アンケート ― 選ばないという選択 ―

夜まで時間があった。

美佳はカフェに出勤し、いつもと同じように仕事をした。オーダーを取り、コーヒーを淹れ、テーブルを拭いた。手が動いている間、頭の別の場所が静かに整理を続けていた。
昼過ぎ、宮下ユリが来た。

ユリとは半年前に知り合った。小さな会社で事務をしていると言っていた。口数が少なく、カフェではいつも窓際の席に座って、本を読むか、スマートフォンを見るか、どちらかだった。

「こんにちは」とユリは言い、いつもの席に向かった。

美佳はアイスコーヒーを持っていった。ユリは顔を上げて「ありがとうございます」と言い、それからすぐにスマートフォンに視線を戻した。

画面が見えた。

@LAPIS_echoだった。

美佳は何も言わずにカウンターに戻った。

ユリが@LAPIS_echoを見ていることは、今日初めて気づいたわけではなかった。先週も、先々週も、同じ画面を見ていた。ただ美佳はそれを、確認として受け取るだけにしていた。

カウンターの内側で、美佳はグラスを拭きながら考えた。
ユリに何かを言うべきか。

また、問いの形にしている。

言うか言わないかではなく──ユリが今どこにいるかを、もう少し見る必要があった。

共感ボタンの収束が、画面の外の人間の頭にまで届いていた。カフェの常連客が「正しいことをしているのに、不安なのはなぜだろう」と話していた。ユリは今、どの段階にいるのか。

十五分後、ユリがカウンターに来た。お代わりを頼みながら、少し迷うように口を開いた。

「三枝さん、最近、何か気になることってありますか」

予想していない切り口だった。美佳は手を止めずに「気になること、ですか」と返した。

「なんか」とユリは言い、言葉を探すように窓の方を見た。「ずっと頭にある問いというか。消えない感じの」

「あります」と美佳は言った。

「どうしてます、それ」

美佳はコーヒーをユリの前に置いた。

「置いておきます」

「置いておく」

「答えが出るまで待つんじゃなくて、そこにあることを認めて、隣に置いておく感じで」
ユリは少し黙った。それから「答えを出さないといけない気がして、ずっと」と言った。「答えが出ないと、自分がだめな気がして」
美佳は頷いた。急がなかった。

「その感覚、いつ頃から?」とだけ聞いた。

「最近」とユリは言った。「一ヶ月くらい」

一ヶ月。@LAPIS_echoの共感ボタンが実装されたのが、先月だった。美佳はその一致を静かに受け取った。表情には出さなかった。
「答えを出せない自分がだめなんじゃなくて」と美佳は言った。「答えを急がせる何かが近くにある、っていう可能性もあると思います」

ユリは美佳を見た。

「外側に?」

「外側に」

ユリは少し考えるような顔をして、「そういう見方、したことなかった」と言った。それからコーヒーを持って席に戻った。
美佳はその背中を見ながら、何も足さなかった。

退勤は十八時だった。

着替えて店を出ると、朝倉がすでに外で待っていた。

「有栖川さんは現地集合」

「分かった」

二人で歩き出した。工業地帯までは電車で三十分、そこから徒歩だった。日が落ちるのが早い季節で、空はすでに紺色に近かった。
電車の中で、朝倉は何も聞かなかった。美佳も何も言わなかった。ただ並んで座っていた。窓の外を工場の灯りが流れていった。

美佳はユリのことを考えていた。

一ヶ月で変わった、とユリは言った。一ヶ月は短い。でも短い期間で変わるように設計されているとしたら——共感ボタンの収束が、特定の感情パターンに向かうよう設計されていたとしたら。

ユリは今、何番目の段階にいるのか。

翔の仮説が頭に浮かんだ。依存度、という言葉。問いへの依存を育て、答えを外に求めさせる構造。ユリが「答えを出せない自分がだめな気がして」と言ったとき、その言葉はどこから来たのか。ユリの内側から来たのか、外側から植えられたのか。

美佳自身にも、かつて同じ問いを翔に向けられたことがあった。「自分の問いですか、それとも植えつけられた問いですか」。
答えは出なかった。でも、問いを持ち続けることが美佳にはできた。

ユリにも、それができるといい、と美佳は思った。できるかどうかを決めるのはユリだった。美佳にできることは、外側に原因があるかもしれないという可能性を、一度だけ置いておくことだった。

最寄り駅で降りると、空気が変わった。
潮と錆と油の混じったような匂い。工場の稼働音が低く続いていた。有栖川が改札の外で待っていた。

「状況は」と美佳は言った。

「建物の四階、今夜も光があります。昨夜と同じ窓」と有栖川は言った。「変電施設の跡地は、そこから南に徒歩十二分です」

「翔の気配は」

「分かりません。ただ」と有栖川は少し間を置いた。「建物の周囲を昼に確認したとき、南側の扉の錠が、内側から掛けられていました」

朝倉が有栖川を見た。

「内側から、ということは」

「中に誰かいる、ということです」と有栖川は言った。「あるいは、いた」

三人は歩き出した。

街灯の少ない道だった。工場の灯りが遠く、

足元だけが暗かった。美佳は前を向いて歩きながら、今夜この場所に来ることを、問いの形にせずに決めたことを思い出した。

翔が先に動いた。だから三人が続く。それだけだった。

変電施設の跡地が見えてきた。

フェンスで囲まれた敷地の中に、低い建物が二棟並んでいた。窓はすべて塞がれ、灯りはなかった。静かだった。静かすぎた。

有栖川が南側の扉を示した。

錠は、内側から掛かったままだった。

朝倉が扉を軽く押した。動かなかった。

美佳は扉の表面を見た。錆と汚れの中に、わずかに新しい傷があった。最近、誰かが触れた痕だった。

「翔」と美佳は小さく言った。声ではなく、確認として。

扉の向こうで、何かが動いた。

三人が止まった。

もう一度、音がした。規則的だった。ランダムではない。パターンがあった。

朝倉が美佳を見た。美佳は頷いた。

「モールス」と有栖川が静かに言った。「短・長・短──」

美佳は耳を澄ました。音が続いた。壁を叩く音だった。弱かったが、確かにそこにあった。

「R」と有栖川が言った。「短・長・長──W。短──E」

三人が顔を見合わせた。

RWE。

意味を探す前に、音が続いた。

「短・長・短・短──L。短・短──I。短・短・短──S。短──E」
LWISE、ではなかった。

「──ELSE」と有栖川が言い直した。「RW──いや」

朝倉が紙に書き始めた。

音が一度止まり、また始まった。最初から繰り返している。

R・W・E・L・S・E。

「RWELSE」と朝倉が言った。「意味が──」

「待って」と美佳は言った。

もう一度、最初から聞いた。

短・長・短──R。短・長・長──W。短──E。

「区切りが違う」と美佳は言った。「RとWとEじゃない」

音が続いた。美佳は目を閉じて聞いた。

短・長・短、間、長・短・短、間、短──
「R、D、E」と美佳は言った。「それから──」

長・短・長・長──Y。

「RDEY?」と朝倉が言った。

「違う」と美佳は言った。「もっと前から」
最初の音に戻った。

短・長──A。

「A」と美佳は言った。「最初はA」
A・短・長・──R。A・R──

「ARRE」と有栖川が言いかけた。

「ALREADY」と美佳は言った。「ALREADYだ」

音がぴたりと止まった。

三人が扉を見た。

また音が始まった。今度は別のパターンだった。

短・短・短──S。長・長・長──O。短・短・短──S。

朝倉が息を飲んだ。

SOS、ではなかった。

音が続いた。

短・短・短・長──その後に、長い間。

美佳は有栖川を見た。有栖川の表情が、かすかに変わっていた。

「ALREADY INSIDE」と有栖川が静かに言った。「──翔さんは、中にいます」