パソコンを開いている人がいた。窓の外を見ている人がいた。
ユリはコーヒーを飲みながら、特に何もしていなかった。
「何か考えていますか」と美佳は聞いた。
「考えていないです」とユリは言った。「久しぶりに、何も考えていない気がします」
「それは良かったです」
「頭が静かなの、こんな感じだったんですね」とユリは言った。「忘れていました」
カウンターの奥で、先輩が小声で「友達?」と聞いてきた。
「知り合いです」と美佳は小声で答えた。
「なんか、ほっとした顔してるね、その子」
美佳は「そうですね」と言った。
「美佳もほっとした顔してる」と先輩は言った。「久しぶりに見た、その顔」
美佳は何も言わなかった。でも、否定しなかった。
午後の光が、窓から斜めに入ってきた。
カフェの中が、その光でゆっくり満たされていった。
ユリが二杯目を頼んだ。
美佳がコーヒーを入れている間、端末が一度振動した。
確認すると、朝倉からだった。
今日どうでしたか。
美佳は少しの間考えてから、返信した。
良かったです。ユリも来ています。
朝倉からすぐ来た。
それは良かった。翔も廃施設で静かに過ごしています。なぜか居心地が良いらしい。
美佳は翔らしいですねと返した。
有栖川さんからも連絡がありました。ミオさん、今日は外に出たそうです。少し歩いたと。
美佳は良かったですと返した。
それから一行付け加えた。
全員、今日も生きていますね。
朝倉からそうですねと来た。それだけだった。それで十分だった。
ユリが帰ったのは、三時頃だった。
「また来ます」と言って、出ていった。
美佳はその後ろ姿を、ドア越しに少し見た。
商店街に入ったユリが、ふと立ち止まった。何かを見ているようだった。手書きのポスターの前かもしれない、と美佳は思った。
しばらくして、ユリは歩き始めた。
閉店間際、最後の客が出ていった。
先輩と二人で片付けをした。
椅子を上げて、床を掃いて、カウンターを最後にもう一度拭いた。
電気を落とした。
ロッカーでエプロンを外した。
畳んで、棚に置いた。明日のために。
外に出た。
夜の商店街は、昼より静かだった。いくつかの店の明かりが消えていた。でも、まだ開いている店もあった。
美佳は少しの間、カフェの前に立っていた。
ガラスに自分が映っていた。コートを着た、普通の顔をした自分が。
エプロンをつけているときと、コートを着ているときと、どちらが本当の自分かと聞かれたら──どちらも本当だと思った。LAPISのログの中にいた自分も、岸壁でユリの隣に座っていた自分も、廃施設の暗がりの中にいた自分も。
全部、同じ人間だった。
歩き始めた。
手書きのポスターの前を通った。
夜の中でも、文字は読めた。
問いを持って、今日も生きています。
美佳は今日、問いを持っていたか。
持っていた。いくつか。でも、朝より夜の方が、少し軽かった気がした。
問いが消えたわけではなかった。でも、問いと一緒に、一日を生きた。
それで十分だった。
家に帰った。
コートを脱いだ。鞄を置いた。
お湯を沸かした。
窓の外を見た。星は見えなかった。でも、空は晴れていた。雲の向こうに、何かがあるはずだった。
美佳はほうじ茶を入れて、ソファに座った。
今日一日のことを思い返した。老夫婦。先輩の声。ユリの二杯目。コーヒーの温度。エプロンの重さ。
どれも、小さなことだった。
でも今日の美佳には、それが全部あった。
端末を見た。
着信もメッセージも、特に来ていなかった。
今夜は来なくていい、と思った。
マグカップを両手で包んだ。
温かかった。



