兄の軟派な親友からの囲われ婚~帝都妖刀管理局奇譚~

「おはよう、琴葉(ことは)ちゃん。今日も可愛いね」
「萩尾さん、おはようございます」

 今日も絶好調だなぁ、萩尾(はぎお)さん。
 朝日に似た眩しい笑顔で琴葉に挨拶をしているのは兄の親友である萩尾伊吹(はぎおいぶき)
 萩尾は毎朝決まった時間に朝の弱い琴葉の兄である鏡 水澄(かがみ みすみ)を迎えに来る。

「今、兄を呼んできますね!」
「ありがとう~~」

 水澄を呼びに家に入った琴葉はまだシャツの袖ボタンをもたもたと留めている兄に声をかけた。

「水澄兄さん——! 萩尾さんいらしてますよ?」
「ん? 今出る。あれ、琴葉、俺の上着知らない?」
「いつもの場所に置きましたけど」

 琴葉は慌てて水澄の紺色の制服を取りにバタバタと部屋を駆け、急いで羽織らせた。

「いつも大変だねぇ、琴葉ちゃん」
「いえ、私にできることなんてこれくらいですから……」
「そんなこと言わないで? じゃあ、行ってきます」
「行ってくる」
「いってらっしゃいませ」

 琴葉は両手で手を振りながら二人の背中を見送ってからため息を吐いて両手をぎゅうっと握った。

 また、気を遣ってもらってしまった。

 人生の中で何の異能も持たない所謂、無能の一家の穀潰しである私を否定せず、肯定してくれたのは二人だけだった。

『琴葉は無能じゃない。俺の妹だ。俺が父さんも母さんもまわりも見返してお前の評価を変えてやるからな!』

 歴代当主の中でも一番異能が強いと言われている頼れる品行方正の兄、鏡水澄。

『大丈夫だよ。俺は何があっても琴葉ちゃんの味方だからね?』

 琴葉をいつも気にかけてくれる兄の親友であり、現在帝都で最強と謳われている異能の持ち主、萩尾伊吹。
 柔らかい物腰、絵に描いたような容姿。特に女性には特段甘いプレイボーイ。
 正反対な気質の二人から大切に扱われてきた琴葉も十六歳。
 琴葉はいつまでも二人におんぶに抱っこというのも申し訳ないと悩んだ末、意を決し両親に頭を下げた。

「無能な私でも嫁がせていただけるお家はございませんか? 鏡のために政略結婚でも構いません。私を使ってください」

 琴葉の言葉に両親は賛成も反対もしなかった。ただ、分かったと頷いただけだった。

 私がいてもいなくてもさほど感情の動かない両親を見るのは寂しいような、当たり前のような。

 琴葉はただ苦虫をかみつぶしたような表情をするのが精いっぱいだった。

 琴葉は両親に話をした後、自分のこれからが決まればお世話になっている二人にはすぐにでも伝えなければと思った。
 さっそく帰宅した水澄にこれからの話を告げると彼は瞬時に眉間に皺を寄せ、分かりやすく不貞腐れていた。そして、口を尖らせてぶつぶつと念仏のような言葉を発していた。

「どうして俺に相談してくれなかったんだ。俺がそこまで頼りないのか……頼りないのか、そうか、そうかぁ、頼りなかったか。もう寝る」

 あ、あれ~~。水澄兄さんは応援してくれると思ったのに……。不貞寝しちゃった。

 琴葉が目をぱちくりさせている間に水澄は魂が抜けたようにふらふらと部屋に籠ってしまった。


 もっと予想外だったのは萩尾の方だった。
 琴葉は萩尾から頑張ってね、応援してるよ、無理はしないでねと穏やかに明るく背中を押してくれると想定していたのだ。

 魂の抜けたままの水澄がふらふらと家を出て間もなく、いつものように萩尾が水澄を迎えに来た。

「琴葉ちゃん、おはよう~~。あれ、前髪切った?」
「おはようございます。はい、少しだけ整えました」

 しかし、前髪を整えたのはミリ単位のことでよく気付けるなぁと琴葉は感心していた。

「やっぱり、今日は一段と可愛いと思ったんだよね。そうそう萩尾さんなんて他人行儀やめてよ~~。小さい頃みたいに伊吹さんって呼んでよ。もしくは伊吹お兄ちゃんでも可!」

 萩尾は茶目っ気たっぷりにぱちんと片目を閉じて微笑みかけてきた。

 名前……か。

 琴葉が萩尾を名前で呼ばなくなった理由を振りかえっていた。

 私が萩尾さんの名前を呼ぶと一波乱あるからなぁ。

『ねぇ、あなた! 萩尾さまと付き合っているの? どんな関係なのかしら!?』
『無能のくせに、生意気よ』

 琴葉は萩尾もファンの女の子から突き飛ばされたこともあった。

『あの無能な子? 見た目も平凡だし、ぱっとしない子ね』 
『萩尾様もしかたなくでしょう、お兄さんのご友人ですもの』

 こそこそと悪口を言われることは日常茶飯時である。

『みんなの萩尾さまなのに!』

 逆恨みされて髪を引っ張られたこともある。
 萩尾は家柄も良く、強い異能を持ち、あの容姿に物腰、女性人気がとても高い。
 触らぬ神に祟りなしということから琴葉は苗字で呼ぶことにした。

 私だけに不満をぶつけられるくらいなら我慢できるけど、兄や萩尾さんに迷惑がかかるなら話は別だ。
 それに、本来無能な私が気軽に話しかけられる人じゃない。
 彼は帝都で最強と謳われる異能持ちなのだから。

「琴葉ちゃんになら何て呼ばれても嬉しいけど、さぁ? お兄さんちょっと寂しい」
「いえ、恐れ多いです」

 萩尾は社交的な性格でで男女関係なく心身ともに距離が近い。それがまったく嫌とは思わせないほど居心地がいいのだから、勘違いする人多いのだ。琴葉も例外ではないので彼女なりに勘違いしないよう、少し距離を取るように心掛けている。

 萩尾さんは良い人だから……もし私が勘違いしてしまったとしても、兄の親友である手前、妹を無下にも出来ないだろうし、突き放したりもしないと思う。気遣われてまで一緒にいるのは素直に嫌だなぁと思う。

 琴葉はぐるぐると回る萩尾に対する思考からハッと彼に言わなければいけないことを思い出した。

 そうそう忘れるところだった。今までの感謝とこれからの私について決意したことをご報告をしないと。

「萩尾さん」
「ん? なになに、秘密の話?」

 萩尾は琴葉よりも頭一つ半、背が高い。そのため、琴葉の話を聞くときは少し屈んで耳を傾けてくれる。

「あの、私……すぐではないんですが、ご縁があれば縁談を受けようかと思っていて、今までたくさんお世話に……」
「は?」
「え……」

 琴葉の報告に間髪入れずに発された声はあまりに冷たいものだった。
 じりじりと萩尾は琴葉を壁際に追いやり逃げ道を塞いだ。
 トンッと琴葉の背中が壁にあたり、後退りをやめると萩尾は閉じ込めるように両手を壁につけ、見下ろした。

「今、なんて言ったの?」

 萩尾の声には不機嫌さが滲んでいる。

 なんで、萩尾さん怒ってるの? 私、なにか気に障るようなこと言ったかな。

「えっと、縁談を……」
「水澄が許したの?」
「み、水澄兄さんには今日お伝えしたばかりで……」
「じゃあ……好きな人でも出来たの?」
「好きな人?」

 萩尾の問いかけの意図がわからずぽけっと琴葉は見上げた。
 今まで一度も見たことがない体温のない瞳に囚われて、目が逸らせない。さらに抑揚のない声が琴葉の身体を強張らせるには充分なほど粘度のあるものだった。

 蛇に睨まれた蛙ってこういうことを言うのかな……。

「いえ、そういうのではないですけど……」

 声が、顔が近い……。

「——許すわけないだろう、縁談なんて」

 琴葉を閉じこめるように壁に置かれていた萩尾の手が腕へつたってくるとぎりっと力強く掴まれた。

「いっ!」

 とっさに琴葉が声を出したのを聞いて、萩尾は我に返ったようにハッとして口元をおさえていた。

「萩尾さん……?」
「ごめんね、突然の事で気が動転しちゃった。琴葉ちゃんは俺にとって大事な子だからさ。縁談は鏡のご両親に強要されたの?」
「強要? いえ……自分から、いつまでも水澄兄さんと萩尾さんにお世話になりっぱなしなのも申し訳ないなと思って」
「そんなの気にしなくていいよ? あれ、もしかして水澄って先に出た?」
「あぁ、はい。五分ほど前に」

 萩尾はいつもと同じように爽やかな笑みを浮かべてじゃあ、行ってくるねと手を振って管理局に向かっていった。
 残された琴葉はというと、萩尾が見えなくなった途端、体中の力が抜けてしまった。

 な、な、なんだったの……萩尾さんのあんな顔見たことない。

 あの目を、あの声を、掴まれていた腕を反芻しては、ぞくりとした。
 知らない男の人みたいだった。

「なに……あれ」

 心臓が爆発しそうなほど、跳ねているのはただ驚いただけなのか、怖かったからか、それとも……名前のない高鳴りだったのだろうか。
 背中にあたるひんやりとした壁に身体を預けてずるずる崩れるしかなかった。



◇◇◇



 それは数日後の昼下がりの事だった。

「琴葉さん、お父さんと水澄さんにお弁当を差し入れてくださる? なんでも妖刀騒動で今日もお帰りがないみたいなの」
「わかりました、お母さん」

 お屋敷内を掃除している琴葉に母が声をかけた。
 お母さんが局内に差し入れをした方がいいって言うってことは一筋縄ではいかない妖刀なんだろうな。


「これでいいかな」

 琴葉の目の前には三つのお弁当箱が並んでいた。それは、父と水澄と悩んだ末に萩尾の分も作ったのだった。

「では、行って参ります」
「気を付けて」

 琴葉は風呂敷に三つのお弁当を包んで胸に抱えてお屋敷を出た。


帝都妖刀管理局(ていとようとうかんりきょく)

 とある刀鍛冶があやかしを斬って作ったと言われる妖刀が帝都のあちこちにばらまかれた。
 その妖刀を手に取った者、斬られたものは妖炎《ようえん》という紫色の炎にみまわれる。その炎は心身を侵食し、善悪の判断が抜け落ちたあやかしと化してしまう。そして、人を襲いはじめてしまうのだ。
 その妖刀を回収し、管理。また、あやかしとなった人を助け、民間人の保護を行うのが帝都妖刀管理局である。
 管理局に入るには妖刀と戦える異能を持っていることが条件。
 いくつかある由緒正しき異能を持った名家の一つが我が鏡家。そして、萩尾家。恵まれた血筋の中で異能を持たなかったが琴葉である。



「はぁ……」

 琴葉は管理局が近づくにつれ、溜息が増え、足取りが重くなっていく。

 理由は、この前の萩尾さんのことだけじゃない……。

 一つ角を曲がれば管理局本部というところで、琴葉の足がぴたりと止まった。角を曲がる前から黄色い声があたりには充満している。
 琴葉は角からこっそり顔を出し、状況を見た。その黄色い声援の中心にいるのが萩尾だと理解した。

「はぁ……気が重い」

 家柄も異能も申し分ない上に、柔らかい物腰にあの容姿……女の子が色めき立たない理由が何一つない。
 誰に対しても平等に優しく、勘違いする人が多いことから萩尾に関しては共通認識でみんなのものというのが暗黙の了解。誰か一人でも抜け駆けをしようものなら容赦ない。
 私みたいに何の異能もなければ家柄だけの女など言語道断だ。

 琴葉は萩尾と女の子たちが溢れている管理局の前を通ることは諦めて、遠回りしてこっそり局内に入ることにした。

「あれ? 鏡さんのところのお嬢さんですよね?」
「あ、はい。兄の水澄は局内におりますでしょうか?」
「呼んできますね。こちらでお待ちください」

 管理局の関係者入り口で琴葉は偶然、水澄の部下である局員に声をかけられた。スムーズに水澄を呼んでくれるとのことでほっとしていた。

「琴葉!」
「お母さんからお弁当を差し入れるようにとのことでこれ、お持ちしました」

 颯爽と現れた水澄に琴葉は胸に抱えてきた風呂敷を手渡したが、風呂敷の包みを解きながらはて、と首を傾げられた。

「水澄兄さん?」
「3つ?」
「あぁ、えっと、お父さんと水澄兄さんといらないかもしれないですけど、萩尾さんの分」
「伊吹に直接渡さないのか? その辺にいるだろう呼んでくるよ」

 水澄が辺りを見渡して今にも萩尾を呼びに行こうとするのを琴葉は全力で止めた。
 それでは遠回りしてきた意味がなくなってしまうからだ。

「待って! 大丈夫、大丈夫なの。萩尾さんには本当に! お母さんから差し入れって伝えて兄さんから渡してください。私からなんて言わなくていいから」
「なんで」
「なんでって、迷惑になりますから」

 萩尾さんが大好きな女の子たちもいい気はしないでしょうし、局内外にファンが多い方なのだから。それに、萩尾さん私に怒ってるみたいだから顔合わせてくれないかも。

 琴葉はもごもごと言葉を並べた。

「迷惑なのか? 伊吹」
「はい?」

 水澄は琴葉の頭一つ半くらい上を見ながら萩尾の名前を呼んだ。

 これは、もしかしなくても、そうだ。

 琴葉は背後に誰か立っている気配を感じていた。身体がガチンと固まり振り向くことができない。
 背中に感じる圧がとても歓迎されたものではなかったからだ。

「水澄さん、ちょっといいですか? 今朝発見された妖刀の特殊な長さについてですが」
「あぁ、今行く。琴葉、弁当ありがとう。お父さんには俺から渡しておくから」
「はい......」

 水澄が局員に呼ばれてしまい、萩尾と二人きりになってしまった琴葉の背中はひんやりと汗で冷たくなっていた。

 どうしよう。

 身体からギシギシと音がしそうなほどぎこちなく振り向くとやはり萩尾が不機嫌そうな顔をして立っていた。

「琴葉ちゃん……」
「は、萩尾さんコンニチワ……」
「どうして俺のこと避けるの? さっき俺の顏見て遠回りしたよね」
「避けてないですよ。私なりにご迷惑をおかけしないようにと」
「迷惑? 俺がいつ迷惑だって言ったの? それとも誰かに言われたとか……」

 琴葉の肩がぴくりと反応してしまった。萩尾は意味ありげにふうんと琴葉の顏を覗いた。

「いえ、そんなことは一切なく! あ! 私まだお家の用事があって帰らないといけなくて」
「その用事、後回しにしてもらえるかな?」
「でも!」

 萩尾は琴葉の腕を取って引きずっていった。局員の視線が琴葉の身体にこれでもかと刺さってくる。
 琴葉が腕を引かれて連れてこられたのは部屋の前に萩尾伊吹と札のかかった執務室だった。

「お茶飲む?」
「お、お茶なら私が!」

 琴葉は挙手をして名乗り出たが不発だった。

「座ってて?」
「......はい」

 ぴしゃりと言い切られては琴葉も大人しくするほかない。

 綺麗な執務室……埃ひとつないし、本棚、机の上、書類も全部きっちり端が揃っている。水澄兄さんの部屋の方がだいぶ散らかってる気がする。

「お茶請け、これでもいいかな。キャラメルなんだけど」

 萩尾は机の引き出しから可愛らしい色味の紙で包まれたキャラメルがいくつも入った瓶を取り出した。
 そして、琴葉の前の机に置いた。

 可愛い、誰かにもらったのかな……。

「可愛い? 気に入った?」
「えっと……」
「気に入らなかった?」
「か、可愛いと、思います!」

 琴葉が感想を言うと萩尾はお茶を持って隣に座った。二人掛けの椅子にぴったりと身体をよせてきて琴葉はきゅっと小さくなった。

 萩尾さん、近い……いい匂いする。

「そう、ならよかった。この前、百貨店で見かけて琴葉ちゃんはこういうの好きかなぁと思って買っておいたんだ」

 萩尾はふいに琴葉に笑いかけた。

 萩尾さんはすぐこういうことを言う……。女の子になら誰でもそう言うのかな。

 琴葉がぱっと萩尾から視線をキャラメルに流すと彼は長く綺麗な指を瓶に差し入れキャラメルをひとつ拾い、かさりと包装されている可愛らしい紙を解いた。

 些細なことで絵になる人だなぁ。

 琴葉が見惚れているとキャラメルを支えた指先がゆっくりと目の前にやってきた。

「あ……ありがとうございます」 

 キャラメルを手で受け取ろうとすると萩尾は形のいい唇を薄く開いてから口を開けてと言うだけだった。
 琴葉は戸惑いがちに口を開くと丁寧な手つきでキャラメルが口に入れられた。

「どう、美味しい?」
「……甘くて美味しいです」

 正直なところ、琴葉は萩尾に食べさせてもらった衝撃で味がしなかった。
 いつのまにか不機嫌そうだった萩尾はいつも通りになっていた。

 じわっと舌にキャラメルの甘さが広がってきてころころ口の中で楽しむ余裕が生まれた琴葉の前で萩尾は差し入れたお弁当を開いた。

「これ、琴葉ちゃんが俺のために作ってくれたお弁当ってことでいいの? それともお母さんから言われて仕方なく?」
「ご迷惑だとは思ったんですけど、萩尾さんも食べるかなって、思って」
「迷惑なんて思わないよ」

 迷惑じゃないその言葉で琴葉は安心し、今日はじめて自分から自然に顔をあげて萩尾を見た。
 目が合った萩尾が意地悪く目を細めたのが見えた。

「この卵焼き、食べたいな?」
 
 甘えるように下から見上げられて琴葉はうっと息を飲んだ。
 頭の中にはまだキャラメルを食べさせてもらった場面が鮮明に流れている。

「琴葉ちゃん、食べさせて?」

 ぎこちなく箸を取り、卵焼きを萩尾の口元に運んだ琴葉は顔をあげられない。
 一度も見たことのない知らない男の人の照れた表情を真正面から見てしまったからだ。
 
 この前から、心臓がうるさくて仕方ない。


「琴葉、お前に縁談がきている」 

 琴葉が父から告げられたのは萩尾からキャラメルをもらった三日後のことだった。



◇◇◇ 



「琴葉、お前に縁談がきている」

 父に告げられた一週間後、琴葉は両親とともに上品な庭に鏡のような池が特徴的な料亭にやってきた。

 今朝は大変だったな……。

『琴葉、本当に行くのか? 今からでも断れないのか、俺も同席したいのに局の定例集会で行けない。断れないのか……俺が断ろうか?』

 縁談に納得していない水澄は何度も縁談は断れないのかと壊れたおもちゃのように琴葉に繰り返していた。いっこうに仕事に行く気のない水澄を家の前まで送ってから準備をしてようやく料亭に辿り着いたのだ。


 縁談相手の久米(くめ)は話を聞いていた通り、大人しい人物だった。
 自己主張はほぼなく、横柄な態度をとることもなかった。どちらかと言えば、びくびくと時折何かに怯えたようにする仕草があった。

「では、あとはお若いもの同士でお庭をお散歩されたりはどうですか?」

 促されるままに琴葉は久米と庭に出て、歩いてみることになった。
 久米は琴葉と二人きりになった途端、饒舌になった。

「こ、琴葉さん!」
「はい!」

 久米は近くで見ると目の下には濃いくまが出来ていて、顔色が悪く蒼白を通り越して緑に見えるほどだった。
 
 具合でも悪いのかな。

「あの、えっとあなたにだけ教えてあげます。同士だと思ったので……」
「同士ですか」
「はい……僕は異能は持っているけど、管理局には入れなかった……落ちこぼれ扱いされてきました。理不尽に扱われて、蔑まされて……」

 琴葉は異能を持っていなかったから何を言われても当然だと思うことはあったが、彼はたくさん理不尽な想いをしたのだろうと想像し、心を痛めていた。

「でも、そんなのどうでもいい。琴葉さんに出会えたので」
「きょ、恐縮です」

 琴葉は突然久米から出会えたことを肯定され、上手く反応することが出来なかったが素直に嬉しかったのだ。
 久米はだんだんと語る口調に熱が入り、早口になっていった。

「それで、あの琴葉さんはある日突然自分に強い力が現れたらどうしますか?」
「現れたら……ですか」

 琴葉は久米からの問いを自分なりに考えていると彼は答えを急かすように言葉を被せてきた。

「今まで僕たちを下に見てきた奴らを見返してやりたいですよね! 復讐、してやりたいですよね! 琴葉さんならわかってくれますよね!」

 だんだん久米の呼吸が乱れてきた。さらに泳いでるだけだった瞳が焦点が合わなくなっているのがわかった。

「私は復讐とか見返したいとかは思い至らなくて」

 琴葉は自分が自分で、この状況を悪化させてしまったのを感じた。

「……は? 琴葉さん、それ本心ですか? 少しも考えたことも思ったこともないんですか」
「あの、く、久米様?」

 久米は自身の懐から小刀を取り出した。

「がっかりだ。無能であることに苦労してきた可哀相な琴葉さんなら僕と一緒にどこまでも堕ちてくれると思ったのに! これから僕の伴侶になるのに相応しい子だと思ったのに!」
「いっ、たっ!」

 久米は小刀を至近距離で勢いよく鞘から引き抜いた。それは琴葉の頬をかすめた。
 頬から赤い糸のような切り傷がすうっとできた時、琴葉の身体に雷が落ちるようなビリっとした衝撃が体中を駆け巡った。

 はぁ、はぁ、身体がずっとビリビリしてる……。それに身体が熱い。

 琴葉は呼吸がうまくできず、両腕で身体を抱えてペタっと地面に尻餅をついた。
 そして、小刀を振り上げる焦点のあっていない瞳の久米を見上げ自身の最期を悟った。
 
 目の前に紺色の制服が映った。見慣れた背中、さらりと流れる髪、現れたのは萩尾だった。
 萩尾は息つく暇をあたえず、久米の腕を捻り上げて地面にひっくり返し、足で身体を押さえつけていた。
 かしゃんっ。
 久米の手から小刀がすべり落ち、地面に転がっていった。琴葉はそれを目で追って違和感に気付いた。

 小刀から紫色の炎?

 琴葉は小刀から溢れる禍々しい紫色の炎から目が離せなくなった。

「琴葉ちゃん!」

 琴葉は無意識に小刀へ手を伸ばそうとしていたが名前を呼ばれて手がピタッと止まった。
 いつの間にか目の前には萩尾がいて琴葉と同じ頭の高さになるように地面に膝をついていた。

「はぎお、さん」
「これ、どうしたの? 痛い?」

 萩尾は琴葉の頬の切り傷を指でなぞり、眉間に深い皺を作った。

「これあいつ? はぁ……殺そう、殺してくる」

 大丈夫ですよ、痛くありませんから。いつもならすっと出てくる言葉たちが今は何一つ出てこない。
 琴葉は久米に向かっていこうとする萩尾の袖を引っ張った。
 萩尾は何も言わずに琴葉を抱きしめた。
 抱きしめられている琴葉は萩尾の制服を握っていた。その手は小刻みに震えていた。