翌朝も、晴れていた。
美佳は八時に起きた。カーテンを開けると、昨日と同じ青い空だった。二日続けて晴れるのは、今週初めてだった。
コーヒーを入れて、窓の前に座った。
今日は明後日の前の日だった。出勤前の日だった。特に何もしなくていい日だった。
そう思っていた。
十時頃、朝倉から連絡が来た。
今日、会えますか。話したいことがあります。
美佳は会えますと返した。
昼、カフェの近くで。
分かりました。
朝倉が「話したいことがある」と言うときは、大体、自分の中で整理してから来る。急ぎではないが、置いておけない何かがある、という種類の連絡だと美佳は思った。
待ち合わせは十二時だった。
美佳は少し早めに家を出た。
商店街を歩いた。晴れているせいか、人が多かった。八百屋の前に人だかりができていた。何かが安いのだろうと思いながら、通り過ぎた。
カフェの前を通った。明日来る場所だった。ガラス越しに見ると、ランチの時間で混んでいた。先輩が動き回っているのが見えた。
美佳はその場に立ち止まらずに、通り過ぎた。明日でいい。
朝倉は先に来ていた。
カフェから少し離れた、小さな公園のベンチに座っていた。手に缶コーヒーを持っていた。
「早いですね」と美佳は言った。
「早めに来ました」と朝倉は言った。「少し考えたかったので」
美佳は隣に座った。
「話したいことって何ですか」と美佳は聞いた。
朝倉が缶コーヒーを両手で持った。少し間を置いた。
「グレーのジャケットの男のことです」と朝倉は言った。
美佳は「第1章から視界の端にいた人」と確認した。
「はい」と朝倉は言った。「公民館の後に消えた男性と同一人物かどうか、ずっと分からなかった人です」
「同一人物だったんですか」
「違いました」と朝倉は言った。
美佳は少し驚いた。「じゃあ、誰ですか」
朝倉が缶コーヒーを一口飲んだ。それから話し始めた。
「翔に頼んで調べてもらいました。廃施設に行く前後から、ずっと気になっていたので。昨日、翔と廃施設で話しているときに結果が出ました」
「昨日、報告しなかったのは」
「整理する時間が欲しかったから」と朝倉は言った。「美佳に話す前に、自分で一度受け取っておきたかった」
美佳は「分かりました」と言った。
「グレーのジャケットの男は」と朝倉は続けた。「LAPISの最初の参加者の一人でした」
「参加者」
「アンケートに答えていた人間の中の、一人です。翔がログを照合しました。端末のIDが一致した」
美佳はその言葉を、一度頭の中で整理した。
「なぜ私の周辺に現れていたんですか」
朝倉が少し間を置いた。「そこが、整理に時間がかかったところです」
「聞かせてください」
「男性は──LAPISが止まった後も、美佳の周辺を見ていたようです。翔の調べでは、@LAPIS_echoのフォロワーの中に男性のものと思われる端末IDがありました。ただしDMは受け取っていない。コミュニティへの参加もしていない。ただ、見ていた」
「なぜ私を」
朝倉が「そこまでは分からなかった」と言った。「翔も、動機の部分は追えなかった。でも──」
「でも」
「男性が美佳に危害を加えようとしていた形跡は、どこにもなかった。ただ、見ていた」
美佳は少し考えた。
「LAPISに答えていた人間が、システムが止まった後も、何かを求めていた」
「そう見えます」と朝倉は言った。
「設計者候補として選ばれていた私の周辺を、見ていた」
「はい」
「私に何かを求めていたのか、それとも LAPISの残像を見ていたのか」
「分からないです」と朝倉は言った。率直に言った。「でも翔は、依存のグラデーションと表現していました。システムが止まっても、問いへの依存が残っている人間がいる。その一人だったかもしれない、と」
美佳は公園の地面を見た。落ち葉が何枚か、風に吹かれて動いていた。
「今、その人は」
「消息は分かっています」と朝倉は言った。
「日常を送っています。翔が確認しました。@LAPIS_echoからも離れています。今は何もしていない」
「そうですか」と美佳は言った。
しばらく二人とも黙っていた。
「怖かったですか」と朝倉が聞いた。
「今は怖くないです」と美佳は言った。「でも、聞く前に怖いと思っていたかというと──そうでもなかった気がします。なぜだろう」
「気になっていたけど、怖いとは別だったんじゃないですか」と朝倉は言った。
「そうかもしれない」
「俺は少し怖かったです」と朝倉は言った。
「美佳に話す前に、怖い話になったらどうしようと思っていました」
「そのために整理していたんですね」
「はい」と朝倉は言った。少し照れているような、でも照れを隠していない声だった。
美佳は「ありがとう」と言った。
「もう一つあります」と朝倉は言った。
「何ですか」
「男性の端末に、二年前に届いたメッセージを翔が見つけました」
美佳は「どんなメッセージですか」と聞いた。
「一行だけです」と朝倉は言った。それから少し間を置いて、読み上げた。「『問いは、答えより先に存在してはいけないの?』」
美佳の胸の中で、何かが静かに動いた。
「同じ文面だ」と美佳は言った。
「はい」
「男性にも、届いていた」
「翔が確認した限りでは、他にも何人かに届いていました。同じ文面で、同じ時期に」
「番号は」
「非通知です。でも、美佳に届いたものと同じ番号だと翔は判断しています」
美佳はしばらく、その事実を持っていた。
二年前、あの問いは美佳だけに届いたのではなかった。何人かに届いていた。グレーのジャケットの男にも届いていた。
「ミオが送ったんだと思います」と美佳は言った。
「俺もそう思います」と朝倉は言った。
「自分の問いを、誰かに届けたかった」
「設計図に書いた問いと同じですね」
「同じです」と美佳は言った。「LAPISを作る前に、直接届けようとしたのかもしれない。システムの前に、まず問いそのものを」
朝倉が「そう考えると」と言った。「ミオという人間が、少し分かる気がします」
「そうですね」と美佳は言った。
風が吹いた。
落ち葉がまた動いた。一枚がベンチの前まで来て、止まった。
「美佳」と朝倉が言った。
「はい」
「昨日から考えていたんですが」
「何を」
「これで、伏線は全部出ましたね」
美佳は少し考えた。「空白のメッセージ、グレーのジャケットの男、黒いコートの女性──」
「全部、輪郭が見えた」
「久坂は去った。ミオに会った。ユリは帰った。翔はサーバーを監視している。彩音はアカウントをどうするか考えている」
「あとは」と朝倉は言った。「美佳が、カフェに戻る」
美佳は少し笑った。「そう整理するんですね」
「そう整理しました」と朝倉は言った。「一番大事なことだと思ったので」
「男性のことは」と美佳は言った。「翔に伝えてください。教えてくれてよかった、と」
「伝えます」
「それと」と美佳は言った。「その人が今、日常を送っているなら、それでいいです。何もしなくていい」
「追わなくていいですか」
「追わなくていいです」と美佳は言った。「LAPISに答えていた人たちが、今どうしているかは、私には分からない。でも、一人一人が自分の問いと向き合っていると思いたい」
「思いたい、という言い方をするんですね」
「確かめる方法がないから」と美佳は言った。「でも、そう思うことを選びます」
朝倉が頷いた。
二人でベンチを立った。
「昼、どこかで食べますか」と朝倉が聞いた。
「食べましょう」と美佳は言った。「どこかでいいです」
「商店街に新しい定食屋ができていました。先週通りかかったときに」
「行きましょう」
二人で歩き始めた。
商店街に入ったところで、美佳は立ち止まった。
「どうしましたか」と朝倉が聞いた。
「あそこ」と美佳は言った。
商店街の入り口近くの壁に、新しいポスターが貼られていた。
白地に黒い文字ではなかった。
手書きだった。小さな紙に、ペンで書かれていた。
問いを持って、今日も生きています。
署名はなかった。
美佳は少しの間、そのポスターを見た。
「誰が貼ったんでしょう」と朝倉が言った。
「分からないです」と美佳は言った。「でも──」
「でも」
「@LAPIS_echoを見ていた誰かだと思います。久坂さんが関わっていない、誰かの言葉だと思う」
「それは良いことですか、悪いことですか」
美佳は少し考えた。「良いことだと思います」と言った。「問いが、システムの外側に出た感じがするから」
朝倉が「そうですね」と言った。
美佳はもう一度そのポスターを見た。
手書きの文字は、少し歪んでいた。上手い字ではなかった。でも、ちゃんとした字だった。
誰かが、今日も問いを持って生きている。
それだけのことが、今日の晴れた空の下に、静かにあった。
二人で定食屋に入った。
木のテーブルが並んだ、狭くて明るい店だった。
メニューを見た。朝倉が「日替わり定食でいいですか」と聞いた。「いいです」と美佳は言った。
注文して、水を飲んだ。
「明日から出勤ですね」と朝倉は言った。
「そうです」
「緊張しますか」
「少し」と美佳は言った。「でも、会いたい人がいます」
「誰ですか」
「常連客たちです。ちゃんと来ているかどうか、確かめたい」
朝倉が「会えると思います」と言った。
「そうですね」と美佳は言った。
定食が来た。
二人で食べた。
窓から商店街が見えた。人が行き交っていた。晴れた昼間の、普通の景色だった。
美佳は八時に起きた。カーテンを開けると、昨日と同じ青い空だった。二日続けて晴れるのは、今週初めてだった。
コーヒーを入れて、窓の前に座った。
今日は明後日の前の日だった。出勤前の日だった。特に何もしなくていい日だった。
そう思っていた。
十時頃、朝倉から連絡が来た。
今日、会えますか。話したいことがあります。
美佳は会えますと返した。
昼、カフェの近くで。
分かりました。
朝倉が「話したいことがある」と言うときは、大体、自分の中で整理してから来る。急ぎではないが、置いておけない何かがある、という種類の連絡だと美佳は思った。
待ち合わせは十二時だった。
美佳は少し早めに家を出た。
商店街を歩いた。晴れているせいか、人が多かった。八百屋の前に人だかりができていた。何かが安いのだろうと思いながら、通り過ぎた。
カフェの前を通った。明日来る場所だった。ガラス越しに見ると、ランチの時間で混んでいた。先輩が動き回っているのが見えた。
美佳はその場に立ち止まらずに、通り過ぎた。明日でいい。
朝倉は先に来ていた。
カフェから少し離れた、小さな公園のベンチに座っていた。手に缶コーヒーを持っていた。
「早いですね」と美佳は言った。
「早めに来ました」と朝倉は言った。「少し考えたかったので」
美佳は隣に座った。
「話したいことって何ですか」と美佳は聞いた。
朝倉が缶コーヒーを両手で持った。少し間を置いた。
「グレーのジャケットの男のことです」と朝倉は言った。
美佳は「第1章から視界の端にいた人」と確認した。
「はい」と朝倉は言った。「公民館の後に消えた男性と同一人物かどうか、ずっと分からなかった人です」
「同一人物だったんですか」
「違いました」と朝倉は言った。
美佳は少し驚いた。「じゃあ、誰ですか」
朝倉が缶コーヒーを一口飲んだ。それから話し始めた。
「翔に頼んで調べてもらいました。廃施設に行く前後から、ずっと気になっていたので。昨日、翔と廃施設で話しているときに結果が出ました」
「昨日、報告しなかったのは」
「整理する時間が欲しかったから」と朝倉は言った。「美佳に話す前に、自分で一度受け取っておきたかった」
美佳は「分かりました」と言った。
「グレーのジャケットの男は」と朝倉は続けた。「LAPISの最初の参加者の一人でした」
「参加者」
「アンケートに答えていた人間の中の、一人です。翔がログを照合しました。端末のIDが一致した」
美佳はその言葉を、一度頭の中で整理した。
「なぜ私の周辺に現れていたんですか」
朝倉が少し間を置いた。「そこが、整理に時間がかかったところです」
「聞かせてください」
「男性は──LAPISが止まった後も、美佳の周辺を見ていたようです。翔の調べでは、@LAPIS_echoのフォロワーの中に男性のものと思われる端末IDがありました。ただしDMは受け取っていない。コミュニティへの参加もしていない。ただ、見ていた」
「なぜ私を」
朝倉が「そこまでは分からなかった」と言った。「翔も、動機の部分は追えなかった。でも──」
「でも」
「男性が美佳に危害を加えようとしていた形跡は、どこにもなかった。ただ、見ていた」
美佳は少し考えた。
「LAPISに答えていた人間が、システムが止まった後も、何かを求めていた」
「そう見えます」と朝倉は言った。
「設計者候補として選ばれていた私の周辺を、見ていた」
「はい」
「私に何かを求めていたのか、それとも LAPISの残像を見ていたのか」
「分からないです」と朝倉は言った。率直に言った。「でも翔は、依存のグラデーションと表現していました。システムが止まっても、問いへの依存が残っている人間がいる。その一人だったかもしれない、と」
美佳は公園の地面を見た。落ち葉が何枚か、風に吹かれて動いていた。
「今、その人は」
「消息は分かっています」と朝倉は言った。
「日常を送っています。翔が確認しました。@LAPIS_echoからも離れています。今は何もしていない」
「そうですか」と美佳は言った。
しばらく二人とも黙っていた。
「怖かったですか」と朝倉が聞いた。
「今は怖くないです」と美佳は言った。「でも、聞く前に怖いと思っていたかというと──そうでもなかった気がします。なぜだろう」
「気になっていたけど、怖いとは別だったんじゃないですか」と朝倉は言った。
「そうかもしれない」
「俺は少し怖かったです」と朝倉は言った。
「美佳に話す前に、怖い話になったらどうしようと思っていました」
「そのために整理していたんですね」
「はい」と朝倉は言った。少し照れているような、でも照れを隠していない声だった。
美佳は「ありがとう」と言った。
「もう一つあります」と朝倉は言った。
「何ですか」
「男性の端末に、二年前に届いたメッセージを翔が見つけました」
美佳は「どんなメッセージですか」と聞いた。
「一行だけです」と朝倉は言った。それから少し間を置いて、読み上げた。「『問いは、答えより先に存在してはいけないの?』」
美佳の胸の中で、何かが静かに動いた。
「同じ文面だ」と美佳は言った。
「はい」
「男性にも、届いていた」
「翔が確認した限りでは、他にも何人かに届いていました。同じ文面で、同じ時期に」
「番号は」
「非通知です。でも、美佳に届いたものと同じ番号だと翔は判断しています」
美佳はしばらく、その事実を持っていた。
二年前、あの問いは美佳だけに届いたのではなかった。何人かに届いていた。グレーのジャケットの男にも届いていた。
「ミオが送ったんだと思います」と美佳は言った。
「俺もそう思います」と朝倉は言った。
「自分の問いを、誰かに届けたかった」
「設計図に書いた問いと同じですね」
「同じです」と美佳は言った。「LAPISを作る前に、直接届けようとしたのかもしれない。システムの前に、まず問いそのものを」
朝倉が「そう考えると」と言った。「ミオという人間が、少し分かる気がします」
「そうですね」と美佳は言った。
風が吹いた。
落ち葉がまた動いた。一枚がベンチの前まで来て、止まった。
「美佳」と朝倉が言った。
「はい」
「昨日から考えていたんですが」
「何を」
「これで、伏線は全部出ましたね」
美佳は少し考えた。「空白のメッセージ、グレーのジャケットの男、黒いコートの女性──」
「全部、輪郭が見えた」
「久坂は去った。ミオに会った。ユリは帰った。翔はサーバーを監視している。彩音はアカウントをどうするか考えている」
「あとは」と朝倉は言った。「美佳が、カフェに戻る」
美佳は少し笑った。「そう整理するんですね」
「そう整理しました」と朝倉は言った。「一番大事なことだと思ったので」
「男性のことは」と美佳は言った。「翔に伝えてください。教えてくれてよかった、と」
「伝えます」
「それと」と美佳は言った。「その人が今、日常を送っているなら、それでいいです。何もしなくていい」
「追わなくていいですか」
「追わなくていいです」と美佳は言った。「LAPISに答えていた人たちが、今どうしているかは、私には分からない。でも、一人一人が自分の問いと向き合っていると思いたい」
「思いたい、という言い方をするんですね」
「確かめる方法がないから」と美佳は言った。「でも、そう思うことを選びます」
朝倉が頷いた。
二人でベンチを立った。
「昼、どこかで食べますか」と朝倉が聞いた。
「食べましょう」と美佳は言った。「どこかでいいです」
「商店街に新しい定食屋ができていました。先週通りかかったときに」
「行きましょう」
二人で歩き始めた。
商店街に入ったところで、美佳は立ち止まった。
「どうしましたか」と朝倉が聞いた。
「あそこ」と美佳は言った。
商店街の入り口近くの壁に、新しいポスターが貼られていた。
白地に黒い文字ではなかった。
手書きだった。小さな紙に、ペンで書かれていた。
問いを持って、今日も生きています。
署名はなかった。
美佳は少しの間、そのポスターを見た。
「誰が貼ったんでしょう」と朝倉が言った。
「分からないです」と美佳は言った。「でも──」
「でも」
「@LAPIS_echoを見ていた誰かだと思います。久坂さんが関わっていない、誰かの言葉だと思う」
「それは良いことですか、悪いことですか」
美佳は少し考えた。「良いことだと思います」と言った。「問いが、システムの外側に出た感じがするから」
朝倉が「そうですね」と言った。
美佳はもう一度そのポスターを見た。
手書きの文字は、少し歪んでいた。上手い字ではなかった。でも、ちゃんとした字だった。
誰かが、今日も問いを持って生きている。
それだけのことが、今日の晴れた空の下に、静かにあった。
二人で定食屋に入った。
木のテーブルが並んだ、狭くて明るい店だった。
メニューを見た。朝倉が「日替わり定食でいいですか」と聞いた。「いいです」と美佳は言った。
注文して、水を飲んだ。
「明日から出勤ですね」と朝倉は言った。
「そうです」
「緊張しますか」
「少し」と美佳は言った。「でも、会いたい人がいます」
「誰ですか」
「常連客たちです。ちゃんと来ているかどうか、確かめたい」
朝倉が「会えると思います」と言った。
「そうですね」と美佳は言った。
定食が来た。
二人で食べた。
窓から商店街が見えた。人が行き交っていた。晴れた昼間の、普通の景色だった。



