有栖川から連絡が来たのは、美佳が昼のシフトを終えた日の夕方だった。
「少し話せますか。急ぎではないので、都合のいいときで構いません」
美佳はメッセージを見て、少し考えた。
急ぎではない、という言葉が、かえって引っかかった。急ぎではないのに連絡してくる。それは、話したいことがあるけれど、押しつけたくない、という配慮なのか。それとも、急ぎではないように見せたい、という意図なのか。
──考えすぎだ。
美佳は自分に言い聞かせて、「明後日の午後なら」と返した。
有栖川から「ありがとうございます」とすぐに来た。場所は美佳に任せる、と。
美佳は少し迷ってから、自分が働くカフェを指定した。ホームグラウンドの方が、落ち着いて話せる気がした。
明後日の午後、有栖川は時間通りに来た。
カフェのドアが開いて、有栖川が入ってきたとき、美佳はカウンターにいた。シフトは今日も入っていたが、店長に頼んで少し早めに上がらせてもらっていた。
「ここで働いてるんですね」と有栖川は言った。店内を一度見回して、「落ち着く場所ですね」と続けた。
「気に入ってます」と美佳は言った。
カウンター席に案内した。美佳はコーヒーを二杯淹れた。自分の分と、有栖川の分。それだけの動作が、少し手を落ち着かせた。
「先日は、急に色々話してしまってすみませんでした」と有栖川は言った。
「いいえ」と美佳は言った。「聞けてよかったです」
「怖かったと思います」
「怖かったです」と美佳は素直に言った。
「でも、知らないままの怖さと、知った上での怖さは、種類が違うので」
有栖川は少し目を細めた。「どう違いますか」
「知らないままだと、輪郭が見えない。知ると、輪郭が見える。輪郭が見えた方が、まだ扱える気がします」
有栖川は「なるほど」と言った。否定も肯定もしない、静かな相槌だった。
高校のとき、有栖川はどんな話し方をしていたんだろう、と美佳はふと思った。別のクラスで、交差しなかった。だからまったく知らない。今目の前にいるこの人が、高校時代の延長線上にいる人間だという実感が、まだうまく持てなかった。
「今日来たのは」と有栖川は言った。「一つ、確認したいことがあったからです」
「何ですか」
「先日、私はミオの話をしました。ミオが美佳さんのことをデータの中で見ていた、名前を知っていた、話したいと思っていた──そういう話を」
「はい」
「それを聞いて、美佳さんはミオのことを知りたいと思った、と翔さんから聞きました」
美佳は少し驚いた。「翔さんが話したんですか」
「私から聞きました。美佳さんがどんな反応をしたか、気になったので」
美佳はコーヒーカップを持ったまま、有栖川を見た。
「確認したかったのは」と有栖川は続けた。「その『知りたい』という感覚が、今も続いていますか、ということです」
「続いています」と美佳は言った。迷わなかった。「なぜですか」
有栖川は少し間を置いた。
「ミオが伝えようとしていたことを、私はまだ知りません」と有栖川は言った。「最後のメッセージが来なかったから。でも──美佳さんが知りたいと思っているなら、一緒に探せるかもしれない、と思って」
美佳は少し黙った。
一緒に探す。その言葉の意味を、ゆっくり確かめた。
「それは」と美佳は言った。「勧誘ですか」
有栖川は少し間を置いた。「勧誘ではありません」
「でも、何かに巻き込もうとしている?」
「巻き込む、という言葉が正しいかどうか分かりません」と有栖川は言った。「ただ、美佳さんはもう十分に巻き込まれています。私が何もしなくても、ミオが名前を知っていた事実は変わらない。端末のログは残っている。@LAPIS_echoのDMは届いている。それは私が来なくても、すでにそこにある」
美佳は少し黙った。
「それは」と美佳は言った。「だから一緒にやりましょう、という理屈ですか」
「違います」と有栖川は言った。即座に。
「だから、知りたいなら一緒に探せる、と言っています。知りたくないなら、それでいい。私は美佳さんに何かをさせたいわけじゃない」
「何かをさせたいわけじゃない」と美佳は繰り返した。「でも、才能があると言った」
有栖川は少し止まった。
「言いました」と有栖川は言った。「それは本当だと思っています。でも才能があることと、使わなければならないことは、別のことです」
美佳はカウンターの内側から、窓の外を見た。
藍都の夕方が、少しずつ暗くなっていた。街灯が一つ、また一つ、点き始めていた。
「有栖川さんは」と美佳は言った。「ミオのことを、どう思っていますか」
有栖川は少し意外そうな顔をした。質問の方向が変わったからだろう、と美佳は思った。
「複雑です」と有栖川は言った。少し間を置いてから。「設計したことは、問題だと思っています。人の選択パターンを、気づかせないまま収集した。それは許容できない。でも──ミオが考えていたことの、核にあるものは」
有栖川は言葉を選んでいる様子だった。
「否定しきれない、と先日言いました。今も同じです。問いを持つことで人は考え続けられる、という考えは、おかしくない。ただ、問いを外から与えることと、自分で問いを持つことは、全然違う。ミオはそこを、見落としていた」
「見落としていた、と思いますか」と美佳は言った。「気づいていたけど、止められなかった可能性は?」
有栖川は少し目を細めた。
「あります」と言った。「むしろ、そちらの方が近いかもしれない。だから怖くなった。怖くなって、止めようとした」
「止めようとして、止めきれなかった」
「そう思っています」
美佳は少し黙った。
「それは」と美佳はやがて言った。「ミオへの、同情ですか」
「同情じゃないと思います」と有栖川は言った。「ただ、理解、というか──私も似たような場所にいたことがあるから」
「似たような場所」と美佳は繰り返した。
「LAPISの設計思想を理解してしまったとき」と有栖川は言った。「私は怒っていたはずなのに、否定しきれなかった。それはミオが正しかったからじゃなくて──問いを疑うという発想が、私にはそれまでなかったから。ミオと話して初めて、自分が問いを疑わずに答え続けてきたことに気づいた」
「それが、内側に入った理由ですか」
「入った、とは少し違うんですが」と有栖川は言った。「でも、外にいられなくなった理由ではあります」
美佳はその言葉を聞いて、何かが少し腑に落ちた。
有栖川は、引き込まれたんじゃない。理解してしまったから、外にいられなくなった。それは弱さじゃなくて──正直さの結果だ。否定できないものを、否定できないと言える、そういう正直さ。
「高校のとき」と美佳は言った。「有栖川さんは、どんな人でしたか」
有栖川は少し驚いたような顔をした。「突然ですね」
「気になって」
「答えるのが得意な人間でした」と有栖川は少し間を置いてから言った。「問いが来たら答える。答えたら終わり。そのつもりでいた」
「今は違いますか」
「今は」と有栖川は言った。「問いの方が、大事かもしれないと思っています」
美佳はその言葉を聞いて、少し黙った。
問いの方が、大事。
それは美佳が、アンケートの後からずっと感じていることと、どこか重なった。答えを急がない。問いを持ち続ける。迷い続けることが、終わりじゃない。
外はすっかり暗くなっていた。
有栖川はコーヒーカップを両手で包んだまま、「一つだけ」と言った。
「はい」
「ミオが最後に伝えようとしていたこと、私には分かりません。でも──ミオが美佳さんに伝えたかったなら、美佳さんが一番近い場所にいると思っています。データの中で、ミオが一番長く見ていた人間だから」
美佳は少し間を置いた。
「それは、プレッシャーをかけていますか」
「かけているつもりはありません」と有栖川は言った。「ただ、事実として」
「事実として」と美佳は繰り返した。「私が、一番近い」
「そう思っています」
美佳はカウンターの端を、指先でゆっくり触れた。
一番近い、と言われても、美佳にはミオが何者かまだ分からない。名前しか知らない。どんな顔をしていたか、どんな声だったか、何を好きで何が怖かったか、何も知らない。
でも──知りたいと思っている。
「分かりました」と美佳は言った。「一緒に探す、という意味を、もう少し教えてもらえますか。具体的に、何をするんですか」
有栖川は少し目を細めた。今度は驚きではなく、何か別の表情だった。
「まだ決まっていません」と有栖川は言った。「でも、美佳さんが聞いてくれるなら──次に翔さんと動くとき、一緒に来てもらえますか。それだけでいい」
「それだけ?」
「それだけです。来て、聞いて、嫌なら断ってください」
有栖川が帰ったあと、美佳はしばらくカウンターにもたれていた。
店内には他に客が二人いた。どちらも美佳には関係ない、静かな午後の続きだった。
勧誘ではない接触、と美佳は頭の中で言葉にした。
勧誘じゃない。でも、何かに近づいている。有栖川はそれを「一緒に探す」と呼んだ。翔はそれを「美佳さんが知りたいなら」と言った。誰も、やれとは言っていない。でも全員が、美佳の「知りたい」という感覚を、起点にしている。
──私が知りたいと思っているから、話が動いている。
それは、主体的ということなのか。それとも、うまく誘導されているということなのか。
美佳にはまだ分からなかった。
でも一つだけ分かることがあった。
知りたい、という感覚は、本物だ。誰かに植えつけられたものじゃない。翔に「自分の問いですか」と聞かれたとき、根拠はないけれど、と答えた。その「根拠はないけれど」という感覚が、今も変わっていなかった。
美佳はスマートフォンを取り出して、朝倉にメッセージを打った。
「有栖川さんと話した。次に翔さんが動くとき、一緒に来てほしいって言われた」
すぐに既読がついた。
「どうするの」と朝倉は返した。
美佳は少し考えてから打った。
「行くと思う。朝倉も来る?」
「行く」と朝倉はすぐに返した。
美佳はスマートフォンを置いて、カウンターを拭いた。
一度。
戻って、もう一度。
今日は、それが選択癖だとは思わなかった。ただ、手を動かしたかっただけだ。それだけのことが、少し前より自然にできている気がした。
「少し話せますか。急ぎではないので、都合のいいときで構いません」
美佳はメッセージを見て、少し考えた。
急ぎではない、という言葉が、かえって引っかかった。急ぎではないのに連絡してくる。それは、話したいことがあるけれど、押しつけたくない、という配慮なのか。それとも、急ぎではないように見せたい、という意図なのか。
──考えすぎだ。
美佳は自分に言い聞かせて、「明後日の午後なら」と返した。
有栖川から「ありがとうございます」とすぐに来た。場所は美佳に任せる、と。
美佳は少し迷ってから、自分が働くカフェを指定した。ホームグラウンドの方が、落ち着いて話せる気がした。
明後日の午後、有栖川は時間通りに来た。
カフェのドアが開いて、有栖川が入ってきたとき、美佳はカウンターにいた。シフトは今日も入っていたが、店長に頼んで少し早めに上がらせてもらっていた。
「ここで働いてるんですね」と有栖川は言った。店内を一度見回して、「落ち着く場所ですね」と続けた。
「気に入ってます」と美佳は言った。
カウンター席に案内した。美佳はコーヒーを二杯淹れた。自分の分と、有栖川の分。それだけの動作が、少し手を落ち着かせた。
「先日は、急に色々話してしまってすみませんでした」と有栖川は言った。
「いいえ」と美佳は言った。「聞けてよかったです」
「怖かったと思います」
「怖かったです」と美佳は素直に言った。
「でも、知らないままの怖さと、知った上での怖さは、種類が違うので」
有栖川は少し目を細めた。「どう違いますか」
「知らないままだと、輪郭が見えない。知ると、輪郭が見える。輪郭が見えた方が、まだ扱える気がします」
有栖川は「なるほど」と言った。否定も肯定もしない、静かな相槌だった。
高校のとき、有栖川はどんな話し方をしていたんだろう、と美佳はふと思った。別のクラスで、交差しなかった。だからまったく知らない。今目の前にいるこの人が、高校時代の延長線上にいる人間だという実感が、まだうまく持てなかった。
「今日来たのは」と有栖川は言った。「一つ、確認したいことがあったからです」
「何ですか」
「先日、私はミオの話をしました。ミオが美佳さんのことをデータの中で見ていた、名前を知っていた、話したいと思っていた──そういう話を」
「はい」
「それを聞いて、美佳さんはミオのことを知りたいと思った、と翔さんから聞きました」
美佳は少し驚いた。「翔さんが話したんですか」
「私から聞きました。美佳さんがどんな反応をしたか、気になったので」
美佳はコーヒーカップを持ったまま、有栖川を見た。
「確認したかったのは」と有栖川は続けた。「その『知りたい』という感覚が、今も続いていますか、ということです」
「続いています」と美佳は言った。迷わなかった。「なぜですか」
有栖川は少し間を置いた。
「ミオが伝えようとしていたことを、私はまだ知りません」と有栖川は言った。「最後のメッセージが来なかったから。でも──美佳さんが知りたいと思っているなら、一緒に探せるかもしれない、と思って」
美佳は少し黙った。
一緒に探す。その言葉の意味を、ゆっくり確かめた。
「それは」と美佳は言った。「勧誘ですか」
有栖川は少し間を置いた。「勧誘ではありません」
「でも、何かに巻き込もうとしている?」
「巻き込む、という言葉が正しいかどうか分かりません」と有栖川は言った。「ただ、美佳さんはもう十分に巻き込まれています。私が何もしなくても、ミオが名前を知っていた事実は変わらない。端末のログは残っている。@LAPIS_echoのDMは届いている。それは私が来なくても、すでにそこにある」
美佳は少し黙った。
「それは」と美佳は言った。「だから一緒にやりましょう、という理屈ですか」
「違います」と有栖川は言った。即座に。
「だから、知りたいなら一緒に探せる、と言っています。知りたくないなら、それでいい。私は美佳さんに何かをさせたいわけじゃない」
「何かをさせたいわけじゃない」と美佳は繰り返した。「でも、才能があると言った」
有栖川は少し止まった。
「言いました」と有栖川は言った。「それは本当だと思っています。でも才能があることと、使わなければならないことは、別のことです」
美佳はカウンターの内側から、窓の外を見た。
藍都の夕方が、少しずつ暗くなっていた。街灯が一つ、また一つ、点き始めていた。
「有栖川さんは」と美佳は言った。「ミオのことを、どう思っていますか」
有栖川は少し意外そうな顔をした。質問の方向が変わったからだろう、と美佳は思った。
「複雑です」と有栖川は言った。少し間を置いてから。「設計したことは、問題だと思っています。人の選択パターンを、気づかせないまま収集した。それは許容できない。でも──ミオが考えていたことの、核にあるものは」
有栖川は言葉を選んでいる様子だった。
「否定しきれない、と先日言いました。今も同じです。問いを持つことで人は考え続けられる、という考えは、おかしくない。ただ、問いを外から与えることと、自分で問いを持つことは、全然違う。ミオはそこを、見落としていた」
「見落としていた、と思いますか」と美佳は言った。「気づいていたけど、止められなかった可能性は?」
有栖川は少し目を細めた。
「あります」と言った。「むしろ、そちらの方が近いかもしれない。だから怖くなった。怖くなって、止めようとした」
「止めようとして、止めきれなかった」
「そう思っています」
美佳は少し黙った。
「それは」と美佳はやがて言った。「ミオへの、同情ですか」
「同情じゃないと思います」と有栖川は言った。「ただ、理解、というか──私も似たような場所にいたことがあるから」
「似たような場所」と美佳は繰り返した。
「LAPISの設計思想を理解してしまったとき」と有栖川は言った。「私は怒っていたはずなのに、否定しきれなかった。それはミオが正しかったからじゃなくて──問いを疑うという発想が、私にはそれまでなかったから。ミオと話して初めて、自分が問いを疑わずに答え続けてきたことに気づいた」
「それが、内側に入った理由ですか」
「入った、とは少し違うんですが」と有栖川は言った。「でも、外にいられなくなった理由ではあります」
美佳はその言葉を聞いて、何かが少し腑に落ちた。
有栖川は、引き込まれたんじゃない。理解してしまったから、外にいられなくなった。それは弱さじゃなくて──正直さの結果だ。否定できないものを、否定できないと言える、そういう正直さ。
「高校のとき」と美佳は言った。「有栖川さんは、どんな人でしたか」
有栖川は少し驚いたような顔をした。「突然ですね」
「気になって」
「答えるのが得意な人間でした」と有栖川は少し間を置いてから言った。「問いが来たら答える。答えたら終わり。そのつもりでいた」
「今は違いますか」
「今は」と有栖川は言った。「問いの方が、大事かもしれないと思っています」
美佳はその言葉を聞いて、少し黙った。
問いの方が、大事。
それは美佳が、アンケートの後からずっと感じていることと、どこか重なった。答えを急がない。問いを持ち続ける。迷い続けることが、終わりじゃない。
外はすっかり暗くなっていた。
有栖川はコーヒーカップを両手で包んだまま、「一つだけ」と言った。
「はい」
「ミオが最後に伝えようとしていたこと、私には分かりません。でも──ミオが美佳さんに伝えたかったなら、美佳さんが一番近い場所にいると思っています。データの中で、ミオが一番長く見ていた人間だから」
美佳は少し間を置いた。
「それは、プレッシャーをかけていますか」
「かけているつもりはありません」と有栖川は言った。「ただ、事実として」
「事実として」と美佳は繰り返した。「私が、一番近い」
「そう思っています」
美佳はカウンターの端を、指先でゆっくり触れた。
一番近い、と言われても、美佳にはミオが何者かまだ分からない。名前しか知らない。どんな顔をしていたか、どんな声だったか、何を好きで何が怖かったか、何も知らない。
でも──知りたいと思っている。
「分かりました」と美佳は言った。「一緒に探す、という意味を、もう少し教えてもらえますか。具体的に、何をするんですか」
有栖川は少し目を細めた。今度は驚きではなく、何か別の表情だった。
「まだ決まっていません」と有栖川は言った。「でも、美佳さんが聞いてくれるなら──次に翔さんと動くとき、一緒に来てもらえますか。それだけでいい」
「それだけ?」
「それだけです。来て、聞いて、嫌なら断ってください」
有栖川が帰ったあと、美佳はしばらくカウンターにもたれていた。
店内には他に客が二人いた。どちらも美佳には関係ない、静かな午後の続きだった。
勧誘ではない接触、と美佳は頭の中で言葉にした。
勧誘じゃない。でも、何かに近づいている。有栖川はそれを「一緒に探す」と呼んだ。翔はそれを「美佳さんが知りたいなら」と言った。誰も、やれとは言っていない。でも全員が、美佳の「知りたい」という感覚を、起点にしている。
──私が知りたいと思っているから、話が動いている。
それは、主体的ということなのか。それとも、うまく誘導されているということなのか。
美佳にはまだ分からなかった。
でも一つだけ分かることがあった。
知りたい、という感覚は、本物だ。誰かに植えつけられたものじゃない。翔に「自分の問いですか」と聞かれたとき、根拠はないけれど、と答えた。その「根拠はないけれど」という感覚が、今も変わっていなかった。
美佳はスマートフォンを取り出して、朝倉にメッセージを打った。
「有栖川さんと話した。次に翔さんが動くとき、一緒に来てほしいって言われた」
すぐに既読がついた。
「どうするの」と朝倉は返した。
美佳は少し考えてから打った。
「行くと思う。朝倉も来る?」
「行く」と朝倉はすぐに返した。
美佳はスマートフォンを置いて、カウンターを拭いた。
一度。
戻って、もう一度。
今日は、それが選択癖だとは思わなかった。ただ、手を動かしたかっただけだ。それだけのことが、少し前より自然にできている気がした。



