アンケート ― 選ばないという選択 ―

 彩音の「待ちます」という言葉が、翌朝になっても耳の奥に残っていた。

 優しい言葉だった。だから余計に、払いのけられなかった。

 カフェへ向かう道を、美佳はいつもより注意深く歩いた。

 グレーのジャケットの男に三度すれ違った日以来、景色を「読む」癖がついた。違和感を探す。引っかかりを見逃さない。疲れることは知っていた。やめられないことも知っていた。

 商店街に入ったとき、足が止まった。

 書店の軒先に、ポスターが貼られていた。

 白地に黒い文字。A4サイズ。角がきれいに折られている。

「あなたの問いを、聞かせてください」

 下にQRコード。短いURL。

 美佳は動かなかった。

 フォントの選び方。余白の取り方。問いかけの語調。──どこかで見た構造だった。LAPISのアンケートが持っていた、あの「圧力のない圧力」に似た質感。断りにくい柔らかさ。入口を広く見せる設計。

 視線を動かした。

 隣の薬局のドアにも、同じポスターがあった。

 さらにその隣、クリーニング店の窓にも。

 三枚。この短い区画だけで、三枚。

 昨日もこの道を通った。気づかなかった。あるいは──気づかないように貼られていたのか。それとも昨夜のうちに、誰かが動いたのか。

 美佳は書店のドアを引いた。

 レジに四十代の女性が座っていた。常連ではないが顔は知っている、という顔で美佳を見た。

「外のポスターについて聞いてもいいですか」

「ああ、あれ」女性は警戒しなかった。「先週、若い女の子が来て。貼らせてもらえませんかって。丁寧な子でしたよ」

「一人で来ましたか」

「一人だったと思う」少し考えてから、「なんで?」と返ってきた。

「気になって」美佳は微笑んだ。「どんな子でしたか」

「二十代前半くらい。黒髪で、細くて」

 黒髪。細い。二十代前半。

 断言はできなかった。でも、ほぼ確信に近かった。

「QRコード、読んでみましたか」

「読んだわよ」女性は少し嬉しそうだった。

「フォームがあって、自分の問いを書けるの。私も書いてみた」

「何を書きましたか」

「夫に言えてないことがある、って」女性は笑った。悲しくはない笑い方だった。「変な話でしょ。でも書いたら、少し楽になった気がして」

 楽になった。

 そこまでは本当だ、と美佳は思った。書くことで整理される。言葉にすることで輪郭が生まれる。それは本当のことだ。

 でも書いた言葉は、誰かの手に渡った。

 集まった問いがどこへ行くのかを、この女性は知らない。知らないまま、少し楽になった。

「ありがとうございました」

 美佳は店を出た。

 カフェに着いて、着替えを済ませた。

 厨房に入ろうとしたとき、伊藤さんが振り返った。同じシフトの、十歳年上のパートだ。

「美佳ちゃん、あのアカウント知ってる? 問いを集めてるやつ」

 胃の底が、わずかに冷えた。

「少し」

「友達が教えてくれて。自分の問いを書くとスッキリするって。書いた?」

「まだです」

「書いてみたら。答えるんじゃなくて、書くだけだから気楽よ」

 気楽。

 その一言が、ポスターの質感と重なった。気楽に書ける。強制じゃない。断る理由がない。──断る理由がない構造が、最も断りにくい。

「そうですね」と美佳は言った。「考えてみます」

 エスプレッソマシンの電源を入れた。低い音が立ち上がる。

 商店街の三枚のポスター。伊藤さんの友達。

 点が、増えていた。

 午後、雨が降り始めた。

 美佳はカウンター越しに窓を見た。傘を持っていない客が軒先で立ち止まり、スマートフォンを出す。

 天気予報を調べているのか。

 あのアカウントを開いているのか。

 区別はできない。できないことが、じわじわと気持ち悪かった。

 閉店前、朝倉からメッセージが届いた。

「少し進展があった。明日、会える?」

「大丈夫です」と返した。一呼吸おいて、もう一行打つ。

「商店街にポスターが出ています。三枚、確認しました」

 返信は数秒後に来た。

「何枚か確認している。明日、詳しく話す」

 何枚か。

 美佳が気づいたのは三枚だった。朝倉はそれより多く見ていた。藍都のどこかに、美佳の知らないポスターが、まだある。

 帰り道、書店の前を通った。

 ポスターはまだそこにあった。雨に濡れて、端が波打っている。

「あなたの問いを、聞かせてください」

 今夜も誰かの目に入っている。誰かがQRコードを読んで、フォームを開いて、自分の問いを書いている。書いて、少し楽になっている。

 止める方法がわからなかった。

 止めるべきかどうかも、まだわからなかった。

 実害が見えない。善意が見える。その両方が同時に本当で、だからこそ美佳の手は何も掴めないままだった。

 アパートへの道を歩きながら、一つだけ確かなことを繰り返した。

 明日、朝倉と話す。

 それだけが今日の終わりに持てる、確かな一歩だった。

ポスターの角は、きれいに折られていた。丁寧な手が、そこにあった痕跡だった。