アンケート ― 選ばないという選択 ―

目が覚めたのは、七時少し前だった。

カーテンの隙間から、白い光が入っていた。

曇りだった。昨日と同じ空だった。

美佳はしばらくソファの上で動かなかった。

天井を見た。ここ数日で一番静かな朝だと思った。

ユリの寝息が聞こえていた。規則的で、深かった。よく眠れたのだと思った。

美佳は静かに起き上がって、台所でお湯を沸かした。

昨夜の翔のメッセージを確認した。明日の朝九時に、全員で話しましょう。

九時まで、あと二時間あった。

コーヒーを一杯入れて、窓の前に立った。外は静かだった。通勤の人が何人か通り過ぎた。傘を持っている人もいた。雨が降るかもしれない空だった。

美佳はコーヒーを飲みながら、昨日のことを順番に思い出した。

ミオの声。ノートの問いたち。波の音。ユリの「夜が明けたから」という言葉。自動販売機のコーンスープ。朝倉が別のホームへ降りていく後ろ姿。

点と点のようにあった出来事が、一本の線になっていく感覚があった。線になったからといって、何かが解決するわけではなかった。

でも、見えるようになるものがあった。

八時頃、ユリが起きてきた。

「おはようございます」とユリは言った。声がまだ眠そうだった。

「眠れましたか」

「よく眠れました。久しぶりに」

「よかったです。コーヒー飲みますか」

「ありがとうございます」

二人で台所に立った。美佳がもう一杯入れた。

ユリが窓の外を見た。「曇っていますね」
「昨日からずっとそうです」

「そうか」とユリは言った。それから少し間を置いて「昨日のこと、夢みたいです」と言った。

「どの部分が」

「全部、少し。美佳さんが来てくれたことも」

「来ました」と美佳は言った。「夢じゃないです」

ユリが少し笑った。昨夜電車の中で見たのと同じ顔だった。

八時半に、翔からメッセージが来た。

今朝のAラインの動き、ありません。ミオさんも廃施設で準備ができています。九時、オンラインで話しましょう。美佳さんの端末から入れますか。

美佳は入れますと返した。

それから朝倉からも来た。

昨夜は翔と廃施設に泊まりました。翔が用意した毛布が一枚しかなかった。ユリは大丈夫ですか。

美佳は大丈夫です、よく眠れたみたいですと返した。

朝倉からすぐ返ってきた。

よかった。毛布の件は翔に言っておきます。

美佳はそれを読んでから、ユリに「九時に、みんなで話します。聞いていてもいいし、別の部屋にいてもいいです」と言った。

ユリが少し考えた。「聞かせてもらえますか。関係あることだと思うので」

「もちろんです」

九時になった。

美佳の端末で通話を繋いだ。翔が最初に入ってきた。「おはようございます」という声が
少し疲れていた。朝倉も入ってきた。「昨夜の毛布の件は翔のせいじゃないです、念のため」と言った。翔が「俺のせいです」と言った。有栖川が「おはようございます」と静かに言った。最後にミオの声が入ってきた。

「おはようございます」と言った。

美佳は「おはようございます」と言った。「ユリも一緒に聞いています」と全員に伝えた。

少し間があった。

「おはようございます」とユリは言った。小さな声だった。

ミオが「ユリさん」と言った。「昨日のことを聞きました。心配しました」

ユリが少し黙った。「はい」と言った。それ以上は言わなかった。それで十分だった。
翔が状況の整理から始めた。簡潔だった。

Aラインの別端末からのアクセスは、昨夜以降確認されていない。ユリの端末への接続も同様。ただし相手がアクセスを止めた理由は不明。止まっているうちに動くか、理由を確認するまで待つか。

「ミオさん」と翔が言った。「Bラインからの操作、今日できますか」

「できます」とミオは言った。「準備は昨夜のうちにしました」

「落とせる範囲の確認をもう一度させてください。接続の入口となっている基本経路、選択ログの収集機能、それと初期の端末認証システム。この三つで合っていますか」

「合っています」とミオは言った。「ただ、一つ確認があります」

「何ですか」

「端末認証システムを落とすと、美佳さんの端末への接続も切れます」

部屋が少し静かになった。

「それは、設計者候補としての接続が切れるということですか」と美佳は聞いた。

「はい。ファイルの送受信も含めて、すべて切れます」

「切れていいです」と美佳は言った。迷わなかった。

「確認です」と翔が言った。「美佳さんの意思として、切ることを了承しますか」

「了承します」

翔が「了解しました」と言った。それから
「朝倉さん」と呼んだ。

「はい」と朝倉が言った。

「一つお願いがあります」

「何ですか」

「操作の間、美佳さんの隣にいてほしいです」

美佳は少し驚いた。翔らしい気遣いだと思った。

「今、美佳さんの部屋にいません」と朝倉は言った。「間に合いますか」

「一時間待てます」と翔は言った。

「行きます」と朝倉は言った。

通話を一時間後に再開することになった。

ユリが「私は席を外した方がいいですか」と言った。

「ユリが決めていいです」と美佳は言った。

「いてもいいですか」

「いてください」

ユリが頷いた。

美佳は台所で二杯目のコーヒーを入れた。ユリが「手伝います」と言って、カップを二つ出した。

「緊張しますか、今日」とユリが聞いた。

「少し」と美佳は言った。「でも昨日より静かな気持ちです」

「昨日は緊張していましたか」

「昨日はユリのことが心配だったから、緊張より先に別のことがありました」

ユリが少し黙った。「すみませんでした」と言った。

「謝らなくていいです」と美佳は言った。

「心配するのは自分で選んでしたことだから」

ユリがコーヒーを受け取った。「美佳さんって」と言いかけて、止まった。

「何ですか」

「言葉の選び方が、丁寧ですね。謝らなくていいとか、あなたが決めることとか。突き放しているわけじゃないけど、ちゃんと線がある」

美佳は少し考えた。「意識してそうしているわけじゃないです。でも──」

「でも」

「断れない形にしたくない、というのは、ずっと思っています」

ユリが「そうか」と言った。「LAPISのこととも、繋がっていますか」

「繋がっていると思います」と美佳は言った。「前からそう思っていたのか、途中からそうなったのかは、もう分からないけれど」
朝倉が来たのは、四十分後だった。

インターホンが鳴って、美佳が開けると、朝倉が立っていた。少し疲れた顔をしていたが、目は覚めていた。

「廃施設から直接来ました」と朝倉は言った。「翔によろしくと言われました」

「翔から聞きました」と美佳は言った。

「入ってください」

朝倉が部屋に入った。ユリに「おはようございます」と言った。ユリが「おはようございます」と返した。

「昨夜、大丈夫でしたか」と朝倉はユリに言った。

「大丈夫でした」とユリは言った。「よく眠れました」

「それは良かった」と朝倉は言った。それ以上は何も言わなかった。それでよかった。
美佳はコーヒーをもう一杯入れた。朝倉に渡した。


朝倉が受け取って、美佳の隣に座った。「緊張していますか」と小さく言った。

「少し」と美佳は返した。

「俺もです」と朝倉は言った。

それを聞いて、少し楽になった。

九時五十八分に、翔から『準備できました。繋いでください。』とメッセージが来た。
美佳は端末を手に取った。通話を繋いだ。
翔、有栖川、ミオが入ってきた。

「全員いますか」と翔が聞いた。

「います」と美佳は言った。「美佳、朝倉、ユリ」

「こちらは翔、有栖川さん、ミオさんです」
六人が一つの通話の中にいた。

「始めていいですか」と翔が聞いた。
美佳は朝倉を見た。朝倉が頷いた。ユリが静かに手を膝の上に置いた。

「始めてください」と美佳は言った。

翔とミオが操作を始めた。

通話の中で、二人が短い言葉を交わしていた。確認の声だった。「Bライン、接続」「認証通過」「選択ログの収集、停止確認」「入口の経路、切断開始」。

美佳は端末を持ったまま、窓の外を見た。
曇りはまだ続いていた。でも少し明るくなっていた。雨は降らないかもしれなかった。

「美佳さん」と翔が言った。「端末認証の切断、今から行います。端末に通知が来るかもしれませんが、そのままにしておいてください」

「分かりました」

三秒ほど間があった。

美佳の端末が一度だけ、静かに振動した。
通知ではなかった。何かが切れた感触だった。

「切断、完了しました」と翔が言った。
しばらく、誰も喋らなかった。

「確認します」と翔が続けた。「選択ログの収集、停止。接続の基本経路、閉鎖。端末認証システム、停止。三つ、完了しました」

「久坂さんが加えた部分は」と有栖川が聞いた。

「動いています」と翔は言った。「共感ボタンの収束機能と、個別生成のDM機能は、まだ残っています。ただ──入口が一つ減ったので、新しい端末を引き込む経路は限られました」

「完全には止まっていない」と美佳は言った。

「完全には止まっていません」と翔は言った。率直に言った。「でも、今できる範囲のことは、しました」

美佳は「ありがとうございます」と言った。翔に向けて、でもミオにも向けて言っていた。

ミオが「ありがとうございました」と言った。誰に向けてかは分からなかったが、その声は少し違っていた。何かが終わった人の声だった。

「久坂さんについて、これからどうしますか」と有栖川が聞いた。

「追いません」と美佳は言った。

少し間があった。

「理由を聞いていいですか」と翔が言った。

「久坂さんは設計図を渡しました。止めてほしいという意味で」美佳は少し考えながら言った。「それが全部正しい動機からだったかどうかは分かりません。でも、今できる範囲でやったことは、久坂さんの渡したものを使いました。それで十分だと思っています」

「残っている部分が、また動き始めたら」と朝倉が言った。

「そのときはそのときに考えます」と美佳は言った。「今日の判断を、今日以外に使いたくないです」

朝倉が「分かった」と言った。

「一つだけ」とミオが言った。

全員が静かになった。

「ユリさん、聞こえていますか」

「聞こえています」とユリが言った。

「昨日、有栖川さんから、謝りたいと伝えてもらいました」とミオは言った。「直接、言わせてください」

ユリが美佳を見た。美佳は何も言わなかった。ユリが正面を向いた。

「聞きます」とユリは言った。

「変電施設の場所を、あなたに教えました」とミオは言った。「あなたの問いに、外からの答えが要らないことを分かってほしかった。でもそれは、私があなたに聞かずに決めたことでした。あなたが一人で夜を過ごすことになったのは、私のせいです。ごめんなさい」

ユリが黙った。

しばらく間があった。通話の中で、誰も何も言わなかった。

「分かりました」とユリは言った。「今すぐ全部受け取れるかどうか分からないけど、聞きました」

「ありがとうございます」とミオは言った。

それ以上は何もなかった。でも、それ以上は要らなかった。

通話が終わったのは、十時半頃だった。

美佳は端末をソファに置いた。

朝倉が「腹が減りました」と言った。

美佳は少し笑った。「何か作ります」

「手伝います」とユリが言った。

三人で台所に立った。冷蔵庫を開けたら、卵と残り野菜しかなかった。

「スクランブルエッグでいいですか」と美佳は言った。

「十分です」と朝倉は言った。

ユリが野菜を洗い始めた。朝倉がフライパンを出した。美佳が卵を割った。

窓の外の光が、少しだけ白くなっていた。

雨は降らなかった。