翌朝、翔から短いメッセージが届いた。
「今日の夜、時間を取ってもらえますか。美佳さんと朝倉さん、両方に」
「何かあった?」と美佳は返した。
「あったというより、あるかもしれない。確認したいことがあります。夜の九時以降、端末を手元に置いておいてください」
端末を手元に。
その言葉の選び方が、少し引っかかった。内容を話すのではなく、端末を手元に置いておいてほしい、という頼み方。
「分かった」と美佳は返した。
カフェの仕事は、いつも通りだった。
開店して、客が来て、コーヒーを淹れて、会計をして、客が帰って、また客が来る。その繰り返しの中に、美佳はいた。
午後の中頃、常連の男性客がカウンターに座って、いつものブレンドを頼んだ。コーヒーを出しながら、美佳は「最近どうですか」と聞いた。特に意味のない、接客の言葉だった。
「まあ、ぼちぼちですね」と男性は言った。
「なんか最近、考えすぎちゃって」
「何をですか」
「大したことじゃないんですけど」と男性は言って、カップを持った。「SNSで見た言葉が、ずっと頭から離れなくて」
「どんな言葉ですか」
男性は少し恥ずかしそうに笑った。
「正しいことをしているのに、不安なのはなぜだろう、って」
美佳は表情を変えなかった。
変えないようにした。
「それ、@LAPIS_echoですか」と美佳は聞いた。
男性が少し驚いた顔をした。「知ってるんですか」
「少し」
「なんか、刺さっちゃって。俺だけじゃないんだなって思ったら、逆に不安になってきて」と男性は笑った。自分でも可笑しいと思っているような笑い方だった。
美佳はコーヒーのお代わりを聞いて、男性が帰るまで、普通に話した。
男性が出て行ってから、美佳は厨房の壁を一秒だけ見た。
正しいことをしているのに、不安なのはなぜだろう。
共感ボタンの実装から数日で、あの問いは街の中にいる人間の頭に入り込んでいた。翔が言っていた収束が、画面の外まで来ていた。
仕事が終わって帰宅してから、美佳は夕食を取らずにソファに座っていた。
翔の「端末を手元に置いておいて」という言葉が、ずっと頭の片隅にあった。
何かが、今夜起きるかもしれない。
翔はそれを知っている。だから端末から離れるなと言った。
美佳はスマートフォンをテーブルに置いて、画面を上に向けて、待った。
八時半。
九時。
九時十五分。
翔からの連絡は来なかった。
九時二十分に、朝倉からメッセージが届いた。
「翔から連絡来た?」
「まだ」と美佳は返した。
「俺もまだ。何かあったのかな」
「待ってみる」
「うん。俺も待つ」
九時四十分。
スマートフォンが、震えた。
翔からだった。
「今から送ります。落ち着いて読んでください」
落ち着いて、という前置きが、美佳の背筋を少し伸ばした。翔がそういう言葉を使うのは、珍しかった。
「美佳さんの端末に、新しい暗号化ファイルが生成されています」
「タイムスタンプは今夜の二十一時三分。三十七分前です」
「端末の深層領域に、外部から書き込まれた形跡があります」
美佳は画面を見たまま、動かなかった。
二十一時三分。
三十七分前。
美佳がソファに座って、翔からの連絡を待っていた、その時間に。
「誰かが」と美佳は打った。指が、少し遅れた。「今夜、私の端末に触れた」
「そうなります」と翔は返した。「接続の試みではなく、今夜は成功しています。ファイルの生成に成功している」
成功している。
美佳はスマートフォンを持ったまま、部屋を見渡した。
六畳一間の部屋は、何も変わっていなかった。ソファがあって、テーブルがあって、窓があって、カーテンが引いてあった。誰もいなかった。
でも、誰かが今夜ここに来ていた。
物理的にではない。でも確実に、ここに来ていた。
手元にあるこのスマートフォンの中に、今夜、誰かの手が届いていた。
「ファイルの中身は」と美佳は打った。
「暗号化されています。まだ読めない。解析に時間がかかります」
「どのくらい」
「分かりません。ただ、暗号化のパターンがLAPISのサーバーと同一です」
LAPISのサーバーと同一。
美佳は画面を置いて、両手を膝の上に置いた。
第3章の終わりに、翔が言っていた。消えた男性の端末から、LAPISのサーバーと同一の暗号化パターンが検出されました──と。
男性の端末にあったものと、同じものが、今夜美佳の端末に来た。
三ヶ月間接続され続けた末に公民館の夜に消えた男性と、今夜の美佳の間に、同じ線が引かれた。
次は、私の番なのか。
思ってから、打ち消した。打ち消せなかった。
朝倉から電話がかかってきた。
「今、翔から聞いた」
「うん」
「美佳、声大丈夫?」
「大丈夫」と美佳は言った。「大丈夫じゃないかもしれないけど、大丈夫」
朝倉は少し間を置いてから「今から行く」と言った。
「来なくていいよ、遅いから」
「行く」
美佳は止めなかった。
待っている間、美佳はスマートフォンを手に取って、画面を見た。
いつもと変わらない画面だった。ホーム画面に、アプリが並んでいる。通知が二件。充電は六十三パーセント。
でもこの画面の、見えないところに、今夜誰かが書き込んだファイルがある。
美佳にはそのファイルが見えない。触れない。読めない。
でも、ある。
誰かが、こっちを見ていたって分かるのが気持ち悪かった。
三日前に朝倉に言った言葉が、戻ってきた。
見ていただけじゃなかった。今夜は、触れてきた。
三十分後に朝倉が来た。
インターホンが鳴って、美佳が鍵を開けると、朝倉はコンビニの袋を持っていた。
「とりあえず食べて」と朝倉は言って、袋の中からおにぎりを出した。
美佳は笑いそうになった。笑えなかったけれど、笑いそうになった。
「ありがとう」と言って、おにぎりを受け取った。
朝倉はソファに座って、スマートフォンを取り出した。翔とのやり取りを確認しているようだった。
美佳はおにぎりを食べながら、朝倉の横顔を見た。
いつもと変わらない顔だった。心配しているのは分かるが、それを表情の全部にするような人間ではなかった。
「翔、ファイルの解析中らしい」と朝倉は言った。
「うん」
「中身が分かるまでは、動けないな」
「うん」と美佳は言った。「でも、一個だけ分かったことがある」
朝倉が顔を向けた。
「DMの文言の差異」と美佳は言った。「私だけに『問いを作る側の才能があります』って送ってきたの、覚えてる?」
「覚えてる」
「他の人には、違う文言が届いていた。翔くんが言ってた」
「うん」
「今夜、私の端末だけにファイルが生成された。男性の端末にも、個別の接続があった」と美佳は言った。「このシステムは最初から、私を特定して動いている」
朝倉は少しの間、黙っていた。
否定しなかった。
「そうだな」と朝倉は静かに言った。「最初から、美佳に向かっていた」
「うん」
「なんで美佳なんだろう」
「分からない」と美佳は言った。「でも、理由がある気がする。偶然じゃない気がする」
朝倉はスマートフォンをテーブルに置いて、少し考えた。
「翔がファイルを解析したら、何か分かるかもしれない」
「うん」
「それまで、ここにいる」と朝倉は言った。
美佳は「ありがとう」とだけ言った。
それ以上の言葉は、今夜は要らなかった。
日付が変わる少し前に、翔からメッセージが届いた。
「解析、一部だけ進みました。全部ではないですが、読めた箇所があります」
「送って」と美佳は返した。
翔から、短い一文が届いた。
「設計者適性:最高位」
部屋が、静かだった。
朝倉が画面を覗き込んで、何も言わなかった。
美佳も、何も言わなかった。
スマートフォンを膝の上に置いて、その文字を見ていた。
設計者適性、最高位。
誰かが、美佳をそう評価していた。美佳の知らないところで、美佳の端末の中に、その評価を書き込んでいた。
才能の話じゃない、と美佳は第2章で言った。責任を引き受けられるかどうかの話だ、と。
でも向こうは、才能の話をしている。適性の話をしている。
引き受けさせようとしている。
「美佳」と朝倉が言った。
「うん」
「お前が決めることだから」と朝倉は言った。「俺は何も言わない。でも」
「でも?」
「隣にいる」
美佳はスマートフォンを、テーブルに置いた。
画面を、下に向けた。
今夜初めて、下に向けた。
「今日の夜、時間を取ってもらえますか。美佳さんと朝倉さん、両方に」
「何かあった?」と美佳は返した。
「あったというより、あるかもしれない。確認したいことがあります。夜の九時以降、端末を手元に置いておいてください」
端末を手元に。
その言葉の選び方が、少し引っかかった。内容を話すのではなく、端末を手元に置いておいてほしい、という頼み方。
「分かった」と美佳は返した。
カフェの仕事は、いつも通りだった。
開店して、客が来て、コーヒーを淹れて、会計をして、客が帰って、また客が来る。その繰り返しの中に、美佳はいた。
午後の中頃、常連の男性客がカウンターに座って、いつものブレンドを頼んだ。コーヒーを出しながら、美佳は「最近どうですか」と聞いた。特に意味のない、接客の言葉だった。
「まあ、ぼちぼちですね」と男性は言った。
「なんか最近、考えすぎちゃって」
「何をですか」
「大したことじゃないんですけど」と男性は言って、カップを持った。「SNSで見た言葉が、ずっと頭から離れなくて」
「どんな言葉ですか」
男性は少し恥ずかしそうに笑った。
「正しいことをしているのに、不安なのはなぜだろう、って」
美佳は表情を変えなかった。
変えないようにした。
「それ、@LAPIS_echoですか」と美佳は聞いた。
男性が少し驚いた顔をした。「知ってるんですか」
「少し」
「なんか、刺さっちゃって。俺だけじゃないんだなって思ったら、逆に不安になってきて」と男性は笑った。自分でも可笑しいと思っているような笑い方だった。
美佳はコーヒーのお代わりを聞いて、男性が帰るまで、普通に話した。
男性が出て行ってから、美佳は厨房の壁を一秒だけ見た。
正しいことをしているのに、不安なのはなぜだろう。
共感ボタンの実装から数日で、あの問いは街の中にいる人間の頭に入り込んでいた。翔が言っていた収束が、画面の外まで来ていた。
仕事が終わって帰宅してから、美佳は夕食を取らずにソファに座っていた。
翔の「端末を手元に置いておいて」という言葉が、ずっと頭の片隅にあった。
何かが、今夜起きるかもしれない。
翔はそれを知っている。だから端末から離れるなと言った。
美佳はスマートフォンをテーブルに置いて、画面を上に向けて、待った。
八時半。
九時。
九時十五分。
翔からの連絡は来なかった。
九時二十分に、朝倉からメッセージが届いた。
「翔から連絡来た?」
「まだ」と美佳は返した。
「俺もまだ。何かあったのかな」
「待ってみる」
「うん。俺も待つ」
九時四十分。
スマートフォンが、震えた。
翔からだった。
「今から送ります。落ち着いて読んでください」
落ち着いて、という前置きが、美佳の背筋を少し伸ばした。翔がそういう言葉を使うのは、珍しかった。
「美佳さんの端末に、新しい暗号化ファイルが生成されています」
「タイムスタンプは今夜の二十一時三分。三十七分前です」
「端末の深層領域に、外部から書き込まれた形跡があります」
美佳は画面を見たまま、動かなかった。
二十一時三分。
三十七分前。
美佳がソファに座って、翔からの連絡を待っていた、その時間に。
「誰かが」と美佳は打った。指が、少し遅れた。「今夜、私の端末に触れた」
「そうなります」と翔は返した。「接続の試みではなく、今夜は成功しています。ファイルの生成に成功している」
成功している。
美佳はスマートフォンを持ったまま、部屋を見渡した。
六畳一間の部屋は、何も変わっていなかった。ソファがあって、テーブルがあって、窓があって、カーテンが引いてあった。誰もいなかった。
でも、誰かが今夜ここに来ていた。
物理的にではない。でも確実に、ここに来ていた。
手元にあるこのスマートフォンの中に、今夜、誰かの手が届いていた。
「ファイルの中身は」と美佳は打った。
「暗号化されています。まだ読めない。解析に時間がかかります」
「どのくらい」
「分かりません。ただ、暗号化のパターンがLAPISのサーバーと同一です」
LAPISのサーバーと同一。
美佳は画面を置いて、両手を膝の上に置いた。
第3章の終わりに、翔が言っていた。消えた男性の端末から、LAPISのサーバーと同一の暗号化パターンが検出されました──と。
男性の端末にあったものと、同じものが、今夜美佳の端末に来た。
三ヶ月間接続され続けた末に公民館の夜に消えた男性と、今夜の美佳の間に、同じ線が引かれた。
次は、私の番なのか。
思ってから、打ち消した。打ち消せなかった。
朝倉から電話がかかってきた。
「今、翔から聞いた」
「うん」
「美佳、声大丈夫?」
「大丈夫」と美佳は言った。「大丈夫じゃないかもしれないけど、大丈夫」
朝倉は少し間を置いてから「今から行く」と言った。
「来なくていいよ、遅いから」
「行く」
美佳は止めなかった。
待っている間、美佳はスマートフォンを手に取って、画面を見た。
いつもと変わらない画面だった。ホーム画面に、アプリが並んでいる。通知が二件。充電は六十三パーセント。
でもこの画面の、見えないところに、今夜誰かが書き込んだファイルがある。
美佳にはそのファイルが見えない。触れない。読めない。
でも、ある。
誰かが、こっちを見ていたって分かるのが気持ち悪かった。
三日前に朝倉に言った言葉が、戻ってきた。
見ていただけじゃなかった。今夜は、触れてきた。
三十分後に朝倉が来た。
インターホンが鳴って、美佳が鍵を開けると、朝倉はコンビニの袋を持っていた。
「とりあえず食べて」と朝倉は言って、袋の中からおにぎりを出した。
美佳は笑いそうになった。笑えなかったけれど、笑いそうになった。
「ありがとう」と言って、おにぎりを受け取った。
朝倉はソファに座って、スマートフォンを取り出した。翔とのやり取りを確認しているようだった。
美佳はおにぎりを食べながら、朝倉の横顔を見た。
いつもと変わらない顔だった。心配しているのは分かるが、それを表情の全部にするような人間ではなかった。
「翔、ファイルの解析中らしい」と朝倉は言った。
「うん」
「中身が分かるまでは、動けないな」
「うん」と美佳は言った。「でも、一個だけ分かったことがある」
朝倉が顔を向けた。
「DMの文言の差異」と美佳は言った。「私だけに『問いを作る側の才能があります』って送ってきたの、覚えてる?」
「覚えてる」
「他の人には、違う文言が届いていた。翔くんが言ってた」
「うん」
「今夜、私の端末だけにファイルが生成された。男性の端末にも、個別の接続があった」と美佳は言った。「このシステムは最初から、私を特定して動いている」
朝倉は少しの間、黙っていた。
否定しなかった。
「そうだな」と朝倉は静かに言った。「最初から、美佳に向かっていた」
「うん」
「なんで美佳なんだろう」
「分からない」と美佳は言った。「でも、理由がある気がする。偶然じゃない気がする」
朝倉はスマートフォンをテーブルに置いて、少し考えた。
「翔がファイルを解析したら、何か分かるかもしれない」
「うん」
「それまで、ここにいる」と朝倉は言った。
美佳は「ありがとう」とだけ言った。
それ以上の言葉は、今夜は要らなかった。
日付が変わる少し前に、翔からメッセージが届いた。
「解析、一部だけ進みました。全部ではないですが、読めた箇所があります」
「送って」と美佳は返した。
翔から、短い一文が届いた。
「設計者適性:最高位」
部屋が、静かだった。
朝倉が画面を覗き込んで、何も言わなかった。
美佳も、何も言わなかった。
スマートフォンを膝の上に置いて、その文字を見ていた。
設計者適性、最高位。
誰かが、美佳をそう評価していた。美佳の知らないところで、美佳の端末の中に、その評価を書き込んでいた。
才能の話じゃない、と美佳は第2章で言った。責任を引き受けられるかどうかの話だ、と。
でも向こうは、才能の話をしている。適性の話をしている。
引き受けさせようとしている。
「美佳」と朝倉が言った。
「うん」
「お前が決めることだから」と朝倉は言った。「俺は何も言わない。でも」
「でも?」
「隣にいる」
美佳はスマートフォンを、テーブルに置いた。
画面を、下に向けた。
今夜初めて、下に向けた。



