アンケート ― 選ばないという選択 ―

有栖川との話から三日が経った。

その間、翔からの報告は一日一件のペースで届いた。共感ボタンの対象ユーザーが十七人から二十三人に増えたこと。個別生成された問いの精度が上がっていること。@LAPIS_echoのフォロワーが藍都以外の都市でも増え始めていること。

数字は毎日、少しずつ大きくなっていた。
美佳はその報告を読むたびに、翔に「分かった」と返した。それ以上の言葉が、うまく出てこなかった。

木曜日の午後、カフェに彩音が来た。

予告はなかった。ドアが開いて、彩音が入ってきた。それだけだった。
美佳はカウンターの中にいた。彩音と目が合って、一秒だけ止まって、「いらっしゃいませ」と言った。

彩音は「邪魔じゃなければ」と言った。

「大丈夫です。どうぞ」

彩音はカウンター席に座った。ホットのほうじ茶を頼んだ。美佳は湯を沸かしながら、彩音が何かを言い出すのを待った。

彩音はしばらく、何も言わなかった。

カウンターに両手を置いて、その手を見ていた。

ほうじ茶を出してから、美佳は「何かありましたか」と聞いた。

聞かない選択もあった。でも彩音の両手が、少し強張って見えた。

「@LAPIS_echoのこと」と彩音は言った。

「うん」

「共感ボタン、美佳さんは見ましたか」

「見ました」

「実装する前に、話すべきだったと思っています」と彩音は言った。声が、いつもより少し低かった。「でも、気づいたら動いていた」

気づいたら動いていた。

美佳はその言葉を、表情に出さずに受け取った。

「気づいたら、というのは」

「実装を頼んだのは私です。でも細かい仕様は、技術的な手伝いをしてくれている人に任せていた。昨日、翔さんから連絡をもらって、初めて詳しい中身を知りました」

翔が彩音に連絡していた。

美佳は知らなかった。でも驚かなかった。翔なら、そうする。情報を伝えることで相手がどう動くか見たかったのか、あるいは単純に彩音に知る権利があると思ったのか。どちらかは分からないが、翔なりの判断があったはずだった。

「知って、どうしましたか」と美佳は聞いた。

「昨夜、手伝いをしてくれている人に連絡しました。共感ボタンの仕様について、私は聞いていない内容があると伝えました」

「その人は、何と」

彩音は少し間を置いた。

「必要な機能だから実装した、と言っていました。私が知らなくてもよい技術的な話だ、と」

必要な機能だから。

私が知らなくてもよい技術的な話だ。

美佳はほうじ茶のカップを拭きながら、その言葉の形を確かめた。

知らなくていい、と決めたのは誰か。彩音ではない。彩音の代わりに、誰かが決めた。彩音の善意の上に、彩音の知らない設計が乗っている。

「その人と、直接会うことはできますか」と美佳は言った。

「会っています。定期的に」

「どんな人ですか」

彩音はカップを両手で持ったまま、少し考えた。

「静かな人です。あまり自分のことを話さない。でもLAPISのことをよく知っていて、@LAPIS_echoの方向性にとても共感してくれていた。最初に声をかけてきたのも、その人からでした」

最初に声をかけてきた。

「彩音さんから探したわけじゃないんですね」

「そうです。@LAPIS_echoを始めて少し経った頃、DMが来ました。『手伝いたい』と」

美佳は手を止めた。

DMが来た。手伝いたいと。

美佳に届いた「問いを作る側の才能があります」というDMが、頭をよぎった。彩音にも、最初は向こうから来ていた。

善意の人間に近づくのも上手い。

有栖川の言葉が、また戻ってきた。

「その人、女性ですか」と美佳は聞いた。

彩音が少し驚いた顔をした。

「そうです。なぜ分かりましたか」

「有栖川さんから、少し聞いていました」

彩音はそれを聞いて、何かを考えるように視線を落とした。有栖川と美佳が話していたことへの驚きなのか、その内容への驚きなのか、美佳には判断できなかった。

「有栖川さんは、その人のことを知っているんですか」

「名前は知らないと言っていました。でも、存在は知っている」

彩音はしばらく黙っていた。

ほうじ茶が少しずつ冷めていくのを、二人とも止めなかった。

「美佳さん」と彩音は言った。

「うん」

「私は、その人を信頼していました。今も、完全には疑えていない」

美佳は何も言わなかった。

「おかしいですか」と彩音は言った。責めているわけではなかった。本当に、おかしいかどうかを聞いていた。

「おかしくないと思います」と美佳は言った。「信頼していた人を疑うのは、時間がかかる。それは普通のことだと思う」

「でも」と彩音は言った。
「でも、知らないところで動いていたことは、あった」

「あった、と思います」

彩音は小さく頷いた。認めたくないけれど認める、という頷き方だった。

客が一人入ってきた。

美佳は「いらっしゃいませ」と言って、注文を取りに行った。その間、彩音はカウンターで静かにほうじ茶を飲んでいた。

客の対応を終えて戻ってくると、彩音が言った。

「その女性に、もう一度ちゃんと話を聞こうと思っています。今度は、私が知りたいことを全部聞く」

「それは、いいと思います」と美佳は言った。

「結果を、美佳さんに伝えてもいいですか」

「聞かせてください」

彩音は少し、表情が和らいだ。安堵ではなく、覚悟が定まったときの顔だと、美佳は思った。

「もう一つだけ」と彩音は言った。

「うん」

「翔さんが私に連絡してきたのは、私に知ってほしかったからですか。それとも、私がどう動くか見たかったからですか」

美佳は少し考えた。

正直に言うべきかどうか、ではなかった。正直に言う以外の選択肢が、美佳にはなかった。

「両方だと思います」と美佳は言った。「翔くんはそういう人なので」

彩音は一瞬だけ、困ったような顔をした。それからかすかに笑った。

「正直に言ってくれてありがとうございます」

「彩音さんが正直に聞いたから」と美佳は言った。

彩音が帰った後、美佳はカウンターを拭きながら、さっきの会話を反芻した。

気づいたら動いていた、と彩音は言った。

実装を頼んだのは自分だが、細かい仕様は任せていた、と。

任せる、という行為の中に、どこまでの責任が含まれるのか。美佳にはまだ、答えが出なかった。

ただ一つだけ分かったことがあった。

黒いコートの女性は、彩音の近くにいる。

定期的に会っている。連絡が取れる距離にいる。

輪郭が、また少し、はっきりした。

夜、朝倉にその日の話を送った。

朝倉からは短い返信が来た。

「彩音さんが動いた。次は女性が動く」
美佳は「そうなるかもしれない」と返した。

「その前に、俺たちが動けるといいな」と朝倉は言った。

美佳は少し考えてから、「うん」とだけ返した。

窓の外で、藍都の夜が静かに始まっていた。