真夜中の改札は、もう眠っているはずだった。
だけどその夜、駅は息をひそめて、誰にも見つからない秘密を抱えていた。高校の帰り道。わたし――澪(みお)は、友だちから借りた推理小説を読みながら、いつもの路線で家へ向かっていた。ページをめくる指が止まらない。犯人がわかりそうでわからない、あのギリギリの感じ。胸の奥がきゅっとなる。終点のひとつ前の駅で降りるはずが、気づいたときには車内がやけに静かだった。
顔を上げると、座席は空っぽ。窓に映る自分の顔だけが、ぼんやり揺れている。「え……?」車内放送が流れた。「次は、きさらぎ。次は、きさらぎ……」聞いたことのない駅名。
わたしの路線に、そんな駅はない。心臓がどくん、と一度強く鳴った。電車は減速し、ホームに滑り込む。
扉が開いた瞬間、空気が変わった。ひんやりして、雨上がりの土みたいな匂いがする。ホームの照明は点いているのに、どこか薄暗い。広告も、路線図も、全部まっさらで、文字がない。降りるべきじゃない。
頭のどこかがそう叫んでいる。でも――足が勝手に動いた。
降りてしまった。扉が閉まる音がして、電車は何事もなかったみたいに発車していく。
走り去る車輪の音が遠ざかり、残ったのは、わたしの呼吸だけ。「……戻れない、の?」改札へ向かう。
階段を上がると、改札機がずらりと並んでいるのに、どれも画面が真っ黒。駅員室の窓も、カーテンが閉まっていて中が見えない。スマホを見た。
圏外。時刻表示だけが点いている――23:59。次の瞬間、画面がふっと暗くなって、知らない通知が一件届いた。『降りたね。』息が止まりそうになった。
誰が? 何が?わたしは震える手で返信しようとした。「だ、誰……」送信できない。圏外のまま。
なのに、また通知が来る。『改札は通れない。通れるのは、選ばれた人だけ。』
『時計が0:00になったら、探しものが始まる。』「探しもの……?」足元のタイルに目を落としたとき、初めて気づいた。
ホームから階段までの道に、細い白い線が一本、ずっと続いている。まるで誘導するみたいに、改札の横を通り過ぎて、駅の奥へ……立入禁止の扉へ向かっている。扉の上には、薄く文字が浮かんでいた。『忘れもの係』わくわくなんて、するはずがない。
怖くて、逃げたくて仕方ない。それなのに――胸の奥が、なぜか熱くなる。
あの推理小説みたいに、謎をほどけば出口がある気がした。時計が、カチリと鳴った。
スマホの表示が変わる。00:00その瞬間、駅全体の照明が一瞬だけ落ちて、暗闇がぱっと広がった。
次に灯った光は、さっきより白くて冷たい。そして、駅のスピーカーから新しい放送が流れた。「忘れもの係よりお知らせします。
ただいまより、返却期限の過ぎた忘れものの回収を開始します。
対象者は、澪さま。
返却物:――あなたの未来。」……未来?思わず笑いそうになった。
でも笑えない。だって、胸の奥が本気で痛い。未来がないなんて、そんなの――。ふいに背後で足音がした。
タッ、タッ、タッ……規則正しい。走っているのに、焦りがない。振り向くと、ホームの端に影が立っていた。
制服姿の男の子。わたしと同じくらいの年。顔が見えない。影みたいに暗い。「……あなたも、降りたの?」男の子が一歩近づいた。
照明が当たる位置に入った瞬間、顔が見えた。整った目鼻立ち。けれど、目が異様に冷たい。
そして、その胸の名札に書かれている文字を見て、わたしは息を飲んだ。『係員 サエキ』駅員? 高校生なのに?「澪。」
彼は、わたしの名前を呼んだ。
知っているはずがないのに。「返してもらう。君が置いていったもの。」「わたし、何も置いていってない!」「置いていったよ。」
サエキは静かに言った。
「去年の冬。君はここで、未来を置いていった。」記憶が、ない。
でも――胸の奥がずきっとした。
思い出せないのに、思い当たる痛みだけがある。ふっと、駅の奥の扉が開いた。
『忘れもの係』の中から、紙が擦れる音と、鈴のような笑い声が聞こえる。
白い線が、扉の中へと続いている。サエキが言った。「中に入れば、未来は戻るかもしれない。」
「ただし――取り違えたら終わりだ。」「取り違え……?」「忘れものは、似てるんだ。」
彼は目を細めた。
「夢と願い。期待と執着。勇気と無謀。
君はそれを、見分けられる?」喉が渇く。
でも、わたしは頷いた。頷くしかなかった。扉の中は、想像と違っていた。
駅の奥にあるはずなのに、そこは広い倉庫みたいで、天井が見えない。棚が何十列も並び、箱や封筒や古い鞄が積み上げられている。ラベルには、全部名前が書いてある。「――これ、全部……?」サエキが答える。「忘れられたものたち。
返せなかった約束。言えなかった言葉。捨てたはずの夢。
そして、置いていった未来。」棚の奥、風がないのに紙がぱらぱらとめくれる音がする。
そこに、白い手が見えた。「いらっしゃい。」
声の主は、少女だった。
小学生くらいの背丈。白いワンピース。笑っているのに、目が笑っていない。「澪。あなたの忘れもの、用意してあるよ。」
少女は指を鳴らした。すると棚の間から、箱がひとりでに滑ってきた。
黒い箱。蓋に、銀色の文字。『澪の未来』わたしは思わず一歩近づいた。
だけど、サエキが腕を伸ばして止める。「触る前に、開けて中身を見ろ。」少女がくすっと笑う。「中身なんて、見なくてもいいのに。欲しいんでしょ? 未来。」――欲しい。
当たり前だ。未来がなかったら、わたしは何になるの?
大学も、仕事も、恋も、全部ないの?でも、サエキの目は真剣だった。
わたしは震える手で箱の蓋を少しだけ開けた。中から出てきたのは――真っ白な紙だった。何も書かれていない、ただの紙。
未来って、こんな……?少女の声が、背中に冷たく刺さる。「それがあなたの未来だよ。真っ白。何も決めてない。何も選べない。
だからここに置いていったの。怖くて。」「ちがう……」
声がかすれた。
「わたし、そんなの……」サエキが言った。「君は去年、ある選択から逃げた。
逃げた瞬間、未来は白紙になって、ここへ流れ着いた。」脳の奥で、何かが弾けた。
思い出す。去年の冬。
部活のオーディション。
本当は挑戦したかった。ずっと練習してきた。
でも、当日になって怖くなった。失敗したら笑われる。落ちたら恥ずかしい。
「やっぱりやめます」って言って、会場から逃げた。その帰り道。
泣きながら、駅のホームで――「どうせ、未来なんて……」言った。
その言葉が、今この場所につながっている?少女は箱を押しつけるように近づけた。「ほら、受け取って。あなたの未来。
でもね、白紙の未来には条件があるの。
ここで“書き込む”の。今すぐ。
書けなかったら、あなたはずっとここに残る。」「そんな……急に言われても……!」サエキが、小さく息を吐いた。「だから言った。取り違えるな。」少女の笑みが広がった。「書き込めるのは、たった一行だけ。
それがあなたの未来になる。
選びなよ、澪。」一行。
たった一行が、未来を決める。頭が真っ白になる。
胸がばくばくして、耳の奥で血の音がする。――どうする?
――どう書く?
――何になりたい?そのとき、棚の奥で、別の箱が落ちた。
バタン、と大きな音。
ラベルが見えた。『澪の本音』……本音?わたしは箱から目を離せなかった。
未来より、本音?
そんなの、関係ないはずなのに。サエキが言った。「そっちだ。君が探すべきは。」「でも、未来の箱はここに……」「それは罠だ。」
サエキは少女を見た。
「白紙の未来を押しつけて、君をここに縛りつける。」少女は肩をすくめた。「だって、白紙が一番楽じゃない?
何者にもならなくていい。選ばなくていい。傷つかなくていい。
ずっとこの駅にいれば、決断しなくて済むのに。」……その言葉は、甘い。
怖いくらい甘い。でも、わたしは知ってる。
逃げたあとの後悔は、もっと苦い。わたしは棚の奥へ走った。
白い線を踏み越えて、箱を拾い上げる。
『澪の本音』。指が箱の端に触れた瞬間、胸が熱くなって、視界がにじんだ。蓋を開ける。中には、小さな録音機――みたいなものが入っていた。
再生ボタンがある。
押すと、ノイズ混じりの声が流れた。「……怖い。
でも、やりたい。
本当は、舞台に立ちたい。
落ちてもいい。笑われてもいい。
それでも、挑戦したい……!」それは、わたしの声だった。
去年の冬、泣きながら言った声。膝が崩れそうになった。
わたし、本当はわかってた。
未来が白紙なのは、才能がないからじゃない。
誰かに決めてもらえないからじゃない。
自分で書くのが怖かったからだ。背後で少女が叫んだ。「違う! それを聴いたら戻れなくなる!」
「白紙にしなよ! 白紙が一番安全だよ!」サエキがわたしの前に立つ。
いつの間にか、彼の制服の名札が変わっていた。『返却係 サエキ』「澪。」
彼は低い声で言った。
「書け。君の一行を。」わたしは未来の箱を開けたまま、白い紙を取り出した。
手が震えて、文字が書けない。
ペンなんてない――そう思った瞬間、指先に冷たい感触が生まれた。黒いペン。
いつの間にか握っている。倉庫全体がざわざわと音を立てた。
棚の間から、無数の視線が向けられている気がする。
忘れものたちが、わたしの選択を見ている。心臓が、喉まで上がってくる。
でも、録音機から聞こえた声が、背中を押した。わたしは書いた。
一行だけ。『わたしは、怖くても挑戦する。』その瞬間、白い紙が熱を持った。
文字が銀色に光って、紙がふわりと浮かぶ。少女が悲鳴を上げた。「やめて! それを書いたら――戻っちゃうじゃん!」倉庫の棚がガタガタと揺れ、床の白い線が一気に明るく光った。
光は道になって、扉の向こう――駅のホームへ続いていく。サエキが言った。「走れ!」わたしは走った。
少女の手が伸びてくる。指先が髪に触れた気がした。
冷たい。鳥肌が立つ。でも、振りほどいて、走り抜ける。扉を飛び出すと、ホームはさっきと違っていた。
広告に文字が戻り、路線図が戻り、人の気配が戻っている。
遠くから電車の音が聞こえる。改札の時計が――00:01。たった一分。
でも、わたしは確かに別の場所にいた。電車が入ってくる。
扉が開き、乗客のざわめきと暖かい空気が流れ込んだ。
いつもの終電。いつもの駅。乗り込む直前、わたしは振り返った。
ホームの端に、サエキが立っていた。
もう制服じゃない。駅員でもない。
ただの、同い年の男の子みたいに見えた。「あなたは、誰……?」彼は少しだけ笑った。「君が置いていった“勇気”の形。」
「返してくれて、ありがとう。」次の瞬間、ドアが閉まった。
電車が動き出す。窓越しに見えるホームが遠ざかる。
サエキの姿も、ぼやけて消える。スマホが震えた。
圏外が消えて、電波が戻っている。通知が一件。『忘れもの返却完了。次に落とすなよ。』わたしは、震える手でスマホを握りしめた。
怖い。まだ怖い。
でも、胸の奥に小さな火が灯っていた。白紙の未来じゃない。
自分で書いた一行が、確かにここにある。窓の外、街の灯りが流れていく。
わたしは本を開いた。さっきまで読んでいた推理小説。
でも、今は結末よりも――明日の自分が楽しみだった。そしてふと思う。
もしまた“きさらぎ”の駅へ行くことがあったら、今度は迷わない。だって、未来は――
誰かにもらうものじゃなくて、
自分で取りに行くものだから。
だけどその夜、駅は息をひそめて、誰にも見つからない秘密を抱えていた。高校の帰り道。わたし――澪(みお)は、友だちから借りた推理小説を読みながら、いつもの路線で家へ向かっていた。ページをめくる指が止まらない。犯人がわかりそうでわからない、あのギリギリの感じ。胸の奥がきゅっとなる。終点のひとつ前の駅で降りるはずが、気づいたときには車内がやけに静かだった。
顔を上げると、座席は空っぽ。窓に映る自分の顔だけが、ぼんやり揺れている。「え……?」車内放送が流れた。「次は、きさらぎ。次は、きさらぎ……」聞いたことのない駅名。
わたしの路線に、そんな駅はない。心臓がどくん、と一度強く鳴った。電車は減速し、ホームに滑り込む。
扉が開いた瞬間、空気が変わった。ひんやりして、雨上がりの土みたいな匂いがする。ホームの照明は点いているのに、どこか薄暗い。広告も、路線図も、全部まっさらで、文字がない。降りるべきじゃない。
頭のどこかがそう叫んでいる。でも――足が勝手に動いた。
降りてしまった。扉が閉まる音がして、電車は何事もなかったみたいに発車していく。
走り去る車輪の音が遠ざかり、残ったのは、わたしの呼吸だけ。「……戻れない、の?」改札へ向かう。
階段を上がると、改札機がずらりと並んでいるのに、どれも画面が真っ黒。駅員室の窓も、カーテンが閉まっていて中が見えない。スマホを見た。
圏外。時刻表示だけが点いている――23:59。次の瞬間、画面がふっと暗くなって、知らない通知が一件届いた。『降りたね。』息が止まりそうになった。
誰が? 何が?わたしは震える手で返信しようとした。「だ、誰……」送信できない。圏外のまま。
なのに、また通知が来る。『改札は通れない。通れるのは、選ばれた人だけ。』
『時計が0:00になったら、探しものが始まる。』「探しもの……?」足元のタイルに目を落としたとき、初めて気づいた。
ホームから階段までの道に、細い白い線が一本、ずっと続いている。まるで誘導するみたいに、改札の横を通り過ぎて、駅の奥へ……立入禁止の扉へ向かっている。扉の上には、薄く文字が浮かんでいた。『忘れもの係』わくわくなんて、するはずがない。
怖くて、逃げたくて仕方ない。それなのに――胸の奥が、なぜか熱くなる。
あの推理小説みたいに、謎をほどけば出口がある気がした。時計が、カチリと鳴った。
スマホの表示が変わる。00:00その瞬間、駅全体の照明が一瞬だけ落ちて、暗闇がぱっと広がった。
次に灯った光は、さっきより白くて冷たい。そして、駅のスピーカーから新しい放送が流れた。「忘れもの係よりお知らせします。
ただいまより、返却期限の過ぎた忘れものの回収を開始します。
対象者は、澪さま。
返却物:――あなたの未来。」……未来?思わず笑いそうになった。
でも笑えない。だって、胸の奥が本気で痛い。未来がないなんて、そんなの――。ふいに背後で足音がした。
タッ、タッ、タッ……規則正しい。走っているのに、焦りがない。振り向くと、ホームの端に影が立っていた。
制服姿の男の子。わたしと同じくらいの年。顔が見えない。影みたいに暗い。「……あなたも、降りたの?」男の子が一歩近づいた。
照明が当たる位置に入った瞬間、顔が見えた。整った目鼻立ち。けれど、目が異様に冷たい。
そして、その胸の名札に書かれている文字を見て、わたしは息を飲んだ。『係員 サエキ』駅員? 高校生なのに?「澪。」
彼は、わたしの名前を呼んだ。
知っているはずがないのに。「返してもらう。君が置いていったもの。」「わたし、何も置いていってない!」「置いていったよ。」
サエキは静かに言った。
「去年の冬。君はここで、未来を置いていった。」記憶が、ない。
でも――胸の奥がずきっとした。
思い出せないのに、思い当たる痛みだけがある。ふっと、駅の奥の扉が開いた。
『忘れもの係』の中から、紙が擦れる音と、鈴のような笑い声が聞こえる。
白い線が、扉の中へと続いている。サエキが言った。「中に入れば、未来は戻るかもしれない。」
「ただし――取り違えたら終わりだ。」「取り違え……?」「忘れものは、似てるんだ。」
彼は目を細めた。
「夢と願い。期待と執着。勇気と無謀。
君はそれを、見分けられる?」喉が渇く。
でも、わたしは頷いた。頷くしかなかった。扉の中は、想像と違っていた。
駅の奥にあるはずなのに、そこは広い倉庫みたいで、天井が見えない。棚が何十列も並び、箱や封筒や古い鞄が積み上げられている。ラベルには、全部名前が書いてある。「――これ、全部……?」サエキが答える。「忘れられたものたち。
返せなかった約束。言えなかった言葉。捨てたはずの夢。
そして、置いていった未来。」棚の奥、風がないのに紙がぱらぱらとめくれる音がする。
そこに、白い手が見えた。「いらっしゃい。」
声の主は、少女だった。
小学生くらいの背丈。白いワンピース。笑っているのに、目が笑っていない。「澪。あなたの忘れもの、用意してあるよ。」
少女は指を鳴らした。すると棚の間から、箱がひとりでに滑ってきた。
黒い箱。蓋に、銀色の文字。『澪の未来』わたしは思わず一歩近づいた。
だけど、サエキが腕を伸ばして止める。「触る前に、開けて中身を見ろ。」少女がくすっと笑う。「中身なんて、見なくてもいいのに。欲しいんでしょ? 未来。」――欲しい。
当たり前だ。未来がなかったら、わたしは何になるの?
大学も、仕事も、恋も、全部ないの?でも、サエキの目は真剣だった。
わたしは震える手で箱の蓋を少しだけ開けた。中から出てきたのは――真っ白な紙だった。何も書かれていない、ただの紙。
未来って、こんな……?少女の声が、背中に冷たく刺さる。「それがあなたの未来だよ。真っ白。何も決めてない。何も選べない。
だからここに置いていったの。怖くて。」「ちがう……」
声がかすれた。
「わたし、そんなの……」サエキが言った。「君は去年、ある選択から逃げた。
逃げた瞬間、未来は白紙になって、ここへ流れ着いた。」脳の奥で、何かが弾けた。
思い出す。去年の冬。
部活のオーディション。
本当は挑戦したかった。ずっと練習してきた。
でも、当日になって怖くなった。失敗したら笑われる。落ちたら恥ずかしい。
「やっぱりやめます」って言って、会場から逃げた。その帰り道。
泣きながら、駅のホームで――「どうせ、未来なんて……」言った。
その言葉が、今この場所につながっている?少女は箱を押しつけるように近づけた。「ほら、受け取って。あなたの未来。
でもね、白紙の未来には条件があるの。
ここで“書き込む”の。今すぐ。
書けなかったら、あなたはずっとここに残る。」「そんな……急に言われても……!」サエキが、小さく息を吐いた。「だから言った。取り違えるな。」少女の笑みが広がった。「書き込めるのは、たった一行だけ。
それがあなたの未来になる。
選びなよ、澪。」一行。
たった一行が、未来を決める。頭が真っ白になる。
胸がばくばくして、耳の奥で血の音がする。――どうする?
――どう書く?
――何になりたい?そのとき、棚の奥で、別の箱が落ちた。
バタン、と大きな音。
ラベルが見えた。『澪の本音』……本音?わたしは箱から目を離せなかった。
未来より、本音?
そんなの、関係ないはずなのに。サエキが言った。「そっちだ。君が探すべきは。」「でも、未来の箱はここに……」「それは罠だ。」
サエキは少女を見た。
「白紙の未来を押しつけて、君をここに縛りつける。」少女は肩をすくめた。「だって、白紙が一番楽じゃない?
何者にもならなくていい。選ばなくていい。傷つかなくていい。
ずっとこの駅にいれば、決断しなくて済むのに。」……その言葉は、甘い。
怖いくらい甘い。でも、わたしは知ってる。
逃げたあとの後悔は、もっと苦い。わたしは棚の奥へ走った。
白い線を踏み越えて、箱を拾い上げる。
『澪の本音』。指が箱の端に触れた瞬間、胸が熱くなって、視界がにじんだ。蓋を開ける。中には、小さな録音機――みたいなものが入っていた。
再生ボタンがある。
押すと、ノイズ混じりの声が流れた。「……怖い。
でも、やりたい。
本当は、舞台に立ちたい。
落ちてもいい。笑われてもいい。
それでも、挑戦したい……!」それは、わたしの声だった。
去年の冬、泣きながら言った声。膝が崩れそうになった。
わたし、本当はわかってた。
未来が白紙なのは、才能がないからじゃない。
誰かに決めてもらえないからじゃない。
自分で書くのが怖かったからだ。背後で少女が叫んだ。「違う! それを聴いたら戻れなくなる!」
「白紙にしなよ! 白紙が一番安全だよ!」サエキがわたしの前に立つ。
いつの間にか、彼の制服の名札が変わっていた。『返却係 サエキ』「澪。」
彼は低い声で言った。
「書け。君の一行を。」わたしは未来の箱を開けたまま、白い紙を取り出した。
手が震えて、文字が書けない。
ペンなんてない――そう思った瞬間、指先に冷たい感触が生まれた。黒いペン。
いつの間にか握っている。倉庫全体がざわざわと音を立てた。
棚の間から、無数の視線が向けられている気がする。
忘れものたちが、わたしの選択を見ている。心臓が、喉まで上がってくる。
でも、録音機から聞こえた声が、背中を押した。わたしは書いた。
一行だけ。『わたしは、怖くても挑戦する。』その瞬間、白い紙が熱を持った。
文字が銀色に光って、紙がふわりと浮かぶ。少女が悲鳴を上げた。「やめて! それを書いたら――戻っちゃうじゃん!」倉庫の棚がガタガタと揺れ、床の白い線が一気に明るく光った。
光は道になって、扉の向こう――駅のホームへ続いていく。サエキが言った。「走れ!」わたしは走った。
少女の手が伸びてくる。指先が髪に触れた気がした。
冷たい。鳥肌が立つ。でも、振りほどいて、走り抜ける。扉を飛び出すと、ホームはさっきと違っていた。
広告に文字が戻り、路線図が戻り、人の気配が戻っている。
遠くから電車の音が聞こえる。改札の時計が――00:01。たった一分。
でも、わたしは確かに別の場所にいた。電車が入ってくる。
扉が開き、乗客のざわめきと暖かい空気が流れ込んだ。
いつもの終電。いつもの駅。乗り込む直前、わたしは振り返った。
ホームの端に、サエキが立っていた。
もう制服じゃない。駅員でもない。
ただの、同い年の男の子みたいに見えた。「あなたは、誰……?」彼は少しだけ笑った。「君が置いていった“勇気”の形。」
「返してくれて、ありがとう。」次の瞬間、ドアが閉まった。
電車が動き出す。窓越しに見えるホームが遠ざかる。
サエキの姿も、ぼやけて消える。スマホが震えた。
圏外が消えて、電波が戻っている。通知が一件。『忘れもの返却完了。次に落とすなよ。』わたしは、震える手でスマホを握りしめた。
怖い。まだ怖い。
でも、胸の奥に小さな火が灯っていた。白紙の未来じゃない。
自分で書いた一行が、確かにここにある。窓の外、街の灯りが流れていく。
わたしは本を開いた。さっきまで読んでいた推理小説。
でも、今は結末よりも――明日の自分が楽しみだった。そしてふと思う。
もしまた“きさらぎ”の駅へ行くことがあったら、今度は迷わない。だって、未来は――
誰かにもらうものじゃなくて、
自分で取りに行くものだから。


