有栖川から連絡が来たのは、翌日の午前中だった。
「昨日の喫茶店で、一つ聞きそびれました。少し話せますか」
翔を交えない、二人だけの呼び出しだった。
美佳は「大丈夫です」と返した。
待ち合わせは、大学近くの公園だった。ベンチが等間隔に並んでいて、この時間帯は人が少ない。有栖川はすでに来ていた。コートの襟を立てて、池のほうを見ていた。
美佳が隣に座ると、有栖川は前を向いたまま言った。
「昨日、翔さんの話を聞いているとき。美佳さんの顔が、一瞬変わった」
「気づいていましたか」
「はい」有栖川は美佳を見た。「フォームを読んだんですね」
否定しなかった。「三日前に。百件ほど」
「分類できると思いましたか」
「思いました」
有栖川は池に視線を戻した。「私も、最初にLAPISのアンケートを見たとき、同じことを感じました。構造が見える、と思った。次の問いが作れる、と思った」
「それで、作りましたか」
「作りませんでした」有栖川は静かに言った。「作れる、と思ったところで止まった。でも──止まった理由を、当時はうまく言葉にできなかった」
美佳は「今は言えますか」と聞いた。
「今は少し言えます」有栖川は少し間を置いた。「作った問いで、誰かが動く。その責任を、私は引き受けられないと思ったから」
風が吹いた。池の水面が揺れた。
「有栖川さんは」美佳は言った。「彩音さんのことを、どう見ていますか」
「正しいと思っています」有栖川は即座に答えた。「彩音さんの善意は、本物だと思う。始めた理由も、続けている理由も」
「でも」
「でも、正しい善意が正しい結果を生むとは限らない」有栖川は続けた。「ミオもそうだった。ミオの善意を、私は疑ったことがない。だからこそ──止まれなかったことが、怖かった」
美佳は有栖川の横顔を見た。
「ミオは、どこで止まれなくなったんですか」
「人が集まってきたとき、だと思います」有栖川はゆっくり言った。「最初は一人で設計していた。でも人が集まって、答えてくれる人が増えて、期待してくれる人が出てきた。そうなったとき──やめることのコストが、続けることのコストを超えた」
「やめると、期待に応えられない」
「そうです。善意で始めたことを、善意で信じてくれている人たちを、傷つけることになる。ミオはそれが怖かったんだと思う」
美佳は前を向いた。
彩音の歩き方が頭に浮かんだ。少し前のめりで、足が速い。どこかへ急いでいるような、でも行き先が定まっていないような。
「彩音さんも、同じ場所に向かっていると思いますか」
「向かっているかどうかは、まだ分からない」有栖川は答えた。「でも、同じ構造の上に立っていることは確かだと思います」
しばらく、二人は黙って池を見た。
鴨が一羽、水面を横切った。波紋が広がって、消えた。
「美佳さんに聞きたかったのは」有栖川が言った。「昨日の翔さんの話を聞いたあと、何を考えていたか、ということです」
「作れる、ということと、作るべきかどうかは別だ、ということ」美佳は答えた。「翔さんに同じことを聞いたら、同じ言葉が返ってきた」
「翔さんに聞いたんですか」
「はい」
有栖川は少し目を細めた。「翔さんは、止まれる人です」
「有栖川さんも、止まれた」
「私は──止まれたというより、最初から怖かった。動く前から」有栖川は静かに言った。「美佳さんは、動いてみてから怖くなった。それは違います」
美佳は「違いますか」と聞いた。
「動いてみてから怖くなる人のほうが、本当の意味で止まれると思っています。怖さの中身を知っているから」
公園を出るとき、有栖川が言った。
「彩音さんに、また会いますか」
「会うと思います」美佳は答えた。
「何を話すか、決まっていますか」
「まだです」
有栖川は頷いた。「一つだけ」と前置きして、続けた。
「彩音さんの善意を否定しなくていいと思います。正しい善意だと、私も思っている。ただ──」有栖川は少し言葉を選んだ。「正しい善意の中に、断れない構造が育つことがある。それを伝えられるのは、美佳さんだけだと思っています」
「なぜ私だけですか」
「翔さんはデータで話す。私はミオの話しかできない。朝倉さんは──美佳さんを守ろうとするから、彩音さんには届きにくい」有栖川は真っ直ぐ答えた。「美佳さんは、彩音さんの善意を本物だと思いながら、でも、と言える。それができる人が、今この中にいない」
美佳は有栖川を見た。
「それは」美佳はゆっくり言った。「私が設計者になるべきだ、ということとは、違いますか」
「違います」有栖川は即座に答えた。「設計者になることと、彩音さんに『でも』と言うことは、別のことです」
帰り道、美佳は有栖川の言葉を繰り返した。
正しい善意の中に、断れない構造が育つことがある。
彩音は悪くない。ミオも悪くなかった。善意が本物だったからこそ、人が集まった。人が集まったからこそ、やめられなくなった。やめられなくなったことを、誰も責められなかった。
責められない。でも、続く。
それが一番、怖い形だった。
アパートの鍵を開けながら、美佳は一つだけ決めた。
彩音に、会う。
何を言うかは、まだ決まっていない。でも会う。有栖川の言葉を借りるためではなく、自分の言葉で、「でも」と言えるかどうか、確かめるために。
正しい善意は、止めにくい。だからこそ、誰かが「でも」と言わなければならない。
「昨日の喫茶店で、一つ聞きそびれました。少し話せますか」
翔を交えない、二人だけの呼び出しだった。
美佳は「大丈夫です」と返した。
待ち合わせは、大学近くの公園だった。ベンチが等間隔に並んでいて、この時間帯は人が少ない。有栖川はすでに来ていた。コートの襟を立てて、池のほうを見ていた。
美佳が隣に座ると、有栖川は前を向いたまま言った。
「昨日、翔さんの話を聞いているとき。美佳さんの顔が、一瞬変わった」
「気づいていましたか」
「はい」有栖川は美佳を見た。「フォームを読んだんですね」
否定しなかった。「三日前に。百件ほど」
「分類できると思いましたか」
「思いました」
有栖川は池に視線を戻した。「私も、最初にLAPISのアンケートを見たとき、同じことを感じました。構造が見える、と思った。次の問いが作れる、と思った」
「それで、作りましたか」
「作りませんでした」有栖川は静かに言った。「作れる、と思ったところで止まった。でも──止まった理由を、当時はうまく言葉にできなかった」
美佳は「今は言えますか」と聞いた。
「今は少し言えます」有栖川は少し間を置いた。「作った問いで、誰かが動く。その責任を、私は引き受けられないと思ったから」
風が吹いた。池の水面が揺れた。
「有栖川さんは」美佳は言った。「彩音さんのことを、どう見ていますか」
「正しいと思っています」有栖川は即座に答えた。「彩音さんの善意は、本物だと思う。始めた理由も、続けている理由も」
「でも」
「でも、正しい善意が正しい結果を生むとは限らない」有栖川は続けた。「ミオもそうだった。ミオの善意を、私は疑ったことがない。だからこそ──止まれなかったことが、怖かった」
美佳は有栖川の横顔を見た。
「ミオは、どこで止まれなくなったんですか」
「人が集まってきたとき、だと思います」有栖川はゆっくり言った。「最初は一人で設計していた。でも人が集まって、答えてくれる人が増えて、期待してくれる人が出てきた。そうなったとき──やめることのコストが、続けることのコストを超えた」
「やめると、期待に応えられない」
「そうです。善意で始めたことを、善意で信じてくれている人たちを、傷つけることになる。ミオはそれが怖かったんだと思う」
美佳は前を向いた。
彩音の歩き方が頭に浮かんだ。少し前のめりで、足が速い。どこかへ急いでいるような、でも行き先が定まっていないような。
「彩音さんも、同じ場所に向かっていると思いますか」
「向かっているかどうかは、まだ分からない」有栖川は答えた。「でも、同じ構造の上に立っていることは確かだと思います」
しばらく、二人は黙って池を見た。
鴨が一羽、水面を横切った。波紋が広がって、消えた。
「美佳さんに聞きたかったのは」有栖川が言った。「昨日の翔さんの話を聞いたあと、何を考えていたか、ということです」
「作れる、ということと、作るべきかどうかは別だ、ということ」美佳は答えた。「翔さんに同じことを聞いたら、同じ言葉が返ってきた」
「翔さんに聞いたんですか」
「はい」
有栖川は少し目を細めた。「翔さんは、止まれる人です」
「有栖川さんも、止まれた」
「私は──止まれたというより、最初から怖かった。動く前から」有栖川は静かに言った。「美佳さんは、動いてみてから怖くなった。それは違います」
美佳は「違いますか」と聞いた。
「動いてみてから怖くなる人のほうが、本当の意味で止まれると思っています。怖さの中身を知っているから」
公園を出るとき、有栖川が言った。
「彩音さんに、また会いますか」
「会うと思います」美佳は答えた。
「何を話すか、決まっていますか」
「まだです」
有栖川は頷いた。「一つだけ」と前置きして、続けた。
「彩音さんの善意を否定しなくていいと思います。正しい善意だと、私も思っている。ただ──」有栖川は少し言葉を選んだ。「正しい善意の中に、断れない構造が育つことがある。それを伝えられるのは、美佳さんだけだと思っています」
「なぜ私だけですか」
「翔さんはデータで話す。私はミオの話しかできない。朝倉さんは──美佳さんを守ろうとするから、彩音さんには届きにくい」有栖川は真っ直ぐ答えた。「美佳さんは、彩音さんの善意を本物だと思いながら、でも、と言える。それができる人が、今この中にいない」
美佳は有栖川を見た。
「それは」美佳はゆっくり言った。「私が設計者になるべきだ、ということとは、違いますか」
「違います」有栖川は即座に答えた。「設計者になることと、彩音さんに『でも』と言うことは、別のことです」
帰り道、美佳は有栖川の言葉を繰り返した。
正しい善意の中に、断れない構造が育つことがある。
彩音は悪くない。ミオも悪くなかった。善意が本物だったからこそ、人が集まった。人が集まったからこそ、やめられなくなった。やめられなくなったことを、誰も責められなかった。
責められない。でも、続く。
それが一番、怖い形だった。
アパートの鍵を開けながら、美佳は一つだけ決めた。
彩音に、会う。
何を言うかは、まだ決まっていない。でも会う。有栖川の言葉を借りるためではなく、自分の言葉で、「でも」と言えるかどうか、確かめるために。
正しい善意は、止めにくい。だからこそ、誰かが「でも」と言わなければならない。



