アンケート ― 選ばないという選択 ―

 翌日、美佳はシフトに入りながら、ずっとミオのことを考えていた。

 考えていた、というより──考えないようにしようとして、できなかった。カウンターを拭くとき、オーダーを取るとき、コーヒーを淹れるとき。動作の隙間に、昨日有栖川が言った言葉が滑り込んでくる。

 データの中で、ずっと見ていた。

 美佳は今日も、何度かカウンターを二度拭いた。

 一度拭いたあとに、また拭く。それが選択癖なのか、それとも単に手が動いているだけなのか。最近は区別がつかなくなっていた。でも今日は、そのことがいつもより気にならなかった。ミオのことが、それより大きく頭を占めていたから。

 午後の遅い時間、常連の女性客が「最近元気なさそうね」と言った。

 六十代くらいの、いつも窓際に座る人だった。美佳が働き始めたころからの顔なじみで、名前は知らない。でもこの人は美佳の顔色を読むのが上手くて、調子の悪い日にはいつも何かひとこと言ってくれる。

 「そんなに出てますか」と美佳は言った。

 「出てるわよ」と女性客は笑った。「考えごとしてる顔」

 「してました」と美佳は素直に認めた。「知らない人のことを、考えてて」

 「知らない人?」

 「会ったことのない、でも私のことを知ってた人、というか─」

 うまく説明できなくて、美佳は「少し複雑で」と笑った。

 女性客は「まあ、そういうことってあるわよね」とだけ言って、コーヒーを飲んだ。

 それ以上は聞かなかった。その加減が、美佳はいつも少し好きだった。

 シフトを終えてアパートに戻ると、翔からメッセージが来ていた。

 「有栖川から話を聞けましたか」

 「聞けました」と美佳は返した。「ミオという名前を、初めて聞きました」
 少し間があって、翔から返信が来た。

 「そうですか。一つ、確認させてください。ミオという名前を聞いたとき、どんな感覚がしましたか」

 美佳は少し考えてから答えた。

 「知っている気がした。でも知らない」
 翔からの返信は、しばらく来なかった。五分ほど経ってから、短く届いた。

 「明日、時間はありますか」

 翌日は休みだった。

 翔が来たのは、午前十時だった。今度は図書館でも喫茶店でもなく、美佳のアパートの近くの公園だった。人が少なく、風が通る場所。翔はベンチに座って、美佳が来るのを待っていた。

 朝倉は呼ばなかった。翔から「今日は二人で話したい」と言われていたから。

 「昨日のメッセージの答えを、直接聞きたかった」と翔は言った。

 「ミオという名前を聞いたとき、知っている気がした、という感覚ですか」

 「はい」

 美佳はベンチの隣に座った。公園の枯れ木が、冬の空に黒い枝を伸ばしていた。

 「あの感覚がなぜだったか、昨日の夜も考えたんですが」と美佳は言った。「思い出せなくて」

 「思い出せなくて、当然だと思います」と翔は言った。「美佳さんは、ミオと会ったことがない。でも」

 翔は少し止まった。

 「ミオは、美佳さんの名前を知っていた」

 美佳は翔を見た。

 「名前を」

 「はい。有栖川から聞きました。有栖川が最後にミオと話したとき──サーバーが止まる直前に──ミオは美佳さんの名前を出した、と」

 「有栖川さんは、昨日私にそれを言いませんでした」

 「言えなかったんだと思います」と翔は言った。「まず直接会って、確かめたかったんでしょう。美佳さんがどういう人か」

 美佳は少し黙った。

 有栖川が昨日、何かを測るような目をしていた。あれは、確認だったのか。

 「ミオは」と美佳は言った。「なぜ、私の名前を知っていたんですか」

 「端末のログは、暗号化されていて個人情報は含まれていないはずでした」と翔は言った。「でもミオは、設計者として内部にアクセスできた。ログの固有データから、回答者を特定できる立場にいた」
 
 「つまり」
 
 「アンケートに答えた人間の中から、ミオは美佳さんを探した。データで存在を知って、そこから名前を調べた。そういうことだと思います」

 美佳は公園の地面を見た。

 枯れ葉が数枚、風に押されてゆっくり動いていた。

 「ミオは」と美佳はやがて言った。「私に、何をしようとしていたんですか」

 翔は少し間を置いた。

 「有栖川が聞いた限りでは──何かをさせようとしていたわけじゃない、と思います。ただ、話したかった、と」

 「話したかった」

 「ミオは、設計の途中から孤独だったと有栖川は言っていました。LAPISが自分の想定を超えていくのを、止められないまま見ていた。その状況を、誰かと共有したかった。でも内部の人間には話せない。外部の人間には、話す言葉が見つからない」

 「それで、データの中の私を見つけた」

 「ミオが美佳さんのログを見て感じたのは」と翔は言った。「この人なら、分かるかもしれない、という感覚だったと有栖川は言っていました」

 美佳は黙った。

 会ったことのない人間に、分かるかもしれないと思われていた。名前を調べられていた。話したいと思われていた。

 それは怖い、と思う。でも──怖いだけじゃない、何かが混じっていた。
 
「ミオは」と美佳は言った。「今どこにいるんですか」
 
「分かりません」と翔は言った。「有栖川も、翔も、誰も知らない」

 しばらく二人は黙っていた。

 公園に、自転車に乗った子どもが一人入ってきて、広場を一周してまた出ていった。何でもない、午前中の景色だった。

 「翔さんは」と美佳は言った。「ミオのことを、どう思っていますか」
 翔は少し考えてから答えた。

 「分析はできます。でも評価は、まだできていない」

 「分析と評価は、別のこと?」

 「私にとっては」と翔は言った。「分析は、事実を並べること。評価は、その事実をどう受け取るかを決めること。評価するには、もう少し情報が必要です」

 美佳はその言葉を聞いて、翔らしいと思った。高校のとき、翔は何を聞かれても「分からない」とは言わなかった。「まだ判断できない」と言っていた。その違いを、当時の美佳はうまく掴めていなかったが、今は少し分かる気がした。

 「私も」と美佳は言った。「まだ評価できない。でも──」

 「でも?」

 「知りたい、とは思っています。ミオが何を考えていたか。何が怖くなったか。止めようとして、止められなかったとき、どんな気持ちだったか」

 翔は美佳を見た。何かを確かめるような目だった。
 
「それは」と翔は言った。「美佳さん自身の問いですか。それとも、誰かに植えつけられた問いだと思いますか」

 美佳は少し止まった。

 植えつけられた問い。

 LAPISの設計は、人が答えずにいられない問いを育てる。美佳はそれを、昨日有栖川から聞いた。自分が感じている「知りたい」という感覚が、設計の産物かもしれない。誰かに仕掛けられた好奇心かもしれない。

 でも──。

 「自分の問いだと思います」と美佳は言った。「根拠はないけど」

 「根拠がなくても」と翔は言った。「言えることは、あります」

 「翔さんは、どう思いますか」

 「美佳さんがミオを知りたいと思うのは」と翔は言った。「自然だと思います。自分のことを、名前まで調べた人間がいた。その人間が今どこにもいない。気になるのは当然です。それは設計とは関係ない」

 美佳は少し息を吐いた。

 「ありがとうございます」と言った。

 翔は「どういたしまして」とは言わなかった。ただ少し頷いた。それが翔の返し方だと、美佳はもう知っていた。

 帰り道、美佳は一人で歩いた。

 翔は別の方向に行った。公園の入口で別れて、美佳はアパートへ向かう道を歩いた。

 ミオは、美佳の名前を知っていた。

 その事実を、頭の中で何度か繰り返した。不思議な感覚だった。自分の名前が、自分の知らないところで、誰かの口に乗っていた。サーバーが止まる直前に、有栖川に向かって。

 美佳は、と言ったのだろうか。それとも三枝さん、と言ったのだろうか。それとも苗字も名前も言わず、「あの人」と言ったのだろうか。

 どうでもいいことだ、と思う。でも気になった。

 ──ミオは、私をどんな言葉で呼んでいたんだろう。

 答えは、たぶん出ない。でも美佳は、その問いを持ったまま歩いた。

 空は灰色だったが、風は昨日より少し穏やかだった。

 夜、朝倉からメッセージが来た。
 
 「翔と二人で会ったって聞いた。何か分かった?」

 美佳は少し考えてから返した。

 「ミオは、私の名前を知ってた」

 既読がついて、少し間があった。

 「それを聞いてどうだった」と朝倉は返してきた。

 美佳はまた少し考えた。

 「怖かった。でもそれだけじゃなかった」

 「うん」と朝倉はすぐに返した。

 「朝倉は怒ってる?」と美佳は打った。
 少し間があった。

 「怒ってる」と朝倉は返した。「美佳の名前を、勝手に調べたことが」

 美佳はその返信を、しばらく見ていた。

 朝倉が怒っている。美佳のために。その感覚が、じんわりと温かかった。温かい、と思うと同時に、少し申し訳なかった。

 「ありがとう」と打った。

 「どういたしまして」と朝倉は返した。

 美佳はスマートフォンを置いて、ノートを開いた。

 今日の内容を書いた。最後に一行だけ書いた。

 ミオは、私の名前を知っていた。私は、ミオの名前を今日知った。

 ペンを置いた。

 どこかで、ミオは今も生きているのだろうか。生きているなら、何を考えているのだろうか。

 答えのない問いを、美佳は今夜も手放さないでいようと思った。