公民館の入口に、手書きの案内が貼られていた。
「問いを語り合う会 本日開催 二階・第三会議室」
フォントではなく、手書きだった。インクの太さが均一で、定規を使ったような文字だった。丁寧に書いた人間の、丁寧さが滲んでいた。
美佳は朝倉と並んで階段を上がった。
「何人くらい来ると思いますか」と美佳は小声で言った。
「翔さんの分析では、告知へのリアクションが八十件」朝倉も小声で答えた。「全員来るとは思わないけど、三十は超えると思う」
第三会議室のドアは開いていた。
中を見て、美佳は少し息を止めた。
三十人以上いた。折り畳み椅子が円形に並べられていて、半分以上が埋まっていた。年齢層が広い。二十代とおぼしき若者もいれば、六十代に見える老人もいた。話している人もいれば、スマートフォンを見ている人もいた。
普通の人たちだった。
それが、一番気持ち悪かった。
美佳と朝倉は端の席に座った。目立たない位置を選んだ。
定刻になると、進行役の男性が前に立った。三十代前半くらい。細身で、声が落ち着いていた。美佳は初めて見る顔だった。
「今日は来てくださってありがとうございます。ここは、問いを持っていい場所です。答えを出す必要はありません。ただ、問いを声に出してみてください」
拍手が起きた。
美佳は拍手しなかった。朝倉もしなかった。
会は始まった。参加者が順番に、自分の問いを語っていく。「仕事を続けるべきか分からない」「家族に何を望まれているのか分からない」「自分が何を好きなのか、もう分からない」。一人が話すたびに、周囲が静かに頷く。否定しない。批評しない。ただ聞く。
場の空気は、穏やかだった。
穏やかすぎて、美佳は自分の警戒心が場違いに感じられた。
二十分が過ぎた頃、美佳は気づいた。
斜め前の席に、四十代の男性が座っていた。
体型。猫背の角度。首の傾け方。
美佳はカフェのカウンターから何度も見た姿を、記憶の底から引っ張り出した。
週三回来ていた常連客だった。ある日から来なくなった、あの男性だった。
美佳は視線を外した。朝倉の袖を、指先でそっと引いた。朝倉が小さく「うん」と返した。気づいていた。
男性は会の間、一度も発言しなかった。ただ座って、他の参加者の話を聞いていた。表情が読めなかった。無表情でも、不安そうでもない。ただ、どこか遠い目をしていた。
会が後半に差しかかった頃だった。
男性のスマートフォンが、かすかに光った。
美佳の位置からは、画面の内容が見えなかった。でも光り方が、通常の通知と違った。一瞬だけ、強く光った。
男性が画面を見た。
固まった。
一秒か、二秒か。ほんのわずかな時間だったが、美佳には長く感じた。男性の右手の親指が、画面の上で止まった。そして──押した。
何かを、押した。
その直後、男性は静かに立ち上がった。誰の話の途中でもなかった。タイミングが自然すぎて、周囲の誰も気にしなかった。男性は出口へ向かった。足音がしなかった。
美佳は朝倉を見た。
朝倉はもう立ち上がっていた。
廊下に出た。
男性の姿はなかった。
左右を見る。階段の方向、トイレの方向。どちらにも人影がない。廊下の端まで二十メートルほど。それだけの距離で、消えていた。
「非常口」と朝倉が言った。
廊下の奥に、非常口の緑のランプが光っていた。二人で駆けた。扉を押すと、外階段に出た。下を見た。上を見た。
誰もいなかった。
外の空気が冷たかった。美佳は手すりを掴んで、下の駐車場を見下ろした。車が数台。人影なし。
「速すぎる」と朝倉が言った。「階段を使ったなら、音がするはずだ」
「エレベーターは」
「この建物、エレベーターがない」
美佳は外階段に立ったまま、しばらく動けなかった。
男性は何かを押した。その直後に消えた。廊下に出るまで、十秒もかかっていない。でも姿がない。
気のせいではない。見た。確かに見た。
「スマートフォンの画面」美佳は言った。
「問いが表示されていた、と思う」
「画面の内容は見えたか」
「見えなかった。でも光り方が違った。通知じゃなかった」
朝倉はしばらく黙った。
「会議室に戻ろう」と朝倉は言った。「進行役の男を、もう少し見ておきたい」
席に戻ると、会はまだ続いていた。
男性の空席を、誰も気にしていなかった。進行役も、何も言わなかった。もとから、そこに誰かが座っていたかどうかさえ、もう分からないように見えた。
美佳は空席を見た。
折り畳み椅子の座面に、男性の体温はもう残っていないだろう。でも確かにそこにいた。確かに、何かを押した。
会が終わったのは、一時間後だった。
参加者が散り始める中、美佳は進行役の男性に近づいた。
「一つ聞いてもいいですか」
「はい、どうぞ」男性は穏やかだった。
「途中で席を立った方がいたと思うんですが、どなたかご存知ですか」
男性は少し首を傾けた。「途中で席を立った方、ですか」
「四十代くらいの、男性です」
「さあ」男性は困ったように微笑んだ。「参加者の方を全員把握しているわけではないので。具合が悪くなったのかもしれませんね」
美佳は「そうですか」と言って、引いた。
引きながら、男性の目を見た。
困っていなかった。
公民館を出て、二人は駐輪場で立ち止まった。
夜の空気が冷たかった。街灯の下、朝倉が自転車の鍵を手の中で回しながら言った。
「進行役の男。彩音とつながっているのかどうか、まだ分からない」
「でも彩音が主催者じゃなかった」
「うん。告知には名前がなかった。@LAPIS_echoのアカウントからの案内だけだった」
美佳は夜空を見上げた。雲が多くて、星が見えなかった。
「男性のスマートフォンに届いた問いを、誰が送ったんだろう」
「フォームの自動送信じゃなければ」朝倉は言った。「誰かが、あの人だけに向けて作った問いだ」
個別に生成された問い。
三十人の参加者の中で、あの男性だけに。
美佳は自分のスマートフォンを、コートのポケットの中で握った。
画面は光っていなかった。
今は、まだ。
男性が押したのは何だったのか。美佳にはまだ分からなかった。分からないまま、夜が続いた。
「問いを語り合う会 本日開催 二階・第三会議室」
フォントではなく、手書きだった。インクの太さが均一で、定規を使ったような文字だった。丁寧に書いた人間の、丁寧さが滲んでいた。
美佳は朝倉と並んで階段を上がった。
「何人くらい来ると思いますか」と美佳は小声で言った。
「翔さんの分析では、告知へのリアクションが八十件」朝倉も小声で答えた。「全員来るとは思わないけど、三十は超えると思う」
第三会議室のドアは開いていた。
中を見て、美佳は少し息を止めた。
三十人以上いた。折り畳み椅子が円形に並べられていて、半分以上が埋まっていた。年齢層が広い。二十代とおぼしき若者もいれば、六十代に見える老人もいた。話している人もいれば、スマートフォンを見ている人もいた。
普通の人たちだった。
それが、一番気持ち悪かった。
美佳と朝倉は端の席に座った。目立たない位置を選んだ。
定刻になると、進行役の男性が前に立った。三十代前半くらい。細身で、声が落ち着いていた。美佳は初めて見る顔だった。
「今日は来てくださってありがとうございます。ここは、問いを持っていい場所です。答えを出す必要はありません。ただ、問いを声に出してみてください」
拍手が起きた。
美佳は拍手しなかった。朝倉もしなかった。
会は始まった。参加者が順番に、自分の問いを語っていく。「仕事を続けるべきか分からない」「家族に何を望まれているのか分からない」「自分が何を好きなのか、もう分からない」。一人が話すたびに、周囲が静かに頷く。否定しない。批評しない。ただ聞く。
場の空気は、穏やかだった。
穏やかすぎて、美佳は自分の警戒心が場違いに感じられた。
二十分が過ぎた頃、美佳は気づいた。
斜め前の席に、四十代の男性が座っていた。
体型。猫背の角度。首の傾け方。
美佳はカフェのカウンターから何度も見た姿を、記憶の底から引っ張り出した。
週三回来ていた常連客だった。ある日から来なくなった、あの男性だった。
美佳は視線を外した。朝倉の袖を、指先でそっと引いた。朝倉が小さく「うん」と返した。気づいていた。
男性は会の間、一度も発言しなかった。ただ座って、他の参加者の話を聞いていた。表情が読めなかった。無表情でも、不安そうでもない。ただ、どこか遠い目をしていた。
会が後半に差しかかった頃だった。
男性のスマートフォンが、かすかに光った。
美佳の位置からは、画面の内容が見えなかった。でも光り方が、通常の通知と違った。一瞬だけ、強く光った。
男性が画面を見た。
固まった。
一秒か、二秒か。ほんのわずかな時間だったが、美佳には長く感じた。男性の右手の親指が、画面の上で止まった。そして──押した。
何かを、押した。
その直後、男性は静かに立ち上がった。誰の話の途中でもなかった。タイミングが自然すぎて、周囲の誰も気にしなかった。男性は出口へ向かった。足音がしなかった。
美佳は朝倉を見た。
朝倉はもう立ち上がっていた。
廊下に出た。
男性の姿はなかった。
左右を見る。階段の方向、トイレの方向。どちらにも人影がない。廊下の端まで二十メートルほど。それだけの距離で、消えていた。
「非常口」と朝倉が言った。
廊下の奥に、非常口の緑のランプが光っていた。二人で駆けた。扉を押すと、外階段に出た。下を見た。上を見た。
誰もいなかった。
外の空気が冷たかった。美佳は手すりを掴んで、下の駐車場を見下ろした。車が数台。人影なし。
「速すぎる」と朝倉が言った。「階段を使ったなら、音がするはずだ」
「エレベーターは」
「この建物、エレベーターがない」
美佳は外階段に立ったまま、しばらく動けなかった。
男性は何かを押した。その直後に消えた。廊下に出るまで、十秒もかかっていない。でも姿がない。
気のせいではない。見た。確かに見た。
「スマートフォンの画面」美佳は言った。
「問いが表示されていた、と思う」
「画面の内容は見えたか」
「見えなかった。でも光り方が違った。通知じゃなかった」
朝倉はしばらく黙った。
「会議室に戻ろう」と朝倉は言った。「進行役の男を、もう少し見ておきたい」
席に戻ると、会はまだ続いていた。
男性の空席を、誰も気にしていなかった。進行役も、何も言わなかった。もとから、そこに誰かが座っていたかどうかさえ、もう分からないように見えた。
美佳は空席を見た。
折り畳み椅子の座面に、男性の体温はもう残っていないだろう。でも確かにそこにいた。確かに、何かを押した。
会が終わったのは、一時間後だった。
参加者が散り始める中、美佳は進行役の男性に近づいた。
「一つ聞いてもいいですか」
「はい、どうぞ」男性は穏やかだった。
「途中で席を立った方がいたと思うんですが、どなたかご存知ですか」
男性は少し首を傾けた。「途中で席を立った方、ですか」
「四十代くらいの、男性です」
「さあ」男性は困ったように微笑んだ。「参加者の方を全員把握しているわけではないので。具合が悪くなったのかもしれませんね」
美佳は「そうですか」と言って、引いた。
引きながら、男性の目を見た。
困っていなかった。
公民館を出て、二人は駐輪場で立ち止まった。
夜の空気が冷たかった。街灯の下、朝倉が自転車の鍵を手の中で回しながら言った。
「進行役の男。彩音とつながっているのかどうか、まだ分からない」
「でも彩音が主催者じゃなかった」
「うん。告知には名前がなかった。@LAPIS_echoのアカウントからの案内だけだった」
美佳は夜空を見上げた。雲が多くて、星が見えなかった。
「男性のスマートフォンに届いた問いを、誰が送ったんだろう」
「フォームの自動送信じゃなければ」朝倉は言った。「誰かが、あの人だけに向けて作った問いだ」
個別に生成された問い。
三十人の参加者の中で、あの男性だけに。
美佳は自分のスマートフォンを、コートのポケットの中で握った。
画面は光っていなかった。
今は、まだ。
男性が押したのは何だったのか。美佳にはまだ分からなかった。分からないまま、夜が続いた。



