六章
春の花々を描いていたら、不意に壮年の男性に声を掛けられた。
「君がいつも花を写生している子かな?」
問いに、さてどうでしょうか……でも確かにおれはいつも花を写生してはいますよと返したら、写生帳を見せてくれと云われた。
桜士郎のは何となく見せたくなくて、他の花たちを描いている写生帳を手渡す。
それをぺらりぺらりと捲って、壮年の男性はふむと口許に手を遣った。
「何故花の他に人が?」
「……何となくです」
視えるヒトをそのまま描いているだけだが、それを云ったら頭がおかしいと思われかねないから、適当に誤魔化す。
「良い絵だ」
「それはどうも……」
気持ち程度会釈をしたら、男性はおれに写生帳を返しながら声を明るくした。
「絵は趣味で?」
「はい……昔から」
「誰かに見せたことは?」
「家族ぐらいですかね」
嘘じゃない。人間で絵を見せたことがあるのは父さんと母さんにたけだ。町長さんにも見せたことはない。
「勿体無いな」
「……はぁ」
「私は趣味で絵を集めていてね」
それで各地を転々としているんだという男にあぁやっぱり町の外の人かと思う。町中の人全員を知っている訳ではないが、それにしたって顔に覚えがないと思った。ましてや絵に興味があるのなら、もっと早くにおれを見付けていた筈だ。
「率直に云おう。君の絵が欲しい」
はぁ、と頷きかけて、えぇっ? と素っ頓狂な声を出してしまう。
「対価はきちんと払う。一枚私の為に新しく絵を描いてもらえないだろうか?」
「いや……そんな金を払ってもらうようなものでも……」
「己の才能を過小評価しないでおきたまえ。君の絵が世間に広まれば、それを求める人は増えるだろう」
「はぁ……」
別に増える必要もないのだが……とは云わずに飲み込む。
「聞いてはくれないか?」
「あー……」
まぁ、桜士郎は描き終えたから、余裕はある。
「何でも良いんですか?」
「君が好きな花を」
「貴方はいつ頃までこの町に?」
「君の絵が完成するまでは」
ふむ、中々に本気なようだ。
「じゃあ……三日後にまたここで、どうでしょう?」
「三日後だね。判った、そうしよう」
おれの提案をあっさりと飲み込んでくれた男性は、てはまた三日後に、とおれから離れて行った。
「……変な人……」
確かに趣味で絵は描き続けてきているけれど。
こんな認められ方をするとは思わなかった。
「え、でも何描こう……」
描いていない花は自分の写生帳に残したい。
となると、もう描いてしまった花にもう一度お願いをするしかない。
「何が良いかな……」
ぺらぺらと写生帳の最近の頁を捲りながら、おれは唸った。
悩んで、所望された絵には蒲公英を描くことにした。
何人かで群れているから、作画には時間が掛かるが見栄えは良い。
以前描いた蒲公英とは別の蒲公英たちにお願いをして描かせてもらう。
中々の出来に仕上がりはしたが、キラキラの度合いとしてはやはり桜士郎には劣る。
かといって、見知らぬ男に桜士郎の美しさを教えてやろうとは思わなかった。
後から思えば、しょうもない独占欲だ。
得てして三日後の昼、おれとくだんの男性は約束した場所で落ち合った。
写生帳から丁寧に千切った蒲公英の絵を渡せば、その人は至極嬉しそうな顔をしておれの手を握ってきた。
「素晴らしい。蒲公英の描写はもちろんだが、この三人の少女が戯れている様がまた絵に華を添えている」
「はぁ……ありがとうございます……」
僅かに頭を下げたら、約束の対価だ、と封筒を渡される。
不躾ながら、その場で中身を改めたら、目が丸くなった。
「えっ、こんなに良いんですか?」
封筒の中にはおれが町長さんからもらう一ヶ月分の金が入っていたのだ。そりゃあ驚きもする。
「相応の対価だよ」
「え、でも……」
「名前を訊いても良いだろうか?」
「あ、え、長嶺喬臣、です」
「ながみねたかおみ、くん、か。この絵を絵画好きの仲間に見せても良いかな?」
「はぁ、まぁその辺りはお好きにしてくださって構いませんが……」
そう返したら、男性の顔が綻んだ。
「きっとまた絵をお願いしにくるよ」
「はぁ……」
気の利いた返事が出来ないおれを余所に、男性はいたく満足そうな様子で、それじゃあまた会おうと俺に背を向けた。
「……っていうことがあってさぁ」
毎日桜士郎と顔を合わせてはいたものの、絵を描いてくれと頼まれていたことは云っていなかったおれは、事後報告で桜士郎にその話をした。
「良かったじゃないか」
相変わらず特別色のない声音に、まぁねぇと返す。
「まさかおれの絵が金になるなんて思わなかった」
「そのまま職にしたらどうだ」
「いや、そこまで本格的にはやるつもりないよ」
あくまでおれは好き勝手に絵を描いていたい。
そう続ければ、お前らしいなと桜士郎は肩を竦めた。
それからもおれは町長さんの手伝いをしてから桜士郎に会いに行き、そのまま桜士郎を描くか、別の花を描きに行くか、そんな日々を続けていた。
季節ひとつ越える前に、蒲公英の絵を渡した男性がおれの前に現れた。
今度は夏の花を描いて欲しい。
それと、ツレにも一枚、と。所望されたのは二枚の絵。無論対価は倍出すと云われた。
ひと月はこの町に留まるつもりでいるから、その間にと云われて断らなかったのは、断る理由を考えるのが面倒臭かっただけ。
夏本番になる手前の雨季に、おれは紫陽花を自分用と含めて三枚描いた。
雨の日は軒下を借りて絵を描くことが多い。
或いは、傘を片手にふらふらしながら花たちと二、三小声で会話をして回ったり。
桜士郎の元へはもちろん傘を差して赴いていた。
ふと、桜士郎に傘を持たせてみる。
「何の真似だ?」
「いや、うん……悪くないな」
「何がだ」
「傘を持った桜士郎を描くのも、って話」
「酔狂か」
「え、寧ろ名案だと思うけど」
ちょっとそのまま傘持って立ってて。
そう云って、おれは桜士郎が傘を持っている姿を目に灼き付けた。
最近桜士郎はまた洋装になっていた。
拘りはないが、洋装の方が楽なのだと云う。
何がどう楽なのかは教えてくれなかったけれど。
紫陽花の絵は蒲公英の時同様大層喜ばれた。
貰った対価も先述の通り。
「私は君の絵がとても気にいったよ。私の周りの絵画好きも注目している。また頼みに来ても良いだろうか?」
窺いに否を唱える理由はあまりない。
絵を描くことは何の苦にもならないし、それで対価が貰えるのなら願ったり叶ったりだ。
「季節ひとつずつ、頼みに来たいんだが」
それは窺いというよりも決定事項を告げるような口調だったから、おれは「あぁはい」と、これまた気の利かない返事でその場を終わらせてしまった。
しかしそれからというもの、彼から舞い込む絵の依頼の枚数は徐々に増え、どれだけ時間が掛かっても良いからと任される絵も少なからず出てきた。
「すっかり画家じゃないか」
桜士郎の色濃い揶揄に、そんな大それたモンじゃないと肩を竦める。
「まぁ、でも変な感じはする」
まさか母親以外の誰かの為に絵を描くようになるとは思わなかった。それも対価付きで。お陰様で暮らす金にも困らなくなったから、町長さんからのお金はもう貰わないことにした。それでも手伝いを辞めなかったのは家を借りている恩義故だ。
「ま、どうせ依頼されようがされまいが絵を描いて過ごす毎日には変わらないしな」
時間が掛かっても良いと云われれば、甘えて今まで通りにのんびりと絵を描くだけだ。
好きなことをして暮らせる毎日は幸せという他ないだろう。
「それより桜士郎。そろそろまたお前のこと描くからな」
「いちいち宣言しなくても良い。勝手にしろ」
「はーい勝手にしまーす」
木の幹を軸に背向かいでそんな会話。これぞまさしく幸せな時間なのだと気付くのはもう少し先。
おれがこの町に居付いて二年。二度目の満開の桜を写生帳に収めたおれは満たされた気持ちでいっぱいだった。
相も変わらず桜士郎のキラキラは褪せない。
こんなにも目を惹く花は他に現れない。
おれは完全に桜士郎に魅せられているといって間違いではないだろう。
実際、否定する気にもならない。
桜士郎は見ているだけでもその綺麗さに胸の奥が熱くなるのを感じるし、一緒に居ればその間の時間だけ一瞬時が止まるし、その次にはパッと動き出す。それだけで特別な空気に包まれるのだ。
これが二人だけの秘密なのだから高揚感は計り知れない。
そんなことを考えてしまうおれは、何だかもう引き返せない場所まで来てしまっているような気がした。
花片の雨を浴びて、濃い緑を屋根にして、黃橙の葉で暖を取る。到底十五を超えた男のすることじゃなかったけれど、そんなことを今更気にするようなおれではない。
「お前は子どもか」
「桜士郎よりはね」
呆れた声にもけらけら笑って返す。笑いながら、噎せて何度か咳き込んだ。
「大丈夫か」
心配の色が薄い声掛けに、ただ噎せただけだとまた笑う。
「あーあ、もう日暮れが早くなってきた」
帰りたくないなぁ、などとぼやけば、お前が帰らなかったら心配する人間が居るだろうと云われてしまい、うぅんと唸る。
「どーかな……心配する、の意味が少し違うかも知れない気がするけど」
多分、おれ自身のことを純粋に心配する人は居ないんじゃないかなと思う。
町長さんは心配するだろうけれど、それは家を貸している人間が突然居なくなったら驚くだろうという意味での心配だと思う。
「おれが居なくなって心配する人は居るかも知れないけど……困る人は居ないだろうから」
敢えて冗談っぽく云ったら、桜士郎はそういうことを云うものじゃないと珍しく咎めるような声で呟いた。
「少なくとも絵を描いてくれと云っている人間は困るだろう」
桜士郎の言葉に、おれ以上に凄い絵を描く人間は山といるだろうよと今度は普通に笑ったら、桜士郎は少しだけ渋い顔をした。
「そんなことより、明日はまた桜士郎のこと描こうかな」
「よくもまぁ飽きないものだな」
「飽きないよ。桜士郎は何枚描いても飽きない」
別に他の花だって飽きることはないのだけれど。桜士郎は中でも特別。
四季折々の桜士郎だけを描いた写生帳は一冊の半分は埋まっている。
「どうしてそんなにおれに拘るんだ」
「どうしてだろうね」
桜士郎のキラキラが色褪せずにいつでも綺麗に視えるからだろうな。
春の花々を描いていたら、不意に壮年の男性に声を掛けられた。
「君がいつも花を写生している子かな?」
問いに、さてどうでしょうか……でも確かにおれはいつも花を写生してはいますよと返したら、写生帳を見せてくれと云われた。
桜士郎のは何となく見せたくなくて、他の花たちを描いている写生帳を手渡す。
それをぺらりぺらりと捲って、壮年の男性はふむと口許に手を遣った。
「何故花の他に人が?」
「……何となくです」
視えるヒトをそのまま描いているだけだが、それを云ったら頭がおかしいと思われかねないから、適当に誤魔化す。
「良い絵だ」
「それはどうも……」
気持ち程度会釈をしたら、男性はおれに写生帳を返しながら声を明るくした。
「絵は趣味で?」
「はい……昔から」
「誰かに見せたことは?」
「家族ぐらいですかね」
嘘じゃない。人間で絵を見せたことがあるのは父さんと母さんにたけだ。町長さんにも見せたことはない。
「勿体無いな」
「……はぁ」
「私は趣味で絵を集めていてね」
それで各地を転々としているんだという男にあぁやっぱり町の外の人かと思う。町中の人全員を知っている訳ではないが、それにしたって顔に覚えがないと思った。ましてや絵に興味があるのなら、もっと早くにおれを見付けていた筈だ。
「率直に云おう。君の絵が欲しい」
はぁ、と頷きかけて、えぇっ? と素っ頓狂な声を出してしまう。
「対価はきちんと払う。一枚私の為に新しく絵を描いてもらえないだろうか?」
「いや……そんな金を払ってもらうようなものでも……」
「己の才能を過小評価しないでおきたまえ。君の絵が世間に広まれば、それを求める人は増えるだろう」
「はぁ……」
別に増える必要もないのだが……とは云わずに飲み込む。
「聞いてはくれないか?」
「あー……」
まぁ、桜士郎は描き終えたから、余裕はある。
「何でも良いんですか?」
「君が好きな花を」
「貴方はいつ頃までこの町に?」
「君の絵が完成するまでは」
ふむ、中々に本気なようだ。
「じゃあ……三日後にまたここで、どうでしょう?」
「三日後だね。判った、そうしよう」
おれの提案をあっさりと飲み込んでくれた男性は、てはまた三日後に、とおれから離れて行った。
「……変な人……」
確かに趣味で絵は描き続けてきているけれど。
こんな認められ方をするとは思わなかった。
「え、でも何描こう……」
描いていない花は自分の写生帳に残したい。
となると、もう描いてしまった花にもう一度お願いをするしかない。
「何が良いかな……」
ぺらぺらと写生帳の最近の頁を捲りながら、おれは唸った。
悩んで、所望された絵には蒲公英を描くことにした。
何人かで群れているから、作画には時間が掛かるが見栄えは良い。
以前描いた蒲公英とは別の蒲公英たちにお願いをして描かせてもらう。
中々の出来に仕上がりはしたが、キラキラの度合いとしてはやはり桜士郎には劣る。
かといって、見知らぬ男に桜士郎の美しさを教えてやろうとは思わなかった。
後から思えば、しょうもない独占欲だ。
得てして三日後の昼、おれとくだんの男性は約束した場所で落ち合った。
写生帳から丁寧に千切った蒲公英の絵を渡せば、その人は至極嬉しそうな顔をしておれの手を握ってきた。
「素晴らしい。蒲公英の描写はもちろんだが、この三人の少女が戯れている様がまた絵に華を添えている」
「はぁ……ありがとうございます……」
僅かに頭を下げたら、約束の対価だ、と封筒を渡される。
不躾ながら、その場で中身を改めたら、目が丸くなった。
「えっ、こんなに良いんですか?」
封筒の中にはおれが町長さんからもらう一ヶ月分の金が入っていたのだ。そりゃあ驚きもする。
「相応の対価だよ」
「え、でも……」
「名前を訊いても良いだろうか?」
「あ、え、長嶺喬臣、です」
「ながみねたかおみ、くん、か。この絵を絵画好きの仲間に見せても良いかな?」
「はぁ、まぁその辺りはお好きにしてくださって構いませんが……」
そう返したら、男性の顔が綻んだ。
「きっとまた絵をお願いしにくるよ」
「はぁ……」
気の利いた返事が出来ないおれを余所に、男性はいたく満足そうな様子で、それじゃあまた会おうと俺に背を向けた。
「……っていうことがあってさぁ」
毎日桜士郎と顔を合わせてはいたものの、絵を描いてくれと頼まれていたことは云っていなかったおれは、事後報告で桜士郎にその話をした。
「良かったじゃないか」
相変わらず特別色のない声音に、まぁねぇと返す。
「まさかおれの絵が金になるなんて思わなかった」
「そのまま職にしたらどうだ」
「いや、そこまで本格的にはやるつもりないよ」
あくまでおれは好き勝手に絵を描いていたい。
そう続ければ、お前らしいなと桜士郎は肩を竦めた。
それからもおれは町長さんの手伝いをしてから桜士郎に会いに行き、そのまま桜士郎を描くか、別の花を描きに行くか、そんな日々を続けていた。
季節ひとつ越える前に、蒲公英の絵を渡した男性がおれの前に現れた。
今度は夏の花を描いて欲しい。
それと、ツレにも一枚、と。所望されたのは二枚の絵。無論対価は倍出すと云われた。
ひと月はこの町に留まるつもりでいるから、その間にと云われて断らなかったのは、断る理由を考えるのが面倒臭かっただけ。
夏本番になる手前の雨季に、おれは紫陽花を自分用と含めて三枚描いた。
雨の日は軒下を借りて絵を描くことが多い。
或いは、傘を片手にふらふらしながら花たちと二、三小声で会話をして回ったり。
桜士郎の元へはもちろん傘を差して赴いていた。
ふと、桜士郎に傘を持たせてみる。
「何の真似だ?」
「いや、うん……悪くないな」
「何がだ」
「傘を持った桜士郎を描くのも、って話」
「酔狂か」
「え、寧ろ名案だと思うけど」
ちょっとそのまま傘持って立ってて。
そう云って、おれは桜士郎が傘を持っている姿を目に灼き付けた。
最近桜士郎はまた洋装になっていた。
拘りはないが、洋装の方が楽なのだと云う。
何がどう楽なのかは教えてくれなかったけれど。
紫陽花の絵は蒲公英の時同様大層喜ばれた。
貰った対価も先述の通り。
「私は君の絵がとても気にいったよ。私の周りの絵画好きも注目している。また頼みに来ても良いだろうか?」
窺いに否を唱える理由はあまりない。
絵を描くことは何の苦にもならないし、それで対価が貰えるのなら願ったり叶ったりだ。
「季節ひとつずつ、頼みに来たいんだが」
それは窺いというよりも決定事項を告げるような口調だったから、おれは「あぁはい」と、これまた気の利かない返事でその場を終わらせてしまった。
しかしそれからというもの、彼から舞い込む絵の依頼の枚数は徐々に増え、どれだけ時間が掛かっても良いからと任される絵も少なからず出てきた。
「すっかり画家じゃないか」
桜士郎の色濃い揶揄に、そんな大それたモンじゃないと肩を竦める。
「まぁ、でも変な感じはする」
まさか母親以外の誰かの為に絵を描くようになるとは思わなかった。それも対価付きで。お陰様で暮らす金にも困らなくなったから、町長さんからのお金はもう貰わないことにした。それでも手伝いを辞めなかったのは家を借りている恩義故だ。
「ま、どうせ依頼されようがされまいが絵を描いて過ごす毎日には変わらないしな」
時間が掛かっても良いと云われれば、甘えて今まで通りにのんびりと絵を描くだけだ。
好きなことをして暮らせる毎日は幸せという他ないだろう。
「それより桜士郎。そろそろまたお前のこと描くからな」
「いちいち宣言しなくても良い。勝手にしろ」
「はーい勝手にしまーす」
木の幹を軸に背向かいでそんな会話。これぞまさしく幸せな時間なのだと気付くのはもう少し先。
おれがこの町に居付いて二年。二度目の満開の桜を写生帳に収めたおれは満たされた気持ちでいっぱいだった。
相も変わらず桜士郎のキラキラは褪せない。
こんなにも目を惹く花は他に現れない。
おれは完全に桜士郎に魅せられているといって間違いではないだろう。
実際、否定する気にもならない。
桜士郎は見ているだけでもその綺麗さに胸の奥が熱くなるのを感じるし、一緒に居ればその間の時間だけ一瞬時が止まるし、その次にはパッと動き出す。それだけで特別な空気に包まれるのだ。
これが二人だけの秘密なのだから高揚感は計り知れない。
そんなことを考えてしまうおれは、何だかもう引き返せない場所まで来てしまっているような気がした。
花片の雨を浴びて、濃い緑を屋根にして、黃橙の葉で暖を取る。到底十五を超えた男のすることじゃなかったけれど、そんなことを今更気にするようなおれではない。
「お前は子どもか」
「桜士郎よりはね」
呆れた声にもけらけら笑って返す。笑いながら、噎せて何度か咳き込んだ。
「大丈夫か」
心配の色が薄い声掛けに、ただ噎せただけだとまた笑う。
「あーあ、もう日暮れが早くなってきた」
帰りたくないなぁ、などとぼやけば、お前が帰らなかったら心配する人間が居るだろうと云われてしまい、うぅんと唸る。
「どーかな……心配する、の意味が少し違うかも知れない気がするけど」
多分、おれ自身のことを純粋に心配する人は居ないんじゃないかなと思う。
町長さんは心配するだろうけれど、それは家を貸している人間が突然居なくなったら驚くだろうという意味での心配だと思う。
「おれが居なくなって心配する人は居るかも知れないけど……困る人は居ないだろうから」
敢えて冗談っぽく云ったら、桜士郎はそういうことを云うものじゃないと珍しく咎めるような声で呟いた。
「少なくとも絵を描いてくれと云っている人間は困るだろう」
桜士郎の言葉に、おれ以上に凄い絵を描く人間は山といるだろうよと今度は普通に笑ったら、桜士郎は少しだけ渋い顔をした。
「そんなことより、明日はまた桜士郎のこと描こうかな」
「よくもまぁ飽きないものだな」
「飽きないよ。桜士郎は何枚描いても飽きない」
別に他の花だって飽きることはないのだけれど。桜士郎は中でも特別。
四季折々の桜士郎だけを描いた写生帳は一冊の半分は埋まっている。
「どうしてそんなにおれに拘るんだ」
「どうしてだろうね」
桜士郎のキラキラが色褪せずにいつでも綺麗に視えるからだろうな。



