アンケート ― 選ばないという選択 ―

誰も最初に口を開かなかった。



テーブルの上のノートが、部屋の中心にあった。表紙の「宮下ユリ」という文字を、四人がそれぞれの角度から見ていた。



有栖川が口を開いた。



「二階の奥の部屋です。毛布とペットボトルの隣に置いてありました。隠してはいなかった」



「隠していなかった」と美佳は繰り返した。



「テーブルの上に、表紙を上にして」



美佳はノートを見た。拾い上げなかった。



隠していなかった、ということの意味を考えた。忘れていったのか、置いていったのか、見せるつもりで置いたのか。三つの可能性が並んだ。どれかを選ぶ根拠が、今はまだなかった。



「ユリさんが、ここに来ていた」と朝倉が言った。確認として。



「来ていた、あるいは」と翔が言いかけた。



「今もいる可能性がある」と美佳は言った。

部屋が静かになった。建物の中に、今もユリがいる可能性。美佳はその可能性を、焦らずに持った。



「建物の中を、もう一度確認する必要がある」と有栖川が言った。



「翔は残って」と美佳は言った。「サーバーのログから目を離したくない」



翔が頷いた。



「三人で手分けする」と美佳は続けた。「ただ──」



美佳はノートを見た。



「これは、私が持つ」



ノートを手に取った。



薄かった。百ページ程度の、市販の大学ノートだった。表紙は白で、名前以外に何も書いていなかった。

開いた。



最初の数ページは、日付と短い文章が並んでいた。日記ではなかった。問いだった。



なぜ、正しいことをしているのに不安なのか。



誰かに認められないと、自分が正しいか分からない。



答えを持っている人が、うらやましい。



美佳は読み続けた。



最初の記述は二ヶ月前だった。



@LAPIS_echoの共感ボタンが実装されるより前。ユリはそれより前から、この問いを抱えていた。



共感ボタンは、すでにあった問いを育てた。ゼロから植えたのではなかった。



美佳はそのことを、重要なこととして受け取った。



ページを進めると、記述の密度が上がっていった。一ヶ月前から、一日に複数の問いが書かれるようになった。@LAPIS_echoへの言及も出てきた。



このアカウントを見ていると、自分だけじゃないと思える。



同じことを考えている人がいる。



でも、それで安心していいのか分からない。



美佳は手を止めた。



「同じことを考えている人がいる」という安心と、「それで安心していいのか」という問い。ユリは受け取りながら、同時に疑っていた。疑う力が、まだあった。



ページを繰った。



最後の記述は、三日前だった。



場所を教えてもらった。



行くかどうか、まだ分からない。



でも、行かないと答えが出ない気がする。



「答えが出ない気がする」。



美佳は目を閉じた。



今朝のカフェで、ユリが言っていた言葉と重なった。「答えを出せない自分がだめな気がして」。答えを求めることが、ユリをここまで連れてきた。



場所を教えてもらった。誰に。



美佳はノートを閉じた。



三人で手分けして建物の中を確認した。



一階と二階は朝倉、三階は有栖川、美佳は外周を回った。



外に出ると、夜の空気が冷たかった。建物の周囲を歩きながら、美佳は足元を見た。草が踏まれた跡が、南側から東側に続いていた。



一人分の足跡だった。サイズが小さかった。



東側に回ると、フェンスの一部が古く、網が外れかけていた。人が通れる隙間があった。最近通った形跡があった。



美佳はフェンスの外を見た。街灯がなく、暗かった。足跡は外に続いていた。



ユリは、外に出ていた。



四階に戻ると、朝倉と有栖川がすでにいた。



「建物の中にはいなかった」と朝倉が言った。



「外に出た跡がある」と美佳は言った。「東側のフェンス。今夜かどうかは分からないけど、最近」



有栖川がノートを見た。「三日前の記述、読みましたか」



「読んだ」



「場所を教えてもらった、という部分」と有栖川は言った。「教えた人間が誰かによって、ユリさんがここに来た経緯が変わります」



翔がPCから顔を上げた。「彩音さんの可能性は?」



「ある」と美佳は言った。「でも彩音さんは、自分の善意が使われていることに気づいた。ユリさんをここに呼ぶとは考えにくい」



「だとしたら」と朝倉が言った。「Aラインと関係のある人間が──」



「ユリさんに接触していた」と美佳は言った。



部屋が静かになった。



翔がキーボードを叩いた。ログが更新された。



「Aラインの最新アクセス」と翔が言った。



「今夜、二十一時三十分」



今から四十分前だった。



美佳はノートを持ったまま、窓のカーテンを少しだけ開けた。外は暗かった。工場の灯りが遠くにあった。



ユリが今どこにいるか、分からなかった。



ノートの最後の一行が、頭に残っていた。

行かないと答えが出ない気がする。



答えを求めることが、人をどこまで連れていくか。美佳は自分の端末を見た。サーバーからの接続が、今も続いていた。



「翔」と美佳は言った。「端末に何が来ているか、今夜見る。準備して」

第45話 場所を教えてもらった

誰も最初に口を開かなかった。



テーブルの上のノートが、部屋の中心にあった。表紙の「宮下ユリ」という文字を、四人がそれぞれの角度から見ていた。



有栖川が口を開いた。



「二階の奥の部屋です。毛布とペットボトルの隣に置いてありました。隠してはいなかった」



「隠していなかった」と美佳は繰り返した。



「テーブルの上に、表紙を上にして」



美佳はノートを見た。拾い上げなかった。



隠していなかった、ということの意味を考えた。忘れていったのか、置いていったのか、見せるつもりで置いたのか。三つの可能性が並んだ。どれかを選ぶ根拠が、今はまだなかった。



「ユリさんが、ここに来ていた」と朝倉が言った。確認として。



「来ていた、あるいは」と翔が言いかけた。



「今もいる可能性がある」と美佳は言った。

部屋が静かになった。建物の中に、今もユリがいる可能性。美佳はその可能性を、焦らずに持った。



「建物の中を、もう一度確認する必要がある」と有栖川が言った。



「翔は残って」と美佳は言った。「サーバーのログから目を離したくない」



翔が頷いた。



「三人で手分けする」と美佳は続けた。「ただ──」



美佳はノートを見た。



「これは、私が持つ」



ノートを手に取った。



薄かった。百ページ程度の、市販の大学ノートだった。表紙は白で、名前以外に何も書いていなかった。

開いた。



最初の数ページは、日付と短い文章が並んでいた。日記ではなかった。問いだった。



なぜ、正しいことをしているのに不安なのか。



誰かに認められないと、自分が正しいか分からない。



答えを持っている人が、うらやましい。



美佳は読み続けた。



最初の記述は二ヶ月前だった。



@LAPIS_echoの共感ボタンが実装されるより前。ユリはそれより前から、この問いを抱えていた。



共感ボタンは、すでにあった問いを育てた。ゼロから植えたのではなかった。



美佳はそのことを、重要なこととして受け取った。



ページを進めると、記述の密度が上がっていった。一ヶ月前から、一日に複数の問いが書かれるようになった。@LAPIS_echoへの言及も出てきた。



このアカウントを見ていると、自分だけじゃないと思える。



同じことを考えている人がいる。



でも、それで安心していいのか分からない。



美佳は手を止めた。



「同じことを考えている人がいる」という安心と、「それで安心していいのか」という問い。ユリは受け取りながら、同時に疑っていた。疑う力が、まだあった。



ページを繰った。



最後の記述は、三日前だった。



場所を教えてもらった。



行くかどうか、まだ分からない。



でも、行かないと答えが出ない気がする。



「答えが出ない気がする」。



美佳は目を閉じた。



今朝のカフェで、ユリが言っていた言葉と重なった。「答えを出せない自分がだめな気がして」。答えを求めることが、ユリをここまで連れてきた。



場所を教えてもらった。誰に。



美佳はノートを閉じた。



三人で手分けして建物の中を確認した。



一階と二階は朝倉、三階は有栖川、美佳は外周を回った。



外に出ると、夜の空気が冷たかった。建物の周囲を歩きながら、美佳は足元を見た。草が踏まれた跡が、南側から東側に続いていた。



一人分の足跡だった。サイズが小さかった。



東側に回ると、フェンスの一部が古く、網が外れかけていた。人が通れる隙間があった。最近通った形跡があった。



美佳はフェンスの外を見た。街灯がなく、暗かった。足跡は外に続いていた。



ユリは、外に出ていた。



四階に戻ると、朝倉と有栖川がすでにいた。



「建物の中にはいなかった」と朝倉が言った。



「外に出た跡がある」と美佳は言った。「東側のフェンス。今夜かどうかは分からないけど、最近」



有栖川がノートを見た。「三日前の記述、読みましたか」



「読んだ」



「場所を教えてもらった、という部分」と有栖川は言った。「教えた人間が誰かによって、ユリさんがここに来た経緯が変わります」



翔がPCから顔を上げた。「彩音さんの可能性は?」



「ある」と美佳は言った。「でも彩音さんは、自分の善意が使われていることに気づいた。ユリさんをここに呼ぶとは考えにくい」



「だとしたら」と朝倉が言った。「Aラインと関係のある人間が──」



「ユリさんに接触していた」と美佳は言った。



部屋が静かになった。



翔がキーボードを叩いた。ログが更新された。



「Aラインの最新アクセス」と翔が言った。



「今夜、二十一時三十分」



今から四十分前だった。



美佳はノートを持ったまま、窓のカーテンを少しだけ開けた。外は暗かった。工場の灯りが遠くにあった。



ユリが今どこにいるか、分からなかった。



ノートの最後の一行が、頭に残っていた。

行かないと答えが出ない気がする。



答えを求めることが、人をどこまで連れていくか。美佳は自分の端末を見た。サーバーからの接続が、今も続いていた。



「翔」と美佳は言った。「端末に何が来ているか、今夜見る。準備して」



「できてる」と翔は言った。



美佳は頷いた。



ユリのことは、今夜中に動く必要があった。答えを求めてここに来たユリに、美佳は何も言えていなかった。今朝のカフェで、もう少し何かを言えたかもしれない。言えなかった。



それは後悔ではなかった。ただ、次に会ったときに言うべきことが、少し増えた。



「できてる」と翔は言った。



美佳は頷いた。



ユリのことは、今夜中に動く必要があった。答えを求めてここに来たユリに、美佳は何も言えていなかった。今朝のカフェで、もう少し何かを言えたかもしれない。言えなかった。



それは後悔ではなかった。ただ、次に会ったときに言うべきことが、少し増えた。