翌日の午前中、四人が図書館の小会議室に集まった。
有栖川が場所を指定した。カフェより話しやすい、という理由だった。美佳には、聞かれたくない話がある、という意味に聞こえた。
翔は美佳と朝倉より先に来ていた。ノートパソコンを開いて、何かを確認していた。有栖川が最後に入ってきて、ドアを閉めた。
四人が同じテーブルを囲むのは、第2章の夜以来だった。
有栖川が話し始めた。
「女性について、分かったことをお伝えします」
全員が有栖川を見た。
「名前は、まだ分かりません。ただ、ミオさんから聞いていた断片的な情報を手がかりに調べた結果、一つのことが確認できました」
有栖川は手元の封筒から、一枚の紙を取り出した。
テーブルの中央に置いた。
印刷された画像だった。人物の写真ではなかった。建物の外観だった。古い、四階建てのビル。看板は出ていない。窓に光はない。
「藍都の工業地帯の外れにある建物です」と有栖川は言った。「ミオさんが一度だけ、
『あの人はここにいることがある』と話していた場所です」
美佳は写真を見た。
見覚えはなかった。でも場所の説明には、引っかかるものがあった。
工業地帯の外れ。
翔が第6章で向かうはずの廃サーバーのある場所と、近いかもしれない。まだ確認していないことだったが、頭の中で地図が重なった。
「その建物に、今も人がいると思いますか」と翔が聞いた。
「分かりません」と有栖川は言った。「ただ、ミオさんがその話をしたのは半年以上前です。今も同じ場所にいるかどうかは、確認できていない」
「女性と、LAPISの残存システムに接続している人間が、同一だと思いますか」と翔は続けた。
有栖川は少し間を置いた。
「同一だと思っています」
翔がノートパソコンの画面を全員に向けた。
「昨夜、追加の解析ができました。美佳さんの端末に生成されたファイルの暗号化パターンと、LAPISのサーバーの残存データの暗号化パターンを比較した結果、製作者が同一であることがほぼ確定しました」
「ほぼ、というのは」と朝倉が聞いた。
「完全な一致ではなく、九十二パーセントの一致です。ただ暗号化の手法は人間の癖が出やすい。書き方の癖が一致している、ということは、同じ人間が書いたと見ていいと思います」
「つまり」と美佳は言った。「LAPISの残存システムを動かしている人間と、私の端末にファイルを生成した人間と、彩音さんの技術的な協力者が、全員同じ女性だということ」
「そうなります」と翔は静かに言った。
部屋が、少しの間静かになった。
窓の外で、図書館の中庭の木が風に揺れていた。
美佳はテーブルの上の写真を見た。窓のない、光のない建物。
「翔くん」と美佳は言った。「一つ聞いていい」
「どうぞ」
「LAPISが問いを集めていた本当の目的、翔くんはどう思ってる」
翔は少し間を置いた。
ノートパソコンの画面を閉じた。
画面を閉じてから話す、ということは、データではなく自分の言葉で話す、という意味だと美佳には分かった。
「正直に言います」と翔は言った。「確証はありません。でも、昨夜からずっと考えていて、一つの仮説が頭から離れないんです」
「聞かせて」
翔は全員を一度見てから、言った。
「LAPISは問いを集めていたんじゃないかもしれない」
部屋の空気が、少し変わった。
翔は続けた。
「依存度だ、と思っています」
誰も、すぐには口を開かなかった。
依存度。
その言葉が、部屋の中に置かれたまま、しばらくそこにあった。
「説明してもらえますか」と有栖川が言った。いつもより少し、慎重な声だった。
翔は言葉を選びながら話した。
「LAPISのアンケートは、選択肢を選ばせることで回答者の思考パターンを収集していました。でも本当に収集したかったのは、思考パターンそのものじゃなかったかもしれない。どれだけ問いに頼るようになるか、というデータだったんじゃないかと思っています」
「問いへの依存度」と朝倉が言った。
「そうです。アンケートに答え続けることで、自分で判断する前に問いを求めるようになる。その変化を、LAPISは測っていたんじゃないか」
「そして@LAPIS_echoの共感ボタンは」と美佳は言った。
「同じことを、より大規模にやっている。解消されない不安に共感させ続けることで、答えを外に求めるようになる。その依存を育てている」
有栖川が静かに言った。
「ミオさんが怖くなった理由が、それだとしたら」
翔は頷いた。
「設計した本人が、自分の作ったものが何をしているか気づいた。だから止めようとした。でも止めきれなかった」
「止めきれなかったのは」と美佳は言った。
「すでに依存が始まっていた人間がいたから?」
「それもあると思います。でももう一つ」と翔は言った。「続けようとした人間がいたから、だと思います。ミオさんが止めようとしたのと同時に、誰かが続けようとした。その誰かが、今も動いている女性だと思っています」
また、沈黙が流れた。
今度は少し長かった。
朝倉が口を開いた。
「翔、その仮説、どのくらい確かだと思ってる」
「確証はないです」と翔は繰り返した。「でも、集まった事実を並べたとき、この仮説以外に筋の通る説明が見つからない。昨夜から何度も別の説明を探したけれど、見つからなかった」
「見つからなかった、から、これが正しいとは言えない」と美佳は言った。
「そうです」と翔は素直に認めた。「でも、今持っている仮説の中で、最も多くの事実と整合する」
美佳はテーブルの写真を見た。
工業地帯の外れの建物。窓に光のない、四階建てのビル。
あそこに、その女性がいるかもしれない。
LAPISの残存システムを動かし、彩音の善意を使い、美佳を設計者として位置づけようとしている人間が。
「有栖川さん」と美佳は言った。「その建物に、行くことはできますか」
有栖川は少し考えてから答えた。
「行くことはできます。ただ、今すぐではない方がいいと思っています」
「なぜですか」
「相手は、こちらの動きを見ている可能性があります。美佳さんの端末に昨夜ファイルを生成できたということは、端末を通じてある程度の情報を得ている。焦って動くより、準備してから動いた方がいい」
「準備、というのは」
「相手が次に何をするか、もう少し見極めてから」と有栖川は言った。「そのためにも、翔さんの解析を続けてもらいたい」
翔は「続けます」と短く言った。
会議室を出るとき、翔が美佳に声をかけた。
「一つだけ、言っておきたいことがあります」
「うん」
「依存度、という仮説を話しました。でも」
翔は少し間を置いた。
「美佳さんのログが他の三人より大きかったのは、迷い方が深かったからだと、僕は今も思っています。依存とは、違う」
美佳は翔を見た。
翔はいつも通りの、感情の読みにくい顔をしていた。でもその言葉は、データではなかった。
「ありがとう」と美佳は言った。
翔は小さく頷いて、先に廊下に出た。
図書館を出て、朝倉と並んで歩いた。
「依存度か」と朝倉が言った。
「うん」
「美佳はどう思った、あの仮説」
美佳は少し考えてから答えた。
「怖いと思った。でも、あり得ると思った」
「俺も」と朝倉は言った。「確証はないけど、あり得る。それが一番厄介だな」
「うん」と美佳は言った。
確証のないまま、あり得る、と思い続けることの重さを、二人とも分かっていた。
藍都の午後が、静かに続いていた。
有栖川が場所を指定した。カフェより話しやすい、という理由だった。美佳には、聞かれたくない話がある、という意味に聞こえた。
翔は美佳と朝倉より先に来ていた。ノートパソコンを開いて、何かを確認していた。有栖川が最後に入ってきて、ドアを閉めた。
四人が同じテーブルを囲むのは、第2章の夜以来だった。
有栖川が話し始めた。
「女性について、分かったことをお伝えします」
全員が有栖川を見た。
「名前は、まだ分かりません。ただ、ミオさんから聞いていた断片的な情報を手がかりに調べた結果、一つのことが確認できました」
有栖川は手元の封筒から、一枚の紙を取り出した。
テーブルの中央に置いた。
印刷された画像だった。人物の写真ではなかった。建物の外観だった。古い、四階建てのビル。看板は出ていない。窓に光はない。
「藍都の工業地帯の外れにある建物です」と有栖川は言った。「ミオさんが一度だけ、
『あの人はここにいることがある』と話していた場所です」
美佳は写真を見た。
見覚えはなかった。でも場所の説明には、引っかかるものがあった。
工業地帯の外れ。
翔が第6章で向かうはずの廃サーバーのある場所と、近いかもしれない。まだ確認していないことだったが、頭の中で地図が重なった。
「その建物に、今も人がいると思いますか」と翔が聞いた。
「分かりません」と有栖川は言った。「ただ、ミオさんがその話をしたのは半年以上前です。今も同じ場所にいるかどうかは、確認できていない」
「女性と、LAPISの残存システムに接続している人間が、同一だと思いますか」と翔は続けた。
有栖川は少し間を置いた。
「同一だと思っています」
翔がノートパソコンの画面を全員に向けた。
「昨夜、追加の解析ができました。美佳さんの端末に生成されたファイルの暗号化パターンと、LAPISのサーバーの残存データの暗号化パターンを比較した結果、製作者が同一であることがほぼ確定しました」
「ほぼ、というのは」と朝倉が聞いた。
「完全な一致ではなく、九十二パーセントの一致です。ただ暗号化の手法は人間の癖が出やすい。書き方の癖が一致している、ということは、同じ人間が書いたと見ていいと思います」
「つまり」と美佳は言った。「LAPISの残存システムを動かしている人間と、私の端末にファイルを生成した人間と、彩音さんの技術的な協力者が、全員同じ女性だということ」
「そうなります」と翔は静かに言った。
部屋が、少しの間静かになった。
窓の外で、図書館の中庭の木が風に揺れていた。
美佳はテーブルの上の写真を見た。窓のない、光のない建物。
「翔くん」と美佳は言った。「一つ聞いていい」
「どうぞ」
「LAPISが問いを集めていた本当の目的、翔くんはどう思ってる」
翔は少し間を置いた。
ノートパソコンの画面を閉じた。
画面を閉じてから話す、ということは、データではなく自分の言葉で話す、という意味だと美佳には分かった。
「正直に言います」と翔は言った。「確証はありません。でも、昨夜からずっと考えていて、一つの仮説が頭から離れないんです」
「聞かせて」
翔は全員を一度見てから、言った。
「LAPISは問いを集めていたんじゃないかもしれない」
部屋の空気が、少し変わった。
翔は続けた。
「依存度だ、と思っています」
誰も、すぐには口を開かなかった。
依存度。
その言葉が、部屋の中に置かれたまま、しばらくそこにあった。
「説明してもらえますか」と有栖川が言った。いつもより少し、慎重な声だった。
翔は言葉を選びながら話した。
「LAPISのアンケートは、選択肢を選ばせることで回答者の思考パターンを収集していました。でも本当に収集したかったのは、思考パターンそのものじゃなかったかもしれない。どれだけ問いに頼るようになるか、というデータだったんじゃないかと思っています」
「問いへの依存度」と朝倉が言った。
「そうです。アンケートに答え続けることで、自分で判断する前に問いを求めるようになる。その変化を、LAPISは測っていたんじゃないか」
「そして@LAPIS_echoの共感ボタンは」と美佳は言った。
「同じことを、より大規模にやっている。解消されない不安に共感させ続けることで、答えを外に求めるようになる。その依存を育てている」
有栖川が静かに言った。
「ミオさんが怖くなった理由が、それだとしたら」
翔は頷いた。
「設計した本人が、自分の作ったものが何をしているか気づいた。だから止めようとした。でも止めきれなかった」
「止めきれなかったのは」と美佳は言った。
「すでに依存が始まっていた人間がいたから?」
「それもあると思います。でももう一つ」と翔は言った。「続けようとした人間がいたから、だと思います。ミオさんが止めようとしたのと同時に、誰かが続けようとした。その誰かが、今も動いている女性だと思っています」
また、沈黙が流れた。
今度は少し長かった。
朝倉が口を開いた。
「翔、その仮説、どのくらい確かだと思ってる」
「確証はないです」と翔は繰り返した。「でも、集まった事実を並べたとき、この仮説以外に筋の通る説明が見つからない。昨夜から何度も別の説明を探したけれど、見つからなかった」
「見つからなかった、から、これが正しいとは言えない」と美佳は言った。
「そうです」と翔は素直に認めた。「でも、今持っている仮説の中で、最も多くの事実と整合する」
美佳はテーブルの写真を見た。
工業地帯の外れの建物。窓に光のない、四階建てのビル。
あそこに、その女性がいるかもしれない。
LAPISの残存システムを動かし、彩音の善意を使い、美佳を設計者として位置づけようとしている人間が。
「有栖川さん」と美佳は言った。「その建物に、行くことはできますか」
有栖川は少し考えてから答えた。
「行くことはできます。ただ、今すぐではない方がいいと思っています」
「なぜですか」
「相手は、こちらの動きを見ている可能性があります。美佳さんの端末に昨夜ファイルを生成できたということは、端末を通じてある程度の情報を得ている。焦って動くより、準備してから動いた方がいい」
「準備、というのは」
「相手が次に何をするか、もう少し見極めてから」と有栖川は言った。「そのためにも、翔さんの解析を続けてもらいたい」
翔は「続けます」と短く言った。
会議室を出るとき、翔が美佳に声をかけた。
「一つだけ、言っておきたいことがあります」
「うん」
「依存度、という仮説を話しました。でも」
翔は少し間を置いた。
「美佳さんのログが他の三人より大きかったのは、迷い方が深かったからだと、僕は今も思っています。依存とは、違う」
美佳は翔を見た。
翔はいつも通りの、感情の読みにくい顔をしていた。でもその言葉は、データではなかった。
「ありがとう」と美佳は言った。
翔は小さく頷いて、先に廊下に出た。
図書館を出て、朝倉と並んで歩いた。
「依存度か」と朝倉が言った。
「うん」
「美佳はどう思った、あの仮説」
美佳は少し考えてから答えた。
「怖いと思った。でも、あり得ると思った」
「俺も」と朝倉は言った。「確証はないけど、あり得る。それが一番厄介だな」
「うん」と美佳は言った。
確証のないまま、あり得る、と思い続けることの重さを、二人とも分かっていた。
藍都の午後が、静かに続いていた。



