翔との接続が確立したのは、十五分後だった。
有栖川の端末のスピーカーから、翔の声が聞こえた。「聞こえますか」
「聞こえています」と美佳は言った。
「朝倉さんも隣にいます」と翔が言った。
「ミオさんはそちらにいますか」
「います」とミオが答えた。自分の名前が呼ばれることに、少し驚いたような声だった。
「東郷翔です。昨夜、廃施設のサーバーを調べていました」
「知っています」とミオは言った。「Bラインの手前まで来ていましたね」
翔が少し間を置いた。「気づいていましたか」
「ログに残っていました。でも止めませんでした。丁寧な調べ方をしていたので」
翔がまた間を置いた。今度は少し長かった。
「ありがとうございます」と翔は言った。
翔の説明は、簡潔だった。
Bラインからミオがアクセスできる範囲と、翔が廃施設のサーバーから把握している構造を照合すると、落とせる範囲が当初の三分の一から、半分近くまで広がる可能性がある。ただし連携には時間がかかる。早くて今夜、確実を取るなら明日の方がいい。
「今夜と明日、何が違いますか」と美佳は聞いた。
ら「今夜急ぐと、久坂さんが加えた部分への影響が読めません」と翔は言った。「意図しない形で残存システムが反応する可能性がある」
「反応というのは」
「分かりません。だから怖い」翔は率直に言った。「明日なら、もう少し挙動を確認してから動けます」
美佳はミオを見た。「ミオさんはどう思いますか」
「翔さんの言う通りだと思います」とミオは言った。「ただ──」
「ただ」
「Aラインの別端末からのアクセスが今朝あったなら、今夜また来るかもしれない。来る前に動いた方がいい気もします」
翔が「それも考えました」と言った。「どちらを取るかは、美佳さんに決めてほしいです」
美佳は少し黙った。
「ユリの現在地は、まだ分かっていませんか」
「分かっていません」と翔は言った。「ただ──さっき朝倉さんが気になることを言っていました」
朝倉の声が聞こえた。「美佳、変電施設跡地に翔が戻ったとき、東側フェンスの外の足跡が──倉庫街の方向に向いていたと翔が言っていた」
美佳は有栖川を見た。有栖川が静かに頷いた。倉庫街。今、自分たちがいる場所だった。
「ユリは、ここに向かっていたかもしれない」と美佳は言った。
「可能性はあります」と朝倉は言った。
美佳は端末を持ったまま、倉庫の外に出た。
シャッターの前に立って、錆びた壁と、その先に続く細い路地を見た。
昼間の光の中でも、倉庫街は暗く見えた。建物と建物の間が狭く、奥まっていた。
一つだけ新しい郵便受け。
美佳はもう一度その郵便受けを見た。新しかった。この場所には似合わないほど、新しかった。
「ミオさん」と美佳は呼んだ。
ミオが出てきた。
「この郵便受け、いつからありますか」
ミオが郵便受けを見た。「知りません。私が最後にここに来たのは八ヶ月前で、そのときはなかった」
「誰が置いたか」
「久坂さんだと思います」
「なぜ」
「私に来てほしかったから、だと思います」
ミオは郵便受けを少し長く見た。「あの人は地図を描くより、道標を置く人です」
美佳は「道標」という言葉を、頭の中で一度繰り返した。
「私の端末への接続も」と美佳は言った。
「道標だったと思いますか」
ミオが美佳を見た。「そうだと思います。あなたをここまで連れてくるための」
「ユリへの接触も」
ミオが少し間を置いた。「ユリさんへの接触は──久坂さんではなく、私がしました」
「道標のつもりでしたか」
「そのつもりでした」ミオは静かに言った。
「でもユリさんにとってそれが道標だったかどうかは、ユリさんにしか分かりません。私が決めることではありませんでした」
美佳は何も言わなかった。
「分かっています」とミオは言った。美佳が言葉にする前に。「やってしまってから気づいても、遅い」
「遅いけど、気づかないよりはいいです」と美佳は言った。
ミオが少し意外そうな顔をした。
「慰めているわけじゃないです」と美佳は言った。「ただ、そう思っています」
端末から翔の声が聞こえた。「美佳さん、一つ報告があります」
「何ですか」
「今朝のAラインのアクセス、接続先を追いました。接続先は廃施設のサーバーじゃなかった」
美佳は「どこですか」と聞いた。
「特定の端末です。一台だけ」
「誰の端末ですか」
翔が少し間を置いた。「ユリさんのものと思われる端末です。フォロワーのログに残っていた端末IDと一致しました」
美佳は息を止めた。
「ユリの端末に、今朝アクセスがあった」
「はい。接続は三分間で切れています。切ったのはどちら側か、まだ分かりません」
美佳は倉庫の路地を見た。奥まっていて、暗かった。
「ユリは今、端末を持っていますか」と美佳は聞いた。
「持っていると思われます。電源は入っています」
「場所は」
「特定できていません。ただ──電波の状況からすると、港湾施設周辺の可能性があります」
美佳はミオを見た。ミオが静かに「近いです」と言った。
有栖川が倉庫から出てきた。「どうしますか」
美佳は少し考えた。決めるために必要な情報は、もうほぼ揃っていた。揃っているのに、決めにくい種類の局面だった。
「翔、システムの操作は明日にしてください」と美佳は言った。「今夜はユリを探します」
「分かりました」と翔は言った。「朝倉さんはそちらに向かいますか」
美佳は有栖川を見た。有栖川が「私は残ります」と言った。ミオと一緒にという意味だと美佳は受け取った。
「朝倉に来てもらいます」と美佳は言った。
「翔はサーバー側の監視を続けてください。Aラインがまた動いたらすぐ教えてほしい」
「了解です」と翔が言った。
朝倉への連絡は、有栖川がした。倉庫街の座標を送った。「三十分で着くと言っています」と有栖川は言った。
三十分、待つことになった。
美佳はシャッターの前の地面に腰を下ろした。コンクリートが冷たかった。空は相変わらず曇っていて、どこで昼が終わるのか分からないような光だった。
ミオが隣に来た。少し離れて、同じように腰を下ろした。
「怖くないですか」とミオが聞いた。
「怖いです」と美佳は言った。
「ユリさんのことが」
「それもあります。でも」美佳は少し考えた。「予定通りだと言われても、自分で決めたと思えるのが今は怖い。本当に自分で決めているのか、そう思わされているのか、確かめる方法がないから」
ミオが静かに聞いていた。
「あなたのノートの問いに、少し似ています」と美佳は言った。
「そうですね」とミオは言った。
「あなたはその問いと、どうやって一緒に生きてきましたか」
ミオが少し時間をかけた。「一緒に生きようとしたことが間違いだったかもしれない」と
ミオは言った。「答えを出そうとするよりも、一緒に生きようとすることの方が、かえって問いに引きずられる気がしています」
「じゃあ、どうするんですか」
「分かりません」ミオは波の方を見た。「でも最近、問いを見ないようにするのも違う、と思うようになりました。ただそこにある、という感じで置いておけないか、と」
美佳は「置いておく」という言葉を、しばらく持っていた。
「難しいですね」と美佳は言った。
「難しいです」とミオは言った。
二人はしばらく、海の方を見ていた。波の音だけが続いた。
朝倉が路地の角に現れたのは、二十八分後だった。
小走りで近づいてきて、美佳の隣に立った。息が少し乱れていた。「遠かった」と朝倉は言った。
「ありがとう」と美佳は言った。
朝倉がミオを見た。ミオが朝倉を見た。
「初めまして」と朝倉は言った。「美佳の、一番近くにいる人間です」
ミオが少し驚いたような顔をした。そういう
自己紹介を、予想していなかったのだろうと美佳は思った。
「よろしくお願いします」とミオは言った。
美佳は立ち上がった。「行きます」と言った。
朝倉が「ユリはどの辺ですか」と聞いた。
「港湾施設の周辺だと思います。詳しくは翔が追っています」
「翔が頼りになりますね、最近」と朝倉は言った。
「最初からです」と美佳は言った。
朝倉が少し笑った。美佳も少しだけ笑った。
有栖川とミオが倉庫の前に立っていた。「気をつけて」と有栖川が言った。
美佳は頷いて、朝倉と並んで路地を歩き始めた。波の音が近づいてきた。
有栖川の端末のスピーカーから、翔の声が聞こえた。「聞こえますか」
「聞こえています」と美佳は言った。
「朝倉さんも隣にいます」と翔が言った。
「ミオさんはそちらにいますか」
「います」とミオが答えた。自分の名前が呼ばれることに、少し驚いたような声だった。
「東郷翔です。昨夜、廃施設のサーバーを調べていました」
「知っています」とミオは言った。「Bラインの手前まで来ていましたね」
翔が少し間を置いた。「気づいていましたか」
「ログに残っていました。でも止めませんでした。丁寧な調べ方をしていたので」
翔がまた間を置いた。今度は少し長かった。
「ありがとうございます」と翔は言った。
翔の説明は、簡潔だった。
Bラインからミオがアクセスできる範囲と、翔が廃施設のサーバーから把握している構造を照合すると、落とせる範囲が当初の三分の一から、半分近くまで広がる可能性がある。ただし連携には時間がかかる。早くて今夜、確実を取るなら明日の方がいい。
「今夜と明日、何が違いますか」と美佳は聞いた。
ら「今夜急ぐと、久坂さんが加えた部分への影響が読めません」と翔は言った。「意図しない形で残存システムが反応する可能性がある」
「反応というのは」
「分かりません。だから怖い」翔は率直に言った。「明日なら、もう少し挙動を確認してから動けます」
美佳はミオを見た。「ミオさんはどう思いますか」
「翔さんの言う通りだと思います」とミオは言った。「ただ──」
「ただ」
「Aラインの別端末からのアクセスが今朝あったなら、今夜また来るかもしれない。来る前に動いた方がいい気もします」
翔が「それも考えました」と言った。「どちらを取るかは、美佳さんに決めてほしいです」
美佳は少し黙った。
「ユリの現在地は、まだ分かっていませんか」
「分かっていません」と翔は言った。「ただ──さっき朝倉さんが気になることを言っていました」
朝倉の声が聞こえた。「美佳、変電施設跡地に翔が戻ったとき、東側フェンスの外の足跡が──倉庫街の方向に向いていたと翔が言っていた」
美佳は有栖川を見た。有栖川が静かに頷いた。倉庫街。今、自分たちがいる場所だった。
「ユリは、ここに向かっていたかもしれない」と美佳は言った。
「可能性はあります」と朝倉は言った。
美佳は端末を持ったまま、倉庫の外に出た。
シャッターの前に立って、錆びた壁と、その先に続く細い路地を見た。
昼間の光の中でも、倉庫街は暗く見えた。建物と建物の間が狭く、奥まっていた。
一つだけ新しい郵便受け。
美佳はもう一度その郵便受けを見た。新しかった。この場所には似合わないほど、新しかった。
「ミオさん」と美佳は呼んだ。
ミオが出てきた。
「この郵便受け、いつからありますか」
ミオが郵便受けを見た。「知りません。私が最後にここに来たのは八ヶ月前で、そのときはなかった」
「誰が置いたか」
「久坂さんだと思います」
「なぜ」
「私に来てほしかったから、だと思います」
ミオは郵便受けを少し長く見た。「あの人は地図を描くより、道標を置く人です」
美佳は「道標」という言葉を、頭の中で一度繰り返した。
「私の端末への接続も」と美佳は言った。
「道標だったと思いますか」
ミオが美佳を見た。「そうだと思います。あなたをここまで連れてくるための」
「ユリへの接触も」
ミオが少し間を置いた。「ユリさんへの接触は──久坂さんではなく、私がしました」
「道標のつもりでしたか」
「そのつもりでした」ミオは静かに言った。
「でもユリさんにとってそれが道標だったかどうかは、ユリさんにしか分かりません。私が決めることではありませんでした」
美佳は何も言わなかった。
「分かっています」とミオは言った。美佳が言葉にする前に。「やってしまってから気づいても、遅い」
「遅いけど、気づかないよりはいいです」と美佳は言った。
ミオが少し意外そうな顔をした。
「慰めているわけじゃないです」と美佳は言った。「ただ、そう思っています」
端末から翔の声が聞こえた。「美佳さん、一つ報告があります」
「何ですか」
「今朝のAラインのアクセス、接続先を追いました。接続先は廃施設のサーバーじゃなかった」
美佳は「どこですか」と聞いた。
「特定の端末です。一台だけ」
「誰の端末ですか」
翔が少し間を置いた。「ユリさんのものと思われる端末です。フォロワーのログに残っていた端末IDと一致しました」
美佳は息を止めた。
「ユリの端末に、今朝アクセスがあった」
「はい。接続は三分間で切れています。切ったのはどちら側か、まだ分かりません」
美佳は倉庫の路地を見た。奥まっていて、暗かった。
「ユリは今、端末を持っていますか」と美佳は聞いた。
「持っていると思われます。電源は入っています」
「場所は」
「特定できていません。ただ──電波の状況からすると、港湾施設周辺の可能性があります」
美佳はミオを見た。ミオが静かに「近いです」と言った。
有栖川が倉庫から出てきた。「どうしますか」
美佳は少し考えた。決めるために必要な情報は、もうほぼ揃っていた。揃っているのに、決めにくい種類の局面だった。
「翔、システムの操作は明日にしてください」と美佳は言った。「今夜はユリを探します」
「分かりました」と翔は言った。「朝倉さんはそちらに向かいますか」
美佳は有栖川を見た。有栖川が「私は残ります」と言った。ミオと一緒にという意味だと美佳は受け取った。
「朝倉に来てもらいます」と美佳は言った。
「翔はサーバー側の監視を続けてください。Aラインがまた動いたらすぐ教えてほしい」
「了解です」と翔が言った。
朝倉への連絡は、有栖川がした。倉庫街の座標を送った。「三十分で着くと言っています」と有栖川は言った。
三十分、待つことになった。
美佳はシャッターの前の地面に腰を下ろした。コンクリートが冷たかった。空は相変わらず曇っていて、どこで昼が終わるのか分からないような光だった。
ミオが隣に来た。少し離れて、同じように腰を下ろした。
「怖くないですか」とミオが聞いた。
「怖いです」と美佳は言った。
「ユリさんのことが」
「それもあります。でも」美佳は少し考えた。「予定通りだと言われても、自分で決めたと思えるのが今は怖い。本当に自分で決めているのか、そう思わされているのか、確かめる方法がないから」
ミオが静かに聞いていた。
「あなたのノートの問いに、少し似ています」と美佳は言った。
「そうですね」とミオは言った。
「あなたはその問いと、どうやって一緒に生きてきましたか」
ミオが少し時間をかけた。「一緒に生きようとしたことが間違いだったかもしれない」と
ミオは言った。「答えを出そうとするよりも、一緒に生きようとすることの方が、かえって問いに引きずられる気がしています」
「じゃあ、どうするんですか」
「分かりません」ミオは波の方を見た。「でも最近、問いを見ないようにするのも違う、と思うようになりました。ただそこにある、という感じで置いておけないか、と」
美佳は「置いておく」という言葉を、しばらく持っていた。
「難しいですね」と美佳は言った。
「難しいです」とミオは言った。
二人はしばらく、海の方を見ていた。波の音だけが続いた。
朝倉が路地の角に現れたのは、二十八分後だった。
小走りで近づいてきて、美佳の隣に立った。息が少し乱れていた。「遠かった」と朝倉は言った。
「ありがとう」と美佳は言った。
朝倉がミオを見た。ミオが朝倉を見た。
「初めまして」と朝倉は言った。「美佳の、一番近くにいる人間です」
ミオが少し驚いたような顔をした。そういう
自己紹介を、予想していなかったのだろうと美佳は思った。
「よろしくお願いします」とミオは言った。
美佳は立ち上がった。「行きます」と言った。
朝倉が「ユリはどの辺ですか」と聞いた。
「港湾施設の周辺だと思います。詳しくは翔が追っています」
「翔が頼りになりますね、最近」と朝倉は言った。
「最初からです」と美佳は言った。
朝倉が少し笑った。美佳も少しだけ笑った。
有栖川とミオが倉庫の前に立っていた。「気をつけて」と有栖川が言った。
美佳は頷いて、朝倉と並んで路地を歩き始めた。波の音が近づいてきた。



