校舎の影が長く伸びる頃、窓ガラスは夕日を受けて赤く燃えていた。
青いはずの青春が、今日はやけに赤い。
正門の前に立つ2人も、その赤に染まっていた。白いシャツは赤く染まり、本来の色を消していた。
彼はネクタイを緩め、彼女はきちんと結った髪を少しだけ崩している。
どちらも、家では決して見せない顔だ。
「決まったらしいよ」
彼が言う。
「来月、顔合わせだって」
彼女は驚かなかった。瞼を伏せたまま、小さく息を吐く。
「こっちは来週。婚約指輪のサイズを測るって言われた」
完璧主義な親の元に生まれた2人。
お互い、入学当初から成績は常に上位を保っている。過去には、両者満点の同率1位という偉業を成したこともあったぐらいだ。加えて、礼儀やマナーは完璧であった。
努力は当然、失敗は恥。泣くのは未熟、反抗は不良。そう教え込まれて育った2人は、友人や進路さえも親の希望に従うしかなかった。
そして、結婚相手も親が決めた。
家柄、学歴、資産、将来性。条件を並べて、まるで投資商品のように選ばれた許婚。
そこに、2人の意思はない。
「お前の相手、どんな人?」
「優秀。優しい。非の打ち所がないって母が言ってた」
「こっちも似たようなもんだよ」
彼は笑うが、目は笑っていない。
「きっと正しいんだろうね。親の言う通りにすれば、間違いはない」
「うん」
「幸せ、なんだろうな」
__幸せ。
その言葉は、なぜか喉に引っかかった。
2人は恋人ではない。手も繋がないし、甘い言葉もない。ただ、同じように期待を背負わされて、同じように息苦しさを抱えてきた同志だった。
お互いに恋愛感情はない。
でも、理解は誰よりもある。傷も悩みも苦悩も、全て手に取るように分かってしまう。
「逃げたい」
彼女が言う。
その声は、夕焼けに溶けそうなくらい静かだった。
「うん」
彼も、即座にうなずく。
「俺も逃げたい」
どこへ、とは言わない。具体的な場所など思いつかない。海外に行く勇気もないし、家を捨てる覚悟も曖昧だ。ただ、この決められた未来から離れたいだけ。
愛ではない。衝動でもない。
そんな曖昧な逃避行をしたかった。
「このまま、どこか行く?」
「どこへ?」
「さあ」
赤い空の下、街が広がっている。帰れば、整った食卓と完璧な笑顔の両親が待っている。寸分違わないそれらに、違和感を持ち始めたのは、いつだったか。随分昔のような気もするし、つい最近のような気もする。
「ねえ」
彼女が言った。
「一緒に死んじゃう?」
あまりにも唐突で、あまりにも淡々とした声音だった。彼は一瞬だけ目を見開き、すぐに苦笑する。
「ロマンチックじゃないな」
「恋人じゃないし」
「そうだな」
本来は愛の果てに選ばれるものだと、物語は教える。けれど、2人の間にあるのは愛ではない。ただ、行き止まりの地図だけだ。逃げたいけれど、きっとこの世界は逃げるには狭すぎる。
ならば、この世ではないあの世に逃げよう。
言外にそう言われたのだと、痛いほどに理解してしまう。
「死んだらさ」
彼女は空を見上げる。
「親、どう思うかな」
「完璧じゃなかった、って悔しがるんじゃない?」
「最後まで管理できなかった、って?」
2人は、少しだけ笑う。自分の死を、親の評価基準で想像してしまう。自らの死を考えても、親からは逃げられない。そのことが酷く滑稽だった。
「『自殺』ってさ、『自らを殺す』って書くだろ?」
彼がぽつりと言う。
「今の俺たちは、死んでないのかな」
「……」
「自分も無ければ、自分の希望を1つも言えない。それって、もう死んでるようなものだとしか思えない」
彼女は、彼の言葉を肯定も否定もできなかった。
完璧なレール。間違いのない人生。用意された配偶者。安定した未来。
そこには失敗もない代わりに、選択もない。
「私たち、青くないよね」
「大人ってこと?」
「それもあるけど、青春を謳歌してないなって」
そう語る口調は、妙に大人びていた。
「もっとこう、キラキラしてて、好きだの何だの言って、喧嘩して泣いてさ」
「ないな」
「そう、ないんだよ」
赤い空は、じわじわと紫に変わりつつある。
爽やかな青い物語になれない2人。あるのは、焼けつくような夕暮れ色の現実だけ。
「本当に死ぬ?」
彼が聞く。
「どうやって?」
「それ考えるの、めんどくさい」
「分かる」
2人は並んで笑う。
死さえも、完璧に計画しなければならない気がしてしまう。失敗は許されない。中途半端も駄目。
「でもさ、初めて1から100まで決められるよ」
「それは、…楽しいかもしれないな」
彼は照れたように笑った。
それから、穏やかな空気が流れる。こんな時間が永遠に続けばいいのに、と彼が思った時だった。
「ねえ」
彼女は彼を見る。
「私たちさ、恋人だったらよかった?」
それは、何を意味しているのか。
質問の意図が読めないまま、彼は返す。
「どうだろうな。…恋人関係で一緒に死ぬとしたら、何かの意味になったかも」
「意味、いる?」
少し考える。
「……いらないかも」
夕日の残光が、2人の横顔を赤く縁取る。
「さっきのさ」
彼が言う。
「一緒に死ぬってやつ」
「うん」
「抜け駆け禁止な」
彼は、地面の影を踏む。
「逃げるなら一緒に逃げよう」
彼女が息をのむ。
胸が痛いのは、愛のせいじゃない。ただ、なんだか嬉しく思ってしまったせいだと、彼女は自分で分析した。
「じゃあさ」
彼女が言う。
「生きたまま逃げる?」
「難易度高いな」
沈黙。
遠くで電車の音がする。
「駆け落ち、ってほどでもないけどね」
「恋じゃないもんな」
「じゃあ…共犯?」
「それも違くないか?」
2人は考え、そして同時に言った。
「「逃亡者」」
目が合う。
恋愛感情はない。それでも、この瞬間だけは確かに同じ温度だった。
「もしどうしても無理になったら、その時にまた考えよっか」
「保留か」
「うん。最終手段にとっておきたい」
彼は、彼女の言葉に頷く。
「じゃあ今日は、生存を選択で」
2人は歩き出す。
手は繋がない。肩も触れない。ただ、同じ歩幅でゆっくりと歩く。
完璧な親が描いた未来図から、ほんの数センチだけずれるために。
それは壮大な反抗でも、劇的な逃避行でもない。
ただ、今日を生き延びるための、小さな逸脱。
夕日に染まった校門を背に、2人は街へと消えていく。
心中はしない。
代わりに、不完全に生きる。
小さな作戦。
決める時は、誰にも悟らせないまま1発で。
青いはずの青春が、今日はやけに赤い。
正門の前に立つ2人も、その赤に染まっていた。白いシャツは赤く染まり、本来の色を消していた。
彼はネクタイを緩め、彼女はきちんと結った髪を少しだけ崩している。
どちらも、家では決して見せない顔だ。
「決まったらしいよ」
彼が言う。
「来月、顔合わせだって」
彼女は驚かなかった。瞼を伏せたまま、小さく息を吐く。
「こっちは来週。婚約指輪のサイズを測るって言われた」
完璧主義な親の元に生まれた2人。
お互い、入学当初から成績は常に上位を保っている。過去には、両者満点の同率1位という偉業を成したこともあったぐらいだ。加えて、礼儀やマナーは完璧であった。
努力は当然、失敗は恥。泣くのは未熟、反抗は不良。そう教え込まれて育った2人は、友人や進路さえも親の希望に従うしかなかった。
そして、結婚相手も親が決めた。
家柄、学歴、資産、将来性。条件を並べて、まるで投資商品のように選ばれた許婚。
そこに、2人の意思はない。
「お前の相手、どんな人?」
「優秀。優しい。非の打ち所がないって母が言ってた」
「こっちも似たようなもんだよ」
彼は笑うが、目は笑っていない。
「きっと正しいんだろうね。親の言う通りにすれば、間違いはない」
「うん」
「幸せ、なんだろうな」
__幸せ。
その言葉は、なぜか喉に引っかかった。
2人は恋人ではない。手も繋がないし、甘い言葉もない。ただ、同じように期待を背負わされて、同じように息苦しさを抱えてきた同志だった。
お互いに恋愛感情はない。
でも、理解は誰よりもある。傷も悩みも苦悩も、全て手に取るように分かってしまう。
「逃げたい」
彼女が言う。
その声は、夕焼けに溶けそうなくらい静かだった。
「うん」
彼も、即座にうなずく。
「俺も逃げたい」
どこへ、とは言わない。具体的な場所など思いつかない。海外に行く勇気もないし、家を捨てる覚悟も曖昧だ。ただ、この決められた未来から離れたいだけ。
愛ではない。衝動でもない。
そんな曖昧な逃避行をしたかった。
「このまま、どこか行く?」
「どこへ?」
「さあ」
赤い空の下、街が広がっている。帰れば、整った食卓と完璧な笑顔の両親が待っている。寸分違わないそれらに、違和感を持ち始めたのは、いつだったか。随分昔のような気もするし、つい最近のような気もする。
「ねえ」
彼女が言った。
「一緒に死んじゃう?」
あまりにも唐突で、あまりにも淡々とした声音だった。彼は一瞬だけ目を見開き、すぐに苦笑する。
「ロマンチックじゃないな」
「恋人じゃないし」
「そうだな」
本来は愛の果てに選ばれるものだと、物語は教える。けれど、2人の間にあるのは愛ではない。ただ、行き止まりの地図だけだ。逃げたいけれど、きっとこの世界は逃げるには狭すぎる。
ならば、この世ではないあの世に逃げよう。
言外にそう言われたのだと、痛いほどに理解してしまう。
「死んだらさ」
彼女は空を見上げる。
「親、どう思うかな」
「完璧じゃなかった、って悔しがるんじゃない?」
「最後まで管理できなかった、って?」
2人は、少しだけ笑う。自分の死を、親の評価基準で想像してしまう。自らの死を考えても、親からは逃げられない。そのことが酷く滑稽だった。
「『自殺』ってさ、『自らを殺す』って書くだろ?」
彼がぽつりと言う。
「今の俺たちは、死んでないのかな」
「……」
「自分も無ければ、自分の希望を1つも言えない。それって、もう死んでるようなものだとしか思えない」
彼女は、彼の言葉を肯定も否定もできなかった。
完璧なレール。間違いのない人生。用意された配偶者。安定した未来。
そこには失敗もない代わりに、選択もない。
「私たち、青くないよね」
「大人ってこと?」
「それもあるけど、青春を謳歌してないなって」
そう語る口調は、妙に大人びていた。
「もっとこう、キラキラしてて、好きだの何だの言って、喧嘩して泣いてさ」
「ないな」
「そう、ないんだよ」
赤い空は、じわじわと紫に変わりつつある。
爽やかな青い物語になれない2人。あるのは、焼けつくような夕暮れ色の現実だけ。
「本当に死ぬ?」
彼が聞く。
「どうやって?」
「それ考えるの、めんどくさい」
「分かる」
2人は並んで笑う。
死さえも、完璧に計画しなければならない気がしてしまう。失敗は許されない。中途半端も駄目。
「でもさ、初めて1から100まで決められるよ」
「それは、…楽しいかもしれないな」
彼は照れたように笑った。
それから、穏やかな空気が流れる。こんな時間が永遠に続けばいいのに、と彼が思った時だった。
「ねえ」
彼女は彼を見る。
「私たちさ、恋人だったらよかった?」
それは、何を意味しているのか。
質問の意図が読めないまま、彼は返す。
「どうだろうな。…恋人関係で一緒に死ぬとしたら、何かの意味になったかも」
「意味、いる?」
少し考える。
「……いらないかも」
夕日の残光が、2人の横顔を赤く縁取る。
「さっきのさ」
彼が言う。
「一緒に死ぬってやつ」
「うん」
「抜け駆け禁止な」
彼は、地面の影を踏む。
「逃げるなら一緒に逃げよう」
彼女が息をのむ。
胸が痛いのは、愛のせいじゃない。ただ、なんだか嬉しく思ってしまったせいだと、彼女は自分で分析した。
「じゃあさ」
彼女が言う。
「生きたまま逃げる?」
「難易度高いな」
沈黙。
遠くで電車の音がする。
「駆け落ち、ってほどでもないけどね」
「恋じゃないもんな」
「じゃあ…共犯?」
「それも違くないか?」
2人は考え、そして同時に言った。
「「逃亡者」」
目が合う。
恋愛感情はない。それでも、この瞬間だけは確かに同じ温度だった。
「もしどうしても無理になったら、その時にまた考えよっか」
「保留か」
「うん。最終手段にとっておきたい」
彼は、彼女の言葉に頷く。
「じゃあ今日は、生存を選択で」
2人は歩き出す。
手は繋がない。肩も触れない。ただ、同じ歩幅でゆっくりと歩く。
完璧な親が描いた未来図から、ほんの数センチだけずれるために。
それは壮大な反抗でも、劇的な逃避行でもない。
ただ、今日を生き延びるための、小さな逸脱。
夕日に染まった校門を背に、2人は街へと消えていく。
心中はしない。
代わりに、不完全に生きる。
小さな作戦。
決める時は、誰にも悟らせないまま1発で。



