翌朝は、晴れた。
カーテンを開けると、昨日までの曇りが嘘のように、青い空があった。光が部屋の奥まで入ってきた。
美佳は少しの間、その光の中に立っていた。
何もしなかった。ただ立っていた。
こういう朝が、しばらくなかった気がした。何かを確認しなくていい朝。端末を開く前に、まず光を見ていられる朝。
コーヒーを入れて、窓の前に座った。
端末は台所に置いたままにした。
外を人が通った。犬を連れた老人だった。犬が立ち止まって、電柱の匂いを嗅いだ。老人が待った。犬が満足して歩き始めた。老人がついていった。
それだけのことを、美佳はコーヒーを飲みながら見ていた。
何の意味もなかった。でも、見ていられた。
十時頃に端末を確認した。
翔から来ていた。
朝倉さんが来ました。サーバーの件、話し合います。夕方に報告します。
有栖川から来ていた。
ミオさん、今朝は少し食欲があったようです。
ユリから来ていた。
昨日はありがとうございました。今日は家にいます。
美佳はそれぞれに短く返した。
翔に
ありがとうございます、報告待っています。
有栖川に
よかったです。
ユリに
ゆっくり休んでください。
それだけ打って、また端末を置いた。
午後、美佳は外に出た。
特に目的はなかった。歩きたかった。
商店街を通った。いつもの道だった。
ポスターの場所を確認した。
白地に黒い文字のポスターは、なかった。
剥がされたのか、雨で落ちたのか、分からなかった。でも、なかった。跡だけが残っていた。テープの痕が四角く、壁に残っていた。
美佳はその跡を少しの間見た。
あったものがなくなった場所には、輪郭だけが残る。中身が消えても、形は残る。それが良いことなのか悪いことなのか、今は判断しなかった。
カフェの前を通った。
明後日から出勤する場所だった。
ガラス越しに中を見た。カウンターに見知った顔があった。同じシフトの先輩だった。昼の混雑が落ち着いて、暇そうにしていた。
美佳が手を振ると、先輩が気づいて手を振り返した。それから口を動かした。ガラス越しだったから聞こえなかったが、読めた。
久しぶり。
美佳も口を動かした。
明後日来ます。
先輩が笑った。親指を立てた。
それだけだった。でも、胸の中に何かが戻ってきた感じがした。名前のつけにくい、でも確かな何かが。
商店街を抜けて、公園の前を通った。
ベンチに子どもが座って、何かを食べていた。隣に母親がいた。子どもがこぼした。母親がティッシュで拭いた。子どもがまた食べ始めた。
美佳はベンチから少し離れた場所に立って、噴水を見た。噴水は動いていなかった。冬の間は止めているのかもしれなかった。
動いていない噴水の前に立って、美佳は自分の中を確認した。
怖いか。
少しある。
不安か。
ある。でも、昨日よりは少ない。
終わったか。
終わっていない。でも、今日は動かなくていい。
それで十分だった。
夕方、翔から報告が来た。
朝倉さんと話しました。廃施設のサーバーについて、結論が出ました。
美佳は聞かせてくださいと返した。
翔からメッセージが続いた。
物理的な機材はそのままにします。勝手に撤去すると法的な問題が生じる可能性があるので。ただし、残存している接続経路に対して監視を続けます。Aラインの動きがあれば記録します。
久坂さんが加えた機能については、現時点では手が届きません。ただ、入口が減ったことで自然に縮小していくか、別の経路を探すかのどちらかだと思っています。
@LAPIS_echoのアカウントは、まだ存在しています。彩音さんが管理していますが、今後どうするかは彩音さんが決めることだと思っています。
最後に一行あった。
今日できることは、今日しました。美佳さんが言っていた通りです。
美佳はありがとう、翔と返した。
それから少し考えて、もう一行打った。
翔が単独で動いたあの夜から、ずっと助けてもらっています。
翔からすぐ返ってきた。美佳さんが引き受けないと決めたまま向き合い続けたから、俺たちも動けました。
美佳はその返信を、二回読んだ。
夜、彩音からメッセージが来た。
今週初めての連絡だった。
美佳さん、今日少し話せますか。
美佳は話せますと返した。
電話が来た。
「久しぶりです」と彩音は言った。声は静かだった。怯えているわけでも、強がっているわけでもない声だった。
「久しぶりです」と美佳は言った。
「久坂さんと、話しました」と彩音は言った。
美佳は少し驚いた。「いつですか」
「昨日の夜です。向こうから連絡が来ました。会いに行きました」
「どんな話でしたか」
彩音が少し間を置いた。「@LAPIS_echoを、閉じると言われました。久坂さんが。自分が動かしていた部分を、止めると」
「彩音さんは、何と言いましたか」
「分かりましたと言いました」と彩音は言った。「それだけです。それ以上、言えなかった」
美佳は「そうですか」と言った。
「私は久坂さんに怒っていると思っていました」と彩音は続けた。「善意を使われたと分かってから、ずっとそう思っていました。でも昨日会ったら、怒れなかった。なぜだか分からなくて」
「分からないまま、でいいと思います」と美佳は言った。
「怒らないといけない気がして」
「誰かに怒ることを、誰かに決められる必要はないです」
彩音が少し黙った。「美佳さんはどうでしたか。久坂さんに会って」
美佳は少し考えた。「怖かったです。でも、話せてよかったと思っています。怒りは、まだよく分からない」
「まだよく分からない、でいいですか」と彩音は聞いた。
「いいと思います」と美佳は言った。「感情に締め切りはないから」
彩音が「そうですね」と言った。少し柔らかくなった声だった。
「@LAPIS_echoは、これからどうするんですか」と美佳は聞いた。
「久坂さんが加えた機能が止まったら、残るのは最初に私が始めたものだけになります」と彩音は言った。「問いを集める場所として、始めたものが」
「続けますか」
彩音が少し間を置いた。「分かりません。続けるかどうかより、続ける意味があるかどうかを、もう一度考えたいと思っています」
「それは大事なことだと思います」と美佳は言った。
「美佳さんは、どう思いますか」と彩音は聞いた。「続けることについて」
美佳は少し考えた。「私には判断できないです。あなたの場所だから」と言った。「ただ一つだけ言えることがあるとしたら」
「はい」
「断れる形で、始めてほしいです。次に何かをするとき」
彩音が「断れる形で」と繰り返した。
「続けることも、やめることも、あなたが選べる形で」
しばらく間があった。
「覚えています」と彩音は言った。「美佳さんが最初にそれを言ったとき、私はまだ分かっていなかったと思います。でも今は、少し分かります」
「今分かれば十分です」と美佳は言った。
電話が終わった。
美佳はソファに座って、少しの間、暗い窓の外を見た。
今日一日に起きたことを、順番に並べてみた。
ポスターの跡。カフェの先輩。噴水。翔からの報告。彩音からの電話。
何かが大きく動いたわけではなかった。でも、動かなくていいものが静かに落ち着いていくような感じがあった。
川の流れが、少しずつ、本来の速さに戻っていくような。
端末に、もう一件来ていた。
ユリからだった。
一つだけ聞いていいですか。@LAPIS_echoのアカウント、やっぱり消します。自分で決めました。消す前に言いたかったので。
美佳は教えてくれてありがとうございますと返した。
ユリからすぐ来た。
消しました。なんか、思ったよりあっさりしていました。
美佳は少し笑った。
それでいいと思いますと返した。
美佳さん、明後日からカフェ出勤するんですよね。
します。
また行きます。今度はちゃんと、コーヒー飲みに。
美佳は待っていますと返した。
布団に入った。
今日は端末を台所に置いてから、布団に入った。
天井を見た。昨日より暗かった。月が出ていないのかもしれなかった。
明後日、カフェに行く。
エプロンをつけて、コーヒーを入れて、常連客と話す。何を焼こうか考えて、レジを打つ。ランチの混雑が終わったら、カウンターを拭く。
普通のことだった。
ずっとやってきたことだった。
でも今の自分にとっては、それが一番遠くて、一番近いものだった。
明日は明後日の前の日だった。
それだけでいい、と美佳は思った。
目を閉じた。
晴れた日の光が、まだどこかに残っているような気がした。
カーテンを開けると、昨日までの曇りが嘘のように、青い空があった。光が部屋の奥まで入ってきた。
美佳は少しの間、その光の中に立っていた。
何もしなかった。ただ立っていた。
こういう朝が、しばらくなかった気がした。何かを確認しなくていい朝。端末を開く前に、まず光を見ていられる朝。
コーヒーを入れて、窓の前に座った。
端末は台所に置いたままにした。
外を人が通った。犬を連れた老人だった。犬が立ち止まって、電柱の匂いを嗅いだ。老人が待った。犬が満足して歩き始めた。老人がついていった。
それだけのことを、美佳はコーヒーを飲みながら見ていた。
何の意味もなかった。でも、見ていられた。
十時頃に端末を確認した。
翔から来ていた。
朝倉さんが来ました。サーバーの件、話し合います。夕方に報告します。
有栖川から来ていた。
ミオさん、今朝は少し食欲があったようです。
ユリから来ていた。
昨日はありがとうございました。今日は家にいます。
美佳はそれぞれに短く返した。
翔に
ありがとうございます、報告待っています。
有栖川に
よかったです。
ユリに
ゆっくり休んでください。
それだけ打って、また端末を置いた。
午後、美佳は外に出た。
特に目的はなかった。歩きたかった。
商店街を通った。いつもの道だった。
ポスターの場所を確認した。
白地に黒い文字のポスターは、なかった。
剥がされたのか、雨で落ちたのか、分からなかった。でも、なかった。跡だけが残っていた。テープの痕が四角く、壁に残っていた。
美佳はその跡を少しの間見た。
あったものがなくなった場所には、輪郭だけが残る。中身が消えても、形は残る。それが良いことなのか悪いことなのか、今は判断しなかった。
カフェの前を通った。
明後日から出勤する場所だった。
ガラス越しに中を見た。カウンターに見知った顔があった。同じシフトの先輩だった。昼の混雑が落ち着いて、暇そうにしていた。
美佳が手を振ると、先輩が気づいて手を振り返した。それから口を動かした。ガラス越しだったから聞こえなかったが、読めた。
久しぶり。
美佳も口を動かした。
明後日来ます。
先輩が笑った。親指を立てた。
それだけだった。でも、胸の中に何かが戻ってきた感じがした。名前のつけにくい、でも確かな何かが。
商店街を抜けて、公園の前を通った。
ベンチに子どもが座って、何かを食べていた。隣に母親がいた。子どもがこぼした。母親がティッシュで拭いた。子どもがまた食べ始めた。
美佳はベンチから少し離れた場所に立って、噴水を見た。噴水は動いていなかった。冬の間は止めているのかもしれなかった。
動いていない噴水の前に立って、美佳は自分の中を確認した。
怖いか。
少しある。
不安か。
ある。でも、昨日よりは少ない。
終わったか。
終わっていない。でも、今日は動かなくていい。
それで十分だった。
夕方、翔から報告が来た。
朝倉さんと話しました。廃施設のサーバーについて、結論が出ました。
美佳は聞かせてくださいと返した。
翔からメッセージが続いた。
物理的な機材はそのままにします。勝手に撤去すると法的な問題が生じる可能性があるので。ただし、残存している接続経路に対して監視を続けます。Aラインの動きがあれば記録します。
久坂さんが加えた機能については、現時点では手が届きません。ただ、入口が減ったことで自然に縮小していくか、別の経路を探すかのどちらかだと思っています。
@LAPIS_echoのアカウントは、まだ存在しています。彩音さんが管理していますが、今後どうするかは彩音さんが決めることだと思っています。
最後に一行あった。
今日できることは、今日しました。美佳さんが言っていた通りです。
美佳はありがとう、翔と返した。
それから少し考えて、もう一行打った。
翔が単独で動いたあの夜から、ずっと助けてもらっています。
翔からすぐ返ってきた。美佳さんが引き受けないと決めたまま向き合い続けたから、俺たちも動けました。
美佳はその返信を、二回読んだ。
夜、彩音からメッセージが来た。
今週初めての連絡だった。
美佳さん、今日少し話せますか。
美佳は話せますと返した。
電話が来た。
「久しぶりです」と彩音は言った。声は静かだった。怯えているわけでも、強がっているわけでもない声だった。
「久しぶりです」と美佳は言った。
「久坂さんと、話しました」と彩音は言った。
美佳は少し驚いた。「いつですか」
「昨日の夜です。向こうから連絡が来ました。会いに行きました」
「どんな話でしたか」
彩音が少し間を置いた。「@LAPIS_echoを、閉じると言われました。久坂さんが。自分が動かしていた部分を、止めると」
「彩音さんは、何と言いましたか」
「分かりましたと言いました」と彩音は言った。「それだけです。それ以上、言えなかった」
美佳は「そうですか」と言った。
「私は久坂さんに怒っていると思っていました」と彩音は続けた。「善意を使われたと分かってから、ずっとそう思っていました。でも昨日会ったら、怒れなかった。なぜだか分からなくて」
「分からないまま、でいいと思います」と美佳は言った。
「怒らないといけない気がして」
「誰かに怒ることを、誰かに決められる必要はないです」
彩音が少し黙った。「美佳さんはどうでしたか。久坂さんに会って」
美佳は少し考えた。「怖かったです。でも、話せてよかったと思っています。怒りは、まだよく分からない」
「まだよく分からない、でいいですか」と彩音は聞いた。
「いいと思います」と美佳は言った。「感情に締め切りはないから」
彩音が「そうですね」と言った。少し柔らかくなった声だった。
「@LAPIS_echoは、これからどうするんですか」と美佳は聞いた。
「久坂さんが加えた機能が止まったら、残るのは最初に私が始めたものだけになります」と彩音は言った。「問いを集める場所として、始めたものが」
「続けますか」
彩音が少し間を置いた。「分かりません。続けるかどうかより、続ける意味があるかどうかを、もう一度考えたいと思っています」
「それは大事なことだと思います」と美佳は言った。
「美佳さんは、どう思いますか」と彩音は聞いた。「続けることについて」
美佳は少し考えた。「私には判断できないです。あなたの場所だから」と言った。「ただ一つだけ言えることがあるとしたら」
「はい」
「断れる形で、始めてほしいです。次に何かをするとき」
彩音が「断れる形で」と繰り返した。
「続けることも、やめることも、あなたが選べる形で」
しばらく間があった。
「覚えています」と彩音は言った。「美佳さんが最初にそれを言ったとき、私はまだ分かっていなかったと思います。でも今は、少し分かります」
「今分かれば十分です」と美佳は言った。
電話が終わった。
美佳はソファに座って、少しの間、暗い窓の外を見た。
今日一日に起きたことを、順番に並べてみた。
ポスターの跡。カフェの先輩。噴水。翔からの報告。彩音からの電話。
何かが大きく動いたわけではなかった。でも、動かなくていいものが静かに落ち着いていくような感じがあった。
川の流れが、少しずつ、本来の速さに戻っていくような。
端末に、もう一件来ていた。
ユリからだった。
一つだけ聞いていいですか。@LAPIS_echoのアカウント、やっぱり消します。自分で決めました。消す前に言いたかったので。
美佳は教えてくれてありがとうございますと返した。
ユリからすぐ来た。
消しました。なんか、思ったよりあっさりしていました。
美佳は少し笑った。
それでいいと思いますと返した。
美佳さん、明後日からカフェ出勤するんですよね。
します。
また行きます。今度はちゃんと、コーヒー飲みに。
美佳は待っていますと返した。
布団に入った。
今日は端末を台所に置いてから、布団に入った。
天井を見た。昨日より暗かった。月が出ていないのかもしれなかった。
明後日、カフェに行く。
エプロンをつけて、コーヒーを入れて、常連客と話す。何を焼こうか考えて、レジを打つ。ランチの混雑が終わったら、カウンターを拭く。
普通のことだった。
ずっとやってきたことだった。
でも今の自分にとっては、それが一番遠くて、一番近いものだった。
明日は明後日の前の日だった。
それだけでいい、と美佳は思った。
目を閉じた。
晴れた日の光が、まだどこかに残っているような気がした。



