アンケート ― 選ばないという選択 ―

 有栖川玲は、答えるのが得意な人間だった。

 自分でそう思っていた。少なくとも、高校のときまでは。

 問いを前にすると、迷わない。選択肢を並べて、根拠を確認して、最も合理的な方を選ぶ。感情で決めない。直感に頼らない。そのやり方で、大抵のことはうまくいった。テストも、進路も、人間関係の判断も。

 だからLAPISのアンケートが最初、怖くなかった。

 問いが来る。答える。それだけのことだ、と思っていた。

 有栖川が三枝美佳と喫茶店で会った翌日、有栖川は自室で窓の外を見ていた。

 藍都の冬は、空が低い。雲が街の上にべったりと張り付いて、光を均等に薄めている。好きな空ではなかった。でも嫌いでもなかった。はっきりしない天気は、はっきりしない自分の状態と、どこか釣り合う気がした。

 昨日、美佳に会った。

 思っていたより、落ち着いた人だった。怖がっているのは分かった。でも怖がりながら、最後まで聞いていた。途中で結論を出さなかった。翔が「この人なら話せる」と判断した理由が、少し分かった気がした。

 そして──ミオが「分かるかもしれない」と感じた理由も。

 有栖川がLAPISに関わり始めたのは、アンケートに答えた後のことだった。

 最初は純粋な疑問だった。あのアンケートは何のためにあったのか。誰が作ったのか。集めたデータをどう使うのか。疑問を持つのは当然だと思った。有栖川は調べ始めた。

 調べるほど、仕組みが見えてきた。

 問いが育つ設計。回答が次の問いを生む循環。人が答えれば答えるほど、問いが精度を上げていく。それを知ったとき、有栖川は最初、怒りに近い感情を持った。巧妙だ、と思った。人の選択パターンを、本人に気づかせないまま収集している。それは問題だ、と。

 でもそこから先に、もう一層あった。

 設計思想に触れたとき──問いを持つことで人は考え続けられる、という考えに触れたとき──有栖川の怒りは、単純なままでいられなくなった。

 おかしくない、と思ってしまった。

 その瞬間のことを、有栖川は今でも覚えている。怒っていたはずなのに、理解してしまった。理解したくなかったのに、してしまった。それが、有栖川にとっての入口だった。

 ミオと最初に話したのは、メッセージのやりとりだった。

 調査の過程で、有栖川はミオに接触した。正確には、接触を試みた。相手が応じるとは思っていなかった。でもミオは応じた。

 最初のメッセージは短かった。

 「何が知りたいですか」

 有栖川は「設計の目的を知りたい」と返した。

 しばらく間があって、ミオから返ってきた。
 
 「目的は、問いを育てることです。でも育てた問いをどうするかは、まだ決めていませんでした」

 まだ決めていなかった。その言葉が、有栖川には奇妙に正直に聞こえた。設計者なら目的を持っているはずだ。でもミオは、目的の途中にいた。作りながら、考え続けていた。
 
 それが、有栖川をもう少し話させた。

 ミオとのやりとりは、数ヶ月続いた。

 頻繁ではなかった。でも途切れなかった。有栖川が疑問を投げると、ミオは答えた。ミオが迷いを吐き出すと、有栖川は聞いた。いつの間にか、調査する側と調査される側という構図が、溶けていた。

 有栖川はそのことに、途中で気づいた。

 気づいて、でも続けた。

 それは弱さだったのか、それとも別の何かだったのか。今もはっきりしない。ただ、ミオの言葉には、有栖川が否定しきれない何かがあった。

 問いを持つことで、人は自分を更新し続けられる。

 有栖川は自分のことを、答えるのが得意な人間だと思っていた。でもミオと話すうちに、気づいたことがある。答えるのが得意だったのは、問いを疑わなかったからだ。問いが正しいという前提で、答えを選んでいた。でもその前提は、誰が作ったのか。

 問いを疑う、という発想が、有栖川には高校のときまで、なかった。

 サーバーが止まる少し前、ミオからのメッセージが変わった。

 それまでは設計の話、データの話、思想の話だった。でもある日突然、ミオは別のことを書いてきた。

 「データの中に、面白い人がいます」

 有栖川は「面白い、とは」と返した。

 「問いに対して、逃げない。答えを出した後も、考え続ける。選択を引きずる。でも、引きずりながら動ける」

 「それが面白いんですか」と有栖川は返した。

 「珍しい、と思っています」とミオは書いた。「答えを急がない人間は、いる。でも、答えを急がないまま、それでも動ける人間は、少ない」

 「名前は分かりますか」と有栖川は聞いた。

 しばらく間があった。

 「三枝美佳さん、という人です」とミオは返した。「同じ高校の、別のクラスだったはずです」

 有栖川は、その名前を見て少し止まった。

 三枝美佳。

 知っている名前だった。顔も、浮かんだ。廊下ですれ違った程度の、別クラスの同級生。話したことはなかった。でも名前は知っていた。

 こんな形で、その名前と再会するとは思っていなかった。

 「なぜ私に話したんですか」と有栖川はミオに返した。
 
 「あなたに、伝えてほしいことがあるから」とミオは書いた。「私には、直接伝える方法がない」

 「何を伝えるんですか」

 ミオからの返信は、そのとき来なかった。

 それが、ミオとの最後のやりとりになった。

 有栖川はソファから立ち上がって、キッチンへ行った。水を一杯飲んだ。

 ミオが伝えようとしていたことを、有栖川はまだ知らない。

 最後のメッセージが来なかったから。サーバーが止まって、連絡が取れなくなったから。有栖川に分かるのは、ミオが美佳に何かを伝えようとしていた、という事実だけだ。

 だから有栖川は、@LAPIS_echoのDMで美佳に連絡した。直接会って、確かめたかった。ミオが「分かるかもしれない」と感じた人間が、どんな人なのか。

 昨日、会って、確かめた。

 美佳は、有栖川が思っていた通りの人だった。それ以上でも、それ以下でもなく──ただ、ミオが感じた通りの人だった、という気がした。

 問いを前にして、逃げない。答えを出した後も、考え続ける。怖がりながら、最後まで聞く。

 有栖川には、それができなかった時期がある。

 答えるのが得意だと思っていたあのころ、有栖川は問いを疑わなかった。問いが来たら答えた。答えたら終わりだと思っていた。でもそれは、考えることを途中で止めていたということだ。

 ミオと話して、初めてそれに気づいた。

 窓の外の空は、まだ灰色だった。

 有栖川はもう一度ソファに座って、スマートフォンを手に取った。

 翔からメッセージが来ていた。

 「美佳さんに、ミオが名前を知っていたことを話しました」

 有栖川は少し間を置いてから返した。

 「どんな反応でしたか」

 翔から返ってきた。
 
 「知りたいと言っていました。ミオがどんな人だったか」

 有栖川はその返信を見て、少しだけ目を閉じた。

 知りたい、と美佳は言った。

 ミオも、同じことを言っていた。美佳さんなら分かるかもしれない、と。

 二人は会ったことがない。でもどこかで、向き合っていた。ミオはデータの中で美佳を見ていた。美佳は今、ミオのことを知りたいと思っている。

 その非対称な関係が、有栖川には何とも言えない感触を残した。

 翔に返信した。
 
 「そうですか」

 それだけ打って、送った。

 夜になって、有栖川は高校のときのことを少し考えた。

 三年間、同じ学年にいた。でも話したことのない人間が、こんなにいた。美佳も、翔も、朝倉も──有栖川にとってはほとんど知らない人たちだった。同じ廊下を歩いて、同じ行事を経験して、でも交差しなかった。

 あのころの自分は、答えることに一生懸命で、問いを疑わなかった。

 もし高校のときに、美佳と話していたら──と有栖川は思った。

 でもすぐに、そういう仮定は意味がない、と思い直した。あのころの自分には、美佳と話す理由がなかった。話す言葉も、たぶんなかった。

 今こうして繋がっているのは、LAPISというものを経由したからだ。

 それが皮肉なのか、必然なのか、有栖川にはまだ分からなかった。

 眠る前に、有栖川はノートに一行だけ書いた。

 日記をつける習慣はない。でもたまに、書かないと収まらないことがある。

 ミオが伝えようとしていたことを、私はまだ知らない。

 ペンを置いた。

 知らないまま、美佳に会った。知らないまま、翔と動いている。それでいいのかどうか、有栖川には判断できなかった。

 でも──美佳が「知りたい」と言っている。

 その言葉だけが、今の有栖川にとって、一番確かなものだった。