華が君と鮮やかな日々

五章

 三が日は手伝いに来なくても良いと云われていたから、おれは起きて真っ先に桜士郎の元へ駆けた。
「明けましておめでとう」
 年始一発目の挨拶は桜士郎相手になった。
「今年もよろしく、桜士郎」
 木の根元に座っている桜士郎に笑い掛けたら、彼はゆっくりと瞬いてからそっぽを向きながら微かな小さい声で「あぁ」と返事をしてくれた。
 そんな些細なことが嬉しくて、おれは桜士郎の肩に肩を寄せるよう地面に座った。
 花は体温を持たない筈なのに、どうしてか桜士郎は少しだけ暖かい気がした。
「桜士郎、明日からまた描きに来るよ」
 今日は画材を持って来ていないから描けないけれど、と苦笑するおれに、桜士郎は好きにしろと憮然と云い放った。
 冬は日暮れが早いのが難点だ。桜士郎と居られる時間が短くなる。
 西の空が色付き始めたのを合図におれはそれまで独り言のように喋っていた口を閉ざして立ち上がる。
「じゃあ、また明日」
 返事はなかったけれど、来るな、と云われないだけ充分だった。
 それからというもの、おれは毎日必ず桜士郎に会いに行くようになった。
 他の花を描こうと思った日でも、日暮れ前には一度顔を見せる。
「毎日よく来るな」
 呆れ顔の桜士郎に、そりゃあまあと笑う。
「云っただろ。仲を深めたいんでね」
「ふぅん」
 気のない返事に、今日は椿を描いてくるよと人差し指をくるくる回したら、そんな報告は要らないと云われた。本当にツレナイ。
 おれが桜士郎の元に通っていることは今のところ誰にも知られていないようだが、念には念を入れて囲いを越える際には細心の注意を払った。
 なまじ女殺しの木だなんて云い伝えられている場所に足を運んでいると知られたら町から追い出されてしまうかも知れない。それは勘弁だ。だっておれはまだ咲き誇る桜士郎を描いていない。
 少なくとも春が来て花咲き乱れる桜士郎を描いてからでないと死ぬに死ねない。
 大袈裟だと思われるかも知れないが、事実だ。
 椿、山茶花、紅白梅に蝋梅。葉牡丹、水仙と町中巡って咲き誇る花を見付けては描かせてもらう傍ら、桜士郎を描く時間も合間合間に設けていく。
 冬枯れの木を描いたって詰まらないだろうと云われたが、桜士郎に至っては別問題だと筆を動かした。
 葉も花もない木は確かに物寂しさを感じさせるが、その背景になる空の色や雲の形を刹那刹那記憶に留めて描けば幾通りも描けたし、何より本来おれが描きたい花の精――つまりはヒトの形をした桜士郎の表情が徐々に変わっていく様を描き留めるのは楽しくて仕方がなかった。
「うん、年始から表情が和らいできたな」
 独り言は空っ風に乗って彼方へ消えていく。
 おれにとっては嬉しい変化だった。
 絵を描いている時、桜士郎はおれに話し掛けてこない。
 他の花たちは自分がどんな風に描かれているのかをよく確認しにくるものだが、桜士郎に至ってはおれが話し掛けるまで喋らないし近寄っても来ない。
「桜士郎」
「……何だ」
「右向いて」
「は?」
「右向きの顔描きたい」
「……」
 音もない溜息を吐き出して、桜士郎はそれでも素直に右を向いてくれた。
 一分も見詰めていればその形は網膜に灼き付く。
 そうすればあとは記憶を頼りに描いていける。
 さらさらと鉛筆を滑らせて、あとは少しずつ色を乗せていけば良い。
 集中し始めると時間を忘れがちになってしまうから、なるべくこまめに太陽の位置を確認するようにしていた。
 桜士郎と一緒に居るのに、ただ絵を描いて終わってしまっては仲良くなりようがないからだ。
 桜士郎を描かない時は半刻以上。描く時は一刻以上の時間を会話に充てるように規則付けていた。
「よーし、今日の分は終わり」
「もう良いのか」
「キリの良いとこまで描けたからね」
 画材を木の根元に置いて、桜士郎が腰を据えている枝の近くまで登っていく。
「そう云えば桜士郎はそこそこ長生きそうなのに着物姿じゃないんだな」
 ふと思い付いて白い詰め襟のシャツを指差せば、あぁと桜士郎はそっぽを向いた。
「最後の女だったか……古臭い着物姿よりこの姿の方が良いと」
「え、ちょっと待って、花って着替えられんの?」
 樹齢何十年という老齢の花たちは外見年齢こそ若く見えがちだが、服装は古めかしかったからまさか着替えることが出来るとは思わなかった。
「若い花は出来ないだろうが、おれはもう大分長生きしているからな……変えようと思えば変えられる」
 抑揚のない声に、え、じゃあじゃあとおれは身を乗り出す。
「着物姿、見たい」
「見てどうする」
「いや、気分転換?」
「おれが着替えることがどうしてお前の気分転換になるんだ」
「ほら、視覚的変化は表現者として大事だろ」
「……そんなもんなのか」
 興味薄そうに呟いてから、桜士郎は細長く息を吐き出した。
「一瞬で出来る訳じゃない。明日になったら見せてやる」
「本当にっ?」
「嘘を云っても仕方がないだろう」
 ほら、もうすぐ日が暮れだすぞ。
 まだ話し始めて間もないというのに追い返そうとする桜士郎にいやいやと駄々を捏ねていたのも最初の内だけ。
 桜士郎からの印象を悪くさせない為にも云うことは聞くことにしていた。
「明日、楽しみにしてる」
「期待するな」
「はいはい」
 じゃあな、と画材を小脇に。おれは桜士郎に手を振って家路を辿った。
 着物姿が見られる。それは創作意欲に大いに影響を与える事象ではないか。
 詰め襟シャツにスラックス姿ばかりを描いてきたけれど、着物姿が拝めたらその色柄でさえ描きたい放題だ。
 あぁ、本当に桜士郎は描き飽きない。
 翌日、手伝いを終えてすぐに桜士郎の元へ駆けたら、彼は藤鼠色の着物に黒紅の羽織姿だった。羽織紐は赤に黄色の珠が付いていて目を惹く。
「桜士郎、夜桜みたいな色合いだな」
 着物姿を見たおれの第一声に、桜士郎は桜色の目を少しだけ大きくする。
「……そう、見えるのか?」
「え、あ、うん。何か駄目だった?」
「いや、そうではなくて……」
 ふむ、と何か考え込むような仕草。
 首を傾げたら、桜士郎はちらりとだけこちらを見て呟いた。
「そのつもりで昔好んで配色していたが、そうと当てられたのは初めてだ……」
「え、結構判りやすくないか?」
 夜の春風色に染まった着物、夜空を思わせる羽織。満月を想起させる羽織紐に飾られた黄色の珠。そして桜士郎自身が桜だと見立てれば、その出で立ちはまさに夜桜の体現。
「本当に誰にも云われたことなかったの?」
「なかったな」
「へぇ……」
 じゃあ、とおれはパンと手を打ち合わせる。
「おれと桜士郎の感性が近いってことかね」
 相性抜群じゃないかと肩を揺らしたら、桜士郎は本意か照れ隠しか、ほんの僅かにだけ嫌そうな顔をした。
「桜士郎、今日はその格好描かせて」
「……好きにしろ」
 ふい、と顔を背けて、桜士郎は立ったまま幹に背を預けた。
 一度着物姿の桜士郎を目に灼き付けたらあとはもう着物の色柄は自由自在だった。
 冬枯れの木のどこかしらに色鮮やかな桜士郎を置けば、それだけで画が明るくなる。
 まるで桜士郎を纏うキラキラが粉になって画に振り掛かったみたいにキラキラして見える。他人から見てどうか、は知らないけれど。
 真昼の寒さが緩み始めて、日中は少し暖かさを感じられるようになった頃。
 おい、と珍しく桜士郎の方からおれに声を掛けてきた。
「登って来い」
「え? あぁ」
 桜士郎が位置にしている枝の近くまで登ると、桜士郎はほら、と枝の先を指差した。
「なに……あっ!」
 ぎゅ、と桜士郎の肩口を掴んで身を乗り出す。
 枝の先では、桜の蕾が幾つも膨らんでいたのだ。
「どれくらい? あとどれくらいで咲く?」
 息巻いて桜士郎を見詰めたら、そうだな、と視線を横に流しながら呟かれる。
「雪が降るような寒さにならない限り、二週間もしない内には」
 咲き始めるだろうと続けた桜士郎に、おれの機嫌は最高潮に良くなる。
「早く見たい。早く描きたい」
 早く満開の桜を描きたいし、そこにキラキラを増すであろう桜士郎の姿を添えたい。
「あー、楽しみだな!」
 木の枝に体重を預けたまま桜士郎の背中に張り付いたら、危ない、と苦言が返ってきた。
 素っ気ない中にも心配の色が滲んていて、桜士郎のことを知れば知るだけ彼はおれに心を許してくれてきている気がした。
 そうして桜士郎が咲き乱れたのは一週間と三日後。
 少しずつ開花していく桜の花を部分部分写生していたおれは、遂に全体像が描ける、と心を弾ませた。
 春はたくさんの花が咲き出すから忙しい。
 だけどおれが最優先すべきは当然と桜士郎だった。
 桜士郎は今まで見たどの桜の木よりも立派で華やかだった。
 桜士郎が纏うキラキラに比例して、それはもう絢爛に咲き誇っていた。
 小一時間見惚れるだけ見惚れてからハッと我に返って鉛筆を握った。
 そんなおれを桜士郎は相変わらず気にしない様子で、枝に座ったり太い枝に腰を据えていた。
「よし、描けた!」
 数日掛けて描き上げた桜士郎は我ながら最高の出来。自分で描いたものながら惚れ惚れした。
 だけどそれを桜士郎に見せたところで大した反応は得られないだろう。
 得られるのであれば、向こうから見せてくれと云いに来るだろうから。
 それがないということは、こちらから見せても恩着せがましくなってしまいそうだ。
 数日掛けて描いた桜士郎は二枚。
 和装と洋装の桜士郎を描いておきたかったからだ。
 そう考えると、桜士郎専用の写生帳を作って良かったと思う。桜士郎だけで、もう数枚の絵を描いている。
「また散り際に描かせてくれよな」
「勝手にすれば良い」
「ん、勝手にするわ」
 それじゃ、明日からは他の花たちを描いてくる。
 他の季節の花から噂を聞いて、自分たちも描いてくれってせがまれているんだと苦笑したら、人気者だなと嫌味のない揶揄が飛んできた。
「でも会いには来るから」
「別に無理に会いに来なくても良いだろう」
「おれが会いたいの」
 それこそ勝手にすると宣言して、おれは日暮れに桜士郎の元を後にした。