アンケート ― 選ばないという選択 ―

 朝倉から送られてきたファイルは、拡張子が見慣れないものだった。
 美佳はスマートフォンの画面を二度タップして、ファイルを開こうとした。開けない。別のアプリで試す。やはり開けない。三度目に朝倉へ「これ、何で開くの」と送ると、十秒もしないうちに「ごめん、PC限定。今日会える?」と返ってきた。

 火曜日の夕方。シフトは十五時上がりだった。
 美佳は「夕方なら」と打って、コートを羽織った。
 朝倉が指定した場所は、藍都の東側にある図書館の一階、閲覧ロビーの端だった。
 公共の場所を選ぶのが朝倉の癖だ、と美佳は思う。カフェより図書館。個室より開けた場所。それが慎重さなのか、それとも監視されることへの逆説的な対策なのか、美佳にはまだ分からない。

 朝倉はすでに来ていた。ノートパソコンを開いて、画面を美佳から見えない角度に傾けている。美佳が向かいに座ると、少しだけ角度を戻した。
 「翔に会ったんだって」
 声は低く、周囲に溶ける程度の音量だった。
 「昨日、カフェに来た」と美佳は答えた。「設計者、という言葉を初めて聞いた」
 朝倉は一度だけ目を細めた。驚いているのか、そうだと思っていたのか、判断できない表情だった。
 「翔がそこまで話したなら」と朝倉は言った。「美佳のことを、それなりに信用したってことだと思う」
 「信用される理由が、分からないけど」
 「あるよ」と朝倉は短く言った。それ以上は説明しなかった。
 「見てほしいものがある」

 朝倉はノートパソコンの画面を美佳に向けた。
 ターミナルのような画面だった。黒い背景に、白い文字が縦に並んでいる。美佳にはコードの読み方が分からないが、ところどころに日付と時刻のような数字が見えた。
 「これが、タイムスタンプ」と朝倉は言った。「翔から昨日、追加のデータをもらった。美佳のスマートフォンのOSに残っているものと、ほぼ同じ構造をしてる」
 「サーバーが止まった三時間後に更新された、あれ」
 「そう。でも昨日のデータで、もう一個分かったことがある」

 朝倉は画面をスクロールして、特定の行を指した。
 「更新されたのは一度じゃない。三時間後に一回。それから——」朝倉は別の行を指した。「七十二時間後に、もう一回」
 美佳は数字を目で追った。
 「二回、更新されている」
 「うん。最初の更新はたぶん自動処理。翔が言った通り、サーバー停止と連動したプログラムだと思う。でも二回目は」

 朝倉は少し止まった。
 「二回目は、手動の可能性がある」
 図書館の空調が、低くうなっていた。
 閲覧ロビーには他にも数人の利用者がいたが、誰も美佳たちを見ていなかった。それでも美佳は、少し声を落とした。
 「手動、というのは」
 「誰かが、意図的にログを触った。サーバーが止まって三日後に」
 「誰が」
 「分からない。でも一つ言えることがある」朝倉は画面を元の角度に戻した。「LAPISのサーバーが停止した、というのは事実だと思う。でもそれは──完全な終わりじゃなかった」

 美佳は朝倉の言葉を、頭の中でゆっくり繰り返した。
 不完全な停止。
 「止まったように見えた」と美佳は言った。「でも止まっていなかった」
 「止まろうとしていた、のかもしれない」と朝倉は言った。「止めたかった誰かと、続けたかった誰かが、同じシステムの中にいた。その結果として、停止は中途半端になった──そういう読み方もできる」
 美佳は少し黙った。
 「内部で、意見が割れていた?」
 「可能性として」
 「設計者も、その中にいる?」
 朝倉は答えなかった。答えない、ということが答えだった。
 
 「一つ、確認させて」と美佳は言った。
 「うん」
 「翔は昨日、有栖川という人物の名前を出した。女性で、関係者だけど敵でも味方でもない、って。朝倉は知ってた?」
 朝倉は少し間を置いてから「名前だけは」と言った。
 「名前だけ」
 「翔から一度だけ聞いた。でも詳しくは聞かされていない。翔は、話せるタイミングを選ぶ人だから」
 美佳はそれを聞いて、昨日の翔の言葉を思い出した。
 また話せるときに。
 空白のメッセージについて、翔は何かを知っていた。でも言わなかった。「また」というのは、次があるという前提だ。次を想定している、ということは──翔はこれからも美佳と話すつもりでいる。
 それが少し、奇妙に思えた。翔は美佳を信用した。でも全部は話さなかった。信用することと、全部話すことは、別のことだ。

 「有栖川が来たとき、どうすればいいと思う?」と美佳は聞いた。
 「翔は何て言った?」
 「最後まで聞いてから判断しろ、って」
 「だったら」と朝倉は言った。「そうすればいいんじゃないかな」

 「朝倉は怖くないの」
 朝倉は少し考えてから、「怖いよ」と言った。「でも怖いままで、聞けばいい。怖くなくなってから動こうとすると、一生動けない」
 美佳はその言葉を、しばらく手の中に持っていた。
 帰り道、美佳は一人で歩いた。
 朝倉は別方向だったので、図書館の入口で別れた。空は暗くなりかけていて、街灯がぽつぽつと点き始めていた。
 不完全な停止。
 その言葉が、歩くたびに頭の中で鳴った。
 LAPISは止まった。でも止まり方が中途半端だった。止めたかった誰かと、続けたかった誰かがいた。内部で、何かが割れていた。

 ──それは、どこかの誰かの意志の話だ。
 美佳は立ち止まった。
 横断歩道の前だった。赤信号。数人が隣に並んでいる。

 意志、という言葉が頭の中に残った。システムは止められる。プログラムは書き換えられる。でも意志は──誰かの中に残り続ける。サーバーが止まっても、ログが更新されなくなっても、誰かが「続けたい」と思っている限り、それは消えない。
 信号が青になった。
 美佳は歩き出しながら、もう一つのことを考えていた。

 止めたかった誰か、という存在。
 LAPISの内部にいて、止めようとした人間。それは誰で、今どこにいるのか。翔も朝倉も、その人物については何も言っていなかった。あるいは言えなかったのか、言う必要がないと思っているのか。

 でも美佳には、その人物のことがなぜか、一番気になった。
 アパートに戻って、コートを脱がないまま、美佳はノートを開いた。
 昨日のページに書いた一行──翔は、空白のメッセージを知っている──の下に、今日の内容を書き加える。

 タイムスタンプ、二回更新。二回目は手動。
 不完全な停止。
 内部に、止めたかった誰かがいた可能性。

 有栖川玲。

 最後に、少し間を置いてから書いた。
 止めたかった誰か、は——味方なのか。
 ペンを置いた。

 スマートフォンを確認すると、翔から短いメッセージが届いていた。時刻は二時間前になっていた。

 「有栖川から連絡があった。来週、美佳さんに会いたいと言っている」

 美佳はしばらく画面を見ていた。
 返信を打つ前に、一度だけ深く息を吸った。怖いよ、と朝倉は言った。でも怖いままで、聞けばいい。
 「分かった」と打って、送信した。
 窓の外に、藍都の夜がある。
 不完全なまま止まったものが、また少しだけ、動き始めていた。