その夜、美佳は早めに夕食を取って、翔からの連絡を待った。
解析の続きが出たら教えてほしいと頼んでいた。翔は「今夜中に何か出ると思います」と言っていた。
九時を過ぎても、連絡はなかった。
九時半になっても、なかった。
美佳は本を読もうとして、同じ行を三回読んでいることに気づいて、閉じた。
翔からの連絡が来ない、ということは、まだ解析中なのだと思った。急かすことではない。美佳はスマートフォンをテーブルに置いて、お茶を淹れた。
湯を注ぎながら、今日の会議室での翔の言葉を思い出した。
依存度だ、と思っています。
ノートパソコンを閉じてから言った言葉。
データではなく、翔自身の言葉。
確証はない。でもあり得る。
お茶を持ってソファに戻ったとき、スマートフォンが震えた。
翔からだ、と思って手に取った。
有栖川からだった。
「今すぐ電話できますか」
文字を読んだ瞬間、美佳の中で何かが緊張した。
有栖川がこういう聞き方をするのは、初めてだった。今すぐ、という言葉を使う人ではなかった。
「できます」とすぐに返した。
十秒後に、電話がかかってきた。
「三枝さん」と有栖川は言った。声が、いつもより少し速かった。
「はい」
「翔さんが、連絡を絶ちました」
美佳は動かなかった。
お茶のカップを持ったまま、動かなかった。
「どういうことですか」
「一時間前から、メッセージが既読にならなくなっています。電話もつながらない。朝倉さんにも確認しましたが、同じです」
「急に、ということですか」
「最後のメッセージは、八時二十二分です。解析の途中経過を送ってきて、それ以降、返信がない」
「途中経過、というのは」
「それを、あなたにも伝えたくて電話しました」と有栖川は言った。
美佳はカップをテーブルに置いた。
「聞かせてください」
「翔さんから送られてきたのは、一行だけです」
有栖川が、その一行を読み上げた。
「『残存システムへの接続経路が、特定できました』」
沈黙が流れた。
美佳は受話器を耳に当てたまま、窓の外を見た。
藍都の夜が、何も知らない顔をして広がっていた。
残存システムへの接続経路が、特定できた。
翔はその報告を送って、そして連絡を絶った。
偶然ではない、と美佳には分かった。分かりたくなかったが、分かった。
「朝倉さんは今、翔さんの部屋に向かっています」と有栖川は言った。「私はこれから、昼間お見せした建物の周辺を確認してきます」
「一人でですか」
「大丈夫です。近づくだけです」
「気をつけてください」と美佳は言った。言葉が、少し遅れた。
「三枝さんは、部屋にいてください」と有栖川は言った。「今夜は動かないで」
電話を切って、美佳はすぐに朝倉にメッセージを送った。
「有栖川さんから聞いた。今どこ」
「翔の部屋に向かってる。あと五分」と朝倉はすぐに返した。
「気をつけて」
「うん。美佳はいて」
いて、という二文字が、今夜だけは素直に受け取れた。
美佳は部屋の中で待った。
動かなかった。
動きたかった。でも動かなかった。
有栖川が「今夜は動かないで」と言った理由を、美佳は考えた。
美佳の端末には、昨夜ファイルが生成された。接続が成功した端末を持つ人間が外に出ることで、何かを特定される可能性がある。有栖川はそれを心配したのかもしれない。
あるいは、もっと単純に、美佳を危険な場所に近づけたくなかったのかもしれない。
どちらにしても、有栖川の言葉に従った。
従いながら、翔のことを考えた。
翔は今日の会議室で、ノートパソコンを閉じて話した。
依存度だ、と言った。
帰り際に、美佳に「依存とは違う」と言った。
そして夜、接続経路を特定して、連絡を絶った。
翔は何かを見つけた。そしてその何かに向かって、動いた。
一人で。
翔さんらしい、と美佳は思った。思いながら、胃のあたりが重くなった。
朝倉から連絡が来たのは、二十分後だった。
電話だった。
「美佳」
「うん」
「翔の部屋、入れてもらった。鍵は開いてた」朝倉の声が、少し低かった。
「どうだった」
「椅子が、一脚倒れてた」
美佳は息を吸った。
「PCの電源が入ったままだ。画面にはLAPISのサーバーの解析画面が出てる。財布とスマートフォンが、机の上に残ってる」
財布と、スマートフォンが。
「翔は、いない」と朝倉は言った。「部屋の中に、いない」
美佳はソファに座ったまま、窓の外を見た。
藍都の夜は相変わらず、何も知らない顔をしていた。
財布とスマートフォンを置いて、椅子を倒し
たまま、翔はいなくなった。
急いで出た。
あるいは、急いで連れて行かれた。
どちらかは、まだ分からなかった。
「朝倉」と美佳は言った。
「うん」
「翔さんのPC、画面に何か残ってる?」
「確認する」と朝倉は言って、少し間があった。
キーボードを叩く音がした。
「美佳」と朝倉が言った。声が変わっていた。
「なに」
「翔が最後に開いていたファイル、タイトルが見える」
「なんて書いてある」
朝倉が読み上げた。
「『廃サーバー、座標』」
美佳は動かなかった。
廃サーバー。
工業地帯の外れ。有栖川が写真を見せた、窓に光のない建物。
翔は接続経路を特定して、そこに向かった。
財布もスマートフォンも置いて。
一人で。
「美佳」と朝倉が言った。
「うん」
「俺、今から有栖川さんに連絡する。三人で動いた方がいい」
「うん」と美佳は言った。「でも朝倉、一個だけ」
「なに」
「翔さんのPC、画面をそのままにしておいて」
「分かった」と朝倉は言った。「美佳は」
「ここにいる」と美佳は言った。「今夜は、ここにいる」
電話を切って、美佳はしばらく動かなかった。
お茶はすっかり冷めていた。
翔が一人で向かった場所に、有栖川も今夜確認に行っている。
二人が、同じ場所に向かっている。
美佳だけが、ここにいる。
動かない、と決めた。有栖川に言われたからではなく、今夜自分が動くことが正しいとは思えなかったから。
でも動かないことが、何もしないこととは違う。
美佳はノートを開いた。
ペンを持って、今夜分かったことを書き始めた。
翔が残存システムへの接続経路を特定したこと。廃サーバーの座標を調べていたこと。財布とスマートフォンを置いて出たこと。
書きながら、一つのことが頭に浮かんだ。
翔は財布とスマートフォンを置いていった。
端末を持っていかなかった。
端末を持っていくと、居場所が分かる。
追われることを、最初から想定していた。
つまり翔は、誰かに連れて行かれたのではない。
自分から、行った。
ペンを置いて、美佳は天井を見た。
翔が自分から行ったとしたら、今夜の翔は安全かもしれない。
でも安全である保証は、どこにもない。
美佳は目を閉じた。
翔の「依存とは違う」という言葉が、また戻ってきた。
今夜その言葉は、データではなく翔という人間の重さで、美佳の中にあった。
深夜一時を過ぎた頃、有栖川からメッセージが届いた。
「建物の周辺を確認しました。内部に、かすかに光があります。誰かいます。今夜は引き返します。明日、四人で話しましょう」
四人で、と有栖川は書いた。
翔を含めた四人。
有栖川も、翔が自分から動いたと思っている。
美佳はそのメッセージに「分かりました」と返した。
それから、ノートを閉じた。
スマートフォンを充電器に繋いで、画面を下に向けて置いた。
布団に入った。
目を閉じた。
翔さん、と美佳は思った。言葉にはしなかった。ただ、思った。
無事でいて。
解析の続きが出たら教えてほしいと頼んでいた。翔は「今夜中に何か出ると思います」と言っていた。
九時を過ぎても、連絡はなかった。
九時半になっても、なかった。
美佳は本を読もうとして、同じ行を三回読んでいることに気づいて、閉じた。
翔からの連絡が来ない、ということは、まだ解析中なのだと思った。急かすことではない。美佳はスマートフォンをテーブルに置いて、お茶を淹れた。
湯を注ぎながら、今日の会議室での翔の言葉を思い出した。
依存度だ、と思っています。
ノートパソコンを閉じてから言った言葉。
データではなく、翔自身の言葉。
確証はない。でもあり得る。
お茶を持ってソファに戻ったとき、スマートフォンが震えた。
翔からだ、と思って手に取った。
有栖川からだった。
「今すぐ電話できますか」
文字を読んだ瞬間、美佳の中で何かが緊張した。
有栖川がこういう聞き方をするのは、初めてだった。今すぐ、という言葉を使う人ではなかった。
「できます」とすぐに返した。
十秒後に、電話がかかってきた。
「三枝さん」と有栖川は言った。声が、いつもより少し速かった。
「はい」
「翔さんが、連絡を絶ちました」
美佳は動かなかった。
お茶のカップを持ったまま、動かなかった。
「どういうことですか」
「一時間前から、メッセージが既読にならなくなっています。電話もつながらない。朝倉さんにも確認しましたが、同じです」
「急に、ということですか」
「最後のメッセージは、八時二十二分です。解析の途中経過を送ってきて、それ以降、返信がない」
「途中経過、というのは」
「それを、あなたにも伝えたくて電話しました」と有栖川は言った。
美佳はカップをテーブルに置いた。
「聞かせてください」
「翔さんから送られてきたのは、一行だけです」
有栖川が、その一行を読み上げた。
「『残存システムへの接続経路が、特定できました』」
沈黙が流れた。
美佳は受話器を耳に当てたまま、窓の外を見た。
藍都の夜が、何も知らない顔をして広がっていた。
残存システムへの接続経路が、特定できた。
翔はその報告を送って、そして連絡を絶った。
偶然ではない、と美佳には分かった。分かりたくなかったが、分かった。
「朝倉さんは今、翔さんの部屋に向かっています」と有栖川は言った。「私はこれから、昼間お見せした建物の周辺を確認してきます」
「一人でですか」
「大丈夫です。近づくだけです」
「気をつけてください」と美佳は言った。言葉が、少し遅れた。
「三枝さんは、部屋にいてください」と有栖川は言った。「今夜は動かないで」
電話を切って、美佳はすぐに朝倉にメッセージを送った。
「有栖川さんから聞いた。今どこ」
「翔の部屋に向かってる。あと五分」と朝倉はすぐに返した。
「気をつけて」
「うん。美佳はいて」
いて、という二文字が、今夜だけは素直に受け取れた。
美佳は部屋の中で待った。
動かなかった。
動きたかった。でも動かなかった。
有栖川が「今夜は動かないで」と言った理由を、美佳は考えた。
美佳の端末には、昨夜ファイルが生成された。接続が成功した端末を持つ人間が外に出ることで、何かを特定される可能性がある。有栖川はそれを心配したのかもしれない。
あるいは、もっと単純に、美佳を危険な場所に近づけたくなかったのかもしれない。
どちらにしても、有栖川の言葉に従った。
従いながら、翔のことを考えた。
翔は今日の会議室で、ノートパソコンを閉じて話した。
依存度だ、と言った。
帰り際に、美佳に「依存とは違う」と言った。
そして夜、接続経路を特定して、連絡を絶った。
翔は何かを見つけた。そしてその何かに向かって、動いた。
一人で。
翔さんらしい、と美佳は思った。思いながら、胃のあたりが重くなった。
朝倉から連絡が来たのは、二十分後だった。
電話だった。
「美佳」
「うん」
「翔の部屋、入れてもらった。鍵は開いてた」朝倉の声が、少し低かった。
「どうだった」
「椅子が、一脚倒れてた」
美佳は息を吸った。
「PCの電源が入ったままだ。画面にはLAPISのサーバーの解析画面が出てる。財布とスマートフォンが、机の上に残ってる」
財布と、スマートフォンが。
「翔は、いない」と朝倉は言った。「部屋の中に、いない」
美佳はソファに座ったまま、窓の外を見た。
藍都の夜は相変わらず、何も知らない顔をしていた。
財布とスマートフォンを置いて、椅子を倒し
たまま、翔はいなくなった。
急いで出た。
あるいは、急いで連れて行かれた。
どちらかは、まだ分からなかった。
「朝倉」と美佳は言った。
「うん」
「翔さんのPC、画面に何か残ってる?」
「確認する」と朝倉は言って、少し間があった。
キーボードを叩く音がした。
「美佳」と朝倉が言った。声が変わっていた。
「なに」
「翔が最後に開いていたファイル、タイトルが見える」
「なんて書いてある」
朝倉が読み上げた。
「『廃サーバー、座標』」
美佳は動かなかった。
廃サーバー。
工業地帯の外れ。有栖川が写真を見せた、窓に光のない建物。
翔は接続経路を特定して、そこに向かった。
財布もスマートフォンも置いて。
一人で。
「美佳」と朝倉が言った。
「うん」
「俺、今から有栖川さんに連絡する。三人で動いた方がいい」
「うん」と美佳は言った。「でも朝倉、一個だけ」
「なに」
「翔さんのPC、画面をそのままにしておいて」
「分かった」と朝倉は言った。「美佳は」
「ここにいる」と美佳は言った。「今夜は、ここにいる」
電話を切って、美佳はしばらく動かなかった。
お茶はすっかり冷めていた。
翔が一人で向かった場所に、有栖川も今夜確認に行っている。
二人が、同じ場所に向かっている。
美佳だけが、ここにいる。
動かない、と決めた。有栖川に言われたからではなく、今夜自分が動くことが正しいとは思えなかったから。
でも動かないことが、何もしないこととは違う。
美佳はノートを開いた。
ペンを持って、今夜分かったことを書き始めた。
翔が残存システムへの接続経路を特定したこと。廃サーバーの座標を調べていたこと。財布とスマートフォンを置いて出たこと。
書きながら、一つのことが頭に浮かんだ。
翔は財布とスマートフォンを置いていった。
端末を持っていかなかった。
端末を持っていくと、居場所が分かる。
追われることを、最初から想定していた。
つまり翔は、誰かに連れて行かれたのではない。
自分から、行った。
ペンを置いて、美佳は天井を見た。
翔が自分から行ったとしたら、今夜の翔は安全かもしれない。
でも安全である保証は、どこにもない。
美佳は目を閉じた。
翔の「依存とは違う」という言葉が、また戻ってきた。
今夜その言葉は、データではなく翔という人間の重さで、美佳の中にあった。
深夜一時を過ぎた頃、有栖川からメッセージが届いた。
「建物の周辺を確認しました。内部に、かすかに光があります。誰かいます。今夜は引き返します。明日、四人で話しましょう」
四人で、と有栖川は書いた。
翔を含めた四人。
有栖川も、翔が自分から動いたと思っている。
美佳はそのメッセージに「分かりました」と返した。
それから、ノートを閉じた。
スマートフォンを充電器に繋いで、画面を下に向けて置いた。
布団に入った。
目を閉じた。
翔さん、と美佳は思った。言葉にはしなかった。ただ、思った。
無事でいて。



