夜の図書館――地下2階の閉架書庫。
私――芦沢紗月は、机上に広げた江戸初期の治水資料を、機械的な正確さで読み続けていた。
リストを消化していく。
この単調な作業だけが、私の脳内を駆け巡る無秩序なノイズを鎮静させる。私はリストが好きだ。やるべきことが明確に並び、それを順に処理していくという、この上なく論理的で予測可能な営み。
私の頭の中では、さまざまな考えがものすごいスピードで駆け巡っている。
小学校の頃も、中学の頃も、高校の頃も、周りの人間たちが何を考えているのかさっぱり分からなかった。
休み時間に、皆と適当にお喋りするのが苦痛で、図鑑の索引を全部書き出していたら、「不気味だ」と笑われた。
私から見ると、みんな宇宙人みたいだ。
「察してよ」
「冗談だよ」
みんな笑うが、言葉になっていない思いをどうやって汲み取ればよいのだろうか。
私以外の皆は、それができるらしい。
人の心を読むことができるようなのだ。
私は、他の人が明確に言葉にしたことしか理解することができない。
授業中は、先生がやるべきことを明確に指示してくれるから戸惑うことがない。
でも、休み時間や行事のときは、自分で必要とされていることを「察して」動かなければいけない。私は、どう動いていいかがわからないから困ってしまう。
だから、ただ本を読んだり、リストを作ったり、勉強をしたりして過ごしていたのだ。
周りからは変わり者と言われていたようだが、こうするしか過ごし方がわからなかったのだから仕方がない。
今はいい。大学図書館や大学院の静かな研究室は、私のような人間にとって最高のシェルターだ。陰で「あの人、またずっと同じ資料見てるよ」と言われているのは知っている。けれど、どうぞご勝手に。私には、私のやるべきことがある。
リストを一つずつ消していく。この単調な作業が私の救いだ。
次の資料を手に取り、ページを捲る。いつもなら、乾いた古紙が空気を切る『カサリ』という軽やかな音が響くはずだった。
けれど、今夜は違った。
指先に触れる紙面が、どこか重く、私の肌に粘りつくような感触がある。
ぺちゃり、と。
本来ならあり得ない、粘膜を剥がすような湿った音が閉架書庫の静寂を乱した。
私は手を止め、資料を光にかざしてみる。水濡れの跡はない。インクが滲んでいるわけでもない。完全に、乾いている。
だが、もう一度ページを捲ると、やはり耳の奥に水を含んだ何かが擦れる音が届くのだ。私は自分の耳を疑い、次に指先の温度を疑った。ここは海抜30メートルを超える、乾いた知識の殿堂のはずなのに。
さらに、ポツン、と。 冷たい感触が、私の右手の甲に落ちた。
天井からの漏水だろうか。私は慌てて、開いていた貴重な古資料を自分の体で隠すように覆った。資料が濡れたら取り返しがつかない。
だが、いくら天井を見上げても、空調の吹き出し口にも、染み一つ見当たらない。
自分の手の甲に視線を戻すと、そこには雫の形をした冷たさの残響だけが残っていて、肌自体は白く乾いたままだった。
「……脳の誤作動か」
私は呟き、ハンカチで念入りに手の甲を拭った。
乾いている。確かに、乾いているのだ。
なのに、一度そう感じてしまうと、書庫内の湿度が異常に高く思えてくる。
肺に送り込まれる空気が重く、まるで見えない水の中に沈んでいるような、息苦しい錯覚が胸を締め付けた。
その感覚を振り払うように、胸を擦る。
「作業に戻ろう」
今夜のタスクは、江戸初期の治水資料を抽出することだった。……はずだった。
しかし――。
ブンッ。
スマートフォンが、机上で唐突に震えた。
通知音は消しているはずだ。バイブレーションすら許可していない。
だが、端末は私の意図を無視し、執拗に振動を繰り返す。
苛立ちが、胸の奥から湧き上がる。
集中が、断ち切られた。
私は今、このリストの7項目中の5項目を処理し終え、残り2項目に取り掛かろうとしていたところだった。そのリズムを、この「電子の硝子」が無慈悲に破壊した。
私は、乾いた息を吐き出しながら、端末の画面を覗き込んだ。
画面には、X大学院生グループSNSの通知。
普段、私がミュートしているはずのグループだ。
未読が300件を超えている。
私は、このグループの存在自体、半ば忘れていた。
他の院生たちの雑談や、飲み会の調整や、誰かの誕生日の話題――そういったノイズに満ちた空間に、私は耐えられない。
だが、通知のプレビューに表示されたサムネイル画像が、私の視線を釘付けにした。
モノクロ。
魚眼レンズの歪み。
図書館の、本棚の通路。
そして、壁に「張り付いている」人影。
私は、反射的にそのグループを開いた。
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【X大学院生グループSNS】

私――芦沢紗月は、机上に広げた江戸初期の治水資料を、機械的な正確さで読み続けていた。
リストを消化していく。
この単調な作業だけが、私の脳内を駆け巡る無秩序なノイズを鎮静させる。私はリストが好きだ。やるべきことが明確に並び、それを順に処理していくという、この上なく論理的で予測可能な営み。
私の頭の中では、さまざまな考えがものすごいスピードで駆け巡っている。
小学校の頃も、中学の頃も、高校の頃も、周りの人間たちが何を考えているのかさっぱり分からなかった。
休み時間に、皆と適当にお喋りするのが苦痛で、図鑑の索引を全部書き出していたら、「不気味だ」と笑われた。
私から見ると、みんな宇宙人みたいだ。
「察してよ」
「冗談だよ」
みんな笑うが、言葉になっていない思いをどうやって汲み取ればよいのだろうか。
私以外の皆は、それができるらしい。
人の心を読むことができるようなのだ。
私は、他の人が明確に言葉にしたことしか理解することができない。
授業中は、先生がやるべきことを明確に指示してくれるから戸惑うことがない。
でも、休み時間や行事のときは、自分で必要とされていることを「察して」動かなければいけない。私は、どう動いていいかがわからないから困ってしまう。
だから、ただ本を読んだり、リストを作ったり、勉強をしたりして過ごしていたのだ。
周りからは変わり者と言われていたようだが、こうするしか過ごし方がわからなかったのだから仕方がない。
今はいい。大学図書館や大学院の静かな研究室は、私のような人間にとって最高のシェルターだ。陰で「あの人、またずっと同じ資料見てるよ」と言われているのは知っている。けれど、どうぞご勝手に。私には、私のやるべきことがある。
リストを一つずつ消していく。この単調な作業が私の救いだ。
次の資料を手に取り、ページを捲る。いつもなら、乾いた古紙が空気を切る『カサリ』という軽やかな音が響くはずだった。
けれど、今夜は違った。
指先に触れる紙面が、どこか重く、私の肌に粘りつくような感触がある。
ぺちゃり、と。
本来ならあり得ない、粘膜を剥がすような湿った音が閉架書庫の静寂を乱した。
私は手を止め、資料を光にかざしてみる。水濡れの跡はない。インクが滲んでいるわけでもない。完全に、乾いている。
だが、もう一度ページを捲ると、やはり耳の奥に水を含んだ何かが擦れる音が届くのだ。私は自分の耳を疑い、次に指先の温度を疑った。ここは海抜30メートルを超える、乾いた知識の殿堂のはずなのに。
さらに、ポツン、と。 冷たい感触が、私の右手の甲に落ちた。
天井からの漏水だろうか。私は慌てて、開いていた貴重な古資料を自分の体で隠すように覆った。資料が濡れたら取り返しがつかない。
だが、いくら天井を見上げても、空調の吹き出し口にも、染み一つ見当たらない。
自分の手の甲に視線を戻すと、そこには雫の形をした冷たさの残響だけが残っていて、肌自体は白く乾いたままだった。
「……脳の誤作動か」
私は呟き、ハンカチで念入りに手の甲を拭った。
乾いている。確かに、乾いているのだ。
なのに、一度そう感じてしまうと、書庫内の湿度が異常に高く思えてくる。
肺に送り込まれる空気が重く、まるで見えない水の中に沈んでいるような、息苦しい錯覚が胸を締め付けた。
その感覚を振り払うように、胸を擦る。
「作業に戻ろう」
今夜のタスクは、江戸初期の治水資料を抽出することだった。……はずだった。
しかし――。
ブンッ。
スマートフォンが、机上で唐突に震えた。
通知音は消しているはずだ。バイブレーションすら許可していない。
だが、端末は私の意図を無視し、執拗に振動を繰り返す。
苛立ちが、胸の奥から湧き上がる。
集中が、断ち切られた。
私は今、このリストの7項目中の5項目を処理し終え、残り2項目に取り掛かろうとしていたところだった。そのリズムを、この「電子の硝子」が無慈悲に破壊した。
私は、乾いた息を吐き出しながら、端末の画面を覗き込んだ。
画面には、X大学院生グループSNSの通知。
普段、私がミュートしているはずのグループだ。
未読が300件を超えている。
私は、このグループの存在自体、半ば忘れていた。
他の院生たちの雑談や、飲み会の調整や、誰かの誕生日の話題――そういったノイズに満ちた空間に、私は耐えられない。
だが、通知のプレビューに表示されたサムネイル画像が、私の視線を釘付けにした。
モノクロ。
魚眼レンズの歪み。
図書館の、本棚の通路。
そして、壁に「張り付いている」人影。
私は、反射的にそのグループを開いた。
---
【X大学院生グループSNS】

