アンケート ― 選ばないという選択 ―

 彩音に連絡したのは、翌日の朝だった。
「話したいことがあります。今週中に会えますか」

 返信は十分後に来た。

「明日の夕方はどうですか。場所はどこでも」

 美佳は「前回と同じカフェで」と返した。彩音が指定した店。彩音のホームに近い場所で話す方が、彩音の反応を正確に見られると思った。

 翌日、彩音は先に来ていた。

 前回と同じ窓際の席。でも今日は、テーブルの上に何も置いていなかった。スマートフォンも、ノートも。手だけが、テーブルの上に揃えて置かれていた。

 待っていた、という姿勢だった。

 美佳は向かいに座った。注文を済ませてから、まっすぐ彩音を見た。

「土曜日の公民館に、行きました」

 彩音の表情は、動かなかった。

「知っています」彩音は静かに言った。「気づいていました」

「気づいていた」

「美佳さんと、もう一人。入口から分かりました」

 美佳は少し間を置いた。「それでも、何も言わなかった」

「来てほしかったので」彩音は答えた。「声をかけたら、来なかったと思って」

 コーヒーが来た。

 美佳は一口飲んでから、言った。

「途中で席を立った男性を、見ましたか」
 彩音は少し眉を動かした。「席を立った方、ですか」

「四十代くらいの、無口な男性です。会の途中で、スマートフォンを見て、そのまま出ていった」

「気づきませんでした」彩音は正直に言った。「私は後ろの席にいたので」

 美佳は彩音を見た。

 嘘ではないと思った。知らなかった、という顔だった。

「その男性のことを、調べました」美佳は続けた。「フォームに三百件以上、問いを投稿していた人です。昨夜以降、SNSのアカウントがすべて消えて、連絡が取れなくなっています」

 彩音の手が、テーブルの上で少し動いた。

「消えた、というのは」

「行方が分からない、ということです」

 沈黙があった。

 彩音は視線をテーブルに落とした。考えている顔だった。否定しようとしている顔ではなかった。

「その方が、フォームに三百件」彩音はゆっくり言った。「それは──私は知らなかった」

「知らなかった?」

「投稿数の多い方がいることは、数字で見ていました。でも誰が、とまでは確認していなかった」

 美佳は「なぜですか」と聞いた。

「個人を特定するつもりがなかったから」彩音は顔を上げた。「問いは、誰のものでも受け取るつもりでいたので」

 美佳は一度、息を整えた。

「彩音さん」美佳は言った。「その男性に、昨夜個別のメッセージが届いていました。フォームの自動送信ではなく、その人だけに向けて作られた問いが」

 彩音の表情が、初めて変わった。

「個別に、ですか」

「はい」

「私は──そんな機能は作っていない」彩音の声が、少し低くなった。「フォームは全員に同じ条件で開いています。特定の誰かにだけ何かを送る仕組みは、入れていない」

 美佳は彩音を見た。

 動揺していた。演じている動揺ではなかった。

「問いが問いを返す機能は、誰が設計しましたか」

 彩音は少し間を置いた。

「手伝ってくれている人がいます」

「誰ですか」

「……技術的なことが得意な人で」彩音は言葉を選んでいた。「名前は、まだ言えない」

「まだ、ということは、いずれ言えますか」

「美佳さんが一緒にやってくれるなら」彩音は静かに言った。「全部、話します」

 美佳はコーヒーカップを両手で包んだ。

 冷めかけていた。

「彩音さん」美佳は言った。「断れない構造が、育っています」

「断れない構造」

「強制されていない。でも断ることのコストが、気づかないうちに上がっている。フォームに問いを書き続けた男性は、やめるタイミングを見失っていた可能性がある。問いが問いを返す設計は、やめる理由を作らない」

「でも」彩音は言った。「誰も傷ついていない。みんな、自分の意志で書いている」

「消えた男性は、傷ついていないと誰が確認しましたか」

 彩音は答えられなかった。

 美佳は続けた。

「彩音さんに嘘をついている人がいます。男性が消えたことを、誰かが彩音さんに知らせなかった。個別のメッセージを送る仕組みを、彩音さんに教えずに動かしていた」

「それは──」彩音は口を開いて、閉じた。

「彩音さんの善意を、誰かが使っています」

 長い沈黙があった。

 窓の外で、車が一台通り過ぎた。それだけの音が、やけに大きく聞こえた。

 彩音はしばらく、テーブルの一点を見ていた。

 それから顔を上げた。目が、少し赤かった。

「美佳さんは」彩音は言った。「私が間違っていると思っていますか」

 美佳は少し考えた。

「間違っていないと思っています」美佳は答えた。「始めた理由も、続けている理由も。でも──正しい善意の中に、断れない構造が育つことがある。それを、彩音さんに伝えたかった」

「やめてほしいということですか」

「今日は、そこまで言えない」

「なぜですか」

「彩音さんの周りにいる人間のことを、まだ全部知らないから」美佳はまっすぐ言った。

「手伝っている人が誰なのか、何を目的としているのかを、もう少し知りたい」

 彩音は「……分かりました」と言った。小さな声だった。

 店を出る前、翔から通知が入った。

 美佳はそれを彩音に見せずに確認した。

 一行だけだった。

「男性の端末から、LAPISのサーバーと同一の暗号化パターンが検出されました」

 美佳はスマートフォンをポケットに戻した。

 彩音が「また連絡します」と言って、先に出ていった。

 美佳は一人、窓際の席に残った。

 彩音の手が置かれていたテーブルの上を見た。何も残っていなかった。

 LAPISの暗号化パターン。消えた男性の端末に。

 終わったはずのものが、また人に触れていた。

 今度は、誰を通して。
彩音は知らなかった。知らなかったことが、何かを変えた。でも何を変えたのか、美佳にはまだ分からなかった。