1 蕾と背伸び
数時間前まで降っていた雨の所為か、乾いた風が吹くと地面から湿っぽいアスファルトの匂いが巻き上がる。
まだ低い位置にある朝陽がそれでも眩しくて目に痛い、と感じるのは、きっと夜通し気を張りつめていたからだろう。
勤勉にも昨夜二十一時まで大学の図書館でレポートと対峙していた俺。区切りを付けて帰宅しようと思った矢先にちょっとした事件があり、俺は今、徹夜明けの家路を辿っているのだ。
ふぁ……と大きな生欠伸を洩らしながらジャケットのポケットから家の鍵を取り出す。
一緒に住んでいる父さんは夜勤だった筈。昨日特に何も云っていなかったから、朝飯の用意をする必要はない。
シャワーを浴びて……いや、今はもうひとまずベッドにそのまま倒れ込みたい気がする。
鍵穴に差したそれを回し、ドアノブを引く。
後ろ手にドアを閉めて足元も見ずに靴を脱いだら、カチャ、と静かに廊下に面した扉が一枚開いた。
自室の斜向かいのそこはトイレ。
「……ん?」
父さん、夜勤じゃなかったのか……?
そう続く筈だった台詞が「と」の音だけで止まってしまったのは、トイレから出てきたのが父さんではなく見知らぬ少年だったからだ。
「……は? だれ? お前」
「ぇ……っ、ぁ……」
無意識に低くなってしまった声は致し方ないだろうがそれでも可哀想なことをしたなと思ってしまう程、少年は張り詰めた緊張を纏いながら俺を大きな目で見詰めてきた。
ボサボサな髪の毛。血色の悪い顔色。着ているものは……おい、それ昨日の朝洗濯機に突っ込んだ俺のスウェットじゃねぇか。袖も裾も余りまくり。そりゃそうだろう。五歩分の距離はあれど、少年の頭は俺の肩にも届かなさそうなのが判る。
一歩踏み出したら、少年は肩を跳ね上げることも出来ないくらい硬直した。
何なんだこのガキは?
眉間に深い皺を刻んだ瞬間、まるでそれを咎めるかのようにリビングから俺よりも低い声。
「おい、零司。子供を怖がらせてんじゃねぇぞ」
続けて、リビングからぬっと父さんが顔を覗かせた。
扉の隙間からほんのり暖かい空気が洩れてきて、俺のこめかみを軽く撫でるように掠めた。
「別に怖がらせてねーよ」
「お前は普段の顔付きが優しくねぇ」
「父さんも人のこと云えねーだろ」
つい売り言葉に買い言葉。それを父さんは何でもないように流して、柔らかくした視線を少年に向けて落とす。
「コイツは零司。俺の息子だ。安心しろ、見た目より怖くねぇぞ」
「……………」
父さんの揶揄っぽい声に、沈黙は二人分。
無論俺と少年のものだ。
「ほら、便所から出たんなら廊下で固まってんじゃねぇでこっち来い」
「ぁ……は、ぃ……」
錆び付いたブリキ人形みたいにぎこちなく視線を揺らす少年を見た俺は、何となく現状を察して思わず大きな溜息。
「父さん……流石に、これは犯罪だろ」
「あ? 自分の親を勝手に犯罪者にすんじゃねぇ」
「変わんねーだろ。犬猫じゃねーんだぞ」
目を眇めて見詰めたら、ふいと知らん顔をしてリビングに戻っていく父さんにまた溜息。
少年は俺と父さんの間で完全に固まってしまっている。
ただ、それは怯えというよりも『自分の居場所が判らないことへの困惑』で、という感じ。
「あ゙ー……」
ガシガシと後頭部を掻いて、短く唸る。
「……取り敢えず、お前もリビング入れ。廊下で突っ立ってたら寒いだろ」
あと、お前が先に動かないと俺がリビングに入れない、と。暗に含ませれば、少年はようやっと自分の今身を置くべき場所を把握したかのようにリビングの奥へと足音を立てずに歩き出した。
俺の肩の高さにも満たない身長は元より、スウェットのサイズが合ってないにしても少年の線の細さは容易に想像がつく。
身長から察するにどうにかランドセルは卒業していそうだが……義務教育は卒業していないだろう。
リビングのL字型ソファの奥に父さんの姿。少年はソファ手前側の端っこにちょこんと腰を落とした。
追ってリビングに足を踏み入れた俺は仄かな暖かさの中でジャケットを脱ぎ、ダイニングテーブルの椅子の背にそれを掛ける。荷物もひとまず椅子の横に。
手を洗おうとシンクに向き合ったら、そこには使用済の汁椀と箸が二人分ずつ。俺が洗い残したものではない。
手を洗いついで、それらも軽く洗って水切りかごに引き上げておく。
そうしてシンク上の棚からマグカップをひとつ取り出そうとして、俺は首だけで振り返った。
「コーヒー淹れるけど、父さんは?」
「ん……あぁ、頼む。それと、」
「分かってる」
皆まで云われずとも承知していると肩を竦め、俺は自分と父さんのマグカップ、それと客人用のマグカップのみっつを棚から取り出した。
ケトルで湯を沸かしながら、コーヒーをドリップする為の準備。
殆ど自動運転で手を動かしながら、ぼんやり考えるのは今自分の背中の向こうに居る少年のこと。
父さんのさっきの反応からするに、大方あの少年はどこかで『拾われ』てきたのだろう。
冷静にそんな判断を下せてしまうのは、過去にも父さんが何度か見知らぬ人間を家に上げて一夜なり数日なりと世話をしていたことがあるから。
とは云え、明らかに未成年を拾ってくるは初めてのこと。それ故に先の「流石に犯罪だろ」の台詞に繋がるのだ。
父さんのマグカップにまず並々と注いだコーヒー。
次に自分のカップに半分くらい注いでから、あぁしまったと手を止める。
自動運転で手を動かしていた所為で、コーヒーサーバーにはいつも通り二人分の量しか淹れていなかったらしい。ガラス製サーバーの中の黒い液体は残り少ない。
けれどももう一杯分新しく淹れるのは面倒。刹那の思案後、俺は冷蔵庫から牛乳を取り出した。
そうして自分のカップには半分より少し多め。
客人用カップには半分より少し少なめのコーヒーを注ぎきって、それぞれに牛乳を足した。
牛乳が多めになってしまったカップには砂糖も落として、電子レンジで温める。
自分のはもう熱かろうがぬるかろうが構わない。
「父さん、コーヒー」
マグカップを持ってソファに近寄れば、父さんは広げていた新聞を畳んで俺からカップを受け取った。
「あと、お前はこっち」
首だけ四半回転して、少年にもカップを押し付ける。
「ぇ……っ、と……」
「苦くねーから安心しろ。牛乳多めにしたからな」
敢えて、ではなく、たまたまそうなってしまったのだが……まぁ、考えてみれば子供にブラックコーヒーはきっと早いだろうから結果オーライだ。
「あ……ぁ、りがと……ござぃま……す……」
「……おう」
抑揚が不安定なか細い声に頷いて、俺はダイニングテーブルの椅子に腰を落着けてコーヒーを啜った。
あのガキ、一体どこの誰なんだ。
いつまでこの家に置いておくんだ。
父さんの考えることはちっとも分からない。
分からないことを放置するのは余り好きではないが、徹夜明けの思考ではそれを追求する気になれない。
まぁ……あとで改めて聞けば良い。
普段より牛乳多めなぬるいコーヒーを一息に呷り、俺はシンクにカップを置く。
「父さん、俺ちょっと寝るわ……」
「あぁ……ん? お前、大学は?」
「今日、日曜だけど」
「……そうか、なら良い」
カレンダー通りの仕事をしていない父さんは曜日感覚が薄い。こんな会話は日常茶飯事だから特に何を思うこともなく、俺は父さんと少年をリビングに残して自室の扉を押し開けた。
荷物を落とすように置いて、ジャケットはポールハンガーに引っ掛け、そのままベッドに倒れ込む。
自覚しているよりも神経疲労は濃かったらしい。
俺は布団に潜るでもなくそのままベッドの上で眠りの淵から飛び降りた。
後から思い返せば、俺の人生はこの朝を発端に変わり始めたのだろう。
数時間前まで降っていた雨の所為か、乾いた風が吹くと地面から湿っぽいアスファルトの匂いが巻き上がる。
まだ低い位置にある朝陽がそれでも眩しくて目に痛い、と感じるのは、きっと夜通し気を張りつめていたからだろう。
勤勉にも昨夜二十一時まで大学の図書館でレポートと対峙していた俺。区切りを付けて帰宅しようと思った矢先にちょっとした事件があり、俺は今、徹夜明けの家路を辿っているのだ。
ふぁ……と大きな生欠伸を洩らしながらジャケットのポケットから家の鍵を取り出す。
一緒に住んでいる父さんは夜勤だった筈。昨日特に何も云っていなかったから、朝飯の用意をする必要はない。
シャワーを浴びて……いや、今はもうひとまずベッドにそのまま倒れ込みたい気がする。
鍵穴に差したそれを回し、ドアノブを引く。
後ろ手にドアを閉めて足元も見ずに靴を脱いだら、カチャ、と静かに廊下に面した扉が一枚開いた。
自室の斜向かいのそこはトイレ。
「……ん?」
父さん、夜勤じゃなかったのか……?
そう続く筈だった台詞が「と」の音だけで止まってしまったのは、トイレから出てきたのが父さんではなく見知らぬ少年だったからだ。
「……は? だれ? お前」
「ぇ……っ、ぁ……」
無意識に低くなってしまった声は致し方ないだろうがそれでも可哀想なことをしたなと思ってしまう程、少年は張り詰めた緊張を纏いながら俺を大きな目で見詰めてきた。
ボサボサな髪の毛。血色の悪い顔色。着ているものは……おい、それ昨日の朝洗濯機に突っ込んだ俺のスウェットじゃねぇか。袖も裾も余りまくり。そりゃそうだろう。五歩分の距離はあれど、少年の頭は俺の肩にも届かなさそうなのが判る。
一歩踏み出したら、少年は肩を跳ね上げることも出来ないくらい硬直した。
何なんだこのガキは?
眉間に深い皺を刻んだ瞬間、まるでそれを咎めるかのようにリビングから俺よりも低い声。
「おい、零司。子供を怖がらせてんじゃねぇぞ」
続けて、リビングからぬっと父さんが顔を覗かせた。
扉の隙間からほんのり暖かい空気が洩れてきて、俺のこめかみを軽く撫でるように掠めた。
「別に怖がらせてねーよ」
「お前は普段の顔付きが優しくねぇ」
「父さんも人のこと云えねーだろ」
つい売り言葉に買い言葉。それを父さんは何でもないように流して、柔らかくした視線を少年に向けて落とす。
「コイツは零司。俺の息子だ。安心しろ、見た目より怖くねぇぞ」
「……………」
父さんの揶揄っぽい声に、沈黙は二人分。
無論俺と少年のものだ。
「ほら、便所から出たんなら廊下で固まってんじゃねぇでこっち来い」
「ぁ……は、ぃ……」
錆び付いたブリキ人形みたいにぎこちなく視線を揺らす少年を見た俺は、何となく現状を察して思わず大きな溜息。
「父さん……流石に、これは犯罪だろ」
「あ? 自分の親を勝手に犯罪者にすんじゃねぇ」
「変わんねーだろ。犬猫じゃねーんだぞ」
目を眇めて見詰めたら、ふいと知らん顔をしてリビングに戻っていく父さんにまた溜息。
少年は俺と父さんの間で完全に固まってしまっている。
ただ、それは怯えというよりも『自分の居場所が判らないことへの困惑』で、という感じ。
「あ゙ー……」
ガシガシと後頭部を掻いて、短く唸る。
「……取り敢えず、お前もリビング入れ。廊下で突っ立ってたら寒いだろ」
あと、お前が先に動かないと俺がリビングに入れない、と。暗に含ませれば、少年はようやっと自分の今身を置くべき場所を把握したかのようにリビングの奥へと足音を立てずに歩き出した。
俺の肩の高さにも満たない身長は元より、スウェットのサイズが合ってないにしても少年の線の細さは容易に想像がつく。
身長から察するにどうにかランドセルは卒業していそうだが……義務教育は卒業していないだろう。
リビングのL字型ソファの奥に父さんの姿。少年はソファ手前側の端っこにちょこんと腰を落とした。
追ってリビングに足を踏み入れた俺は仄かな暖かさの中でジャケットを脱ぎ、ダイニングテーブルの椅子の背にそれを掛ける。荷物もひとまず椅子の横に。
手を洗おうとシンクに向き合ったら、そこには使用済の汁椀と箸が二人分ずつ。俺が洗い残したものではない。
手を洗いついで、それらも軽く洗って水切りかごに引き上げておく。
そうしてシンク上の棚からマグカップをひとつ取り出そうとして、俺は首だけで振り返った。
「コーヒー淹れるけど、父さんは?」
「ん……あぁ、頼む。それと、」
「分かってる」
皆まで云われずとも承知していると肩を竦め、俺は自分と父さんのマグカップ、それと客人用のマグカップのみっつを棚から取り出した。
ケトルで湯を沸かしながら、コーヒーをドリップする為の準備。
殆ど自動運転で手を動かしながら、ぼんやり考えるのは今自分の背中の向こうに居る少年のこと。
父さんのさっきの反応からするに、大方あの少年はどこかで『拾われ』てきたのだろう。
冷静にそんな判断を下せてしまうのは、過去にも父さんが何度か見知らぬ人間を家に上げて一夜なり数日なりと世話をしていたことがあるから。
とは云え、明らかに未成年を拾ってくるは初めてのこと。それ故に先の「流石に犯罪だろ」の台詞に繋がるのだ。
父さんのマグカップにまず並々と注いだコーヒー。
次に自分のカップに半分くらい注いでから、あぁしまったと手を止める。
自動運転で手を動かしていた所為で、コーヒーサーバーにはいつも通り二人分の量しか淹れていなかったらしい。ガラス製サーバーの中の黒い液体は残り少ない。
けれどももう一杯分新しく淹れるのは面倒。刹那の思案後、俺は冷蔵庫から牛乳を取り出した。
そうして自分のカップには半分より少し多め。
客人用カップには半分より少し少なめのコーヒーを注ぎきって、それぞれに牛乳を足した。
牛乳が多めになってしまったカップには砂糖も落として、電子レンジで温める。
自分のはもう熱かろうがぬるかろうが構わない。
「父さん、コーヒー」
マグカップを持ってソファに近寄れば、父さんは広げていた新聞を畳んで俺からカップを受け取った。
「あと、お前はこっち」
首だけ四半回転して、少年にもカップを押し付ける。
「ぇ……っ、と……」
「苦くねーから安心しろ。牛乳多めにしたからな」
敢えて、ではなく、たまたまそうなってしまったのだが……まぁ、考えてみれば子供にブラックコーヒーはきっと早いだろうから結果オーライだ。
「あ……ぁ、りがと……ござぃま……す……」
「……おう」
抑揚が不安定なか細い声に頷いて、俺はダイニングテーブルの椅子に腰を落着けてコーヒーを啜った。
あのガキ、一体どこの誰なんだ。
いつまでこの家に置いておくんだ。
父さんの考えることはちっとも分からない。
分からないことを放置するのは余り好きではないが、徹夜明けの思考ではそれを追求する気になれない。
まぁ……あとで改めて聞けば良い。
普段より牛乳多めなぬるいコーヒーを一息に呷り、俺はシンクにカップを置く。
「父さん、俺ちょっと寝るわ……」
「あぁ……ん? お前、大学は?」
「今日、日曜だけど」
「……そうか、なら良い」
カレンダー通りの仕事をしていない父さんは曜日感覚が薄い。こんな会話は日常茶飯事だから特に何を思うこともなく、俺は父さんと少年をリビングに残して自室の扉を押し開けた。
荷物を落とすように置いて、ジャケットはポールハンガーに引っ掛け、そのままベッドに倒れ込む。
自覚しているよりも神経疲労は濃かったらしい。
俺は布団に潜るでもなくそのままベッドの上で眠りの淵から飛び降りた。
後から思い返せば、俺の人生はこの朝を発端に変わり始めたのだろう。



