カフェに、見慣れない客が来るようになっていた。
一人ではなかった。週に二、三人のペースで、初めて見る顔が増えていた。注文はそれぞれ違う。会話をする人もいれば、静かにスマートフォンを見ている人もいる。共通点は、入ってくるときの顔だった。
何かを探しているような顔。あるいは、何かから少し逃げてきたような顔。
美佳には、その顔に見覚えがあった。
@LAPIS_echoのリプライ欄で見た顔と、同じ種類だった。
その日の午後、一人の女性が入ってきた。三十代の半ばくらい。きれいに整えられた服装だったが、目だけが疲れていた。
カウンター席に座って、コーヒーを注文した。美佳が持っていくと、女性は「ありがとうございます」と言った。それだけで、また黙った。
しばらくして、女性がスマートフォンを置いて、美佳に言った。
「ここ、静かですね」
「そうですね」美佳は答えた。
「落ち着く」女性は窓の外を見た。「最近、落ち着ける場所が少なくて」
美佳は何も言わなかった。何かを言う必要がある場面ではなかった。
「変な話ですけど」女性は続けた。「最近、自分の問いを書くフォームがあって。書いたら、少し楽になったんです。それからここみたいな、静かな場所に来たくなって」
美佳は「そうですか」と言った。
「馬鹿みたいでしょ、フォームに書いただけで」
「そんなことないと思います」
女性は少し驚いた顔をした。否定されると思っていなかったような顔だった。
「書いて、誰かに読んでもらえると思うだけで、違うんですよね」女性は静かに言った。
「誰かに届くかもしれない、って思うだけで」
女性が帰ったあと、美佳は厨房でカップを洗いながら考えた。
誰かに届くかもしれない、と思うだけで楽になる。
それは本当のことだ。否定できない。フォームに書いた問いが実際に誰かに読まれるかどうかに関わらず、「届くかもしれない」という感覚が、人を少し軽くする。
彩音はそれを知っていた。知っていて、作った。
悪意ではない。それは分かる。でも「届くかもしれない」という感覚を設計することと、実際に届けることは、別のことだ。感覚だけが先に走っていく。
美佳はカップを棚に戻した。
小さな成功例が、積み重なっていた。
閉店後、伊藤さんが着替えながら言った。
「美佳ちゃん、知ってる? 駅前の掲示板に、新しいの貼られてたよ」
「ポスターですか」
「そう。なんか、集まりがあるって。問いについて話し合う会、みたいな」
美佳は手を止めた。「いつですか」
「来週の土曜日。公民館で」伊藤さんはバッグを肩にかけた。「私、行ってみようかなって思ってる。友達も行くって言ってたし」
「そうですか」
「美佳ちゃんは行く?」
「少し考えます」
伊藤さんは「そっか」と言って、先に出ていった。
美佳は一人、カフェの鍵を閉めた。
オンラインからオフラインへ。フォームからポスターへ。そして今度は、集まりへ。
段階が、また一つ進んでいた。
その夜、朝倉に連絡した。
「来週土曜日に、公民館で集まりがあるそうです」
返信は早かった。
「知ってる。翔さんから聞いた。@LAPIS_echoで告知が出てる」
「行きますか」
「行こうと思ってる。美佳は?」
美佳は少し考えた。
「行きます」と打った。「ただ、彩音さんには事前に言わないでおきたい」
「分かった」
それから少し間があって、朝倉から追加のメッセージが来た。
「今日、カフェで何かあった?」
美佳は「なぜですか」と返した。
「なんとなく」
美佳は少し笑った。朝倉には、こういうところがある。根拠を聞いても「なんとなく」としか言わないが、外れたことがない。
「お客さんと少し話しました。フォームに書いて楽になった、という人と」
「どうだった」
「責める気持ちにはなれなかった」美佳は正直に打った。「でも、だからこそ怖かった」
「うん」と朝倉は返した。
それだけだった。でもその「うん」が、今夜の美佳には十分だった。
翌日のシフト明け、美佳は商店街を歩いた。
ポスターを数えた。
二十六枚。先週より七枚増えていた。
一枚一枚、同じデザインだった。同じフォント。同じ余白。同じ問いかけ。でも貼られている場所は、それぞれ違った。書店、薬局、クリーニング店、花屋、眼鏡屋、米屋。街の中に溶け込むように、でも確実に目に入る場所に。
貼る場所を選んだ人間の目が、そこにあった。
街を読んでいる。
その感覚が、また戻ってきた。
美佳が街を読むように、誰かが藍都を読んでいる。同じ方法で。
それが自分と彩音を結ぶ線のように見えて、美佳は少し立ち止まった。
立ち止まって、また歩き出した。
土曜日まで、あと五日あった。
アパートに帰って、ノートを開いた。
「小さな成功例が積み重なっている」と書いた。
それから少し考えて、もう一行書いた。
「成功例は、本物だ。だから止めにくい」
ペンを置いて、天井を見た。
有栖川の言葉が戻ってきた。正しい善意は、止めにくい。責められない。でも続く。
続くことと、正しいことは、別だ。
でもそれを、どう言葉にすればいいのか。
美佳にはまだ、分からなかった。
成功例が積み重なるほど、「でも」という言葉は重くなる。
一人ではなかった。週に二、三人のペースで、初めて見る顔が増えていた。注文はそれぞれ違う。会話をする人もいれば、静かにスマートフォンを見ている人もいる。共通点は、入ってくるときの顔だった。
何かを探しているような顔。あるいは、何かから少し逃げてきたような顔。
美佳には、その顔に見覚えがあった。
@LAPIS_echoのリプライ欄で見た顔と、同じ種類だった。
その日の午後、一人の女性が入ってきた。三十代の半ばくらい。きれいに整えられた服装だったが、目だけが疲れていた。
カウンター席に座って、コーヒーを注文した。美佳が持っていくと、女性は「ありがとうございます」と言った。それだけで、また黙った。
しばらくして、女性がスマートフォンを置いて、美佳に言った。
「ここ、静かですね」
「そうですね」美佳は答えた。
「落ち着く」女性は窓の外を見た。「最近、落ち着ける場所が少なくて」
美佳は何も言わなかった。何かを言う必要がある場面ではなかった。
「変な話ですけど」女性は続けた。「最近、自分の問いを書くフォームがあって。書いたら、少し楽になったんです。それからここみたいな、静かな場所に来たくなって」
美佳は「そうですか」と言った。
「馬鹿みたいでしょ、フォームに書いただけで」
「そんなことないと思います」
女性は少し驚いた顔をした。否定されると思っていなかったような顔だった。
「書いて、誰かに読んでもらえると思うだけで、違うんですよね」女性は静かに言った。
「誰かに届くかもしれない、って思うだけで」
女性が帰ったあと、美佳は厨房でカップを洗いながら考えた。
誰かに届くかもしれない、と思うだけで楽になる。
それは本当のことだ。否定できない。フォームに書いた問いが実際に誰かに読まれるかどうかに関わらず、「届くかもしれない」という感覚が、人を少し軽くする。
彩音はそれを知っていた。知っていて、作った。
悪意ではない。それは分かる。でも「届くかもしれない」という感覚を設計することと、実際に届けることは、別のことだ。感覚だけが先に走っていく。
美佳はカップを棚に戻した。
小さな成功例が、積み重なっていた。
閉店後、伊藤さんが着替えながら言った。
「美佳ちゃん、知ってる? 駅前の掲示板に、新しいの貼られてたよ」
「ポスターですか」
「そう。なんか、集まりがあるって。問いについて話し合う会、みたいな」
美佳は手を止めた。「いつですか」
「来週の土曜日。公民館で」伊藤さんはバッグを肩にかけた。「私、行ってみようかなって思ってる。友達も行くって言ってたし」
「そうですか」
「美佳ちゃんは行く?」
「少し考えます」
伊藤さんは「そっか」と言って、先に出ていった。
美佳は一人、カフェの鍵を閉めた。
オンラインからオフラインへ。フォームからポスターへ。そして今度は、集まりへ。
段階が、また一つ進んでいた。
その夜、朝倉に連絡した。
「来週土曜日に、公民館で集まりがあるそうです」
返信は早かった。
「知ってる。翔さんから聞いた。@LAPIS_echoで告知が出てる」
「行きますか」
「行こうと思ってる。美佳は?」
美佳は少し考えた。
「行きます」と打った。「ただ、彩音さんには事前に言わないでおきたい」
「分かった」
それから少し間があって、朝倉から追加のメッセージが来た。
「今日、カフェで何かあった?」
美佳は「なぜですか」と返した。
「なんとなく」
美佳は少し笑った。朝倉には、こういうところがある。根拠を聞いても「なんとなく」としか言わないが、外れたことがない。
「お客さんと少し話しました。フォームに書いて楽になった、という人と」
「どうだった」
「責める気持ちにはなれなかった」美佳は正直に打った。「でも、だからこそ怖かった」
「うん」と朝倉は返した。
それだけだった。でもその「うん」が、今夜の美佳には十分だった。
翌日のシフト明け、美佳は商店街を歩いた。
ポスターを数えた。
二十六枚。先週より七枚増えていた。
一枚一枚、同じデザインだった。同じフォント。同じ余白。同じ問いかけ。でも貼られている場所は、それぞれ違った。書店、薬局、クリーニング店、花屋、眼鏡屋、米屋。街の中に溶け込むように、でも確実に目に入る場所に。
貼る場所を選んだ人間の目が、そこにあった。
街を読んでいる。
その感覚が、また戻ってきた。
美佳が街を読むように、誰かが藍都を読んでいる。同じ方法で。
それが自分と彩音を結ぶ線のように見えて、美佳は少し立ち止まった。
立ち止まって、また歩き出した。
土曜日まで、あと五日あった。
アパートに帰って、ノートを開いた。
「小さな成功例が積み重なっている」と書いた。
それから少し考えて、もう一行書いた。
「成功例は、本物だ。だから止めにくい」
ペンを置いて、天井を見た。
有栖川の言葉が戻ってきた。正しい善意は、止めにくい。責められない。でも続く。
続くことと、正しいことは、別だ。
でもそれを、どう言葉にすればいいのか。
美佳にはまだ、分からなかった。
成功例が積み重なるほど、「でも」という言葉は重くなる。



