夕日は、人の気持ちを不思議なものにさせる。
図書室の西側の窓から差し込む橙色の光が、本棚の背表紙を穏やかに照らす。古い貸出票のポケットが透けて、埃が金色に浮かぶのがはっきりと見えた。
私たち図書委員は、当番制で放課後に蔵書点検をすることになっている。返却棚に積まれた本を分類し、背を揃えて番号順に戻す。単純作業は、どうでもいい話をするのにちょうど良かった。
「ねえ」
本を叩くような音と共に、美咲(みさき)が声を発した。音からして、彼女は本の埃を落としているのだろう。
「なにー?」
「物語ってさ、バッドエンドでも綺麗だからズルいよね」
「ズルい?」
その言葉に、脚立の上から振り返る。本棚に手を伸ばした手は不自然な位置で固まってしまった。
「うん。ほら、最後に誰かが死んでも、世界が滅んでも、ページを閉じた瞬間に『はい終わり』ってなるでしょ。どんな悲劇でも美化されるのってズルくない?」
「あー…たしかに?」
美咲は、唇を尖らせながら本を分類ごとに積んでいく。慣れた手つきに感心しつつ、仕舞うべき次の本の山を取りに脚立を下りる。
「現実もそうなってほしい、っていうこと?」
「そういうこと」
本を仕分けながら言葉を続ける。
「物語の死は綺麗に見えるじゃない。ちゃんと意味がある」
「意味」
「そう。伏線回収とか、テーマの象徴とか。死に方まで演出されれば、満点じゃん」
窓の外では、グラウンドの白線が朱色に染まっている。サッカー部の掛け声が良く聞こえた。
日常はいつも通りに進んでいる。こんな会話も、慣れたものだった。2人きりの委員会活動の時はいつもこう。何となく、生死についての話をする。
「演劇部に入ればよかったじゃん。その辺の話してそうだけど」
「いやー、あの天才女優と同じ部活は荷が重いかな」
ああ、あの子か。
美術部部長と仲のいい演劇部部長は、沢山の人から『天才女優』と呼ばれている。それを思い出し、そっと息を吐いた。
「たしかに」
「未来ある女優の邪魔はできないね」
ケタケタ笑う美咲は、急にその笑みを静める。夕日を見つめる瞳は、どこか呆然としていた。
「ねえ、自分の人生が物語だとしたら、どんな死に方したい?」
美咲が、唐突に問うてきた。その質問の意図を、一瞬理解できなかった。いつも仄暗い話をしているとはいえ、こんなに踏み込んだ質問をしてくるのは初めてだったから。
「…難しいね」
積まれた本の山の内の1つを持ち上げる。
「飛び降りとか?首吊りとか?」
「自殺じゃなくてもいいよ」
「んー…じゃあ、病死がいいかも」
「どうして?」
さらなる問いに、少し迷ってから口を開いた。
「余命を知って、悲しまれて、生まれてきた意味を確認しながら死んでいきたい、って思った」
「おお~!それいいじゃん!」
美咲は力強く拍手をしてきた。パチパチと贈られるそれに、思わず顔を顰めてしまう。
「その話、いいね」
「人の死に『いいね』って、アンタねぇ」
「でも、物語の世界だとそれがまかり通るんだよ。死に対して『いいね』片付く」
本棚の間を練り歩きながら、美咲は続ける。
「本の数だけ物語がある。フィクションでも、ノンフィクションでも」
「ノンフィクションは違くない?」
「例え学術誌でも、その人が研究したこと__すなわち、人生の中で突き詰めてきたものが書かれてるでしょ?」
何だか小難しい話になってきた。小さくため息を吐き、脚立の上から美咲を見下ろす。
「じゃあさ、美咲は自分の人生が物語だとしたら、どんな死がいいの?」
「誰にも見つからない死がいい」
迷いなく答えられてしまう。
「山奥とか、海の底とか。誰にも発見されないまま、自然に還るの」
まるで、ずっと前からそう考えていたかのような迷いのなさだ。たまに見せる美咲の、この狂気的な部分が少し怖い。そう思ってしまうのは仕方のないことのように思えた。
「…面白そうだね」
「でも、綺麗ではない」
当然のようにそう言われる。否定しようと出た言葉は、ぐっと喉に引っかかった。
「ただ、静かだよ。これは間違いない」
美咲は棚から1冊抜き取る。それは、しおりが挟まったままの小説。どうやら、誰かが途中で読むのをやめたらしい。
「途中で終わる物語って、1番嫌かも」
「読者が読むのをやめたっていうこと?それとも、そもそも続きがないっていうこと?」
「どっちも嫌だね。甲乙つけがたい」
本から抜き取ったしおりを夕日にかざしながら、美咲は呟く。
「完結してないから、意味が定まらない。宙ぶらりんのものを美しいと思える感性、私にはないなぁ」
「じゃあ、途中で死ぬのは?」
「それは途中じゃないよ。そこが終末だっただけ。それに、物語なら意味づけられるよ。『若くして』とか『志半ばで』とか。言葉があとからくっつく」
「じゃあ、現実ではどうなの?」
「現実は語る人がいる限り、例え望んでいなくても物語になる。ニュースでも、新聞でも。最悪、ネットの笑いものだよね。考察に批評。よく飽きないよ」
その言葉を最後に、私たちはしばらく黙って本を運んだ。
返却棚の山がどんどん低くなる。代わりに、整列した背表紙が増える。秩序は、人の手によって作られる。
「ねえ」
美咲が再び声を発する。それは、最初と同じ響きだった。
「私たちが今ここで死んだらさ」
「縁起でもない」
「まあまあ、例えばだよ。夕日に照らされた図書室で、図書委員の2人がなぜか息絶えてる。どう?」
「ミステリーじゃん」
思わずツッコめば、笑い声が返って来た。
「そう。たぶん動機が探される。『遺書はあるのか』とか『いじめはあったか』とか、『恋愛問題で何かあったのか』とか」
「…勝手に脚色されるんだ」
「私たちの知らない『私たち』が作られる」
「それはちょっと面白いね」
「面白いよね」
言葉そのものが、軽く弾む。不謹慎だが、そんなあらすじの物語なら少し読んでみたい。オチはどうなのか、死亡動機はどうなのか。自分たちが題材なのに、全く予想がつかない。
「でもさ、死に方が綺麗かどうかって、結局は見る側の都合だよね」
「たしかに」
「残された人がどう整理できるか。どう意味を置くか。それを物語の世界では『ラベル』とか『ジャンル』とか呼ぶ」
「現実にも適用されそう。自殺とか他殺とか」
背表紙を指でなぞる。分類番号。著者名。出版社。
ラベルがあるから、迷わない。
「ラベルのない死はどうなるんだろう」
「そんなもの存在しないよ。ラベルを貼るのが人間の仕事だもん」
「不審死は?」
「『不審死』っていうラベル」
「なるほど」
病死、事故死、自殺、衰弱。
数えきれないほどのラベルが、この世にはある。
「勝手につけられるの?」
「勝手につけられるの」
美咲は無邪気に笑う。
「だから物語はズルい。最初からラベルが用意されてる。『悲劇』『純愛』『自己犠牲』。死ぬ前に、ジャンルが決まってる。だから迷わないじゃん」
「現実は?」
「ノンジャンル。それでいて、ごちゃ混ぜで意味不明」
「それって、悪いこと?」
「ううん、別に」
美咲は首を振る。夕日がその横顔を縁取る。まつげが影を落とす。
「意味がなくてもいいんじゃない?」
「いいの?」
「だって、生きるのに意味が必要だって誰が決めたの」
「……哲学者とか?」
「うへ、めんどくさ」
私たちはまた笑う。笑い声は本棚に吸い込まれて、柔らかくなるのを肌で感じた。
「綺麗な死に方、か」
小さく呟く。
「私は『ああ、あの子はこういう子だったんだ』って綺麗に言われるの、なんか嫌かな」
「決めつけられるのが嫌?」
「うん。もっと訳分かんないままでいたい」
最後の1冊を本棚に戻す。返却棚は空っぽになった。代わりに、図書室はいつも通りの顔をしている。何も起きていないみたい。
「ほら、今日もちゃんと片付いた」
「うん」
「そして、私たちは死んでいない」
得意げに発されたその言葉に、首を傾げる。
「残念?」
「別に」
その答えに笑ってしまった。本当に掴みどころのない人だ。友人ながらに不思議に思う。
綺麗な死に方なんて、多分ない。
あるのは、誰かが後から貼るラベルだけ。
悲劇だとか、不幸だとか、若すぎるとか。
そうやって並べ替えられて背表紙を揃えられて、そして1つの物語にされる。
でも、私たちは今ここで生きている。
本を戻して埃を払い、夕日を浴びている。意味なんて、まだ貼られていない。
「帰ろっか」
「うん」
電気を消すと、図書室は群青に沈む。夕日の残り香だけが、窓辺に細く残っていた。
綺麗じゃなくていい。
整ってなくていい。
ぐちゃぐちゃのまま、明日もページを捲る。
それでいいよね、と、誰にともなく思いながら、私たちは並んで廊下を歩いた。
図書室の西側の窓から差し込む橙色の光が、本棚の背表紙を穏やかに照らす。古い貸出票のポケットが透けて、埃が金色に浮かぶのがはっきりと見えた。
私たち図書委員は、当番制で放課後に蔵書点検をすることになっている。返却棚に積まれた本を分類し、背を揃えて番号順に戻す。単純作業は、どうでもいい話をするのにちょうど良かった。
「ねえ」
本を叩くような音と共に、美咲(みさき)が声を発した。音からして、彼女は本の埃を落としているのだろう。
「なにー?」
「物語ってさ、バッドエンドでも綺麗だからズルいよね」
「ズルい?」
その言葉に、脚立の上から振り返る。本棚に手を伸ばした手は不自然な位置で固まってしまった。
「うん。ほら、最後に誰かが死んでも、世界が滅んでも、ページを閉じた瞬間に『はい終わり』ってなるでしょ。どんな悲劇でも美化されるのってズルくない?」
「あー…たしかに?」
美咲は、唇を尖らせながら本を分類ごとに積んでいく。慣れた手つきに感心しつつ、仕舞うべき次の本の山を取りに脚立を下りる。
「現実もそうなってほしい、っていうこと?」
「そういうこと」
本を仕分けながら言葉を続ける。
「物語の死は綺麗に見えるじゃない。ちゃんと意味がある」
「意味」
「そう。伏線回収とか、テーマの象徴とか。死に方まで演出されれば、満点じゃん」
窓の外では、グラウンドの白線が朱色に染まっている。サッカー部の掛け声が良く聞こえた。
日常はいつも通りに進んでいる。こんな会話も、慣れたものだった。2人きりの委員会活動の時はいつもこう。何となく、生死についての話をする。
「演劇部に入ればよかったじゃん。その辺の話してそうだけど」
「いやー、あの天才女優と同じ部活は荷が重いかな」
ああ、あの子か。
美術部部長と仲のいい演劇部部長は、沢山の人から『天才女優』と呼ばれている。それを思い出し、そっと息を吐いた。
「たしかに」
「未来ある女優の邪魔はできないね」
ケタケタ笑う美咲は、急にその笑みを静める。夕日を見つめる瞳は、どこか呆然としていた。
「ねえ、自分の人生が物語だとしたら、どんな死に方したい?」
美咲が、唐突に問うてきた。その質問の意図を、一瞬理解できなかった。いつも仄暗い話をしているとはいえ、こんなに踏み込んだ質問をしてくるのは初めてだったから。
「…難しいね」
積まれた本の山の内の1つを持ち上げる。
「飛び降りとか?首吊りとか?」
「自殺じゃなくてもいいよ」
「んー…じゃあ、病死がいいかも」
「どうして?」
さらなる問いに、少し迷ってから口を開いた。
「余命を知って、悲しまれて、生まれてきた意味を確認しながら死んでいきたい、って思った」
「おお~!それいいじゃん!」
美咲は力強く拍手をしてきた。パチパチと贈られるそれに、思わず顔を顰めてしまう。
「その話、いいね」
「人の死に『いいね』って、アンタねぇ」
「でも、物語の世界だとそれがまかり通るんだよ。死に対して『いいね』片付く」
本棚の間を練り歩きながら、美咲は続ける。
「本の数だけ物語がある。フィクションでも、ノンフィクションでも」
「ノンフィクションは違くない?」
「例え学術誌でも、その人が研究したこと__すなわち、人生の中で突き詰めてきたものが書かれてるでしょ?」
何だか小難しい話になってきた。小さくため息を吐き、脚立の上から美咲を見下ろす。
「じゃあさ、美咲は自分の人生が物語だとしたら、どんな死がいいの?」
「誰にも見つからない死がいい」
迷いなく答えられてしまう。
「山奥とか、海の底とか。誰にも発見されないまま、自然に還るの」
まるで、ずっと前からそう考えていたかのような迷いのなさだ。たまに見せる美咲の、この狂気的な部分が少し怖い。そう思ってしまうのは仕方のないことのように思えた。
「…面白そうだね」
「でも、綺麗ではない」
当然のようにそう言われる。否定しようと出た言葉は、ぐっと喉に引っかかった。
「ただ、静かだよ。これは間違いない」
美咲は棚から1冊抜き取る。それは、しおりが挟まったままの小説。どうやら、誰かが途中で読むのをやめたらしい。
「途中で終わる物語って、1番嫌かも」
「読者が読むのをやめたっていうこと?それとも、そもそも続きがないっていうこと?」
「どっちも嫌だね。甲乙つけがたい」
本から抜き取ったしおりを夕日にかざしながら、美咲は呟く。
「完結してないから、意味が定まらない。宙ぶらりんのものを美しいと思える感性、私にはないなぁ」
「じゃあ、途中で死ぬのは?」
「それは途中じゃないよ。そこが終末だっただけ。それに、物語なら意味づけられるよ。『若くして』とか『志半ばで』とか。言葉があとからくっつく」
「じゃあ、現実ではどうなの?」
「現実は語る人がいる限り、例え望んでいなくても物語になる。ニュースでも、新聞でも。最悪、ネットの笑いものだよね。考察に批評。よく飽きないよ」
その言葉を最後に、私たちはしばらく黙って本を運んだ。
返却棚の山がどんどん低くなる。代わりに、整列した背表紙が増える。秩序は、人の手によって作られる。
「ねえ」
美咲が再び声を発する。それは、最初と同じ響きだった。
「私たちが今ここで死んだらさ」
「縁起でもない」
「まあまあ、例えばだよ。夕日に照らされた図書室で、図書委員の2人がなぜか息絶えてる。どう?」
「ミステリーじゃん」
思わずツッコめば、笑い声が返って来た。
「そう。たぶん動機が探される。『遺書はあるのか』とか『いじめはあったか』とか、『恋愛問題で何かあったのか』とか」
「…勝手に脚色されるんだ」
「私たちの知らない『私たち』が作られる」
「それはちょっと面白いね」
「面白いよね」
言葉そのものが、軽く弾む。不謹慎だが、そんなあらすじの物語なら少し読んでみたい。オチはどうなのか、死亡動機はどうなのか。自分たちが題材なのに、全く予想がつかない。
「でもさ、死に方が綺麗かどうかって、結局は見る側の都合だよね」
「たしかに」
「残された人がどう整理できるか。どう意味を置くか。それを物語の世界では『ラベル』とか『ジャンル』とか呼ぶ」
「現実にも適用されそう。自殺とか他殺とか」
背表紙を指でなぞる。分類番号。著者名。出版社。
ラベルがあるから、迷わない。
「ラベルのない死はどうなるんだろう」
「そんなもの存在しないよ。ラベルを貼るのが人間の仕事だもん」
「不審死は?」
「『不審死』っていうラベル」
「なるほど」
病死、事故死、自殺、衰弱。
数えきれないほどのラベルが、この世にはある。
「勝手につけられるの?」
「勝手につけられるの」
美咲は無邪気に笑う。
「だから物語はズルい。最初からラベルが用意されてる。『悲劇』『純愛』『自己犠牲』。死ぬ前に、ジャンルが決まってる。だから迷わないじゃん」
「現実は?」
「ノンジャンル。それでいて、ごちゃ混ぜで意味不明」
「それって、悪いこと?」
「ううん、別に」
美咲は首を振る。夕日がその横顔を縁取る。まつげが影を落とす。
「意味がなくてもいいんじゃない?」
「いいの?」
「だって、生きるのに意味が必要だって誰が決めたの」
「……哲学者とか?」
「うへ、めんどくさ」
私たちはまた笑う。笑い声は本棚に吸い込まれて、柔らかくなるのを肌で感じた。
「綺麗な死に方、か」
小さく呟く。
「私は『ああ、あの子はこういう子だったんだ』って綺麗に言われるの、なんか嫌かな」
「決めつけられるのが嫌?」
「うん。もっと訳分かんないままでいたい」
最後の1冊を本棚に戻す。返却棚は空っぽになった。代わりに、図書室はいつも通りの顔をしている。何も起きていないみたい。
「ほら、今日もちゃんと片付いた」
「うん」
「そして、私たちは死んでいない」
得意げに発されたその言葉に、首を傾げる。
「残念?」
「別に」
その答えに笑ってしまった。本当に掴みどころのない人だ。友人ながらに不思議に思う。
綺麗な死に方なんて、多分ない。
あるのは、誰かが後から貼るラベルだけ。
悲劇だとか、不幸だとか、若すぎるとか。
そうやって並べ替えられて背表紙を揃えられて、そして1つの物語にされる。
でも、私たちは今ここで生きている。
本を戻して埃を払い、夕日を浴びている。意味なんて、まだ貼られていない。
「帰ろっか」
「うん」
電気を消すと、図書室は群青に沈む。夕日の残り香だけが、窓辺に細く残っていた。
綺麗じゃなくていい。
整ってなくていい。
ぐちゃぐちゃのまま、明日もページを捲る。
それでいいよね、と、誰にともなく思いながら、私たちは並んで廊下を歩いた。



