有栖川から返信が来たのは、翌日の夕方だった。
「明後日の午前中、時間が取れます。場所はどこでも」
美佳は「カフェで大丈夫です。仕事が終わる十一時に」と返した。
送信してから、スマートフォンを置こうとして、止まった。
通知が一件、来ていた。
@LAPIS_echoのアカウントからだった。
フォローしているわけではなかった。通知設定を変えた覚えもなかった。それでも画面には、小さなベルのアイコンと一行の文字が表示されていた。
「新機能のお知らせ:共感ボタンが追加されました」
美佳はその通知を、しばらく見ていた。
消さなかった。
アプリを開いて、@LAPIS_echoのページに移動した。
変化はすぐに分かった。投稿された問いの一つひとつに、小さなアイコンが追加されている。ハートでも、いいねでもない。波紋のような、同心円が広がる形のアイコン。タップすると「共感しました」という文字が出て、数字が一つ増えた。
美佳はすぐに指を離した。
タップしてしまっていた。
数字が、一つ増えたままだった。
翔に連絡した。
「@LAPIS_echoに共感ボタンが追加されてる。気づいてた?」
「今見ました」と翔はすぐに返した。「いつ追加されたか確認します。少し待ってください」
五分後、翔から返信が来た。
「昨夜の二時十七分に実装されています。彩音さんのアカウントから更新されているので、表向きは彩音さんによる追加です。ただ」
「ただ?」
「実装のコードを見ると、彩音さんが自分で書いたものとは思えない。技術的な水準が、これまでの@LAPIS_echoの構造とは明らかに違います」
技術的な協力者。
美佳は彩音が認めていたことを思い出した。
名前は明かさなかった。でも存在は認めた。
「共感ボタンの何が問題なの」と美佳は打った。
「今から解析します。直感ですが、ただの共感機能じゃないと思っています」
翔からの次の連絡は、二時間後だった。
「予想より複雑でした。共感ボタンを押したユーザーのデータが、問いの内容と紐づけて記録されています。どの問いに共感したか、何時何分に共感したか、何秒間その問いを見ていたか」
「それだけ?」と美佳は返した。
「それだけじゃないです。共感数の多い問いが、特定の感情パターンに収束するよう設計されています。共感を集めた問いが上位に表示され、上位に表示された問いがさらに共感を集める。その循環の中で、表示される問いの種類が少しずつ絞られていく」
「問いが、育てられている」
「そうなります。ユーザーが自発的に選んでいるように見えて、実際には特定の感情の方向へ誘導されている。どの感情かはまだ解析中ですが」
美佳はスマートフォンを持ったまま、窓の外を見た。
藍都の夕暮れが、街をオレンジ色に染めていた。
共感する、という行為が、記録される。記録が、次の問いを形作る。そしてその問いが、また共感を呼ぶ。
ユーザーは選んでいるつもりで、選ばされている。
強制じゃないから、正しい?
美佳が感じていた問いが、また戻ってきた。今度はより具体的な形で。
美佳は@LAPIS_echoのページを開いた。
さっきタップしてしまった問いが、まだそこにあった。共感数が、美佳がタップする前より三つ増えていた。
自分が押した一つも、その三つの中に含まれている。
その夜の十一時過ぎ、スマートフォンが震えた。
番号非通知だった。
美佳は画面を見たまま、二回、三回、着信音が鳴るのを待った。
出なかった。
切れた。
三十秒後、メッセージが届いた。
番号非通知からの、一行だった。
「あなたは、正しい」
美佳は画面を見たまま、動かなかった。
二年前の、あの空白のメッセージと同じ番号だった。
送信者不明。既読はつけたくなかった。でも、もうついていた。
あなたは、正しい。
何が正しいのか、書いていなかった。正しい、という言葉だけが、文脈なく、そこにあった。
文脈のない肯定は、否定より怖い場合がある。
美佳はそのメッセージをスクリーンショットして、翔と朝倉に転送した。
「さっき届いた。二年前の空白のメッセージと同じ番号から」
朝倉からはすぐに既読がついた。翔からも。
でも二人とも、しばらく返信しなかった。
三人とも、同じものを見て、同じように止まっているのだと、美佳には分かった。
最初に返信したのは翔だった。
「番号を追います。ただ、おそらく使い捨ての回線です。すぐには特定できないと思う」
次に朝倉。
「美佳、今夜一人?」
「一人」
「鍵、ちゃんとかけて」
「かけてる」
「二重に」
美佳は立ち上がって、玄関に行った。鍵は一つしかなかった。チェーンをかけた。
部屋に戻って「チェーンかけた」と送った。
「よかった」と朝倉は返した。
美佳はベッドの端に座って、もう一度あのメッセージを見た。
「あなたは、正しい」
二年前、空白のメッセージが届いたとき、美佳はまだLAPISのアンケートの渦中にいた。あの頃の美佳が何をしていたか、何を考えていたか、正確には思い出せない。ただ「終わったはずなのに、終われていない」という感覚が始まる前の、もう少し手前の時期だったはずだ。
その時期に、誰かが美佳のスマートフォンにメッセージを送ろうとして、本文を消した。
そして今夜、同じ番号から「あなたは、正しい」と届いた。
二年間、この番号は沈黙していた。
何かが動いたから、また声を出した。
何が動いたのか。
美佳には分からなかった。でも一つだけ、確かなことがあった。
この番号の向こうにいる誰かは、二年前から美佳を見ていた。
眠る前に、美佳はもう一度@LAPIS_echoのページを開いた。
共感ボタンの実装から数時間で、共感数の多い問いの顔ぶれが変わり始めていた。翔が言っていた収束が、もう始まっている。
一番上に表示されている問いを、美佳は読んだ。
「正しいことをしているのに、不安なのはなぜだろう」
美佳はタップしなかった。
画面を閉じて、スマートフォンを枕元に置いた。
画面を上に向けたまま。
「明後日の午前中、時間が取れます。場所はどこでも」
美佳は「カフェで大丈夫です。仕事が終わる十一時に」と返した。
送信してから、スマートフォンを置こうとして、止まった。
通知が一件、来ていた。
@LAPIS_echoのアカウントからだった。
フォローしているわけではなかった。通知設定を変えた覚えもなかった。それでも画面には、小さなベルのアイコンと一行の文字が表示されていた。
「新機能のお知らせ:共感ボタンが追加されました」
美佳はその通知を、しばらく見ていた。
消さなかった。
アプリを開いて、@LAPIS_echoのページに移動した。
変化はすぐに分かった。投稿された問いの一つひとつに、小さなアイコンが追加されている。ハートでも、いいねでもない。波紋のような、同心円が広がる形のアイコン。タップすると「共感しました」という文字が出て、数字が一つ増えた。
美佳はすぐに指を離した。
タップしてしまっていた。
数字が、一つ増えたままだった。
翔に連絡した。
「@LAPIS_echoに共感ボタンが追加されてる。気づいてた?」
「今見ました」と翔はすぐに返した。「いつ追加されたか確認します。少し待ってください」
五分後、翔から返信が来た。
「昨夜の二時十七分に実装されています。彩音さんのアカウントから更新されているので、表向きは彩音さんによる追加です。ただ」
「ただ?」
「実装のコードを見ると、彩音さんが自分で書いたものとは思えない。技術的な水準が、これまでの@LAPIS_echoの構造とは明らかに違います」
技術的な協力者。
美佳は彩音が認めていたことを思い出した。
名前は明かさなかった。でも存在は認めた。
「共感ボタンの何が問題なの」と美佳は打った。
「今から解析します。直感ですが、ただの共感機能じゃないと思っています」
翔からの次の連絡は、二時間後だった。
「予想より複雑でした。共感ボタンを押したユーザーのデータが、問いの内容と紐づけて記録されています。どの問いに共感したか、何時何分に共感したか、何秒間その問いを見ていたか」
「それだけ?」と美佳は返した。
「それだけじゃないです。共感数の多い問いが、特定の感情パターンに収束するよう設計されています。共感を集めた問いが上位に表示され、上位に表示された問いがさらに共感を集める。その循環の中で、表示される問いの種類が少しずつ絞られていく」
「問いが、育てられている」
「そうなります。ユーザーが自発的に選んでいるように見えて、実際には特定の感情の方向へ誘導されている。どの感情かはまだ解析中ですが」
美佳はスマートフォンを持ったまま、窓の外を見た。
藍都の夕暮れが、街をオレンジ色に染めていた。
共感する、という行為が、記録される。記録が、次の問いを形作る。そしてその問いが、また共感を呼ぶ。
ユーザーは選んでいるつもりで、選ばされている。
強制じゃないから、正しい?
美佳が感じていた問いが、また戻ってきた。今度はより具体的な形で。
美佳は@LAPIS_echoのページを開いた。
さっきタップしてしまった問いが、まだそこにあった。共感数が、美佳がタップする前より三つ増えていた。
自分が押した一つも、その三つの中に含まれている。
その夜の十一時過ぎ、スマートフォンが震えた。
番号非通知だった。
美佳は画面を見たまま、二回、三回、着信音が鳴るのを待った。
出なかった。
切れた。
三十秒後、メッセージが届いた。
番号非通知からの、一行だった。
「あなたは、正しい」
美佳は画面を見たまま、動かなかった。
二年前の、あの空白のメッセージと同じ番号だった。
送信者不明。既読はつけたくなかった。でも、もうついていた。
あなたは、正しい。
何が正しいのか、書いていなかった。正しい、という言葉だけが、文脈なく、そこにあった。
文脈のない肯定は、否定より怖い場合がある。
美佳はそのメッセージをスクリーンショットして、翔と朝倉に転送した。
「さっき届いた。二年前の空白のメッセージと同じ番号から」
朝倉からはすぐに既読がついた。翔からも。
でも二人とも、しばらく返信しなかった。
三人とも、同じものを見て、同じように止まっているのだと、美佳には分かった。
最初に返信したのは翔だった。
「番号を追います。ただ、おそらく使い捨ての回線です。すぐには特定できないと思う」
次に朝倉。
「美佳、今夜一人?」
「一人」
「鍵、ちゃんとかけて」
「かけてる」
「二重に」
美佳は立ち上がって、玄関に行った。鍵は一つしかなかった。チェーンをかけた。
部屋に戻って「チェーンかけた」と送った。
「よかった」と朝倉は返した。
美佳はベッドの端に座って、もう一度あのメッセージを見た。
「あなたは、正しい」
二年前、空白のメッセージが届いたとき、美佳はまだLAPISのアンケートの渦中にいた。あの頃の美佳が何をしていたか、何を考えていたか、正確には思い出せない。ただ「終わったはずなのに、終われていない」という感覚が始まる前の、もう少し手前の時期だったはずだ。
その時期に、誰かが美佳のスマートフォンにメッセージを送ろうとして、本文を消した。
そして今夜、同じ番号から「あなたは、正しい」と届いた。
二年間、この番号は沈黙していた。
何かが動いたから、また声を出した。
何が動いたのか。
美佳には分からなかった。でも一つだけ、確かなことがあった。
この番号の向こうにいる誰かは、二年前から美佳を見ていた。
眠る前に、美佳はもう一度@LAPIS_echoのページを開いた。
共感ボタンの実装から数時間で、共感数の多い問いの顔ぶれが変わり始めていた。翔が言っていた収束が、もう始まっている。
一番上に表示されている問いを、美佳は読んだ。
「正しいことをしているのに、不安なのはなぜだろう」
美佳はタップしなかった。
画面を閉じて、スマートフォンを枕元に置いた。
画面を上に向けたまま。



