七章
翌日からグッと気温が下がって寒さが増してきた。あぁ、本格的に冬が来たかなぁなどと思いながら布団を出た。
町長さんの手伝いをしてから桜士郎の元へ行くまで、おれは何度も空咳を繰り返して、風邪でも引いたかな、なんて思う。
桜士郎に会いに行って、絵を描きながら空咳をしていたら、あまりの頻度にまた、大丈夫かと声が飛んできた。
「ん、多分風邪の引き始めだと思う」
けほけほと息の塊を喉奥から吐いて、へらりと笑う。
「だったら程々にして帰れ」
「えー、やだよ」
「悪化したらどうする」
「え、何、桜士郎心配してくれてんの?」
にやにやと笑ったら、そんなことはないと素っ気ない返事が返ってきた。
「ん、でも今日は桜士郎の云うことは聞いておこうかな」
「……珍しいな」
「たまにはねー」
からからと笑って、おれは描きかけの絵の絵の具が乾くのを待った。
そうしてその日おれはまだ明るい時間におれは家に帰った。
本当に風邪でも引いたのか、寒気がして綿入りを羽織ったまま飯を食わずに布団に潜った。
翌朝起きると頭がくらくらした。
体の芯は冷えているのに、表面が熱い。
体が重たくて云うことを聞かない。
いつも町長さんの手伝いに出掛ける時間になってもおれは動けないままで、これは困ったなと思う。
今日は行けそうにないと遠隔で連絡する術はない。
おれは気合でどうにか体を動かすことに成功して、ふらふらと町長さんの家に向かった。
町長さんの家に行ったら、会って早々奥さんに顔色の悪さを指摘された。
額と首筋に手を当てられて、熱があると顔を顰められた。
今日はもう良いから家で大人しくしてなさい。お医者を呼んであげるから。
そこまで云われて背中を押されてしまえば「大丈夫ですよ」とも云えない。
お言葉に甘えます、と頭の中をふわふわさせながらおれは家に帰った。
間もなくして医者がやってきた。
問診されながら測った体温は三十八度を超えていた。
こんな熱を出すのは記憶上初めてで、だから余計にくらくらするのかも知れない。
聴診されたら、肺の辺りで医者が僅かに目を細めた。
「咳はいつ頃から?」
「一昨日? 数日前からですけど……」
「一応咳止めを出しておくけれど、あまり長く咳が続くようだったら診療所に来なさい」
「……はい」
相対し慣れない医者の云うことは聞いて置いた方が良い気がした。
二、三日は安静にと云われ、町長さんのところへは医者が伝言しておくと云ってくれた。
本当なら何かちゃんと食べた方が良いのだろうけれど、一度横になってしまったら、飯を炊く気にもなれない。
まぁ良いか、とおれは処方された薬を水で流し込んで布団に潜った。
ひと晩目は熱の所為か薬のお陰か夢も見ないくらい深く眠った。
二日目は大分熱が下がったように思えたが、咳が止まらなくなった。
湿咳もあったが、殆どは息も吸えなくなるような空咳。
薬を飲もうにも咳が邪魔をして上手く飲めない。
三日目にはもう熱はすっかり引いたが、咳は相変わらず。
それでも町長さんの家に行けば、奥さんに背中をさすられて無理はしなくて良いと云われた。
別に無理をしている訳ではないのだが……。
「もう払うもんも払っとらんし、手伝いはわしらが特に困った時にだけ頼むことにしよう」
町長さんにもそう云われてしまい、あらまぁこれは暗に戦力外通告みたいなもんか? と思ってしまう。
しかし咳で呼吸が妨げられる今は有り難いところでもある。
済みません、と頭を下げて、おれは一度家に戻ってから桜士郎の元へと足を運んだ。
丸二日空いて、桜士郎は変に思っていないだろうか?
それは、桜士郎に心配されていて欲しいという裏っ返しのようでもあった。
「桜士郎」
木の根元に座っていた桜士郎の肩を背後から叩く。
すると彼はびくりと肩を跳ね上げてからおれを見上げてきた。
「ごめん、本当に風邪引いた」
咳混じりに云えば、そうかと低い声。
ゆらり立ち上がった桜士郎はおれの首筋に手を当てた。ひんやりした手が気持ち良い。
「まだ少し熱い」
「そうかな」
「あぁ」
「帰れって云う?」
「云ったら帰るのか?」
「この前描きかけた分だけ描いたら」
「ならそうしろ」
ふい、と背を向けてひょいひょいと気を登っていく桜士郎。
いつもの定位置に腰を据えて、桜士郎は遠い空を見た。
おれもおれで、黙々と描きかけの絵を完成させた。
「桜士郎、描けた」
「なら帰れ」
「もう少し居ちゃ駄目?」
「また悪化したら困るだろう」
桜士郎の台詞に、おれは笑う。
「桜士郎が困る?」
「困るのはお前だろう」
「うん……そうだな」
この時、おれは多分桜士郎に「困る」と云って欲しかったんだろう。
約束通り今日はもう帰ると気持ち肩を落として、おれはじゃあなと桜士郎に手を振った。
翌日からは暫く頼まれた分の花を何枚か描いた。無論、桜士郎の元へ通うのも忘れなかった。
熱はすっかり下がったけれども咳は相変わらず。寧ろ悪化の一途を辿るようだった。
町長さんの手伝いがなくなった分、朝から絵を描くことが出来たから、桜士郎と一緒に居られる時間も増えた。
それは単純におれにとっては嬉しいことだった。
「おい、咳が酷くなっていないか?」
濃灰色の雲が低い冬も本番。背向かいで木の枝に座っていたら、そんな問いが飛んできた。
「んー……そーだなぁ」
応えた直後に咳き込む。
冷たい空気の所為もあるのだろうか、一度咳き込み始めると止まらない。
ふわり、微風が吹いたかと思ったら、正面に桜士郎が居て、肩を抱き寄せられた。
咳き込むのに合わせてトントンと背中を叩かれたり、さすられたりする。
桜士郎の方からこんな風に触れてくるのは初めてでびっくりして余計に咳き込んでしまった。
「ありがと……」
「……別に」
声は淡々としているけれど背を撫でる手は優しいものだから。何だか特別扱いされているような気になってしまう。
「医者には」
一頻り咳が落ち着いてからの桜士郎の言葉に唸る。
「酷くなったら来いって云われたけど……」
「なってるだろう」
「んー……」
わざわざ医者に掛かるの面倒臭いんだよなぁ……とは云わないでおく。
「一度行っておけ」
行かないなら会わない、と云われたらちょっと待てと慌ててしまう。
「それを出してくるのは狡いだろ」
「だったら、」
「判った。近い内に行く。行くから」
「そうしろ」
トントン、と合図のように背を叩かれて、桜士郎はまた定位置に戻って行った。
間もなくしてはらり、白い花が舞い落ちてきた。
あ、と思った矢先にその花は大きくぼとぼとと空から落ちてきて、乾いた地面を白く彩り始めた。
「こりゃあ積もる雪だなぁ」
のんびりと手の平で結晶を溶かしていたら、のんびりしている場合かと呆れた声。
「早く帰れ」
「雨じゃないからそんなに濡れないし」
「そういう問題じゃない」
それこそまた風邪でも引くものなら冬の間は会わないなどと云われて、また狡いと唇が尖る。
判った、判りました。降参するように両手を顔の高さに上げて枝から降りる。
「雪が止むまでは来るな」
「えぇー」
「文句を云うな」
「はいはい」
ちぇ、と舌打ちしながら、それでも桜士郎の云うことに従おうと思ったのは、無闇に会える機会を減らしたくないからの一言に尽きる。
早く雪が止みますように、と願いながらおれは桜士郎の元を離れた。
町の外れに佇む桜士郎の元から我が家まではまあまあの距離がある。加えて一直線に向かうと誰かに見られる可能性が高くなるだろうと思って、桜士郎と出会って半年ぐらいした頃からは町の外周をなぞるように歩いて行き来するようになっていたから、帰るまでには余計に時間が掛かる。
外套の前を両手で重ねて息を詰めながらなるべく雪のない常緑樹の下を歩いた。少しでも足跡を隠す為だ。
町の外周を半分過ぎて、そろそろ良いかと路地に入った途端、込み上げるように咳が止まらなくなった。
苦しくなって思わず膝をつく。
片手を口許に、片手で胸元を握り締めてただただ激しく咳き込む。
ぐっ、と喉の奥が熱くなった。
次の瞬間、一際大きな咳込みと同時に手の平が濡れた。
「……ぇ」
未だ軽く咳き込みながら呆然と見遣った手の平は真っ赤。口の中も錆びた味がした。
「何だこれ……」
呟いた後にまた大きく咳き込んで薄く積もった白の上に赤を撒き散らす。
おれの体内から赤い花が咲いた……などと云ったら四方八方から馬鹿にされるだろう。
「やばい……な」
何が、って。医者に掛からなかったことが、だ。
これがバレたら怒られてしまいそうだ。桜士郎に。
一度家に帰ったらもう外に出たくなくなりそうな気がして、時間外になってしまうだろうが、診療所の扉を叩くことにした。
おれの手を見た医者は第一声おれを叱り付けてきた。何故もっと早く来なかったのか、と。
その云い訳をごにょごにょ濁していたら、また更に怒られた。
そうして下された診断は肺の病だった。
若いから悪化の一途は早いと告げられ、早ければ春までも怪しいなどと冗談にならない脅しを掛けられた。
出来るだけ安静にしていること。
定期的に診察を受けに来ること。
それをキツく云い渡されて、否を唱えられるおれではない。
今まで健康が取り柄で生きてきたようなものなのに、信じられない。
薬を貰ってとぼとぼと家に帰り着く。
「肺の病……」
煎餅布団に潜り込んで横になりぽつりと呟く。
そうしたら無性に心細くなった。
翌日からまたおれは数日熱発して動けなくなった。
その間おれを嘲るように天気は晴天続きだった。
桜士郎の元に行きたいのに行けないもどかしさ。
どうしてだか、無性に泣きたい気分になった。
桜士郎に会いたい。おれの胸の裡はそんな思いでいっぱいだった。
薬のお陰か、熱が下がったら咳も少しマシになって。
おれは真っ先に桜士郎の元へ駆けた。
「桜士郎!」
横顔に叫んだら、おれを見た桜士郎の顔が少しだけ歪んだ気がした。
「ごめん、また熱出してた」
「別に謝られることはない。医者には、」
「行ったよ。ちょっと安静にしてろって云われたくらいだった」
真実をすべては語っていないけれど、嘘も吐いていない。
「……なぁ、桜士郎、蕾、まだだよな……」
寂しい枝を見上げながら呟けば、そうだなと起伏のない声。
「早く暖かくなんねーかな」
「どうして」
「だって早く桜士郎のこと描きたいから」
「……相変わらずだな、お前は」
「そりゃあね」
笑って、おれ暫く依頼されてる分の絵だけ描いてくる、とその場を後にした。
翌日からグッと気温が下がって寒さが増してきた。あぁ、本格的に冬が来たかなぁなどと思いながら布団を出た。
町長さんの手伝いをしてから桜士郎の元へ行くまで、おれは何度も空咳を繰り返して、風邪でも引いたかな、なんて思う。
桜士郎に会いに行って、絵を描きながら空咳をしていたら、あまりの頻度にまた、大丈夫かと声が飛んできた。
「ん、多分風邪の引き始めだと思う」
けほけほと息の塊を喉奥から吐いて、へらりと笑う。
「だったら程々にして帰れ」
「えー、やだよ」
「悪化したらどうする」
「え、何、桜士郎心配してくれてんの?」
にやにやと笑ったら、そんなことはないと素っ気ない返事が返ってきた。
「ん、でも今日は桜士郎の云うことは聞いておこうかな」
「……珍しいな」
「たまにはねー」
からからと笑って、おれは描きかけの絵の絵の具が乾くのを待った。
そうしてその日おれはまだ明るい時間におれは家に帰った。
本当に風邪でも引いたのか、寒気がして綿入りを羽織ったまま飯を食わずに布団に潜った。
翌朝起きると頭がくらくらした。
体の芯は冷えているのに、表面が熱い。
体が重たくて云うことを聞かない。
いつも町長さんの手伝いに出掛ける時間になってもおれは動けないままで、これは困ったなと思う。
今日は行けそうにないと遠隔で連絡する術はない。
おれは気合でどうにか体を動かすことに成功して、ふらふらと町長さんの家に向かった。
町長さんの家に行ったら、会って早々奥さんに顔色の悪さを指摘された。
額と首筋に手を当てられて、熱があると顔を顰められた。
今日はもう良いから家で大人しくしてなさい。お医者を呼んであげるから。
そこまで云われて背中を押されてしまえば「大丈夫ですよ」とも云えない。
お言葉に甘えます、と頭の中をふわふわさせながらおれは家に帰った。
間もなくして医者がやってきた。
問診されながら測った体温は三十八度を超えていた。
こんな熱を出すのは記憶上初めてで、だから余計にくらくらするのかも知れない。
聴診されたら、肺の辺りで医者が僅かに目を細めた。
「咳はいつ頃から?」
「一昨日? 数日前からですけど……」
「一応咳止めを出しておくけれど、あまり長く咳が続くようだったら診療所に来なさい」
「……はい」
相対し慣れない医者の云うことは聞いて置いた方が良い気がした。
二、三日は安静にと云われ、町長さんのところへは医者が伝言しておくと云ってくれた。
本当なら何かちゃんと食べた方が良いのだろうけれど、一度横になってしまったら、飯を炊く気にもなれない。
まぁ良いか、とおれは処方された薬を水で流し込んで布団に潜った。
ひと晩目は熱の所為か薬のお陰か夢も見ないくらい深く眠った。
二日目は大分熱が下がったように思えたが、咳が止まらなくなった。
湿咳もあったが、殆どは息も吸えなくなるような空咳。
薬を飲もうにも咳が邪魔をして上手く飲めない。
三日目にはもう熱はすっかり引いたが、咳は相変わらず。
それでも町長さんの家に行けば、奥さんに背中をさすられて無理はしなくて良いと云われた。
別に無理をしている訳ではないのだが……。
「もう払うもんも払っとらんし、手伝いはわしらが特に困った時にだけ頼むことにしよう」
町長さんにもそう云われてしまい、あらまぁこれは暗に戦力外通告みたいなもんか? と思ってしまう。
しかし咳で呼吸が妨げられる今は有り難いところでもある。
済みません、と頭を下げて、おれは一度家に戻ってから桜士郎の元へと足を運んだ。
丸二日空いて、桜士郎は変に思っていないだろうか?
それは、桜士郎に心配されていて欲しいという裏っ返しのようでもあった。
「桜士郎」
木の根元に座っていた桜士郎の肩を背後から叩く。
すると彼はびくりと肩を跳ね上げてからおれを見上げてきた。
「ごめん、本当に風邪引いた」
咳混じりに云えば、そうかと低い声。
ゆらり立ち上がった桜士郎はおれの首筋に手を当てた。ひんやりした手が気持ち良い。
「まだ少し熱い」
「そうかな」
「あぁ」
「帰れって云う?」
「云ったら帰るのか?」
「この前描きかけた分だけ描いたら」
「ならそうしろ」
ふい、と背を向けてひょいひょいと気を登っていく桜士郎。
いつもの定位置に腰を据えて、桜士郎は遠い空を見た。
おれもおれで、黙々と描きかけの絵を完成させた。
「桜士郎、描けた」
「なら帰れ」
「もう少し居ちゃ駄目?」
「また悪化したら困るだろう」
桜士郎の台詞に、おれは笑う。
「桜士郎が困る?」
「困るのはお前だろう」
「うん……そうだな」
この時、おれは多分桜士郎に「困る」と云って欲しかったんだろう。
約束通り今日はもう帰ると気持ち肩を落として、おれはじゃあなと桜士郎に手を振った。
翌日からは暫く頼まれた分の花を何枚か描いた。無論、桜士郎の元へ通うのも忘れなかった。
熱はすっかり下がったけれども咳は相変わらず。寧ろ悪化の一途を辿るようだった。
町長さんの手伝いがなくなった分、朝から絵を描くことが出来たから、桜士郎と一緒に居られる時間も増えた。
それは単純におれにとっては嬉しいことだった。
「おい、咳が酷くなっていないか?」
濃灰色の雲が低い冬も本番。背向かいで木の枝に座っていたら、そんな問いが飛んできた。
「んー……そーだなぁ」
応えた直後に咳き込む。
冷たい空気の所為もあるのだろうか、一度咳き込み始めると止まらない。
ふわり、微風が吹いたかと思ったら、正面に桜士郎が居て、肩を抱き寄せられた。
咳き込むのに合わせてトントンと背中を叩かれたり、さすられたりする。
桜士郎の方からこんな風に触れてくるのは初めてでびっくりして余計に咳き込んでしまった。
「ありがと……」
「……別に」
声は淡々としているけれど背を撫でる手は優しいものだから。何だか特別扱いされているような気になってしまう。
「医者には」
一頻り咳が落ち着いてからの桜士郎の言葉に唸る。
「酷くなったら来いって云われたけど……」
「なってるだろう」
「んー……」
わざわざ医者に掛かるの面倒臭いんだよなぁ……とは云わないでおく。
「一度行っておけ」
行かないなら会わない、と云われたらちょっと待てと慌ててしまう。
「それを出してくるのは狡いだろ」
「だったら、」
「判った。近い内に行く。行くから」
「そうしろ」
トントン、と合図のように背を叩かれて、桜士郎はまた定位置に戻って行った。
間もなくしてはらり、白い花が舞い落ちてきた。
あ、と思った矢先にその花は大きくぼとぼとと空から落ちてきて、乾いた地面を白く彩り始めた。
「こりゃあ積もる雪だなぁ」
のんびりと手の平で結晶を溶かしていたら、のんびりしている場合かと呆れた声。
「早く帰れ」
「雨じゃないからそんなに濡れないし」
「そういう問題じゃない」
それこそまた風邪でも引くものなら冬の間は会わないなどと云われて、また狡いと唇が尖る。
判った、判りました。降参するように両手を顔の高さに上げて枝から降りる。
「雪が止むまでは来るな」
「えぇー」
「文句を云うな」
「はいはい」
ちぇ、と舌打ちしながら、それでも桜士郎の云うことに従おうと思ったのは、無闇に会える機会を減らしたくないからの一言に尽きる。
早く雪が止みますように、と願いながらおれは桜士郎の元を離れた。
町の外れに佇む桜士郎の元から我が家まではまあまあの距離がある。加えて一直線に向かうと誰かに見られる可能性が高くなるだろうと思って、桜士郎と出会って半年ぐらいした頃からは町の外周をなぞるように歩いて行き来するようになっていたから、帰るまでには余計に時間が掛かる。
外套の前を両手で重ねて息を詰めながらなるべく雪のない常緑樹の下を歩いた。少しでも足跡を隠す為だ。
町の外周を半分過ぎて、そろそろ良いかと路地に入った途端、込み上げるように咳が止まらなくなった。
苦しくなって思わず膝をつく。
片手を口許に、片手で胸元を握り締めてただただ激しく咳き込む。
ぐっ、と喉の奥が熱くなった。
次の瞬間、一際大きな咳込みと同時に手の平が濡れた。
「……ぇ」
未だ軽く咳き込みながら呆然と見遣った手の平は真っ赤。口の中も錆びた味がした。
「何だこれ……」
呟いた後にまた大きく咳き込んで薄く積もった白の上に赤を撒き散らす。
おれの体内から赤い花が咲いた……などと云ったら四方八方から馬鹿にされるだろう。
「やばい……な」
何が、って。医者に掛からなかったことが、だ。
これがバレたら怒られてしまいそうだ。桜士郎に。
一度家に帰ったらもう外に出たくなくなりそうな気がして、時間外になってしまうだろうが、診療所の扉を叩くことにした。
おれの手を見た医者は第一声おれを叱り付けてきた。何故もっと早く来なかったのか、と。
その云い訳をごにょごにょ濁していたら、また更に怒られた。
そうして下された診断は肺の病だった。
若いから悪化の一途は早いと告げられ、早ければ春までも怪しいなどと冗談にならない脅しを掛けられた。
出来るだけ安静にしていること。
定期的に診察を受けに来ること。
それをキツく云い渡されて、否を唱えられるおれではない。
今まで健康が取り柄で生きてきたようなものなのに、信じられない。
薬を貰ってとぼとぼと家に帰り着く。
「肺の病……」
煎餅布団に潜り込んで横になりぽつりと呟く。
そうしたら無性に心細くなった。
翌日からまたおれは数日熱発して動けなくなった。
その間おれを嘲るように天気は晴天続きだった。
桜士郎の元に行きたいのに行けないもどかしさ。
どうしてだか、無性に泣きたい気分になった。
桜士郎に会いたい。おれの胸の裡はそんな思いでいっぱいだった。
薬のお陰か、熱が下がったら咳も少しマシになって。
おれは真っ先に桜士郎の元へ駆けた。
「桜士郎!」
横顔に叫んだら、おれを見た桜士郎の顔が少しだけ歪んだ気がした。
「ごめん、また熱出してた」
「別に謝られることはない。医者には、」
「行ったよ。ちょっと安静にしてろって云われたくらいだった」
真実をすべては語っていないけれど、嘘も吐いていない。
「……なぁ、桜士郎、蕾、まだだよな……」
寂しい枝を見上げながら呟けば、そうだなと起伏のない声。
「早く暖かくなんねーかな」
「どうして」
「だって早く桜士郎のこと描きたいから」
「……相変わらずだな、お前は」
「そりゃあね」
笑って、おれ暫く依頼されてる分の絵だけ描いてくる、とその場を後にした。



