放課後の校舎は、どこか開放的だった。
廊下の向こうからサッカー部の声が微かに聞こえるが、この教室だけは切り取られたみたいに時間がゆるく流れていた。
窓際の机に腰掛けて、足をぶらぶらさせながら夕日を見つめる先輩。
そんな先輩は見つめる俺は、こっそり息を吐いた。
3年生の先輩。元バスケ部で、ついこの前引退したばかり。
先輩の引退試合は見届けたし、何なら俺も一緒に試合に出た。
ものすごくいい試合だったし、華々しい引退だった。しかし、その日を境に先輩と喋ることのできる時間はめっきり減った。いつもは毎日のように、何なら土曜日まで顔を合わせていたのに、今会えるのは今日のような部活がオフの日だけだった。
「やっべ、目痛てぇわ…」
「何してんすか」
「いやー、綺麗だったからつい」
夕日が綺麗だから見つめていた、なんてクサい台詞を素で言ってしまうのがこの先輩。顔がいいから似合ってんだよな。私情を挟んでしまうが、素直に腹が立つ。
「あー、なんか部活終わったらつまんねぇわ」
「先輩は友達多い方じゃないですか」
「そうか?でも、3年続けてきたものが終わるってなんかな~。友達とは違うんだよ」
そうか、終わったのか。
改めて先輩が部活を引退した事実を痛感する。現に、先輩はスクールバッグだけを机に置いている。いつもなら、バスケシューズや着替えの入った大きな鞄を持っているのに。
もう、いないのか。
先輩が卒業すれば、きっともっと会えなくなる。
バスケ部に入部を決めたのは、先輩に惹かれたからだった。シュートを打つ先輩が綺麗だったから。傍で見たくなってしまった。本当にそれだけ。
それを恋愛感情と呼ぶかどうかなんて、とうの昔に考えるのをやめてしまった。例えそうだとしてもどうせ叶わない恋だし、違ったとしてもバスケ部に入ることには違いなかった。だから、結論を出すのをやめた。
(きっと、先輩は俺のことを忘れていくんだろうな…)
それは嫌だな。忘れてほしくない。
できれば、一生先輩の中に残っていてほしい。
ぼんやりとした思考の中、ふと言葉が口から落ちた。
「先輩、俺のこと殺してくれませんか?」
思っていたより、静かに響いた。ギッという音と共に、揺れていた先輩の足が止まった。
1拍置いて、
「はぁ!?何言ってんだお前!!」
教室に響く大声。先輩は机から飛び降りる勢いで身を乗り出してきた。あまりの勢いに、俺の方が引いてしまう。
「変なこと言うなよ!びっくりするだろ!」
予想通りの反応。
俺は小さく笑ってから静かに口を開いた。
「…冗談ですよ」
本気か冗談かなんて、正直自分でも分からない。ただの気まぐれかもしれない。ただ、意図せず口から出てしまったのだ。
「絶対嘘だろ、その顔!」
「じゃあ、本気って言ったら殺してくれるんですか?」
「無理だわ!」
うるさい。でも、想定の範囲内。
先輩はリアクションが大きい。声も大きい。感情がそのまま顔と声に出る。そんな先輩の生き生きとした感情の動きを間近で見られただけでもう満足だ。
ちなみに、俺は先輩と真逆で感情があまり表に出ないらしい。自覚はないけど、よく言われる。それが良いか悪いかは分からないが、個人的には困っていない。不便に思っていないものを意識して変えようとする余力は、俺には無かった。
「ったく、心臓に悪いわ…」
先輩は頭をわしゃわしゃ掻く。申し訳程度に「すんません」と謝れば、何とも言えない表情をされてしまう。そんな顔をして欲しかったわけではないのだが、今更弁明するのも変か。そう思い、半ば無理矢理話題を切り替えた。
「そういえば、先輩、引退してから暇そうですね」
「超暇。毎日6時に目覚めるのにやることねーんだわ」
「勉強してください。受験生ですよね?」
少しだけ笑いそうになる。指摘するも、母親に怒られている子どものような顔をされる。
「習慣って怖いですね」
「お前もすぐそうなるぞ。今のうちに噛み締めとけ、朝練」
まだ先輩がいた頃の朝練はうるさかった。
集合の時点で声がでかいし、シュートが入れば大騒ぎするし、外せば本気で悔しがる。体育館の空気が、いつも熱を持っていた。
今は静かだ。
練習のメニューは変わっていないのに、なんだか物足りない。
「先輩がいなくなって、ちょっと静かになりました」
「んな変わらんだろ」
「変わりますよ。レギュラーメンバーだけじゃなくて、部員も寂しがってます」
バスケ部の先輩は、今目の前にいるこの先輩以外にも何人かいた。
それでも、入部当初から面倒を見続けてくれているのは、この先輩だった。しんどい時も嬉しい時も、必ず太陽のような笑顔で傍に居てくれた。そんな先輩が泣いたのを見たのは、引退試合の時が初めてだった。
この人も泣くんだ。
当たり前のことなのだが、意外だった。太陽が泣いている事実に胸がざわついた。
俺は、先輩の背中を追っていた。
ポジションも近く、プレイスタイルも似ていると言われる俺たち。
先輩はよく跳ぶ。よく叫ぶ。よく走る。
俺はあまり叫ばないけど、よく跳ぶし、よく走る。
いつか、あの人を越えたいと思っていた。
でも、越える前にいなくなってしまった。
「……あのさ、」
先輩の声が、少しだけ真面目になる。
「さっきの一体何だったんだ?」
「どれですか?」
「殺してくれってやつ」
やっぱり流してはくれなかったか。
目を伏せたまま、小さく口を開く。先輩の真っ直ぐな目を見ながらでは、答えられないと思ったから。
「別に。特に深い意味はないです」
「絶対あるだろ!」
「ただ、先輩ならどう答えるかな~って思っただけですよ」
「俺のことを試したのかよ!?」
声が大きい。でも、怒っているわけじゃない。
ちゃんと分かる。先輩のことをしっかり見てきたから、ただただ困惑しているだけだということが読み取れる。
少しの沈黙。
夕日が一層教室を赤く染め上げるのを感じた。
「…しゃーねーな」
先輩が息を吐く音がやけに鮮明に聞こえる。どんな言葉が続くのか怖くて身構えてしまう。
「本当に殺してほしいなら、もっと時間に余裕もって言ってくれよ」
「えっ」
予想していなかった言葉に、思わず顔を上げた。目が合った先輩は、やけに静かな表情をしていた。
「急に言われても準備とかあるだろ。気持ちとか道具とか…あと段取りも考えるべきだな」
「…それって、」
「可愛い後輩の願いは叶えてやらないとな」
気づけば、ニヤッと笑われていた。
先ほどまでの静かな表情が見間違えだったかと思うほど怪しい笑み。まるで悪だくみをしている子どものような表情に、どうしようもなく胸の奥が熱くなる。
この人は、きっとこう言ってくれると思っていた。
冗談にして、笑い飛ばして、それでもどこか本気で受け止めてくれると。
だから、言った。
『死にたい』ではなく、『殺してほしい』と。
そこまで察されたのか、はたまた先輩の素なのか。それは分からないが、どちらでもいい気がした。
「…やっぱり、うるさいですね」
「ははっ!おう!お前はうるさい俺が好きだもんな!!」
その言葉に不思議な気持ちになった。動けない俺を見つつ、先輩は鞄を肩にかける。
「ほら、カギ閉められる前に帰るぞ!」
俺も倣って立ち上がる。机の脚が床を擦る音が、やけに大きい。教室の環境を簡単に整えてから、小走りで先輩の背を追う。
もう少しで追いつきという時、急に立ち止まった先輩がおもむろに振り返った。
「次はもうちょい簡単なお願いにしろよ。シュートフォーム直してくれ、とかさ」
少し考える。
ああ、そういえば先輩にお願いしたいことがあった。
「じゃあ」
先輩が片眉を上げる。
「明日、1on1、付き合ってください」
一瞬の沈黙。それから、先輩の口元がゆっくり上がる。
「引退した先輩に負けんじゃねーよ?」
その顔を見て、安心する。まだ、背中は消えていない。
形は変わったけど、ちゃんとそこにいてくれる。いつまでも俺の先輩でいてくれる。
でも、
「先輩」
「ん?」
「俺はうるさい先輩だけじゃなくて、泣いてる先輩も好きでしたよ」
「んははっ、恥ずかしいわ!」
うるさい声が廊下に響いた。
先輩の顔が赤く染まる。
その原因が照れによるものなのか、夕日によるものか。それは、きっと先輩にしか分からないのだろう。
廊下の向こうからサッカー部の声が微かに聞こえるが、この教室だけは切り取られたみたいに時間がゆるく流れていた。
窓際の机に腰掛けて、足をぶらぶらさせながら夕日を見つめる先輩。
そんな先輩は見つめる俺は、こっそり息を吐いた。
3年生の先輩。元バスケ部で、ついこの前引退したばかり。
先輩の引退試合は見届けたし、何なら俺も一緒に試合に出た。
ものすごくいい試合だったし、華々しい引退だった。しかし、その日を境に先輩と喋ることのできる時間はめっきり減った。いつもは毎日のように、何なら土曜日まで顔を合わせていたのに、今会えるのは今日のような部活がオフの日だけだった。
「やっべ、目痛てぇわ…」
「何してんすか」
「いやー、綺麗だったからつい」
夕日が綺麗だから見つめていた、なんてクサい台詞を素で言ってしまうのがこの先輩。顔がいいから似合ってんだよな。私情を挟んでしまうが、素直に腹が立つ。
「あー、なんか部活終わったらつまんねぇわ」
「先輩は友達多い方じゃないですか」
「そうか?でも、3年続けてきたものが終わるってなんかな~。友達とは違うんだよ」
そうか、終わったのか。
改めて先輩が部活を引退した事実を痛感する。現に、先輩はスクールバッグだけを机に置いている。いつもなら、バスケシューズや着替えの入った大きな鞄を持っているのに。
もう、いないのか。
先輩が卒業すれば、きっともっと会えなくなる。
バスケ部に入部を決めたのは、先輩に惹かれたからだった。シュートを打つ先輩が綺麗だったから。傍で見たくなってしまった。本当にそれだけ。
それを恋愛感情と呼ぶかどうかなんて、とうの昔に考えるのをやめてしまった。例えそうだとしてもどうせ叶わない恋だし、違ったとしてもバスケ部に入ることには違いなかった。だから、結論を出すのをやめた。
(きっと、先輩は俺のことを忘れていくんだろうな…)
それは嫌だな。忘れてほしくない。
できれば、一生先輩の中に残っていてほしい。
ぼんやりとした思考の中、ふと言葉が口から落ちた。
「先輩、俺のこと殺してくれませんか?」
思っていたより、静かに響いた。ギッという音と共に、揺れていた先輩の足が止まった。
1拍置いて、
「はぁ!?何言ってんだお前!!」
教室に響く大声。先輩は机から飛び降りる勢いで身を乗り出してきた。あまりの勢いに、俺の方が引いてしまう。
「変なこと言うなよ!びっくりするだろ!」
予想通りの反応。
俺は小さく笑ってから静かに口を開いた。
「…冗談ですよ」
本気か冗談かなんて、正直自分でも分からない。ただの気まぐれかもしれない。ただ、意図せず口から出てしまったのだ。
「絶対嘘だろ、その顔!」
「じゃあ、本気って言ったら殺してくれるんですか?」
「無理だわ!」
うるさい。でも、想定の範囲内。
先輩はリアクションが大きい。声も大きい。感情がそのまま顔と声に出る。そんな先輩の生き生きとした感情の動きを間近で見られただけでもう満足だ。
ちなみに、俺は先輩と真逆で感情があまり表に出ないらしい。自覚はないけど、よく言われる。それが良いか悪いかは分からないが、個人的には困っていない。不便に思っていないものを意識して変えようとする余力は、俺には無かった。
「ったく、心臓に悪いわ…」
先輩は頭をわしゃわしゃ掻く。申し訳程度に「すんません」と謝れば、何とも言えない表情をされてしまう。そんな顔をして欲しかったわけではないのだが、今更弁明するのも変か。そう思い、半ば無理矢理話題を切り替えた。
「そういえば、先輩、引退してから暇そうですね」
「超暇。毎日6時に目覚めるのにやることねーんだわ」
「勉強してください。受験生ですよね?」
少しだけ笑いそうになる。指摘するも、母親に怒られている子どものような顔をされる。
「習慣って怖いですね」
「お前もすぐそうなるぞ。今のうちに噛み締めとけ、朝練」
まだ先輩がいた頃の朝練はうるさかった。
集合の時点で声がでかいし、シュートが入れば大騒ぎするし、外せば本気で悔しがる。体育館の空気が、いつも熱を持っていた。
今は静かだ。
練習のメニューは変わっていないのに、なんだか物足りない。
「先輩がいなくなって、ちょっと静かになりました」
「んな変わらんだろ」
「変わりますよ。レギュラーメンバーだけじゃなくて、部員も寂しがってます」
バスケ部の先輩は、今目の前にいるこの先輩以外にも何人かいた。
それでも、入部当初から面倒を見続けてくれているのは、この先輩だった。しんどい時も嬉しい時も、必ず太陽のような笑顔で傍に居てくれた。そんな先輩が泣いたのを見たのは、引退試合の時が初めてだった。
この人も泣くんだ。
当たり前のことなのだが、意外だった。太陽が泣いている事実に胸がざわついた。
俺は、先輩の背中を追っていた。
ポジションも近く、プレイスタイルも似ていると言われる俺たち。
先輩はよく跳ぶ。よく叫ぶ。よく走る。
俺はあまり叫ばないけど、よく跳ぶし、よく走る。
いつか、あの人を越えたいと思っていた。
でも、越える前にいなくなってしまった。
「……あのさ、」
先輩の声が、少しだけ真面目になる。
「さっきの一体何だったんだ?」
「どれですか?」
「殺してくれってやつ」
やっぱり流してはくれなかったか。
目を伏せたまま、小さく口を開く。先輩の真っ直ぐな目を見ながらでは、答えられないと思ったから。
「別に。特に深い意味はないです」
「絶対あるだろ!」
「ただ、先輩ならどう答えるかな~って思っただけですよ」
「俺のことを試したのかよ!?」
声が大きい。でも、怒っているわけじゃない。
ちゃんと分かる。先輩のことをしっかり見てきたから、ただただ困惑しているだけだということが読み取れる。
少しの沈黙。
夕日が一層教室を赤く染め上げるのを感じた。
「…しゃーねーな」
先輩が息を吐く音がやけに鮮明に聞こえる。どんな言葉が続くのか怖くて身構えてしまう。
「本当に殺してほしいなら、もっと時間に余裕もって言ってくれよ」
「えっ」
予想していなかった言葉に、思わず顔を上げた。目が合った先輩は、やけに静かな表情をしていた。
「急に言われても準備とかあるだろ。気持ちとか道具とか…あと段取りも考えるべきだな」
「…それって、」
「可愛い後輩の願いは叶えてやらないとな」
気づけば、ニヤッと笑われていた。
先ほどまでの静かな表情が見間違えだったかと思うほど怪しい笑み。まるで悪だくみをしている子どものような表情に、どうしようもなく胸の奥が熱くなる。
この人は、きっとこう言ってくれると思っていた。
冗談にして、笑い飛ばして、それでもどこか本気で受け止めてくれると。
だから、言った。
『死にたい』ではなく、『殺してほしい』と。
そこまで察されたのか、はたまた先輩の素なのか。それは分からないが、どちらでもいい気がした。
「…やっぱり、うるさいですね」
「ははっ!おう!お前はうるさい俺が好きだもんな!!」
その言葉に不思議な気持ちになった。動けない俺を見つつ、先輩は鞄を肩にかける。
「ほら、カギ閉められる前に帰るぞ!」
俺も倣って立ち上がる。机の脚が床を擦る音が、やけに大きい。教室の環境を簡単に整えてから、小走りで先輩の背を追う。
もう少しで追いつきという時、急に立ち止まった先輩がおもむろに振り返った。
「次はもうちょい簡単なお願いにしろよ。シュートフォーム直してくれ、とかさ」
少し考える。
ああ、そういえば先輩にお願いしたいことがあった。
「じゃあ」
先輩が片眉を上げる。
「明日、1on1、付き合ってください」
一瞬の沈黙。それから、先輩の口元がゆっくり上がる。
「引退した先輩に負けんじゃねーよ?」
その顔を見て、安心する。まだ、背中は消えていない。
形は変わったけど、ちゃんとそこにいてくれる。いつまでも俺の先輩でいてくれる。
でも、
「先輩」
「ん?」
「俺はうるさい先輩だけじゃなくて、泣いてる先輩も好きでしたよ」
「んははっ、恥ずかしいわ!」
うるさい声が廊下に響いた。
先輩の顔が赤く染まる。
その原因が照れによるものなのか、夕日によるものか。それは、きっと先輩にしか分からないのだろう。



