一章
「ねぇ父ちゃん、あのキラキラしたヒトたちはだれ?」
物心ついた時から視えていたキラキラした光を纏うヒトたちを指差しながら隣でおれの手を引く父さんに問うたのは三歳も半ばの頃だろうか。
おれが指差した方向をちらりと見て、父さんは訝しげな顔をした。
「誰も居ないぞ?」
「え、でも……」
「歩きながら夢でも見たか?」
色濃い揶揄に釈然としないものを感じながら、おれはキラキラを纏うヒトたちの横を通り過ぎた。
キラキラを纏うヒトたちはあちこちに居た。
けれどもその存在に誰も気付いていなさそう。
あんなに目立つのに不思議だ。
おれはそれこそ物心ついた頃から父さんにあちこち連れ回されていたから、定まった居住地はなかった。
大体町から町へと点々とし、宿屋などを見付けては住み込みで働かせてもらい金銭を得て暮らしていた。
父さんが点々と居を移るのは、誰かから逃げていたりする訳ではない。
常に新しい景色を求めて彷徨う寫眞家だったからだ。
おれはその旅に連れ回されているという訳だ。
キラキラを纏うヒトたちを凝視すると、あちらは一瞬キョトンとしてから手を振ってくれる。
それに笑顔で手を振り返し応えれば、キラキラを纏うヒトたちは口許に人差し指を当てて「しぃ」と云うような仕草をした。
その仕草から、キラキラしたヒトたちが視えることは他の誰にも云ってはいけないことなのだろうと幼心に察し、おれは一度父さんに問うたきり、キラキラしたヒトたちが視えることを秘匿した。
父親が居らず、手伝いも一段落した時間におれは宿屋の生け垣で談笑する数人のヒトに声を掛けた。
「ねぇ、何でキラキラしてるの?」
普通の人間には見えないキラキラの理由が知りたくて輪の中に飛び込めば、さっとおれを囲んだ三人が目配せをし合ってからおれを見下ろした。
「わたしたちが視えるの?」
「うん」
「何て珍しい!」
「珍しいの?」
「珍しいわよ。普通わたしたちは人間には視えないもの」
「どうして?」
素朴な疑問に、三人は「だってね」と揃って声を潜めた。
「わたしたちは花の精だからよ」
「はなの、せい?」
首を傾げたおれに、三人が頷く。
「わたしは彼処の椿」
「わたしは上の木蓮」
「わたしは裏庭の梅」
それぞれの自己紹介に、成る程……と目を大きくした。
「じゃあ、町中でもキラキラしてるヒトたちはみんな花?」
重ねた問いには「きっとそうだわ」という重なる声。
「他の人にはわたしたちが視えることを云わない方が良いわ」
それは何となく察していた。けれども理由が知りたかった。
「……どうして?」
おれの二回目の「どうして」に椿が答えた。
「きっと頭がおかしくなったと思われるわ」
「だって、こうして今会話しているのだって、他の誰かが見たらあなたが一人で喋っているようにしか見えないんだから。ついでに、わたしたちと触れ合えても、視えない人間からしてみれば空中で手を彷徨わせているだけにも見えるわ」
そう木蓮が続ける。
「だからわたしたちと喋る時は気を付けなさいね」
梅に諭されて、おれは漸く秘匿せねばならない理由に納得して頷いた。
「でも、だれも見ていなかったらはなしかけてもいい?」
おれには友達と呼べる友達が居ない。
一人遊びは得意だけれども、本当は誰かと喋ったり遊んだりしたかった。
「なぁ、いいだろ?」
せがむようなおれの口調に三人はまた一瞬顔を見合わせてから、揃って口許に人差し指を添えた。
「誰も見ていなかったら、ね」
それはきっとおれのことを慮っての台詞だったに違いない。
キラキラを纏うヒトたちは、基本皆優しかった。
人気のない場所で一人ぽつんとしていたり、何人かで輪を作ったりしているヒトたちを見付けると、おれは周囲を窺ってから声を掛けた。
殆どのヒトたちはまず一番に驚いた顔をする。
段々とそれが面白くなってきた。
あちこちで挨拶をして、時には遊び相手になってもらう時間はとても楽しいものだった。
人間の友達を作り難い環境だからこそ、尚更だった。
町中の花たちと仲良くなった頃に、父さんから旅立ちを告げられ、名残惜しさに不満を唱えれば、事情を知らない父さんはおれの不満など意に介さず淡々と旅支度を整えた。
旅立つ前の日には会える花たちを探しては「さよなら」を云って回った。
きっともう会えないとおれが云えば、花たちも残念そうな顔をしてくれたのが少しだけ嬉しくもあった。
別離を惜しまれるというのは幸せなことだ。
己の存在を肯定されているのと同義だから。
朝早くに旅立つおれと父さんを、宿の椿たちはそっと見送ってくれた。
残念だけれど仕方がない。
キラキラを纏うヒトたちが花だと知った今、おれは次の土地でも花たちと仲良くなろうと決めたのだった。
そうやって、おれは様々な土地で様々な花たちと友達になった。
何故父親と二人きりで旅をしているのか。母さんはどうしたのか。理由は簡単で。
母さんは病で床に伏せているから、らしい。
らしい、と云うのは、おれが物心ついた頃にはもう父さんと二人きりだったからだ。
母さんの話は父さんから聞いたものでしかない。
それでも事あるごとに、お前は母さん似だなぁとはよく朗らかに云われたもので、夫婦の仲は確かに悪いものではなさそうだった。
母さんに会いたいな、という気持ちはないでもなかったけれど、記憶にない人と会うのは最早他人と会うのと変わらない。
今更会ったところで……という感じもしていた。
しかし六歳くらいになって、ふと思い付いた。
「ねぇ父ちゃん、母ちゃんの寫眞、ないの?」
そう。何故今まで気付かなかったのだろう。
寫眞家の父さんなんだから、母さんの寫眞の一枚くらい持っていてもおかしくない。
けれども父さんは苦笑しながら「ないよ」と肩を竦めた。
「なんで」
「そりゃあだって、」
おれと視線の高さを合わせた父さんは、顔の横で人差し指を立てた。
「だって、会いたくなるだろう?」
だったら旅なんか辞めてしまえば良いのに、とは云えなかった。
新しい景色を目にした父さんの目の輝きは花たちのようにキラキラして見えたからだ。
寫眞機で新境地を開拓することこそ父さんの生き甲斐なのだろうと思ったら、子どもながらに異論を示すことは出来なかった。
十歳にもなると視野が広がって、色んなことが理解出来るようになってきた。
父さんが新しい景色を求める気持ちも。
おれにとってはそれが花と出会うという形だったが。
そこでしか見れない景色を寫眞に収めるのが父さんの生き甲斐。
その楽しみを共有しようと思ったのか、父さんはおれに寫眞機の使い方を教えてくれた。
風景を撮る振りをして、こっそり花に焦点を当てた。
キラキラを纏うヒトが他人にも視覚化されないだろうかと思ったからだ。
けれども概ね想像していた通り、現像された寫眞に花そのものは写っていれどもキラキラを纏うヒトは写ってはいなかった。
父さんがその土地土地でしか見れない風景を寫眞に収めたいという気持ちときっと同じで、おれは出会った花たちそれぞれの姿を残したいと思うようになった。
あのキラキラをどうにかして誰かと共有したかった。
どうすれば良いだろう。一ヶ月くらい考えて、あぁそうだと手を打つ。
絵を描けば良い。
おれにしか視えない世界を可視化する方法はそれしかない、と。
それまで物を強請ったことのなかったおれは、初めて父さんに物を強請った。写生帳と水彩道具だ。
色鉛筆ではなく水彩道具を選んだのは、ひとつ前の町で知り合ったおじいさんが水彩画を描いていたのをしばしば見ていたからというだけの理由。
何でそんな物を、とは云われなかった。
同じ『その時々の風景を切り取って残すこと』だったからだろうか。
少し大きな町でようやっと写生帳と水彩道具を買い与えられたおれは、隙間時間に花たちに挨拶をして回っては、絵の描ける環境で花たちを自分が見える通りに描き始めた。
奥に本体の花を。手前にキラキラを纏うヒトを描いた絵は当然と不思議がられた。
「誰かにモデルを頼んでいるのか?」
父さんの問いに、ううんも首を左右に振る。
「おれが勝手に描いてるだけだよ」
嘘ではない。キラキラを纏うヒトを描くのにいちいち許可は取っていなかった。
覗き込んでくる花たちには、君たちを描いてるんだ、などと明かしたけれど。
「どことなく普通の人間じゃないみたいな描き方だな」
その感想にドキリとした。それは疚しさではなく、自分の見ているものの可視化に成功しているという証拠だと思ったからだ。
「普通の人じゃないよ」
だって空想の人だもの。
おれにとっては空想ではないけれど。
他人にとっては空想と変わらないだろうからそう返しておいた。
「絵を描くのは楽しいか?」
寫眞機を丁寧に整備しながら問うてくる父さんに、それはもうと頷く。
「それは良かった」
写生帳と水彩道具が無駄にならなくて良かったと揶揄を含む父さんの声に、多分暫くはずっと飽きることはないだろうなと心の中で思ったし、それは実際飽きることなどなかった。
十二歳の頃には写生帳は二冊目を終えようとしていた。
三冊目を強請ろうとした際に、父さん宛に届いた手紙。それを読んだ父さんは、すぐに旅支度を整え出したし、おれにもそれを要求した。
この町に来てからまだ一週間も経っていない。
普段なら季節ふたつは留まる父さんだから、どうしたのかと首を傾げたら、普段は飄々としている父さんが神妙な面持ちでおれの肩を叩いた。
「母さんの病状が悪化したらしい」
たから一度『帰る』と云った父さんに、あぁこの人はちゃんと母さんのことを自分の居場所にしていたのかと妙な感心をしてしまった。
急ぎ足で列車を乗り継ぎ二日掛けて母親の居る家に辿り着いた。
母さんはもう起き上がるのも苦労するくらい衰弱していて。
それでもおれと父さんの顔を見ると破顔した。
「大きくなったわね」
細い指で頬を撫でられる感触には薄っすらと覚えがあって、この人は本当におれの母さんなんだなと実感した。
父さんは母さんに大量の寫眞を見せた。
此処はこんな所だった。
彼処はこんな所だった。
旅の話を織り交ぜながら父さんが語るのを、母さんはにこやかに聞いていた。
「そうだ、此奴は寫眞の代わりに絵を始めたんだ」
おれを指差しながら父さんがおれに写生帳を出せと無言で促してきた。
それに従って二冊の写生帳を母さんの視界に入るように広げたら、まぁ、と母さんは元々大きめな目を更に大きくしてから、ふんわりと微笑んだ。
「とても綺麗ね」
「うん」
そうだろうとこちらも微笑えば、母さんは父さんが席を外している間におれの耳を自分の口許に寄せさせた。
そうして囁かれたのは、
「あなたも視えるのね」
優しい声に、あなたも? と復唱する。
「あの世界を画に残そうと思うだなんて、やっぱりあの人の血を継いでる証拠ね」
ころころと鈴が鳴るような声は少女のよう。
あなたも、ということは、母さんもキラキラを纏うヒトが視えているのだろうか。
「ねえ、喬臣?」
「うん?」
「飽きるまで描き続けなさいな」
「……うん」
云われなくてもそのつもりだったけれど。
「誰にも伝わらない世界を、伝える仕事をなさい」
きっとそれはあなたにとっての生き甲斐になるわ、と。そう云われたら、そんなもんかな、と単純に思ってしまった。
「特に桜が綺麗ね……」
「ん、あぁ、おれ、桜好きみたい」
満開に咲き誇るのも、吹雪のように散る様も好きなんだと返せば、わたしも同じと微笑。
「ねぇ、もしわたしが死んだら、その桜の絵を一緒に燃やしてくれない?」
あなたとの思い出は殆どないから。
せめて形あるものと共に果てたいの、なんて云われたら拒否なんて出来る訳がない。
でも、と注釈を加える。
「その前に、まだ死ぬ時の話はしないで」
それはすぐ近いのかも知れないけれど、暫く遠い現実になるかも知れないのだ。
いつか、の約束はするけれど、今すぐのような約束はしたくなかった。
それから半年。父さんは旅立つことなくこの土地で寫眞を撮り続け、またおれも絵を描き続けた。
花たちとは随分と仲良くなった。
進んでモデルになってくれるような花も居た。
それもこれも、母さんの息子だから、という贔屓目があったらしい。
母さんはこの家の周囲の花々と随分仲が良かったようだ。
半年の間に母さんは衰弱していくばかりだった。
秋にこの地に戻ってきて、厳しい冬を超えて。桜が満開になる直前に母さんは息を引き取った。
描き掛けだった桜の絵を見せられなかったことだけが悔やまれた。
おれと同じく桜が好きだと云った母さんに、この絵を見て欲しかった。
だから、おれは昔描いた桜の絵と、今描き掛けていた桜の絵を母さんの火葬に投げ込んだ。
いつかまたちゃんとした絵が描けたら、墓に添えに来ようと決めて。
「ねぇ父ちゃん、あのキラキラしたヒトたちはだれ?」
物心ついた時から視えていたキラキラした光を纏うヒトたちを指差しながら隣でおれの手を引く父さんに問うたのは三歳も半ばの頃だろうか。
おれが指差した方向をちらりと見て、父さんは訝しげな顔をした。
「誰も居ないぞ?」
「え、でも……」
「歩きながら夢でも見たか?」
色濃い揶揄に釈然としないものを感じながら、おれはキラキラを纏うヒトたちの横を通り過ぎた。
キラキラを纏うヒトたちはあちこちに居た。
けれどもその存在に誰も気付いていなさそう。
あんなに目立つのに不思議だ。
おれはそれこそ物心ついた頃から父さんにあちこち連れ回されていたから、定まった居住地はなかった。
大体町から町へと点々とし、宿屋などを見付けては住み込みで働かせてもらい金銭を得て暮らしていた。
父さんが点々と居を移るのは、誰かから逃げていたりする訳ではない。
常に新しい景色を求めて彷徨う寫眞家だったからだ。
おれはその旅に連れ回されているという訳だ。
キラキラを纏うヒトたちを凝視すると、あちらは一瞬キョトンとしてから手を振ってくれる。
それに笑顔で手を振り返し応えれば、キラキラを纏うヒトたちは口許に人差し指を当てて「しぃ」と云うような仕草をした。
その仕草から、キラキラしたヒトたちが視えることは他の誰にも云ってはいけないことなのだろうと幼心に察し、おれは一度父さんに問うたきり、キラキラしたヒトたちが視えることを秘匿した。
父親が居らず、手伝いも一段落した時間におれは宿屋の生け垣で談笑する数人のヒトに声を掛けた。
「ねぇ、何でキラキラしてるの?」
普通の人間には見えないキラキラの理由が知りたくて輪の中に飛び込めば、さっとおれを囲んだ三人が目配せをし合ってからおれを見下ろした。
「わたしたちが視えるの?」
「うん」
「何て珍しい!」
「珍しいの?」
「珍しいわよ。普通わたしたちは人間には視えないもの」
「どうして?」
素朴な疑問に、三人は「だってね」と揃って声を潜めた。
「わたしたちは花の精だからよ」
「はなの、せい?」
首を傾げたおれに、三人が頷く。
「わたしは彼処の椿」
「わたしは上の木蓮」
「わたしは裏庭の梅」
それぞれの自己紹介に、成る程……と目を大きくした。
「じゃあ、町中でもキラキラしてるヒトたちはみんな花?」
重ねた問いには「きっとそうだわ」という重なる声。
「他の人にはわたしたちが視えることを云わない方が良いわ」
それは何となく察していた。けれども理由が知りたかった。
「……どうして?」
おれの二回目の「どうして」に椿が答えた。
「きっと頭がおかしくなったと思われるわ」
「だって、こうして今会話しているのだって、他の誰かが見たらあなたが一人で喋っているようにしか見えないんだから。ついでに、わたしたちと触れ合えても、視えない人間からしてみれば空中で手を彷徨わせているだけにも見えるわ」
そう木蓮が続ける。
「だからわたしたちと喋る時は気を付けなさいね」
梅に諭されて、おれは漸く秘匿せねばならない理由に納得して頷いた。
「でも、だれも見ていなかったらはなしかけてもいい?」
おれには友達と呼べる友達が居ない。
一人遊びは得意だけれども、本当は誰かと喋ったり遊んだりしたかった。
「なぁ、いいだろ?」
せがむようなおれの口調に三人はまた一瞬顔を見合わせてから、揃って口許に人差し指を添えた。
「誰も見ていなかったら、ね」
それはきっとおれのことを慮っての台詞だったに違いない。
キラキラを纏うヒトたちは、基本皆優しかった。
人気のない場所で一人ぽつんとしていたり、何人かで輪を作ったりしているヒトたちを見付けると、おれは周囲を窺ってから声を掛けた。
殆どのヒトたちはまず一番に驚いた顔をする。
段々とそれが面白くなってきた。
あちこちで挨拶をして、時には遊び相手になってもらう時間はとても楽しいものだった。
人間の友達を作り難い環境だからこそ、尚更だった。
町中の花たちと仲良くなった頃に、父さんから旅立ちを告げられ、名残惜しさに不満を唱えれば、事情を知らない父さんはおれの不満など意に介さず淡々と旅支度を整えた。
旅立つ前の日には会える花たちを探しては「さよなら」を云って回った。
きっともう会えないとおれが云えば、花たちも残念そうな顔をしてくれたのが少しだけ嬉しくもあった。
別離を惜しまれるというのは幸せなことだ。
己の存在を肯定されているのと同義だから。
朝早くに旅立つおれと父さんを、宿の椿たちはそっと見送ってくれた。
残念だけれど仕方がない。
キラキラを纏うヒトたちが花だと知った今、おれは次の土地でも花たちと仲良くなろうと決めたのだった。
そうやって、おれは様々な土地で様々な花たちと友達になった。
何故父親と二人きりで旅をしているのか。母さんはどうしたのか。理由は簡単で。
母さんは病で床に伏せているから、らしい。
らしい、と云うのは、おれが物心ついた頃にはもう父さんと二人きりだったからだ。
母さんの話は父さんから聞いたものでしかない。
それでも事あるごとに、お前は母さん似だなぁとはよく朗らかに云われたもので、夫婦の仲は確かに悪いものではなさそうだった。
母さんに会いたいな、という気持ちはないでもなかったけれど、記憶にない人と会うのは最早他人と会うのと変わらない。
今更会ったところで……という感じもしていた。
しかし六歳くらいになって、ふと思い付いた。
「ねぇ父ちゃん、母ちゃんの寫眞、ないの?」
そう。何故今まで気付かなかったのだろう。
寫眞家の父さんなんだから、母さんの寫眞の一枚くらい持っていてもおかしくない。
けれども父さんは苦笑しながら「ないよ」と肩を竦めた。
「なんで」
「そりゃあだって、」
おれと視線の高さを合わせた父さんは、顔の横で人差し指を立てた。
「だって、会いたくなるだろう?」
だったら旅なんか辞めてしまえば良いのに、とは云えなかった。
新しい景色を目にした父さんの目の輝きは花たちのようにキラキラして見えたからだ。
寫眞機で新境地を開拓することこそ父さんの生き甲斐なのだろうと思ったら、子どもながらに異論を示すことは出来なかった。
十歳にもなると視野が広がって、色んなことが理解出来るようになってきた。
父さんが新しい景色を求める気持ちも。
おれにとってはそれが花と出会うという形だったが。
そこでしか見れない景色を寫眞に収めるのが父さんの生き甲斐。
その楽しみを共有しようと思ったのか、父さんはおれに寫眞機の使い方を教えてくれた。
風景を撮る振りをして、こっそり花に焦点を当てた。
キラキラを纏うヒトが他人にも視覚化されないだろうかと思ったからだ。
けれども概ね想像していた通り、現像された寫眞に花そのものは写っていれどもキラキラを纏うヒトは写ってはいなかった。
父さんがその土地土地でしか見れない風景を寫眞に収めたいという気持ちときっと同じで、おれは出会った花たちそれぞれの姿を残したいと思うようになった。
あのキラキラをどうにかして誰かと共有したかった。
どうすれば良いだろう。一ヶ月くらい考えて、あぁそうだと手を打つ。
絵を描けば良い。
おれにしか視えない世界を可視化する方法はそれしかない、と。
それまで物を強請ったことのなかったおれは、初めて父さんに物を強請った。写生帳と水彩道具だ。
色鉛筆ではなく水彩道具を選んだのは、ひとつ前の町で知り合ったおじいさんが水彩画を描いていたのをしばしば見ていたからというだけの理由。
何でそんな物を、とは云われなかった。
同じ『その時々の風景を切り取って残すこと』だったからだろうか。
少し大きな町でようやっと写生帳と水彩道具を買い与えられたおれは、隙間時間に花たちに挨拶をして回っては、絵の描ける環境で花たちを自分が見える通りに描き始めた。
奥に本体の花を。手前にキラキラを纏うヒトを描いた絵は当然と不思議がられた。
「誰かにモデルを頼んでいるのか?」
父さんの問いに、ううんも首を左右に振る。
「おれが勝手に描いてるだけだよ」
嘘ではない。キラキラを纏うヒトを描くのにいちいち許可は取っていなかった。
覗き込んでくる花たちには、君たちを描いてるんだ、などと明かしたけれど。
「どことなく普通の人間じゃないみたいな描き方だな」
その感想にドキリとした。それは疚しさではなく、自分の見ているものの可視化に成功しているという証拠だと思ったからだ。
「普通の人じゃないよ」
だって空想の人だもの。
おれにとっては空想ではないけれど。
他人にとっては空想と変わらないだろうからそう返しておいた。
「絵を描くのは楽しいか?」
寫眞機を丁寧に整備しながら問うてくる父さんに、それはもうと頷く。
「それは良かった」
写生帳と水彩道具が無駄にならなくて良かったと揶揄を含む父さんの声に、多分暫くはずっと飽きることはないだろうなと心の中で思ったし、それは実際飽きることなどなかった。
十二歳の頃には写生帳は二冊目を終えようとしていた。
三冊目を強請ろうとした際に、父さん宛に届いた手紙。それを読んだ父さんは、すぐに旅支度を整え出したし、おれにもそれを要求した。
この町に来てからまだ一週間も経っていない。
普段なら季節ふたつは留まる父さんだから、どうしたのかと首を傾げたら、普段は飄々としている父さんが神妙な面持ちでおれの肩を叩いた。
「母さんの病状が悪化したらしい」
たから一度『帰る』と云った父さんに、あぁこの人はちゃんと母さんのことを自分の居場所にしていたのかと妙な感心をしてしまった。
急ぎ足で列車を乗り継ぎ二日掛けて母親の居る家に辿り着いた。
母さんはもう起き上がるのも苦労するくらい衰弱していて。
それでもおれと父さんの顔を見ると破顔した。
「大きくなったわね」
細い指で頬を撫でられる感触には薄っすらと覚えがあって、この人は本当におれの母さんなんだなと実感した。
父さんは母さんに大量の寫眞を見せた。
此処はこんな所だった。
彼処はこんな所だった。
旅の話を織り交ぜながら父さんが語るのを、母さんはにこやかに聞いていた。
「そうだ、此奴は寫眞の代わりに絵を始めたんだ」
おれを指差しながら父さんがおれに写生帳を出せと無言で促してきた。
それに従って二冊の写生帳を母さんの視界に入るように広げたら、まぁ、と母さんは元々大きめな目を更に大きくしてから、ふんわりと微笑んだ。
「とても綺麗ね」
「うん」
そうだろうとこちらも微笑えば、母さんは父さんが席を外している間におれの耳を自分の口許に寄せさせた。
そうして囁かれたのは、
「あなたも視えるのね」
優しい声に、あなたも? と復唱する。
「あの世界を画に残そうと思うだなんて、やっぱりあの人の血を継いでる証拠ね」
ころころと鈴が鳴るような声は少女のよう。
あなたも、ということは、母さんもキラキラを纏うヒトが視えているのだろうか。
「ねえ、喬臣?」
「うん?」
「飽きるまで描き続けなさいな」
「……うん」
云われなくてもそのつもりだったけれど。
「誰にも伝わらない世界を、伝える仕事をなさい」
きっとそれはあなたにとっての生き甲斐になるわ、と。そう云われたら、そんなもんかな、と単純に思ってしまった。
「特に桜が綺麗ね……」
「ん、あぁ、おれ、桜好きみたい」
満開に咲き誇るのも、吹雪のように散る様も好きなんだと返せば、わたしも同じと微笑。
「ねぇ、もしわたしが死んだら、その桜の絵を一緒に燃やしてくれない?」
あなたとの思い出は殆どないから。
せめて形あるものと共に果てたいの、なんて云われたら拒否なんて出来る訳がない。
でも、と注釈を加える。
「その前に、まだ死ぬ時の話はしないで」
それはすぐ近いのかも知れないけれど、暫く遠い現実になるかも知れないのだ。
いつか、の約束はするけれど、今すぐのような約束はしたくなかった。
それから半年。父さんは旅立つことなくこの土地で寫眞を撮り続け、またおれも絵を描き続けた。
花たちとは随分と仲良くなった。
進んでモデルになってくれるような花も居た。
それもこれも、母さんの息子だから、という贔屓目があったらしい。
母さんはこの家の周囲の花々と随分仲が良かったようだ。
半年の間に母さんは衰弱していくばかりだった。
秋にこの地に戻ってきて、厳しい冬を超えて。桜が満開になる直前に母さんは息を引き取った。
描き掛けだった桜の絵を見せられなかったことだけが悔やまれた。
おれと同じく桜が好きだと云った母さんに、この絵を見て欲しかった。
だから、おれは昔描いた桜の絵と、今描き掛けていた桜の絵を母さんの火葬に投げ込んだ。
いつかまたちゃんとした絵が描けたら、墓に添えに来ようと決めて。



