彩音に連絡したのは、翌週の水曜日だった。
一週間、美佳は迷った。迷った、というより──どう連絡するかを、ずっと考えていた。何を言うか。どこで会うか。何から話すか。考えすぎると動けなくなる、と分かっていたから、ある朝シフトに入る前に、短いメッセージを打った。
「少し話せる? 都合のいい日を教えてください」
それだけ送って、スマートフォンをポケットに入れた。
返信が来たのは、その日の夜だった。
「いつでも大丈夫です。美佳さんが話しやすい場所で」
短く、穏やかな返信だった。彩音らしい、と美佳は思った。高校のとき、彩音はいつもそういう返し方をしていた。相手に選ばせる。圧をかけない。でも確実に、来ることを前提にしている。
待ち合わせたのは、美佳が働くカフェだった。
土曜日の午後、シフトのない日。美佳は客として座っていた。自分が働く場所に客として座るのは少し変な感覚だったが、今日は同僚に任せた方がいいと思った。
彩音は五分前に来た。
黒いコートを着ていた。高校のときより少し大人びた顔をしていたが、目の静けさは変わっていなかった。あの目だ、と美佳は思った。何かを考えているときの、静かに鋭い目。
「久しぶり」と彩音は言った。
「久しぶり」と美佳は返した。
カフェに来た彩音が「あのアカウント、見た?」とだけ言って去ったのは、もう二ヶ月近く前のことだ。でも今日は、彩音は去らなかった。向かいの席に座って、メニューを開いた。
コーヒーが来るまで、二人はしばらく当たり障りのない話をした。
近況。仕事。藍都の冬の寒さ。高校のクラスメイトの話が少し出た。ユリが元気そうだとか、翔が相変わらず謎めいているとか。彩音は笑いながら聞いていた。自然な笑顔だった。
美佳は、彩音が@LAPIS_echoの中心にいる可能性がある、という事実を頭の片隅に置きながら、その笑顔を見ていた。
悪意がない。それは本当だと思う。でも笑顔が本物だからといって、考えていることが単純だとは限らない。
コーヒーが来た。
彩音は一口飲んで、「美佳さんが連絡くれるとは思ってなかった」と言った。
「そう?」
「来るとしたら、もっと後だと思ってた」と彩音は言った。「何かを決めてから連絡してくる人だから、美佳さんは」
美佳は少し驚いた。「そう見えてた?」
「高校のときから」と彩音は言った。「美佳さんは、自分の中で整理してから動く。だから来るのが遅い。でも来たときは、ちゃんと来る」
美佳は「そうかもしれない」と言った。
「今日は、まだ整理できてないの?」と彩音は聞いた。
「まだ、かな」と美佳は言った。「でも整理を待ってたら、ずっと来られない気がして」
「@LAPIS_echo」と美佳は言った。「彩音が関わってるって聞いた」
彩音は表情を変えなかった。驚いた様子もなかった。
「誰から?」と彩音は聞いた。
「有栖川さんから」
彩音は少し間を置いた。「有栖川さんと、話したんだ」
「翔さんと、朝倉と、有栖川さんと、四人で何度か話した」
彩音はコーヒーカップを両手で包んだ。少し考えているような間があった。
「隠してたわけじゃないよ」と彩音は言った。「ただ、美佳さんから来るのを待ってた」
「待ってた?」
「カフェに来て確認したとき」と彩音は言った。「美佳さんがアカウントを気にしてるのは分かった。でも、こちらから話しかけるのは違うと思った。美佳さんが自分で来るまで待とうって」
「なんで」
「美佳さんは、来てほしいと言われて来る人じゃないから」と彩音は言った。「自分で来ると決めて、来る人だから」
美佳は少し黙った。
彩音は自分のことをよく見ている。高校のとき、ほとんど深く話したことがなかったのに──いや、だからこそ、静かに観察していたのかもしれない。
「関わってる、というのは本当です」と彩音は言った。「でも、有栖川さんが言ったよりは、中心にいると思います」
「中心に」
「@LAPIS_echoは、私が始めました」と彩音は言った。淡々と、でも確かに。「有栖川さんに協力してもらいながら、でも発案は私です」
美佳は少し間を置いた。
「なぜ始めたんですか」
彩音は少し考えてから答えた。
「LAPISが終わったとき、喪失感があったから」と彩音は言った。「アンケートが終わって、問いがなくなって──何かが抜けた感じがした。それは私だけじゃなかった。SNSを見ていると、同じことを感じている人が、たくさんいた」
「だから、作った」
「作った、というより」と彩音は言った。「集めた、に近い。同じように感じている人たちの、居場所を作りたかった」
「居場所」
「問いを持っていていい場所。答えを急がなくていい場所。迷い続けることを、誰かと共有できる場所」
美佳はその言葉を聞いて、何かが胸に引っかかった。
おかしくない、と思ってしまった。
それは有栖川がミオの設計思想を聞いたときに感じたことと、同じ感触だった。
「でも」と美佳は言った。「最近の投稿は、変わってきていると思います」
「変わってきてる?」と彩音は聞いた。
「問いを受け取るだけでなく、届ける側に立つ、という言葉が出てきました。条件を満たす者を、内側に引き込もうとしている」
彩音は少し間を置いた。否定しなかった。
「そうです」と彩音は言った。「居場所を作るだけじゃ、足りないと思い始めた。問いを持っている人たちが、問いを広げていく。そういう形にしたかった」
「それは」と美佳は言った。「強制じゃないから、正しいと思いますか」
彩音は少し目を細めた。「強制じゃないから、正しい、とは思っていません」
「じゃあ、なぜ」
「問いを広げることが、人の助けになると思っているから」と彩音は言った。「答えを急がされている人が、たくさんいる。正解を選ばなければならないという圧力の中で、迷うことを許されていない人が、たくさんいる。そういう人たちに、問いを届けたい」
美佳はその言葉を聞いた。
正しい、と思う部分がある。でも──。
「一つ、聞いていいですか」と美佳は言った。
「どうぞ」
「問いを届けることで、人が助かる。それは本当にそうかもしれない。でも──問いを届けられた人が、その問いを断れない状況になったとしたら、どうしますか」
彩音は少し間を置いた。「断れない状況、とは」
「居場所があって、みんなが答えていて、問いがあると安心する状態になっていたとします」と美佳は言った。「そのとき、問いを断るのは──居場所を失うことになる。その構造の中で、断れない、という状態が生まれませんか」
彩音は黙った。
美佳は続けた。「強制じゃないから断れる、と思うかもしれない。でも、断ることのコストが上がっていたら──それは、やわらかい強制になりませんか」
「やわらかい強制」と彩音は繰り返した。
「断ることへの心理的なコスト」と美佳は言った。「不安になる、孤立する、場所を失う──そういうコストが設計の中に組み込まれていたら、強制という言葉を使わなくても、実質的に断れない構造になる」
彩音は少し長い間、黙っていた。
カフェのBGMが低く流れていた。他の客の話し声が、遠くに聞こえた。
「考えたことがなかった、とは言えない」と彩音はやがて言った。「でも、そこまで深刻に考えていなかった、とは言える」
「そうですか」と美佳は言った。責める声にならないよう、意識した。
「美佳さんは」と彩音は言った。「@LAPIS_echoを、止めた方がいいと思っていますか」
美佳は少し考えた。
「今日の時点では、分かりません」と美佳は正直に言った。「でも、断れない構造が育つ前に——一度立ち止まった方がいいと思っています」
「立ち止まる」
「彩音が始めた理由は、本物だと思います」と美佳は言った。「居場所を作りたかった。問いを持っていていい場所。それはおかしくない。でも、形が変わり始めている。その変わり方に、彩音自身が気づいていないかもしれない」
彩音は美佳を見た。静かな目だった。鋭さの中に、何か別のものが混じっていた。
「気づいていないか」と彩音は言った。「気づいていないと思いますか、私が」
「……分かりません」と美佳は言った。「だから、聞きに来た」
しばらく、二人は黙った。
彩音がコーヒーを一口飲んだ。美佳も飲んだ。
「美佳さんに」と彩音はやがて言った。「一緒にやってほしいと思っていた」
美佳は少し驚いた。「やってほしい、というのは」
「@LAPIS_echoに関わってほしい、ということじゃなくて」と彩音は言った。「問いを作る側に立ってほしい、ということ。美佳さんが作る問いは、きっと今のアカウントにない種類の問いになる」
「どういう種類の問いですか」
「断れる問い」と彩音は言った。「答えなくてもいい、と最初から書いてある問い。美佳さんならそれができると思う」
美佳は少し間を置いた。
「それは」と美佳は言った。「今の@LAPIS_echoの問いが、断れない構造になっていると、彩音も感じているということですか」
彩音は少し間を置いた。長い間だった。
「感じていた、と思います」とやがて彩音は言った。「でも、それを変える方法が分からなかった」
美佳は窓の外を見た。
藍都の土曜の午後が、静かに流れていた。通行人が行き来して、誰も立ち止まらない。問いも答えも、関係ない顔をして歩いている。
「一緒にやる、とは言えません」と美佳は言った。彩音を見て、はっきりと。「今日の時点では」
「分かった」と彩音は言った。責める声ではなかった。「でも、考えてほしい」
「考えます」と美佳は言った。「でも一つだけ、お願いがあります」
「何?」
「次の段階に進む前に、止まってほしい。条件を満たす者を内側に引き込む、その前に」
彩音は少し間を置いた。
「どのくらい?」
「少しでいい」と美佳は言った。「私が考える時間を、ください」
彩音は美佳を見た。しばらく、何かを確かめるような目だった。
「分かった」と彩音は言った。「待ちます」
カフェを出て、美佳は一人で帰り道を歩いた。
冬の夕方の空気は冷たく、でも今日は風がなかった。街灯が一つずつ点き始める時間帯だった。
彩音は待つ、と言った。
でも「待ちます」という言葉は、「止めます」とは違う。待つのには、期限がある。美佳がいつまでも答えを出さなければ、彩音は動く。それは当然のことだ。
美佳は自分に、どのくらいの時間があるのかを考えた。
分からない。でも、長くはないかもしれない。
アパートに近づいたとき、スマートフォンが鳴った。朝倉からだった。
「どうだった?」
美佳は少し歩きながら返信した。
「彩音は、断れない構造になっているかもしれないと、自分でも感じていた」
「そうか」と朝倉は返した。「美佳は、どうするの」
美佳は少し止まった。
「考える」と打った。「でも、一人で考えるのは限界がある気がする」
「一人じゃないよ」と朝倉はすぐに返した。
美佳はその返信を見て、少し息を吐いた。
一人じゃない。それだけで、今夜は十分だった。
ノートを開いて、今日のことを書いた。
彩音の言葉。断れない構造。断れる問い、という提案。そして──待ちます、という言葉。
最後に一行書いた。
断れない構造の中で、断ることを選ぶのは、どういうことか。
ペンを置いた。
第2章が終わろうとしていた。
LAPISの影は、美佳の日常にもう鮮明に近づいていた。翔の調査、有栖川との対話、彩音との再会──それぞれが、美佳の中で少しずつ繋がり始めていた。
でも繋がった先に何があるのか、まだ見えていなかった。
──見えなくていい、と美佳は思った。
見えないまま歩くことを、美佳は少し前より怖がらなくなっていた。
それが第2章で変わったことの、一番大きなものかもしれない、と思いながら、美佳は今夜もスマートフォンを伏せて、目を閉じた。
一週間、美佳は迷った。迷った、というより──どう連絡するかを、ずっと考えていた。何を言うか。どこで会うか。何から話すか。考えすぎると動けなくなる、と分かっていたから、ある朝シフトに入る前に、短いメッセージを打った。
「少し話せる? 都合のいい日を教えてください」
それだけ送って、スマートフォンをポケットに入れた。
返信が来たのは、その日の夜だった。
「いつでも大丈夫です。美佳さんが話しやすい場所で」
短く、穏やかな返信だった。彩音らしい、と美佳は思った。高校のとき、彩音はいつもそういう返し方をしていた。相手に選ばせる。圧をかけない。でも確実に、来ることを前提にしている。
待ち合わせたのは、美佳が働くカフェだった。
土曜日の午後、シフトのない日。美佳は客として座っていた。自分が働く場所に客として座るのは少し変な感覚だったが、今日は同僚に任せた方がいいと思った。
彩音は五分前に来た。
黒いコートを着ていた。高校のときより少し大人びた顔をしていたが、目の静けさは変わっていなかった。あの目だ、と美佳は思った。何かを考えているときの、静かに鋭い目。
「久しぶり」と彩音は言った。
「久しぶり」と美佳は返した。
カフェに来た彩音が「あのアカウント、見た?」とだけ言って去ったのは、もう二ヶ月近く前のことだ。でも今日は、彩音は去らなかった。向かいの席に座って、メニューを開いた。
コーヒーが来るまで、二人はしばらく当たり障りのない話をした。
近況。仕事。藍都の冬の寒さ。高校のクラスメイトの話が少し出た。ユリが元気そうだとか、翔が相変わらず謎めいているとか。彩音は笑いながら聞いていた。自然な笑顔だった。
美佳は、彩音が@LAPIS_echoの中心にいる可能性がある、という事実を頭の片隅に置きながら、その笑顔を見ていた。
悪意がない。それは本当だと思う。でも笑顔が本物だからといって、考えていることが単純だとは限らない。
コーヒーが来た。
彩音は一口飲んで、「美佳さんが連絡くれるとは思ってなかった」と言った。
「そう?」
「来るとしたら、もっと後だと思ってた」と彩音は言った。「何かを決めてから連絡してくる人だから、美佳さんは」
美佳は少し驚いた。「そう見えてた?」
「高校のときから」と彩音は言った。「美佳さんは、自分の中で整理してから動く。だから来るのが遅い。でも来たときは、ちゃんと来る」
美佳は「そうかもしれない」と言った。
「今日は、まだ整理できてないの?」と彩音は聞いた。
「まだ、かな」と美佳は言った。「でも整理を待ってたら、ずっと来られない気がして」
「@LAPIS_echo」と美佳は言った。「彩音が関わってるって聞いた」
彩音は表情を変えなかった。驚いた様子もなかった。
「誰から?」と彩音は聞いた。
「有栖川さんから」
彩音は少し間を置いた。「有栖川さんと、話したんだ」
「翔さんと、朝倉と、有栖川さんと、四人で何度か話した」
彩音はコーヒーカップを両手で包んだ。少し考えているような間があった。
「隠してたわけじゃないよ」と彩音は言った。「ただ、美佳さんから来るのを待ってた」
「待ってた?」
「カフェに来て確認したとき」と彩音は言った。「美佳さんがアカウントを気にしてるのは分かった。でも、こちらから話しかけるのは違うと思った。美佳さんが自分で来るまで待とうって」
「なんで」
「美佳さんは、来てほしいと言われて来る人じゃないから」と彩音は言った。「自分で来ると決めて、来る人だから」
美佳は少し黙った。
彩音は自分のことをよく見ている。高校のとき、ほとんど深く話したことがなかったのに──いや、だからこそ、静かに観察していたのかもしれない。
「関わってる、というのは本当です」と彩音は言った。「でも、有栖川さんが言ったよりは、中心にいると思います」
「中心に」
「@LAPIS_echoは、私が始めました」と彩音は言った。淡々と、でも確かに。「有栖川さんに協力してもらいながら、でも発案は私です」
美佳は少し間を置いた。
「なぜ始めたんですか」
彩音は少し考えてから答えた。
「LAPISが終わったとき、喪失感があったから」と彩音は言った。「アンケートが終わって、問いがなくなって──何かが抜けた感じがした。それは私だけじゃなかった。SNSを見ていると、同じことを感じている人が、たくさんいた」
「だから、作った」
「作った、というより」と彩音は言った。「集めた、に近い。同じように感じている人たちの、居場所を作りたかった」
「居場所」
「問いを持っていていい場所。答えを急がなくていい場所。迷い続けることを、誰かと共有できる場所」
美佳はその言葉を聞いて、何かが胸に引っかかった。
おかしくない、と思ってしまった。
それは有栖川がミオの設計思想を聞いたときに感じたことと、同じ感触だった。
「でも」と美佳は言った。「最近の投稿は、変わってきていると思います」
「変わってきてる?」と彩音は聞いた。
「問いを受け取るだけでなく、届ける側に立つ、という言葉が出てきました。条件を満たす者を、内側に引き込もうとしている」
彩音は少し間を置いた。否定しなかった。
「そうです」と彩音は言った。「居場所を作るだけじゃ、足りないと思い始めた。問いを持っている人たちが、問いを広げていく。そういう形にしたかった」
「それは」と美佳は言った。「強制じゃないから、正しいと思いますか」
彩音は少し目を細めた。「強制じゃないから、正しい、とは思っていません」
「じゃあ、なぜ」
「問いを広げることが、人の助けになると思っているから」と彩音は言った。「答えを急がされている人が、たくさんいる。正解を選ばなければならないという圧力の中で、迷うことを許されていない人が、たくさんいる。そういう人たちに、問いを届けたい」
美佳はその言葉を聞いた。
正しい、と思う部分がある。でも──。
「一つ、聞いていいですか」と美佳は言った。
「どうぞ」
「問いを届けることで、人が助かる。それは本当にそうかもしれない。でも──問いを届けられた人が、その問いを断れない状況になったとしたら、どうしますか」
彩音は少し間を置いた。「断れない状況、とは」
「居場所があって、みんなが答えていて、問いがあると安心する状態になっていたとします」と美佳は言った。「そのとき、問いを断るのは──居場所を失うことになる。その構造の中で、断れない、という状態が生まれませんか」
彩音は黙った。
美佳は続けた。「強制じゃないから断れる、と思うかもしれない。でも、断ることのコストが上がっていたら──それは、やわらかい強制になりませんか」
「やわらかい強制」と彩音は繰り返した。
「断ることへの心理的なコスト」と美佳は言った。「不安になる、孤立する、場所を失う──そういうコストが設計の中に組み込まれていたら、強制という言葉を使わなくても、実質的に断れない構造になる」
彩音は少し長い間、黙っていた。
カフェのBGMが低く流れていた。他の客の話し声が、遠くに聞こえた。
「考えたことがなかった、とは言えない」と彩音はやがて言った。「でも、そこまで深刻に考えていなかった、とは言える」
「そうですか」と美佳は言った。責める声にならないよう、意識した。
「美佳さんは」と彩音は言った。「@LAPIS_echoを、止めた方がいいと思っていますか」
美佳は少し考えた。
「今日の時点では、分かりません」と美佳は正直に言った。「でも、断れない構造が育つ前に——一度立ち止まった方がいいと思っています」
「立ち止まる」
「彩音が始めた理由は、本物だと思います」と美佳は言った。「居場所を作りたかった。問いを持っていていい場所。それはおかしくない。でも、形が変わり始めている。その変わり方に、彩音自身が気づいていないかもしれない」
彩音は美佳を見た。静かな目だった。鋭さの中に、何か別のものが混じっていた。
「気づいていないか」と彩音は言った。「気づいていないと思いますか、私が」
「……分かりません」と美佳は言った。「だから、聞きに来た」
しばらく、二人は黙った。
彩音がコーヒーを一口飲んだ。美佳も飲んだ。
「美佳さんに」と彩音はやがて言った。「一緒にやってほしいと思っていた」
美佳は少し驚いた。「やってほしい、というのは」
「@LAPIS_echoに関わってほしい、ということじゃなくて」と彩音は言った。「問いを作る側に立ってほしい、ということ。美佳さんが作る問いは、きっと今のアカウントにない種類の問いになる」
「どういう種類の問いですか」
「断れる問い」と彩音は言った。「答えなくてもいい、と最初から書いてある問い。美佳さんならそれができると思う」
美佳は少し間を置いた。
「それは」と美佳は言った。「今の@LAPIS_echoの問いが、断れない構造になっていると、彩音も感じているということですか」
彩音は少し間を置いた。長い間だった。
「感じていた、と思います」とやがて彩音は言った。「でも、それを変える方法が分からなかった」
美佳は窓の外を見た。
藍都の土曜の午後が、静かに流れていた。通行人が行き来して、誰も立ち止まらない。問いも答えも、関係ない顔をして歩いている。
「一緒にやる、とは言えません」と美佳は言った。彩音を見て、はっきりと。「今日の時点では」
「分かった」と彩音は言った。責める声ではなかった。「でも、考えてほしい」
「考えます」と美佳は言った。「でも一つだけ、お願いがあります」
「何?」
「次の段階に進む前に、止まってほしい。条件を満たす者を内側に引き込む、その前に」
彩音は少し間を置いた。
「どのくらい?」
「少しでいい」と美佳は言った。「私が考える時間を、ください」
彩音は美佳を見た。しばらく、何かを確かめるような目だった。
「分かった」と彩音は言った。「待ちます」
カフェを出て、美佳は一人で帰り道を歩いた。
冬の夕方の空気は冷たく、でも今日は風がなかった。街灯が一つずつ点き始める時間帯だった。
彩音は待つ、と言った。
でも「待ちます」という言葉は、「止めます」とは違う。待つのには、期限がある。美佳がいつまでも答えを出さなければ、彩音は動く。それは当然のことだ。
美佳は自分に、どのくらいの時間があるのかを考えた。
分からない。でも、長くはないかもしれない。
アパートに近づいたとき、スマートフォンが鳴った。朝倉からだった。
「どうだった?」
美佳は少し歩きながら返信した。
「彩音は、断れない構造になっているかもしれないと、自分でも感じていた」
「そうか」と朝倉は返した。「美佳は、どうするの」
美佳は少し止まった。
「考える」と打った。「でも、一人で考えるのは限界がある気がする」
「一人じゃないよ」と朝倉はすぐに返した。
美佳はその返信を見て、少し息を吐いた。
一人じゃない。それだけで、今夜は十分だった。
ノートを開いて、今日のことを書いた。
彩音の言葉。断れない構造。断れる問い、という提案。そして──待ちます、という言葉。
最後に一行書いた。
断れない構造の中で、断ることを選ぶのは、どういうことか。
ペンを置いた。
第2章が終わろうとしていた。
LAPISの影は、美佳の日常にもう鮮明に近づいていた。翔の調査、有栖川との対話、彩音との再会──それぞれが、美佳の中で少しずつ繋がり始めていた。
でも繋がった先に何があるのか、まだ見えていなかった。
──見えなくていい、と美佳は思った。
見えないまま歩くことを、美佳は少し前より怖がらなくなっていた。
それが第2章で変わったことの、一番大きなものかもしれない、と思いながら、美佳は今夜もスマートフォンを伏せて、目を閉じた。



