華が君と鮮やかな日々

三章

 緑色が濃くなって、蝉が喧しくなり始めた夏。暑いからと葉陰の下から見上げた桜士郎を描いている途中の日に父さんがまたこの地を離れると云い出した。
「え、まだ良くない?」
「町の人に話を聞いたんだが、峠を越えた先に自然豊かな景色が拝める町があるらしい」
「其処に行きたいの?」
「いつものことだろう?」
 そうだ。いつものことだ。でも何だろう。気が進まない。
 どうしてだろうと思いながら夕飯の片付けをして、ふと思い至る。
 おれはまだ咲き誇る桜士郎を描いていないからだ、と。
 桜士郎が花を開くまで季節みっつ。
 父さんはそんなに長い間一所に留まりはしない。
「ねぇ、父さん」
「何だ?」
 煎餅布団に横並びになって隣の父さんに声を掛ける。
「おれだけ、残っちゃ駄目かな」
「何でだ?」
「いや……おれ、この町でまだ描きたい花がたくさんあるから……」
 ちょっとの嘘を混ぜた真実。
「……まぁ、お前ももう十五だしなぁ」
 そろそろ一人でも生きていける年頃か……なんて言ちる父さんは少しだけ寂しそう。
「町長さんに聞いてみよう。良いと云われたらお前だけ残っても良い」
「ほんとにっ?」
 思わずガバッと起き上がったら、落ち着けと苦笑。
「町長さん次第だ」
「そっか」
 落胆するでもなく呟いて、おれは希望を託しながら横になり直して掛け布団を被った。
 そうして迎えた翌日。結果から云おう。
 おれは今の町で一人暮らしをすることになった。
 町長さんは高齢だから若者による世話の手があるのは助かるとのことだった。
「遂にお前も親離れか」
「残念?」
 夕飯の折にそんな会話をする。
「残念と云えば残念だな」
 お前の絵が見られなくなるから、と云われておれは苦笑する。
「おれ、多分ここから動かないと思うから、父さんが『帰って』くれば良い」
「帰って、ねぇ……」
 箸を咥えながら、まぁそれもそうかと頷く父さん。
「居場所を変える度に手紙を書くことにする」
「そうしてくれると助かるね」
 いつ発つの? 麦飯を咀嚼しながら問えば、明日の朝には、と。相変わらず急な話だ。
「なら朝飯はちゃんと作らないとな」
「出来た息子で助かるよ」
 揶揄にそれはどうも、と麦飯を飲み込んだ。
 おれが夕飯の片付けをしている間に父さんは旅支度。
「体にはくれぐれも気を付けてよね」
「お前こそ」
「父さんよりは不摂生じゃないから」
 皮肉を込めたら、苦笑いが返ってきた。
 翌朝、早くに朝飯と昼に食べられるようにと握り飯を用意した。
 この味噌汁の味とも暫くお別れか、などと茶目っ気たっぷりに云う父さんはしかし少しだけ寂しそうに見えたのは気の所為だろうか。
 握り飯を持たせて、他に忘れ物はない? 大丈夫? と繰り返して、大丈夫だと云う父さんを町の端まで見送った。
「元気でね」
「お前もな」
 手を振り合って、おれは父さんの背中が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた。
 父さんの姿がすっかり見えなくなってから、おれは「よし」と踵を返した。
 まずは町長さんの家に行って家事や買い物の手伝いだ。
 太陽が南中を少し過ぎるまでにそれを済ませたおれは、意気揚々と写生帳と水彩道具を小脇に抱えて桜士郎の元を訪れた。
 もう「来るな」と云うのも面倒になったかのように桜士郎は忌々しげにもとれる視線だけをおれに投げてきた。
 どうしてこうも愛想がないかなぁ。肩を竦めながらおれはそれでも最近の定位置に腰を落として、頭上を見上げながら、下描きを終えた写生帳の線に色を付けていった。
 桜士郎はおれと関わる気がないという態度を全面に押し出すつもりでか、木の枝に腰を落ち着けてただそこから見える景色を眺めていた。
 だからおれから見える桜士郎は靴の底も同然。
「ねー桜士郎ー」
「……」
「そこから何が見える?」
「……」
「隣、行っても良い?」
「来るな」
 切り捨てるような即答にまた肩が竦む。まったくにべもない。
「まだ描き終わらないのか」
 鉛のように落ちてきた台詞に、え、と絵筆の尻を噛む。
「んー、もう少しで終わるなぁ」
「ならそれを描き終えたらもう一生来るな」
「……桜士郎、何でそんなにおれのこと無碍にするの」
「おれと関わっても良いことなんかない」
「……ちょっと意味が判らないんですけど」
「おれに関わらない方が良い」
「何で」
「何でもだ」
 ぴしりと叩き付けるような言葉に、取り付く島もないなと溜息。
「……まあ、そうだな。少しの間は来なくなるかも」
 そう呟いたら、頭上で緩く揺れていた足がピタリと止まった。
「他の花も描きたいし、夏の桜士郎はこれで描き収めるよ」
 夏の、と強調したおれに、なら秋になったらまた来るのかと至極迷惑そうな声が降ってくる。
「来るよ」
「来るな」
「やだね」
「どうしておれに拘る」
「桜士郎のキラキラを春夏秋冬常に描き留めておきたいから」
「……」
 はぁ、と重たい溜息は無論桜士郎のもの。
「聞き分けのない餓鬼だな」
「餓鬼って年でもないけどねー」
 あぁまぁでも花の精(しかも樹齢の長い木の花)からしてみればおれは餓鬼も同然か。
「ま、顔が見たくなったら来るよ」
 上に放り投げた言葉は舌打ちで撃ち落とされた。
 三日後、真夏の桜の木を描き上げたおれは完全に絵の具が乾くのを待ってから、夕刻頭上に声を掛けた。
「桜士郎、描き終わったよ」
 うん、とも、すん、とも返事がないのは想定内として片付けをする。
「またな」
 朗らかにそう云えば、桜士郎の声の代わりに色濃い緑の葉がさぁっと鳴いた。
 それから一ヶ月程、おれは桜士郎以外の花たちを写生帳に描いた。
 向日葵、朝顔、白粉花に百日紅。
 夏にしか蕾を緩めない花たちを、それぞれとヒソヒソ声で談笑しながら筆を動かした。
 しかし、と頭の隅でぼんやり思う。
 町中で見る花たちも当然キラキラして視えるのだが、やはり桜士郎のキラキラには敵わないな、と。
 そうなるとまた桜士郎のキラキラが恋しくなる訳で。
 幾つかの花を描き留めてから、おれは息抜きだと自分にわざわざ云い訳をして柵を越えた。
 その日、桜士郎は木の幹に凭れて遠くを見詰めていた。
 桜士郎、と呼び掛けるより先に、おれの足音に気付いた桜士郎が嫌そうな顔をしてこちらを見た。
「何しに来た」
「元気かな、って」
「お前に心配される筋合いはない」
「つめたっ」
 冬の氷より冷たいな、と冗談めかして云うが、桜士郎からは何の突っ込みもない。
「ま、元気そうで何より」
 桜士郎を取り巻くキラキラが相変わらずの煌めきであることを元気な証拠だと結論付けて、おれは桜士郎の隣に腰を落とした。
「邪魔だ」
「何もしてないじゃん」
「近くに人間が居るのが邪魔臭い」
「……もっと友好的になりません?」
「ならないな」
 キラキラも変わらずだけれど、態度も相変わらずで何より。
「入道雲、凄いな」
「……」
「夏の雲って感じ」
「……」
「父さんなら、きっとこういう景色を寫眞に撮ってるんだろうな」
 ちょっと話題を振るつもりで呟いてみたけど、反応は何もなかった。ま、それも想定内だけど。
 何も喋らないけれど、桜士郎はその場から動くこともしなかった。
 これは完全なる拒絶、ではないと思っても良いのだろうか。
 そうと考えたら、今後彼を攻略する手立てはなくもないのかも知れない。
 桜士郎のキラキラに目を惹かれるのはもちろんのこと。おれは桜士郎の傍に居ると妙に気持ちが落ち着いた。心穏やかになるというか、何というか。
「桜士郎って不思議だな」
「……何が」
「今まで出会った花の中で、何かが特別だから」
 その何か、が、何かなのかまでは自分で把握出来ていないのが歯痒いのだが。
「おれは別に特別なんかじゃない」
 桜士郎のその声は呻き声にも近く、また小さ過ぎた為おれの鼓膜を打つには至らなかった。
 すっ、と立ち上がった桜士郎はひょいと木の枝に飛び移った。
 もう帰れ、という合図か。
 仕方ない。今日はこの辺で折れておこう。
「桜士郎、またな」
 よっ、とおれも立ち上がって頭上に手を振る。
 視線さえも返ってこなかったけれど、まあそれはそれで桜士郎らしい態度だ。
 一人で小さく肩を揺らしながら、おれは家路を辿った。
 それから半月程、また町中や近くの河原の花たちを描いて、夏の終わりを過ごした。
 朝晩の気温が下がり始めて、昼間の風も涼しさを孕み始めた頃。秋の草花たちに挨拶をしながら、おれはまた桜士郎の元に足を運んだ。
 おれの姿を視界に入れるなり木の上に飛び上がっていった桜士郎に苦笑しながら、口許に手を当てて大きな声を出す。
「桜士郎、また描きに来るからなー」
「……」
 来るな、とはもう言葉ではなく圧力でおれを押し潰しに掛かってきたけれど、そんなものは気にしない。
「んじゃ、今日はそれだけだから」
 じゃあなとあっさり引き返したおれの背を、桜士郎がじぃと見詰めていたことをおれは知らない。
 桜士郎を描くのは葉の色が変わり始めてからにしようと決めていた。
 だからたまに様子を見に行きつつ、まだかなと確認しては町中の花たちを写生帳に描いていった。
 桜士郎の葉の色が変わり出したのは、薄手の外套か首巻きが必要になりだした頃だった。
 大家さんのお古で貰った外套を肩に引っ掛けて、おれは桜士郎の元へと赴いた。
「久し振り」
「ちょこちょこ様子を見に来ていた癖に白々しいな」
「あ、気付いてたんだ?」
「木の上に居れば嫌でも見える」
「何だ、声掛けてくれれば良かったのに」
「掛ける訳がないだろう」
 煩わし気な声音を気にすることなく、おれはまた木の全容が見える位置に腰を落とした。
 そうして開いたのはまっさらな写生帳。
 何となく、桜士郎のことだけは他の花とは別に残しておきたいと思ったから、新しい写生帳を購入した。
 おれの財源は今のところ町長さん頼み。
 手伝いの仕事量に応じて幾らかずつ金銭を受け取っているのだ。家を傷ませないために住んでもらっているようなものだから、と家賃は最早要らないと云われた。
 その多くはない所持金で、おれは画材を買い求めているという訳だ。
 普段通り、鉛筆で薄く線を引いてから色を置いていく。彩りを変えた桜の木を描くのはまた楽しいものだった。
「桜士郎の葉っぱ、全部落ちたら焼き芋でも出来そうだな」
 絵の仕上げをしながら悪戯にそんなことを云えば、呆れたような声が返ってくる。
「そんなことをしたらお前が此処に居ることがバレるぞ」
 一応立入禁止の場所だということを忘れていないだろうな、と目を眇目られてハッとする。
「そっか、そりゃまずい」
「馬鹿なのかお前は」
「馬鹿って酷いな」
「他に云いようがない」
 大きな溜息に、思わず唇が尖る。
 桜士郎を描くのには他の花を描く時以上の気を配った。
 人間は自分が認識しきれない部分を無意識に補完して描いてしまう。
 桜士郎を描くにあたっては、その誤差を少しでも減らしたかった。
 何でだか判らないけれど、桜士郎はおれの中でとにかく特別な存在で。出来得る限り、現実をそのまま写し出したいと思っていた。
 そうでないと、ヒト一倍キラキラした輝きを褪せたものにしてしまうのではないかと思ったからだ。
 新しい写生帳の一頁目に描いた桜士郎はおれの視界に映る通りの輝きをもって表現出来たなと自負し、おれは絵の具が乾いた写生帳をゆっくりと閉じた。
 もう日が暮れるのが大分早くなってきた。
 お陰で作業が出来る時間も短い。
 一枚落ち始めたら刻一刻と葉を落としていく桜の木を絵に留めるのは容易いことではなかったけれど、遣り甲斐はあった。
 故に完成した満足度は高い。
「桜士郎、描けた」
「だから?」
「見る?」
「見ない」
「相変わらず冷たいことで」
 やれやれとわざとらしく嘆いて、おれは画材を小脇に抱えた。
 西の空は真っ赤。
 そんな濃い橙に染まる木の幹を見て、あぁと思う。
 冬の間は葉や花を主体にするのではなく、幹を主体に背景を写実的に描くのもアリだな、と。
「んじゃ、もうすぐ暗くなりそうだし今日はこの辺で」
「さっさと帰れ」
「はいはい。じゃーな」
 ひらひらと手を振って、おれは何食わぬ顔で柵の外に出た。