翌朝、翔から解析結果が届いた。
「共感ボタンで誘導されている感情の方向、特定できました」
美佳はカフェの開店準備をしながら、エプロンの紐を結ぶ手を止めた。
「なに?」
「不安です。正確には、解消されない不安。答えが出ないまま続く問いへの共感が、他のどの感情カテゴリより早く数を伸ばすよう設計されている」
美佳はスマートフォンをカウンターに置いて、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。
豆が挽かれる音が、狭い厨房に響いた。
不安。解消されない不安。
昨夜一番上に表示されていた問いが、また頭に浮かんだ。
正しいことをしているのに、不安なのはなぜだろう。
あの問いは、答えを求めていなかった。答えが出ないことを、最初から前提にしていた。そういう問いに共感した人間のデータが積み重なって、また同じ種類の問いが上位に押し上げられる。
「答えが出ない問いに共感させ続けることで、何をしたいんだろう」と美佳は打った。
翔の返信は少し間があった。
「答えを、外に求めさせるためだと思います」
開店時間になって、最初の客が入ってきた。
常連の女性で、いつもホットのラテを頼む人だった。美佳は笑顔で迎えて、注文を聞いて、ミルクを温めた。泡を作りながら、翔の言葉を反芻していた。
答えを、外に求めさせる。
不安を育てて、その不安の解消を自分たちが提供する。問いを集めているのではなく、問いへの依存を育てている──翔が第4章の終わりに口にするはずの言葉の輪郭が、美佳の中で少しずつ形になり始めていた。
でもまだ、確証はない。
ラテを差し出しながら、美佳は「いつもありがとうございます」と言った。
女性は「こちらこそ」と笑って、窓際の席に向かった。
昼過ぎに朝倉が店に来た。
客が引いた時間を見計らって、カウンターの端に座った。
「番号、翔が追ってるんだろ」
「うん。でも使い捨てだろうって」
「そうだな」と朝倉は言って、コーヒーを一口飲んだ。「美佳、昨夜ちゃんと眠れた?」
「三時間くらい」
「それは眠れてない」
「眠れなかった、は正確じゃないんだよね」と美佳は言った。「考えてたら朝になってた、の方が近い」
「何を考えてたの」
美佳は少し考えてから、答えた。
「二年前のこと」
朝倉は何も言わずに続きを待った。
「空白のメッセージが届いたのって、LAPISのアンケートがまだ続いてた頃だよね。私がまだ答えを出す前の、途中の時期」
「そうだな」
「その頃の私を、誰かが見ていた。そして昨夜また声を出した。タイミングが、何かと重なってる気がして」
「共感ボタンの実装と?」
「それだけじゃないかもしれない。翔くんの解析が進んだこととか、私が有栖川さんに連絡したこととか」と美佳は言った。「全部、私の気のせいかもしれないけど」
朝倉はコーヒーカップを両手で包むようにして、少し考えた。
「気のせいじゃないと思う」と朝倉は言った。「でも、全部が繋がってるかどうかはまだ分からない。一個一個確かめていくしかない」
「うん」
「焦らなくていい」
「焦ってないよ」と美佳は言った。
少し間があって、「焦ってるかも」と言い直した。
朝倉が小さく笑った。美佳も、少しだけ笑った。
夕方、翔から新しい解析結果が届いた。
「共感ボタンのデータをさらに詳しく見ていたら、一つ気になる点が出てきました」
「特定のユーザーに対して、共感数の多い問いとは別に、個別に生成された問いが送られているケースがあります」
「個別に、生成された」と美佳は返した。
「そのユーザーの共感履歴と閲覧時間のデータを組み合わせて、そのユーザーだけに向けた問いが自動生成されている。汎用の問いではなく、そのユーザーの不安のパターンに合わせた問い」
美佳は画面を見たまま、動かなかった。
公民館で消えた男性のことを思い出した。
翔が言っていた。男性に届いた問いは、
フォームの自動送信ではなく個別に生成されたものだった──と。
あのときは、誰かが手動で送ったのだと思っていた。
でも違った。
自動だった。その人間の不安のパターンを読んで、その人間だけに刺さる問いを、システムが作っていた。
「その機能、いつから動いてる?」と美佳は打った。
「共感ボタンの実装と同時です。昨夜の二時十七分から」
「対象になってるユーザーは何人?」
返信まで、少し間があった。
「今のところ、特定できているのは十七人です。ただ」
「ただ?」
「この機能の対象になる条件が、まだ解析できていない。なぜこの十七人が選ばれているのか、分からない」
美佳は翔のメッセージを読み返した。
男性は三ヶ月間、接続され続けた。深層のどこかに少しずつデータを書き込まれた。そして公民館の夜に消えた。
その男性への個別の問いは、誰かが手動で送っていたと思っていた。でも今、システムは自動でそれをやっている。しかも十七人同時に。
拡大している。
手が届く範囲が、着実に広がっている。
「翔くん」と美佳は打った。「その十七人に、私は含まれてる?」
返信は早かった。
「含まれていません。今のところ」
今のところ。
また、その三文字だった。
美佳はスマートフォンを置いて、窓の外を見た。
藍都の夕暮れが、昨日と同じ色で街を染めていた。同じ時間に、同じ光が、同じ街に降りている。でも街の中で、昨日は存在しなかった何かが、今日は十七人の端末の中で動いている。
見えない。でもある。
「有栖川さんとの約束、明後日だよね」と朝倉にメッセージを送った。
「うん。俺も同席していい?」
「来てほしい」
「分かった」
その夜、美佳は@LAPIS_echoのページを開かなかった。
共感ボタンには触れなかった。
代わりに、手元のノートを開いて、この一週間で分かったことを箇条書きにした。ペンで、紙に。データではなく、自分の手で。
書きながら、一つのことに気づいた。
分かったことが増えるほど、問いも増えている。
答えが一つ出るたびに、新しい問いが二つ生まれている。
それはLAPISの設計と、構造が似ていた。
美佳はペンを置いて、ノートを閉じた。
似ている、と気づくことと、同じである、ということは、違う。
そう思いながら、でもその違いを言葉にできないまま、美佳は電気を消した。
「共感ボタンで誘導されている感情の方向、特定できました」
美佳はカフェの開店準備をしながら、エプロンの紐を結ぶ手を止めた。
「なに?」
「不安です。正確には、解消されない不安。答えが出ないまま続く問いへの共感が、他のどの感情カテゴリより早く数を伸ばすよう設計されている」
美佳はスマートフォンをカウンターに置いて、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。
豆が挽かれる音が、狭い厨房に響いた。
不安。解消されない不安。
昨夜一番上に表示されていた問いが、また頭に浮かんだ。
正しいことをしているのに、不安なのはなぜだろう。
あの問いは、答えを求めていなかった。答えが出ないことを、最初から前提にしていた。そういう問いに共感した人間のデータが積み重なって、また同じ種類の問いが上位に押し上げられる。
「答えが出ない問いに共感させ続けることで、何をしたいんだろう」と美佳は打った。
翔の返信は少し間があった。
「答えを、外に求めさせるためだと思います」
開店時間になって、最初の客が入ってきた。
常連の女性で、いつもホットのラテを頼む人だった。美佳は笑顔で迎えて、注文を聞いて、ミルクを温めた。泡を作りながら、翔の言葉を反芻していた。
答えを、外に求めさせる。
不安を育てて、その不安の解消を自分たちが提供する。問いを集めているのではなく、問いへの依存を育てている──翔が第4章の終わりに口にするはずの言葉の輪郭が、美佳の中で少しずつ形になり始めていた。
でもまだ、確証はない。
ラテを差し出しながら、美佳は「いつもありがとうございます」と言った。
女性は「こちらこそ」と笑って、窓際の席に向かった。
昼過ぎに朝倉が店に来た。
客が引いた時間を見計らって、カウンターの端に座った。
「番号、翔が追ってるんだろ」
「うん。でも使い捨てだろうって」
「そうだな」と朝倉は言って、コーヒーを一口飲んだ。「美佳、昨夜ちゃんと眠れた?」
「三時間くらい」
「それは眠れてない」
「眠れなかった、は正確じゃないんだよね」と美佳は言った。「考えてたら朝になってた、の方が近い」
「何を考えてたの」
美佳は少し考えてから、答えた。
「二年前のこと」
朝倉は何も言わずに続きを待った。
「空白のメッセージが届いたのって、LAPISのアンケートがまだ続いてた頃だよね。私がまだ答えを出す前の、途中の時期」
「そうだな」
「その頃の私を、誰かが見ていた。そして昨夜また声を出した。タイミングが、何かと重なってる気がして」
「共感ボタンの実装と?」
「それだけじゃないかもしれない。翔くんの解析が進んだこととか、私が有栖川さんに連絡したこととか」と美佳は言った。「全部、私の気のせいかもしれないけど」
朝倉はコーヒーカップを両手で包むようにして、少し考えた。
「気のせいじゃないと思う」と朝倉は言った。「でも、全部が繋がってるかどうかはまだ分からない。一個一個確かめていくしかない」
「うん」
「焦らなくていい」
「焦ってないよ」と美佳は言った。
少し間があって、「焦ってるかも」と言い直した。
朝倉が小さく笑った。美佳も、少しだけ笑った。
夕方、翔から新しい解析結果が届いた。
「共感ボタンのデータをさらに詳しく見ていたら、一つ気になる点が出てきました」
「特定のユーザーに対して、共感数の多い問いとは別に、個別に生成された問いが送られているケースがあります」
「個別に、生成された」と美佳は返した。
「そのユーザーの共感履歴と閲覧時間のデータを組み合わせて、そのユーザーだけに向けた問いが自動生成されている。汎用の問いではなく、そのユーザーの不安のパターンに合わせた問い」
美佳は画面を見たまま、動かなかった。
公民館で消えた男性のことを思い出した。
翔が言っていた。男性に届いた問いは、
フォームの自動送信ではなく個別に生成されたものだった──と。
あのときは、誰かが手動で送ったのだと思っていた。
でも違った。
自動だった。その人間の不安のパターンを読んで、その人間だけに刺さる問いを、システムが作っていた。
「その機能、いつから動いてる?」と美佳は打った。
「共感ボタンの実装と同時です。昨夜の二時十七分から」
「対象になってるユーザーは何人?」
返信まで、少し間があった。
「今のところ、特定できているのは十七人です。ただ」
「ただ?」
「この機能の対象になる条件が、まだ解析できていない。なぜこの十七人が選ばれているのか、分からない」
美佳は翔のメッセージを読み返した。
男性は三ヶ月間、接続され続けた。深層のどこかに少しずつデータを書き込まれた。そして公民館の夜に消えた。
その男性への個別の問いは、誰かが手動で送っていたと思っていた。でも今、システムは自動でそれをやっている。しかも十七人同時に。
拡大している。
手が届く範囲が、着実に広がっている。
「翔くん」と美佳は打った。「その十七人に、私は含まれてる?」
返信は早かった。
「含まれていません。今のところ」
今のところ。
また、その三文字だった。
美佳はスマートフォンを置いて、窓の外を見た。
藍都の夕暮れが、昨日と同じ色で街を染めていた。同じ時間に、同じ光が、同じ街に降りている。でも街の中で、昨日は存在しなかった何かが、今日は十七人の端末の中で動いている。
見えない。でもある。
「有栖川さんとの約束、明後日だよね」と朝倉にメッセージを送った。
「うん。俺も同席していい?」
「来てほしい」
「分かった」
その夜、美佳は@LAPIS_echoのページを開かなかった。
共感ボタンには触れなかった。
代わりに、手元のノートを開いて、この一週間で分かったことを箇条書きにした。ペンで、紙に。データではなく、自分の手で。
書きながら、一つのことに気づいた。
分かったことが増えるほど、問いも増えている。
答えが一つ出るたびに、新しい問いが二つ生まれている。
それはLAPISの設計と、構造が似ていた。
美佳はペンを置いて、ノートを閉じた。
似ている、と気づくことと、同じである、ということは、違う。
そう思いながら、でもその違いを言葉にできないまま、美佳は電気を消した。



