港湾施設跡地は、倉庫街から歩いて十分だった。
かつて船が着いていたと思われる岸壁が、錆びた手すりとともに続いていた。コンクリートの端が崩れかけていて、その先は直接海だった。波が低く、規則的に打ち返していた。
翔から断続的に位置情報が届いていた。「端末の電波、岸壁の東側に近づいています」「動いています、ゆっくり」「止まりました」
美佳と朝倉は手すりに沿って歩いた。
風が出てきていた。海から来る風で、湿っていた。美佳はコートの前を合わせた。
「翔から何か来たら教えて」と美佳は朝倉に言った。
「分かった」と朝倉は言った。
しばらく歩いた。手すりが途切れる場所があって、そこから先は岸壁が低くなっていた。満潮になれば水面と同じ高さになりそうな、平らな石畳のような場所だった。
そこに、人がいた。
ユリは岸壁の端から一メートルほど手前に、
体育座りをしていた。海の方を向いていた。
コートを着ていなかった。薄いニットの上に、バッグを斜めがけにしたままだった。
美佳は歩みを緩めた。朝倉が自然に少し後ろに下がった。
「ユリ」と美佳は言った。
ユリが振り返った。驚いた顔ではなかった。
どこか遠い目で、美佳を見た。
「美佳さん」とユリは言った。「来たんですね」
「来ました」
「どうして分かったんですか」
「翔が端末の電波を追いました」
ユリが少し俯いた。「そうか」と言った。責めているわけでも、安堵しているわけでもない声だった。
美佳はユリの隣に腰を下ろした。岸壁の冷たさが、すぐにコートを通して伝わってきた。
しばらく、何も言わなかった。
波が打ち返す音だけがあった。水面は灰色で、空と同じ色をしていた。どこで水平線が終わるのか、曇りの中ではよく分からなかった。
「寒くないですか」と美佳は聞いた。
「寒いです」とユリは言った。「でも、動けなくて」
「いつからここにいますか」
「昨夜から、だと思います。途中で眠ったので、よく分かりません」
美佳は黙った。一晩ここにいたのだと思った。風の中で、海を向いて。
「変電施設跡地に行きましたか」と美佳は聞いた。
「行きました」とユリは言った。「でも誰もいなかった。ノートは置いてきました。読まれましたか」
「読みました」
ユリが少し顔を動かした。「全部ですか」
「全部」
「恥ずかしいですね」とユリは言った。でも恥ずかしそうではなかった。ただ確認しているような声だった。
「変電施設に誰もいなくて、それからどうしたんですか」と美佳は聞いた。
「歩いていたら、ここに来ました」とユリは言った。「来ようと思ったわけじゃないです。ただ歩いていたら」
「そうですか」
「美佳さんたちが廃施設にいたの、知らなかったです。知っていたら、行けたかもしれないけど」
「知らなくて当然です。連絡しなかったから」
ユリが「うん」と言った。敬語が外れていた。気づいていないのだろうと美佳は思った。
「ノートに書いてあった問い」と美佳は言った。「正しいことをしているのに不安、という」
「はい」
「今も、その問いがありますか」
ユリが少し間を置いた。「あります」とユリは言った。「でも、昨夜からここにいて──少し変わった気がします」
「どう変わりましたか」
「正しいかどうかより、不安の方が先にあった気がしてきました」ユリは膝を抱えたまま、海を見た。「正しいことをしているのに不安、じゃなくて、不安だから正しいかどうかを確かめたくて、だったかもしれない」
美佳は「それに気づいたのは、一人でここにいたからですか」と聞いた。
「分かりません」とユリは言った。「でも答えを求めて動き続けていたら、たぶん気づかなかったと思います」
朝倉が後ろで端末を見ているのが、気配で分かった。翔からの連絡だろうと美佳は思ったが、振り返らなかった。
「一つ話してもいいですか」と美佳は言った。
「はい」
「@LAPIS_echoのこと、少し分かってきたことがあります。あなたが受け取っていた問いや、共感ボタンの仕組みのこと」
ユリが美佳を見た。
「全部話します。でも今日じゃなくてもいいです。あなたが聞けるときに」
ユリが少し考えた。「今聞いた方がいいですか」
「どちらでもいいです。本当に」
「じゃあ」とユリは言った。「少しだけ、教えてもらえますか。全部じゃなくていいので」
美佳は「共感ボタンのこと、知っていますか」と聞いた。
「使っていました」
「あのボタンは、特定の感情のパターンに向けて、問いを収束させる仕組みがついていました。不安を解消されないまま持ち続けさせるような設計が」
ユリが黙った。
「あなたの問いが外から植えられたとは思っていません」と美佳は続けた。「ノートを読んで、共感ボタンより前からその問いはあったと分かりました。でも、その問いが育てられた部分はあったかもしれない」
「育てられた」とユリは繰り返した。
「外側から、答えを求めさせる方向に」
ユリが海を見た。しばらく黙っていた。
「怒った方がいいのかな」とユリは言った。
「でも、怒れないです。自分でボタンを押していたから」
「怒るかどうかは、今決めなくていいと思います」と美佳は言った。
「美佳さんは、怒りましたか。自分の端末に勝手にファイルを送られたとき」
美佳は少し考えた。「怒りより先に、怖かったです。それから、向き合わないといけないと思いました」
「怒らなかったんですね」
「怒る前に、他のことが来た感じです」
ユリが「そうか」と言った。それから「私も、怖かったです」と言った。「答えが出ない自分が、どんどんだめになっていく気がして」
「だめになっていませんでした」と美佳は言った。「ノートを読んで、そう思いました」
ユリが美佳を見た。「どうしてですか」
「答えを出せないまま、問いを書き続けていたから」と美佳は言った。「それは、問いに正直でいたということだと思います」
朝倉が近づいてきた。「美佳」と小さく言った。
美佳が振り返ると、朝倉が端末を見せた。翔からのメッセージだった。
Aライン、今動いています。接続先はさっきと同じ──ユリさんの端末。でも今回は向こうから切っています。三十秒で終わりました。
美佳はユリを見た。「端末、今日誰かから連絡来ましたか」
ユリが「来ました」と言った。「知らない番号から。出なかったです」
「何時ですか」
「さっき、少し前」
美佳は翔に返信した。「今切ったのはユリ本人です。出なかったと言っています」
翔からすぐ返ってきた。了解。でも相手はユリさんの位置を把握している可能性があります。早めに移動した方がいいかもしれない。
美佳は朝倉を見た。朝倉が頷いた。
「ユリ、立てますか」と美佳は言った。
「立てます」とユリは言った。「でも」
「でも」
「どこに行けばいいか分からなくて、ここにいました」
美佳は少し考えた。「今夜は私の部屋に来てください」と言った。
ユリが美佳を見た。
「一人でいた方がいいなら、それでもいいです」と美佳は言った。「でも、来られるなら来てほしいです」
ユリが少し間を置いた。「行きます」とユリは言った。「ありがとうございます」
朝倉が先に立ち上がって、ユリに手を差し出した。ユリがその手を取って、立ち上がった。一晩座っていたせいか、少しよろめいた。朝倉が支えた。
美佳も立ち上がった。足の感覚が少し鈍かった。冷えていた。
三人で岸壁を離れた。波の音が後ろに遠ざかっていった。
歩きながら、美佳は有栖川に短く連絡を入れた。
ユリを確保しました。今夜は私の部屋に連れていきます。Aラインの動きは翔から聞いています。ミオさんはそちらにいますか。
有栖川からすぐ返ってきた。
います。翔さんとの連携の準備を始めています。明日の朝、連絡します。
それから一行だけ付け加えられていた。
ミオさんが、ユリさんに謝りたいと言っています。準備ができたら、伝えてください。
美佳は端末をしまった。
「寒かったね」と朝倉が言った。ユリに向けて言っていた。
「はい」とユリは言った。
「腹、減ってない?」
ユリが少し考えた。「減っています、たぶん」
「たぶん、ってのは」
「お腹が減っているのか、疲れているのか、よく分からなくて」
「両方だと思う」と朝倉は言った。「取り敢えず何か食べた方がいい」
ユリが小さく「はい」と言った。
美佳は二人の少し後ろを歩いた。風はまだあったが、歩いていると体が温まってきた。
倉庫街の方向に、明かりが一つ見えた。自動販売機だった。この辺りには似合わない、明るいオレンジの光だった。
かつて船が着いていたと思われる岸壁が、錆びた手すりとともに続いていた。コンクリートの端が崩れかけていて、その先は直接海だった。波が低く、規則的に打ち返していた。
翔から断続的に位置情報が届いていた。「端末の電波、岸壁の東側に近づいています」「動いています、ゆっくり」「止まりました」
美佳と朝倉は手すりに沿って歩いた。
風が出てきていた。海から来る風で、湿っていた。美佳はコートの前を合わせた。
「翔から何か来たら教えて」と美佳は朝倉に言った。
「分かった」と朝倉は言った。
しばらく歩いた。手すりが途切れる場所があって、そこから先は岸壁が低くなっていた。満潮になれば水面と同じ高さになりそうな、平らな石畳のような場所だった。
そこに、人がいた。
ユリは岸壁の端から一メートルほど手前に、
体育座りをしていた。海の方を向いていた。
コートを着ていなかった。薄いニットの上に、バッグを斜めがけにしたままだった。
美佳は歩みを緩めた。朝倉が自然に少し後ろに下がった。
「ユリ」と美佳は言った。
ユリが振り返った。驚いた顔ではなかった。
どこか遠い目で、美佳を見た。
「美佳さん」とユリは言った。「来たんですね」
「来ました」
「どうして分かったんですか」
「翔が端末の電波を追いました」
ユリが少し俯いた。「そうか」と言った。責めているわけでも、安堵しているわけでもない声だった。
美佳はユリの隣に腰を下ろした。岸壁の冷たさが、すぐにコートを通して伝わってきた。
しばらく、何も言わなかった。
波が打ち返す音だけがあった。水面は灰色で、空と同じ色をしていた。どこで水平線が終わるのか、曇りの中ではよく分からなかった。
「寒くないですか」と美佳は聞いた。
「寒いです」とユリは言った。「でも、動けなくて」
「いつからここにいますか」
「昨夜から、だと思います。途中で眠ったので、よく分かりません」
美佳は黙った。一晩ここにいたのだと思った。風の中で、海を向いて。
「変電施設跡地に行きましたか」と美佳は聞いた。
「行きました」とユリは言った。「でも誰もいなかった。ノートは置いてきました。読まれましたか」
「読みました」
ユリが少し顔を動かした。「全部ですか」
「全部」
「恥ずかしいですね」とユリは言った。でも恥ずかしそうではなかった。ただ確認しているような声だった。
「変電施設に誰もいなくて、それからどうしたんですか」と美佳は聞いた。
「歩いていたら、ここに来ました」とユリは言った。「来ようと思ったわけじゃないです。ただ歩いていたら」
「そうですか」
「美佳さんたちが廃施設にいたの、知らなかったです。知っていたら、行けたかもしれないけど」
「知らなくて当然です。連絡しなかったから」
ユリが「うん」と言った。敬語が外れていた。気づいていないのだろうと美佳は思った。
「ノートに書いてあった問い」と美佳は言った。「正しいことをしているのに不安、という」
「はい」
「今も、その問いがありますか」
ユリが少し間を置いた。「あります」とユリは言った。「でも、昨夜からここにいて──少し変わった気がします」
「どう変わりましたか」
「正しいかどうかより、不安の方が先にあった気がしてきました」ユリは膝を抱えたまま、海を見た。「正しいことをしているのに不安、じゃなくて、不安だから正しいかどうかを確かめたくて、だったかもしれない」
美佳は「それに気づいたのは、一人でここにいたからですか」と聞いた。
「分かりません」とユリは言った。「でも答えを求めて動き続けていたら、たぶん気づかなかったと思います」
朝倉が後ろで端末を見ているのが、気配で分かった。翔からの連絡だろうと美佳は思ったが、振り返らなかった。
「一つ話してもいいですか」と美佳は言った。
「はい」
「@LAPIS_echoのこと、少し分かってきたことがあります。あなたが受け取っていた問いや、共感ボタンの仕組みのこと」
ユリが美佳を見た。
「全部話します。でも今日じゃなくてもいいです。あなたが聞けるときに」
ユリが少し考えた。「今聞いた方がいいですか」
「どちらでもいいです。本当に」
「じゃあ」とユリは言った。「少しだけ、教えてもらえますか。全部じゃなくていいので」
美佳は「共感ボタンのこと、知っていますか」と聞いた。
「使っていました」
「あのボタンは、特定の感情のパターンに向けて、問いを収束させる仕組みがついていました。不安を解消されないまま持ち続けさせるような設計が」
ユリが黙った。
「あなたの問いが外から植えられたとは思っていません」と美佳は続けた。「ノートを読んで、共感ボタンより前からその問いはあったと分かりました。でも、その問いが育てられた部分はあったかもしれない」
「育てられた」とユリは繰り返した。
「外側から、答えを求めさせる方向に」
ユリが海を見た。しばらく黙っていた。
「怒った方がいいのかな」とユリは言った。
「でも、怒れないです。自分でボタンを押していたから」
「怒るかどうかは、今決めなくていいと思います」と美佳は言った。
「美佳さんは、怒りましたか。自分の端末に勝手にファイルを送られたとき」
美佳は少し考えた。「怒りより先に、怖かったです。それから、向き合わないといけないと思いました」
「怒らなかったんですね」
「怒る前に、他のことが来た感じです」
ユリが「そうか」と言った。それから「私も、怖かったです」と言った。「答えが出ない自分が、どんどんだめになっていく気がして」
「だめになっていませんでした」と美佳は言った。「ノートを読んで、そう思いました」
ユリが美佳を見た。「どうしてですか」
「答えを出せないまま、問いを書き続けていたから」と美佳は言った。「それは、問いに正直でいたということだと思います」
朝倉が近づいてきた。「美佳」と小さく言った。
美佳が振り返ると、朝倉が端末を見せた。翔からのメッセージだった。
Aライン、今動いています。接続先はさっきと同じ──ユリさんの端末。でも今回は向こうから切っています。三十秒で終わりました。
美佳はユリを見た。「端末、今日誰かから連絡来ましたか」
ユリが「来ました」と言った。「知らない番号から。出なかったです」
「何時ですか」
「さっき、少し前」
美佳は翔に返信した。「今切ったのはユリ本人です。出なかったと言っています」
翔からすぐ返ってきた。了解。でも相手はユリさんの位置を把握している可能性があります。早めに移動した方がいいかもしれない。
美佳は朝倉を見た。朝倉が頷いた。
「ユリ、立てますか」と美佳は言った。
「立てます」とユリは言った。「でも」
「でも」
「どこに行けばいいか分からなくて、ここにいました」
美佳は少し考えた。「今夜は私の部屋に来てください」と言った。
ユリが美佳を見た。
「一人でいた方がいいなら、それでもいいです」と美佳は言った。「でも、来られるなら来てほしいです」
ユリが少し間を置いた。「行きます」とユリは言った。「ありがとうございます」
朝倉が先に立ち上がって、ユリに手を差し出した。ユリがその手を取って、立ち上がった。一晩座っていたせいか、少しよろめいた。朝倉が支えた。
美佳も立ち上がった。足の感覚が少し鈍かった。冷えていた。
三人で岸壁を離れた。波の音が後ろに遠ざかっていった。
歩きながら、美佳は有栖川に短く連絡を入れた。
ユリを確保しました。今夜は私の部屋に連れていきます。Aラインの動きは翔から聞いています。ミオさんはそちらにいますか。
有栖川からすぐ返ってきた。
います。翔さんとの連携の準備を始めています。明日の朝、連絡します。
それから一行だけ付け加えられていた。
ミオさんが、ユリさんに謝りたいと言っています。準備ができたら、伝えてください。
美佳は端末をしまった。
「寒かったね」と朝倉が言った。ユリに向けて言っていた。
「はい」とユリは言った。
「腹、減ってない?」
ユリが少し考えた。「減っています、たぶん」
「たぶん、ってのは」
「お腹が減っているのか、疲れているのか、よく分からなくて」
「両方だと思う」と朝倉は言った。「取り敢えず何か食べた方がいい」
ユリが小さく「はい」と言った。
美佳は二人の少し後ろを歩いた。風はまだあったが、歩いていると体が温まってきた。
倉庫街の方向に、明かりが一つ見えた。自動販売機だった。この辺りには似合わない、明るいオレンジの光だった。



