華が君と鮮やかな日々

八章

 春まで保つか、などと云われてしまったら、桜士郎を描く時間を奪われたくなくて余計な(と云っては失礼だけれども)ことは終わらせておきたかった。
 薬を飲んでいても病状は緩やかに進行して、血を吐く頻度が増えた。
 食欲もないし、体力も落ちてきているのが自分でよ判った。
 病人、己の死期は己自身が一番判る、とはよく云ったもので。
 三月も頭になるとあぁもう本当に春まで保たないかも知れないと思うようになった。
 依頼されていた分の絵をすべて描き上げた頃にはもう駄目だなと自分で死期を悟っていた。だからおれはそれを町長さんに預け、父さんとあちこちを飛び回っていた時のような荷支度をした。
 とは云っても何処か遠くへ行く訳じゃあない。
 ただ、桜士郎の傍に少しでも長く居たいと思っての荷造りだった。
 そんな荷物を持ってきたおれに、桜士郎は驚いた顔。
「何だその荷物は」
「桜士郎が咲くのをすぐに見たいから」
 半分本当、半分建前。咲かなくても良い。ただ桜士郎の傍に居たかった。
「今まで通りに毎日来れば良いだけの話だろう」
「それじゃあ駄目なんだ」
「何が」
「だって……っ、」
 その後の言葉は咳に遮られた。激しく咳き込んで、膝をつく。すぐに桜士郎が傍に来て背をさすってくれた。
「げほっ、げほっけほっ」
 口許を覆う手が湿ったのを感じて、あーあ、と思う。
「おま……っ、」
「ね……だから」
 眉尻を下げて桜士郎を見たら、桜士郎は薄い唇を噛んで表情を歪めた。
「おれと関わったからだ」
 呻くような声に、違うよと笑う。
「だっておれ、女じゃねーよ?」
「けど……っ」
「違う。これは関係ない」
 でも、と桜士郎の腕に縋る。
「多分、もうすぐ、かも」
 おれの弱々しい声に、桜士郎は泣きそうな顔をした。
 木の根元に寝かされたおれの頭の横に、桜士郎は片膝を立てて座り続けていてくれた。
 時折髪の毛を撫で梳かれる。
 まるで母さんがしてくれたみたいな暖かさだった。
「なぁ、桜士郎、おれが描いた絵、見てよ」
 カバンの中を指差して、写生帳を取り出させる。
「表紙に桜の文字がある方が桜士郎専用の写生帳」
「おれ専用?」
「そう。桜士郎だけは、他の誰にも知られたら駄目だったろ?」
 だからさ、って肩を揺らしたら桜士郎は唇を舐めてからその表紙を捲った。
 暫く無言で写生帳を捲っていた桜士郎の手が止まったかと思ったら、目尻を指の背で撫でられた。
「お前の目には、おれがこんな風に見えていたのか」
「そうだよ。綺麗だろう?」
「綺麗過ぎておれじゃないみたいだ」
「桜士郎は綺麗だよ」
 呟いて、大きく瞬く。
「最期に満開の桜士郎が見たかったな……」
 ぽつり、零したおれの言葉に桜士郎が息を飲む。
 病人本人以上に草木は人の死臭に敏感だ。
「なぁ、桜士郎……おれ、ずっと桜士郎の傍に居たかった……」
「どうして……」
「前にも云ったかも知れないけどさ……桜士郎以上にキラキラしてる花見たことないんだ……」
 桜士郎との出会いは運命的なもののようにも感じてる、なんて云えば、桜士郎は嘲笑を失敗させた。
「喬臣」
「……桜士郎、おれの名前、」
 覚えていたのか、と。
 初めて呼ばれた名前に胸が詰まった。
 あぁ、桜士郎に名前を呼ばれることがこんなにも甘やかな気持ちにさせるだなんて。
「お前だから、特別だ」
「特別?」
「あぁ」
 頷いて、ひょいひょいと木の枝を飛び上がっていく桜士郎。
 てっぺんに立った桜士郎を見上げれば、彼は両手をパチンと胸の高さで合わせてから、大きく腕を広げた。
 さらさらと光の粉が舞い落ちる。
 それは枝の先にくっ付いてくるくると丸みを帯びたかと思えば、パァッと花開いた。
 一斉に、満開になった桜の花がおれを見下ろす。
「桜士郎……」
 思わず肘を張って上半身を起こす。
 てっぺんからふわりとおれの横に降り立った桜士郎を見上げて、おれは目を大きく瞬かせた。
「これで、悔いはないか?」
「……うん」
 ぐすり、鼻を鳴らす。
 しかしその後にすぐ、まだもうひとつ、と腕を引いた。
 しゃがんでくれた桜士郎に、おれは腕を広げて彼を見詰める。
「抱き締めて欲しい」
「……」
「お前の腕の中で逝きたいんだ」
 何という子どもっぽい我儘だろう。
「なぁ、桜士郎」
 頼むよ、とそれこそ子どもが強請るような声に、桜士郎はそっと腕を伸ばしておれを抱き竦めた。
 甘い、甘い花の香りがする。桜士郎の香りはおれの肺を清浄にするようだった。
「桜士郎、好きだ」
 自然と洩れた告白。
「……」
「しあわせだな……」
 桜士郎の肩に顔を埋めたまま呟いて。
 おれはそのままゆっくりと目を閉じた。
「喬臣……」
 はたり。おれの頬に滴がひとつ落ちたことをおれは知らない。
 そして、おれは町から行方不明になった。