彩音からメッセージが届いたのは、翌週の月曜日だった。
「少し話せますか。美佳さんの都合のいい日を教えてください」
美佳は画面を見たまま、三秒考えた。
「待ちます」と言っていた彩音が、動いた。
それ自体は約束の範囲内だった。「待つ」は「連絡しない」ではない。美佳が返事をするまで押し黙っていることを、彩音は「待つ」とは言っていなかった。
それでも、タイミングを測っていた、という感覚が残った。
「木曜日の夕方以降なら大丈夫です」と返した。
待ち合わせは、駅から少し離れたカフェだった。美佳が働いている店ではない。彩音が指定した場所だった。
美佳が入ると、彩音はすでに窓際の席に座っていた。
最後に会ったときと、印象が少し違った。髪が短くなっていた。服装はシンプルだったが、どこか整っていた。準備をしてきた人の佇まいだった。
「来てくれてありがとうございます」
「はい」美佳は向かいに座った。「髪、切りましたか」
「先週」彩音は少し笑った。「気分転換に」
注文を済ませて、短い沈黙があった。
彩音が先に口を開いた。
「ポスターのこと、知っていますか」
美佳は「知っています」と答えた。
「見ましたか」
「三枚」
彩音は頷いた。隠す様子がなかった。
「私が頼みました。十九か所」
十七、ではなく、十九。朝倉が確認した数より、二枚多かった。
「増えていますか」美佳は聞いた。
「今週、さらに六か所お願いしました。断られたところもありますが、ほとんど快く貼ってもらえています」
快く。その言葉が、静かに引っかかった。
「なぜ今、ポスターを」
「オンラインだけだと、届かない人がいると思って」彩音は真っ直ぐ答えた。「スマートフォンを使わない人、SNSを見ない人。そういう人たちにも、問いを持っていい場所があることを知ってほしかった」
「フォームに書いた問いは、どうなりますか」
「今は集めているだけです」
「今は」
彩音は一瞬だけ間を置いた。「はい、今は」
美佳はその間を、記憶した。
「集めた問いを、いずれ使うつもりがあるんですか」
「使う、というより」彩音は言葉を選んでいた。「育てたいと思っています。集まった問いが、次の問いを生む循環を作りたい。それが、私が考えている次の段階です」
問いを育てる循環。
翔が説明したLAPISの設計の第二段階と、同じ言葉だった。
美佳は「循環」という言葉を口の中で繰り返した。声には出さなかった。
「彩音さん」美佳は言った。「前私に送ってきたDMのこと、覚えていますか」
「覚えています」
「『問いを作る側の才能がある』と書いてありました」
「はい」
「今日、私に話したかったのは、そのことですか」
彩音はテーブルの上で両手を組んだ。
「美佳さんに、見てもらいたいものがあります」
「見てもらいたいもの」
「フォームに集まった問いです。三千件を超えました。読んでみてほしい。読んだうえで、何か感じることがあれば、聞かせてほしい」
美佳は彩音を見た。
彩音の目は、第20話のときと変わらず澄んでいた。嘘をついていない。それは分かった。でも澄んだ目が正しさの証明ではない、ということも、美佳は知っていた。
「読んだら、何かをしなければならなくなりますか」
「なりません」彩音は即座に言った。「読むだけでいい。何も言わなくていい」
「読んだことで、私が何かを感じたとして。それを彩音さんが次の設計に使うことは、ありますか」
今度は、間があった。
長くはなかった。でも確かにあった。
「……正直に言うと」彩音はゆっくり言った。「美佳さんが何かを感じたなら、聞かせてほしいと思っています。使うかどうかは、そのあとで考えます」
美佳は「分かりました」と言った。
コーヒーが半分になった頃、彩音が言った。
「美佳さんは、変わりましたか。アンケートが終わってから」
「変わりました」美佳は答えた。「選ぶことに、時間がかかるようになった」
「それは──つらいですか」
「つらいというより」美佳は少し考えた。
「疲れることがある。でも慣れてきた部分もある」
「私は」彩音は窓の外を見た。「終わってから、逆に楽になった気がしていたんです。最初は。問いに向き合う場所ができて、答えなくていいと分かって」
「でも」
「でも、その場所がなくなったら──また不安になった」彩音は窓から視線を戻した。
「だから作ろうと思った。自分が安心できる場所を、自分で作ろうと思った。それが最初の理由です」
美佳は黙って聞いた。
「その気持ちは、今も変わっていません。でも気づいたら、一人じゃなくなっていた。同じように不安だった人たちが集まってきて、その人たちのためにも続けたいと思うようになって」
美佳は一度、目を伏せた。
彩音の話は、分かった。分かってしまった。
自分のために始めて、気づいたら他の人のためになっていた。その経緯は、責められない。でも「他の人のため」という言葉が、どこかで「やめられない理由」に変わっていく。それがいつ起きたのかを、彩音はまだ気づいていないのかもしれなかった。
店を出るとき、彩音が言った。
「フォームのURLを送ります。見てみてください、気が向いたら」
「気が向いたら、見ます」美佳は答えた。
「答えを急かしません」
「分かっています」
彩音は頷いて、駅の方向へ歩いていった。
美佳はその背中を、少しの間見ていた。
髪が短くなっていた。整った服装。準備をしてきた人の佇まい。
でも歩き方は、以前と同じだった。少し前のめりで、足が速い。どこかへ急いでいるような、でも行き先が定まっていないような、そういう歩き方。
美佳は反対方向へ歩き出した。
「今は集めているだけ」という言葉と、その前の「今は」という言葉が、ずっと並んで歩いていた。
「今は」という言葉は、「いずれは」という言葉の裏側だった。
「少し話せますか。美佳さんの都合のいい日を教えてください」
美佳は画面を見たまま、三秒考えた。
「待ちます」と言っていた彩音が、動いた。
それ自体は約束の範囲内だった。「待つ」は「連絡しない」ではない。美佳が返事をするまで押し黙っていることを、彩音は「待つ」とは言っていなかった。
それでも、タイミングを測っていた、という感覚が残った。
「木曜日の夕方以降なら大丈夫です」と返した。
待ち合わせは、駅から少し離れたカフェだった。美佳が働いている店ではない。彩音が指定した場所だった。
美佳が入ると、彩音はすでに窓際の席に座っていた。
最後に会ったときと、印象が少し違った。髪が短くなっていた。服装はシンプルだったが、どこか整っていた。準備をしてきた人の佇まいだった。
「来てくれてありがとうございます」
「はい」美佳は向かいに座った。「髪、切りましたか」
「先週」彩音は少し笑った。「気分転換に」
注文を済ませて、短い沈黙があった。
彩音が先に口を開いた。
「ポスターのこと、知っていますか」
美佳は「知っています」と答えた。
「見ましたか」
「三枚」
彩音は頷いた。隠す様子がなかった。
「私が頼みました。十九か所」
十七、ではなく、十九。朝倉が確認した数より、二枚多かった。
「増えていますか」美佳は聞いた。
「今週、さらに六か所お願いしました。断られたところもありますが、ほとんど快く貼ってもらえています」
快く。その言葉が、静かに引っかかった。
「なぜ今、ポスターを」
「オンラインだけだと、届かない人がいると思って」彩音は真っ直ぐ答えた。「スマートフォンを使わない人、SNSを見ない人。そういう人たちにも、問いを持っていい場所があることを知ってほしかった」
「フォームに書いた問いは、どうなりますか」
「今は集めているだけです」
「今は」
彩音は一瞬だけ間を置いた。「はい、今は」
美佳はその間を、記憶した。
「集めた問いを、いずれ使うつもりがあるんですか」
「使う、というより」彩音は言葉を選んでいた。「育てたいと思っています。集まった問いが、次の問いを生む循環を作りたい。それが、私が考えている次の段階です」
問いを育てる循環。
翔が説明したLAPISの設計の第二段階と、同じ言葉だった。
美佳は「循環」という言葉を口の中で繰り返した。声には出さなかった。
「彩音さん」美佳は言った。「前私に送ってきたDMのこと、覚えていますか」
「覚えています」
「『問いを作る側の才能がある』と書いてありました」
「はい」
「今日、私に話したかったのは、そのことですか」
彩音はテーブルの上で両手を組んだ。
「美佳さんに、見てもらいたいものがあります」
「見てもらいたいもの」
「フォームに集まった問いです。三千件を超えました。読んでみてほしい。読んだうえで、何か感じることがあれば、聞かせてほしい」
美佳は彩音を見た。
彩音の目は、第20話のときと変わらず澄んでいた。嘘をついていない。それは分かった。でも澄んだ目が正しさの証明ではない、ということも、美佳は知っていた。
「読んだら、何かをしなければならなくなりますか」
「なりません」彩音は即座に言った。「読むだけでいい。何も言わなくていい」
「読んだことで、私が何かを感じたとして。それを彩音さんが次の設計に使うことは、ありますか」
今度は、間があった。
長くはなかった。でも確かにあった。
「……正直に言うと」彩音はゆっくり言った。「美佳さんが何かを感じたなら、聞かせてほしいと思っています。使うかどうかは、そのあとで考えます」
美佳は「分かりました」と言った。
コーヒーが半分になった頃、彩音が言った。
「美佳さんは、変わりましたか。アンケートが終わってから」
「変わりました」美佳は答えた。「選ぶことに、時間がかかるようになった」
「それは──つらいですか」
「つらいというより」美佳は少し考えた。
「疲れることがある。でも慣れてきた部分もある」
「私は」彩音は窓の外を見た。「終わってから、逆に楽になった気がしていたんです。最初は。問いに向き合う場所ができて、答えなくていいと分かって」
「でも」
「でも、その場所がなくなったら──また不安になった」彩音は窓から視線を戻した。
「だから作ろうと思った。自分が安心できる場所を、自分で作ろうと思った。それが最初の理由です」
美佳は黙って聞いた。
「その気持ちは、今も変わっていません。でも気づいたら、一人じゃなくなっていた。同じように不安だった人たちが集まってきて、その人たちのためにも続けたいと思うようになって」
美佳は一度、目を伏せた。
彩音の話は、分かった。分かってしまった。
自分のために始めて、気づいたら他の人のためになっていた。その経緯は、責められない。でも「他の人のため」という言葉が、どこかで「やめられない理由」に変わっていく。それがいつ起きたのかを、彩音はまだ気づいていないのかもしれなかった。
店を出るとき、彩音が言った。
「フォームのURLを送ります。見てみてください、気が向いたら」
「気が向いたら、見ます」美佳は答えた。
「答えを急かしません」
「分かっています」
彩音は頷いて、駅の方向へ歩いていった。
美佳はその背中を、少しの間見ていた。
髪が短くなっていた。整った服装。準備をしてきた人の佇まい。
でも歩き方は、以前と同じだった。少し前のめりで、足が速い。どこかへ急いでいるような、でも行き先が定まっていないような、そういう歩き方。
美佳は反対方向へ歩き出した。
「今は集めているだけ」という言葉と、その前の「今は」という言葉が、ずっと並んで歩いていた。
「今は」という言葉は、「いずれは」という言葉の裏側だった。



