アンケート ― 選ばないという選択 ―

朝倉と電話を切ってから、美佳は来た道を戻った。

商店街のシャッターはまだ閉まったままで、

足音だけが路面に響いた。ポスターの前を通り過ぎるとき、一度だけ振り返った。差し替えられた文字が、薄明かりの中で静かに主張していた。

あなたの問いを、聞かせてください。

答えないまま、歩いた。

部屋に戻ってすぐ、翔に写真を送った。

先週のポスターと今朝のポスター、二枚並べて。

「フォントが変わってる。同じ場所に、差し替えられた形跡がある」
翔の返信は十分後だった。

「確認しました。拡大して比較すると、印刷精度も上がっています。先週のものは家庭用プリンターの解像度。今朝のものはそれより高い。別の出力環境で作り直している」

「誰かが、改善している」と美佳は打った。

「そうなります。ポスターを最初に作った人間と、差し替えた人間が同一かどうかはまだ分からない。でも、どちらかが──あるいは両方が──このポスターをまだ動かしているものとして扱っている」

動かしているものとして扱っている。

美佳はその言葉を、声に出さずに口の中で繰り返した。

終わったものを管理する人間は、改善しない。残留させるだけだ。改善するのは、まだ続けようとしている人間だけだ。

「彩音さんは知ってるかな」と美佳は打った。

「分かりません。ただ」

少し間があった。

「彩音さんが知っていて差し替えたなら、なぜ精度を上げたのか。彩音さんが知らないところで差し替えられたなら、彩音さん以外の誰かがこのポスターに触れている、ということになります」

美佳はスマートフォンを膝の上に置いて、少し考えた。

彩音の顔を思い浮かべた。公民館の集まりで、穏やかに場を回していた彩音。善意は本物だと、美佳は今も思っている。でも善意は、その人が把握している範囲までしか届かない。

把握していない範囲で、何かが動いていたとしたら。

「翔くん」と美佳は打った。「タイムスタンプの件、もう少し聞いていい」

「どうぞ」

「二回目の更新を手動でやった人間が、男性の端末への接続も始めた。それは確かなんだよね」

「日時の一致から言えば、そうなります」

「その人間は、今も動いている?」

今度の返信は、少し長くかかった。

美佳は待った。急かさなかった。

翔が慎重に言葉を選んでいる時間だと、分かっていた。

「動いていると思います。男性の端末への接続が三ヶ月以上続いていたことを考えると、止まったのはあの公民館の夜、男性が消えた夜です。それ以降、男性の端末への接続ログはない」

「男性が消えたから、接続が止まった」

「あるいは」と翔は続けた。「接続が何らかの目的を達したから、男性が消えた」

美佳は画面を見たまま、しばらく動かなかった。

どちらが正しいにしても、男性はあの夜、何かの終点にいた。

三ヶ月間、接続され続けて。深層のどこかに、少しずつデータを書き込まれて。そして公民館の集まりの夜、スマートフォンが強く光って、男性は何かを押して、席を立って──消えた。

誰かが、男性を動かした。

言葉にすると荒唐無稽に聞こえた。でも言葉にしなくても、その輪郭は確かにそこにあった。

「翔くん、一つだけ確認させて」

「はい」

「私の端末への接続の試み、最後にあったのはいつ」

返信まで、また少し間があった。

「三日前です」

「その後は?」

「ありません。今のところ」

今のところ。

美佳はその三文字を、必要以上に長く見ていた。

今のところない、ということは、今後もないとは言えない。試みた人間は、まだどこかにいる。美佳の端末が目的を達していないなら、また試みるかもしれない。

「分かった」と美佳は打った。「ありがとう。少し寝る」

「おやすみなさい。何かあればすぐ連絡します」

美佳はスマートフォンを充電器に繋いで、ベッドに横になった。

眠れる気はしなかった。でも目を閉じた。

天井の暗闇の中で、今朝見た二枚のポスターが並んで浮かんだ。同じ文言。わずかに違う線。

止まったふりをしながら、少しずつ、確実に、良くなっていくもの。

誰かが手をかけている。愛着を持って。目的を持って。

その誰かの顔が、まだ見えなかった。

美佳は目を閉じたまま、朝が来るのを待った。

午後になって、翔から短いメッセージが届いた。

「一つ、確定しました」

「二回目のタイムスタンプ更新。手動操作の痕跡を詳しく解析した結果、操作者はサーバーの設計に深く関与していた人間だと判断できます。外部から侵入した人間ではない」

「内部の人間、ということ」と美佳は返した。

「設計を知っている人間、という方が正確です。設計した人間か、設計を教えてもらった人間か、そのどちらかです」

美佳はメッセージを読んで、画面をテーブルに置いた。

設計を知っている人間。

ミオの名前が、頭をよぎった。

有栖川が言っていた。ミオは途中から怖くなり、止めようとしたが止めきれなかった──と。

止めようとした人間が、止めた後に、また手を加えることはあるだろうか。

止めようとした誰かと、続けようとした誰かが、同じシステムの内部にいた。

あの夜、四人で初めて同じテーブルを囲んだとき、誰かが口にした言葉が、今になって別の重さで戻ってきた。

二人は別々の人間かもしれない。でも同じシステムを知っている。同じ設計を知っている。そして今も、そのシステムはかすかに、動き続けている。

美佳はスマートフォンを手に取って、有栖川に短いメッセージを送った。

「少し聞きたいことがあります。時間があるときに連絡ください」

送信して、画面を置いた。

窓の外で、藍都の午後が静かに続いていた。