九条雅紀という男は、朝の廊下でいちばん音を立てない。
警視庁の庁舎に入ってくる人間は、だいたい二種類に分かれる。足音が先に来るやつと、気配だけ先に来るやつだ。九条は後者だった。扉の向こうでカードキーが鳴る、その一拍前に、空気が少しだけ冷える。
出勤時刻ぎりぎり――いや、ぎりぎりに見えるだけで、本人の中では十分前なのだろう――九条は、医務院の白衣ではなく、黒いコートのまま、こちらへ歩いてくる。
俺は捜査一課のフロアへ向かう途中で、階段踊り場の壁に寄り、手帳を開いたふりをしていた。用はない。ただ見ている。
九条は、いつも通りの歩幅で、いつも通りの顔をして、いつも通りに消える。変化がないように見せるのが上手い。上手いという言い方も違う。上手くなった、の方が近い。
九条が通り過ぎたあと、遅れて空気が戻る。体温じゃない。言葉の温度だ。誰も喋っていないのに、場の圧が少しだけ緩む。
それを、後ろから来た新人が、息を吸い損ねたみたいな顔で見ていた。
「……九条先生、ですよね」
声を掛けてきたのは、今年入ってきた若い男だ。捜査員ではない。鑑識課の補助で、資料運びや写真の整理で庁舎を走っている。名札には「相原」とあった。声が妙に乾いている。
「そうだ」
俺が答えると、相原は頷いたが、頷きの速さが不自然だった。落ち着けと言われた直後の人間の頷きだ。
「……やっぱり、ああいう感じなんですね」
「どういう感じだ」
「……静かで、綺麗で、……怖い」
最後の一語だけ、喉の奥で小さく割れた。憧れと恐れは似ている。どちらも距離を取る。
相原は、九条の背中が角を曲がって見えなくなったあとも、しばらく視線を戻せなかった。追いかけたいのに追いついたら壊れると知っている目だった。
「お前、会ったことあるのか」
「いえ……一回、医務院の廊下で、資料を……。落としそうになって、九条先生が……拾ってくれて」
相原の言葉が、そこで急に柔らかくなる。拾ってくれて、の部分だけ、体温が出た。
「拾い方が、……すごく丁寧で。手袋してないのに、指先が、なんていうか、遺体に触る手じゃないっていうか」
言い過ぎたと気づいたのか、相原は慌てて口を閉じた。誰もが九条を「死体に触る人」として見てしまう。その見方の外に、九条がいる瞬間を見た人間は、いったん困る。
九条は事実を固定する男だ。固定することで守っているのは、遺体でも事件でもなく、自分の生活に見える。――そんな設計を、二階堂が「役割」と呼んでいたのを思い出す。順番、固定、言葉。俺たちは役割でぶつかり合って、役割で救われていく。
その日、俺は珍しく、九条の一日を最初から最後まで追うつもりでいた。
大きな理由はない。ないが、ないと言い切ると、嘘になる。昨夜、九条から短いメッセージが来ていた。
『今日は、少し遅くなる』
内容はそれだけだ。遅くなる、の理由が書かれていない。それが九条の「優しさ」だと、俺は知っている。理由を書けば、相手の中で出来事が膨らむ。膨らんだ出来事は、生活を削る。
俺は削りたくない。だから見て、測って、手順を選ぶ。これが俺のやり方だ。
午前の会議が一つ終わり、捜査方針が固まり、現場へ出る段取りが決まったあと、俺は医務院へ向かった。用は、ある。表向きは遺体の確認だ。だが今日は、用がなくても行っただろう。
医務院の廊下は、いつ来ても白い。白さは清潔のためではない。感情の置き場所を奪うためにある。九条がそこで生きていけるのは、奪われる前に自分で置かないからだ。
検案室の前で、若い女性職員が二人、声を潜めて立っていた。医療事務の子たちだろう。制服の襟元に、名札ではなく小さなキーホルダーが揺れている。誰かのキャラクターの顔。ここでそういうものを付けるのは勇気がいる。九条はそういう勇気を黙って許す男でもある。
「九条先生、今日いる?」
「いるけど、今は集中してる。入らない方がいいよ」
小声の会話が聞こえた。集中してる、の言い方が妙に親しい。怖い人の話ではない。
「ねえ、昨日の横顔見た? マスクしてたのに、やばかった」
「見た。あの睫毛。あれ、反則」
笑い声が抑えきれず、白い廊下に薄く漏れる。彼女たちは、俺に気づくと慌てて口を閉じた。規律のためじゃない。恥ずかしさだ。ファン層という言葉が頭をよぎり、俺は視線を外した。
九条は、知られている。噂と検索で「物語化」される形で知られる危険もあれば、ただ単純に、静かな美形として人気があるという種類の知られ方もある。二階堂が言っていた。「前半は萌えで引っ張って、後半で不可逆に落とす」。九条は、落とされる側にも引っ張る側にもなれる。
検案室の扉の前で、俺はノックをしない。九条はノックの音に反応して呼吸が浅くなることがある。代わりに、少し離れた場所で立つ。視界の端に入る距離。気配が先に届く距離。
扉が開いたのは、俺が立ってから三分後だった。中から出てきたのは九条ではなく、若い男性研修医だった。白衣の袖が少し長く、歩幅が落ち着かない。九条のところに来る研修医は、だいたいこういう顔になる。
研修医は俺を見ると、体を固くして会釈をした。俺が刑事だと分かったのだろう。恐怖の種類が変わる。医者が恐れるのは、死体ではない。責任の固定だ。
「九条は中か」
俺が聞くと、研修医は一瞬迷ってから、頷いた。
「はい……今、所見まとめてます」
その声が、妙に敬語の密度が高い。憧れと恐れが混じった敬語だ。
研修医は扉の横に寄り、俺に道を空けた。道を空ける動作が過剰に丁寧だった。九条の影響だ。九条の周りでは、みんな少しだけ丁寧になる。丁寧になりすぎて、逆にぎこちなくなる。
俺は扉を開け、検案室に入った。
空調の冷気が、皮膚ではなく喉の奥を冷やす。九条は検案台の横で、書面にペンを走らせていた。手袋はしていない。ペンは、遺体に触れる手ではなく、生活を守る手だった。
「真壁」
九条は顔を上げずに名前だけ呼んだ。名前の呼び方に、感情は乗らない。だが、乗らないことが、俺には分かる合図になる。
「今日は遅くなるって聞いた」
「……聞かせた」
九条のペン先が一瞬だけ止まる。聞かせた、という言い方。知らせた、ではない。俺が知るべきだと判断した情報だけ、渡した。そういう言い方だ。
「何がある」
「検案が一件増えた。あと、説明が必要な件がある」
九条は「説明」と言うとき、少しだけ口角を落とす。嫌悪ではない。警戒だ。説明は、誰かの安心のために作られる。安心は、個人の生活を削って成立することがある。
俺は九条の横に立ち、検案台の上にある遺体を見た。今日は交通事故の可能性が高い。外傷が明確で、事件性は薄い。薄いほど、油断が危険だ。薄い事件ほど、言葉が勝手に膨らむ。
「研修医、ついてるのか」
「松岡。真面目だ」
九条がそう言った瞬間、扉の外の研修医――松岡が、聞かれていたと気づいたように肩を揺らした。扉のガラス越しに、彼の耳が赤くなるのが見えた。褒められると弱い。九条に褒められると、もっと弱い。
九条は、自分が人を引っ張ることを知っている。知っているから、必要以上に引っ張らない。だが、引っ張らないことが、逆に引っ張る。
「九条」
俺が呼ぶと、九条はペンを置いた。置き方が、机に音を立てない置き方だった。そこに神経を使っているとき、九条は疲れている。
「昼、食べてないだろ」
「……食べた」
嘘だ。嘘のとき、九条は語尾を短くする。詳しく言うと破綻するからだ。
俺は何も言わず、検案室の隅に置かれている小さな棚を見た。医務院の職員が置きっぱなしにする紙コップ、インスタントのスープ、飴。だが、その棚の奥に、見慣れないものがあった。
薄い布の袋。紐で口を縛ってある。袋の端から、黒い線が覗いている。マジックペン。何かを描く道具だ。
九条が、絵を描く? そんなことをする人間には見えない。
俺の視線に気づいたのか、九条がほんの一瞬だけ肩を固くした。
「それ」
俺が言うと、九条は「それ」と同じ速度で答えた。
「……松岡が、置いた」
置いた、の言い方が、微妙に嘘に見えた。九条は嘘が下手だ。下手だから、普段は嘘をつかない。だが、つくときがある。生活を守るためだ。
検案が一段落し、九条が所見をプリントアウトし、研修医へ指示を出す。指示の内容は、驚くほど簡潔だった。余計な比喩がない。余計な感情もない。だが、言い方だけが少し柔らかい。
「ここ、言い切らないで。可能性って書いて。確定は、あとで」
「はい」
松岡の返事が早い。早すぎる。九条の言葉を一語も落としたくない返事だ。
九条はそれに気づいていないふりをする。気づいているはずなのに。
昼過ぎ、俺は捜査一課へ戻り、現場に出て、戻ってきた。報告を上げ、次の段取りを組んだ。いつも通りの一日だ。だが、頭の片隅で、九条の「遅くなる」が引っかかり続けていた。
夕方、医務院の廊下を通ると、あの女性職員たちが、今度は普通の声で話していた。普通の声は、彼女たちにとって日常だ。九条がいる場所では、日常の声が少しだけ抑えられる。それでも日常は戻ってくる。戻ってくるから、守られる。
「九条先生、今日も顔色悪くない?」
「悪いよね。ていうか、いつも白い」
「でもさ、たまに笑うと、死ぬ」
死ぬ、という言い方に、悪意はない。好きだからこそ、言葉が軽くなる。軽い言葉は、重い現実を扱わないで済む。九条にとっては、その軽さが救いになることもある。
俺は廊下の角で立ち止まり、九条の部屋の前を見た。扉が少しだけ開いている。中から、紙の擦れる音がする。ペンの音ではない。紙を折る音だ。
俺は息を殺して、扉の隙間から中を見た。
九条が、椅子に座っていた。白衣を脱ぎ、シャツの袖を肘までまくっている。右の手首に、細い跡が見えた。時計の跡ではない。何かのゴムが食い込んだ跡。――吸入器のバンドか。喘息の発作のときに使うものだ。九条はそれを隠さない。隠す余裕がないときだけ、見える。
机の上には、薄い色紙が何枚か並んでいた。そこに、黒い線で小さな図形が描かれている。臓器の図ではない。もっと単純で、もっと子どもっぽい――猫の顔だ。丸い目、少し尖った耳。線は丁寧で、余計な装飾がない。なのに、妙に表情がある。
九条が、猫を描いている。
意外、という言葉が喉まで来て、止まった。意外と言ってしまえば、それは九条を「医者の枠」に閉じ込める言葉になる。九条は枠が嫌いだ。枠が人を殺すことを知っている。
九条は、色紙の端に小さく文字を書いていた。
『おだいじに』
ひらがなだった。医者の字じゃない。業務文書の字でもない。誰かに渡す字だ。
扉の外の足音がして、九条の肩がわずかに揺れた。揺れたが、振り向かない。振り向かないまま、声だけ出す。
「松岡。入るなら、ノック」
「す、すみません!」
松岡が飛び込んでくる。彼の視線が机の上の猫に一瞬だけ落ちて、すぐ逸れる。見たのに見なかったふりをする速度が速い。九条に嫌われたくない速度だ。
「これ、あの……今日、受付に来た女の子が……」
松岡が差し出したのは、小さな手紙だった。封筒に、子どもの字で「九条せんせいへ」と書いてある。
九条の指先が、その封筒に触れる寸前で止まる。触れれば、受け取ったことになる。受け取ったことになれば、相手の物語が始まる。九条は、物語が嫌いだ。だが、目の前の封筒は、物語というより「気持ち」だった。
九条は、ため息をつかない。代わりに、肩の力をほんの少し抜いた。
「……それで、猫か」
俺は心の中で言った。声には出さない。
松岡が頷く。
「女の子、九条先生のこと……推しって言ってました。……その、医務院に推しって言葉、変ですよね」
「変だ」
九条は即答した。即答の速さが、照れ隠しに見えた。九条が照れる、という事実に、俺は少しだけ安心した。安心してはいけないのに。
「でも、ありがたい」
九条は、封筒を受け取った。受け取る手が、妙に慎重だった。遺体を扱う手じゃない。生活を扱う手だ。
九条は封筒を開け、中の紙を見た。視線が紙の上で止まる時間が長い。書かれている字を読むだけじゃない。書かれている空気を読む時間だ。
九条の喉が一度だけ鳴った。咳ではない。咳の一歩手前。発作の予兆に似た音。九条はそれを、誰にも気づかせないように飲み込んだ。飲み込むのが上手い。上手いから、危ない。
俺は扉を押して中に入った。ノックはしない。今はノックの音が要らない。
九条が顔を上げる。驚きはない。驚きがないのに、目だけが少しだけ硬い。見られたくないものを見られた目だ。
「真壁」
「遅くなるって、これか」
俺は机の上の猫を指ささない。代わりに、封筒を顎で示した。
九条は封筒を机の引き出しに入れた。隠す動作が早い。早すぎる。
「仕事の一部だ」
「違う」
俺が言うと、九条の眉がほんの少し動いた。怒りではない。反射だ。固定されるのが嫌いな反射。
「九条。……今、息が浅い」
俺は言った。言い方を、できるだけ手順に寄せる。感情を混ぜると、九条は逃げる。
九条は、答えない。答えない代わりに、机の端に指を置いた。右手。指先が白い。力が入っている。
松岡が、その場に立ち尽くしたまま、目を泳がせている。助けたいのに、踏み込んだら壊れると分かっている目だ。相原と同じ目だ。男は九条に憧れて、九条を怖がる。怖がりながら、救いたいと思ってしまう。九条はそういう人間を引き寄せる。
「松岡」
九条が呼ぶ。声はいつも通りだ。いつも通りだからこそ、無理をしていると分かる。
「今日はもう上がってください。残りは私がやります」
「でも……」
「いい」
九条が言う。短い。短いが、切り捨てじゃない。守りだ。九条は、若い男を自分の「物語」に巻き込みたくない。
松岡は唇を噛み、深く頭を下げて出ていった。出ていく背中が、悔しさで固い。憧れの人を助けられない悔しさだ。
扉が閉まり、室内に二人になる。
九条は、机の上の色紙を片づけようとした。片づける動作が雑になる。雑になるのは、呼吸が苦しいときだ。
俺は色紙を一枚、指先で押さえた。九条の動きが止まる。
「返すのか」
「……渡す」
九条の声が少し掠れる。掠れは、冷気のせいではない。
「誰に」
「受付に来た子。……発作で搬送されたことがある」
九条はそこで言葉を切った。切る理由は、余計な説明をしないためだ。説明は物語になる。物語は人を殺す。九条はそれを知っている。だから、必要最低限の事実だけ言う。
「その子が、……怖がってた」
怖がってた、の後に、九条は続きを言わない。続きを言えば、九条が「優しい医者」になる。優しい医者という物語は、時に本人を縛る。九条は縛られたくない。縛られたくないのに、目の前の子どもを放っておけない。
九条は、矛盾でできている。
「猫で、怖さが消えるのか」
俺が聞くと、九条は少しだけ口角を上げた。笑いではない。諦めに近い。
「消えない。……でも、息が戻る時間が、数秒でも増える」
九条の言葉が、そこで少しだけ柔らかくなる。医者の言葉じゃない。人の言葉だ。
俺はその数秒を、軽いと思えなかった。喘息の数秒は、命の境界だ。俺は中学のとき、それを見た。九条が暴れるように呼吸を探して、教室が凍りついたあの時間を思い出す。九条は、その記憶を「説明」しない。しないまま、今も生きている。
九条は、机の引き出しから小さな吸入器を取り出した。取り出し方が早い。予兆が来ている。
「九条」
「平気だ」
平気だ、が嘘だと分かる。嘘なのに言うのは、俺に「順番」を渡すためだ。次に何をすべきか、俺が選べるように。
「座れ」
俺が言うと、九条は一瞬だけ反抗の目をした。反抗の目をしたまま、椅子に座った。座る動作が無防備だった。背中を預けるのが下手な男が、今日は背中を椅子に預けた。
九条の右手が、胸の右側へ行きかけて止まる。止まるのは癖だ。胸に手を当てる動作は、誰かの餌になる。九条は餌になる動作をしない。その代わり、指先で机の縁を強く押す。痛みで呼吸を繋ぐやり方だ。
俺は黙って、コートのポケットから水のペットボトルを出した。九条は俺がそれを持っていることに驚かない。驚かないのが、俺たちの関係だ。
九条は水を一口飲み、吸入器を使った。吸って、吐く。吸って、吐く。音が少しだけ荒い。荒いのに、表情は崩さない。崩さないことが、九条の「固定」だ。
俺は時計を見た。時間を測る。測ることで、落ち着く。手順の人間は、時間を測ると落ち着く。
「……遅くなる理由は、これだけじゃないだろ」
俺が言うと、九条は目を伏せた。目を伏せるのは、弱さを見せるときだ。九条が人前で目を伏せるのは珍しい。
「説明が必要な件があるって言った」
「それが何だ」
九条は少しだけ迷ってから、引き出しの奥を開けた。さっきの布袋が出てくる。黒いペンも一緒に。
「……これを、渡してほしいと言われた」
「誰に」
「二階堂」
二階堂。言葉の男。言葉で守って、言葉で殺す男。
九条は布袋を開け、中から小さな缶を取り出した。缶の表には、猫のシールが貼ってある。市販のものだ。だが、そのシールの貼り方が丁寧すぎる。
「何だ」
「飴」
九条が言った。
飴。医務院の冷気の中で、飴は生存のための道具だ。喉の乾きを誤魔化し、発作の予兆を遅らせる。だが、九条が飴を「缶」に入れて持っているのは見たことがなかった。
「二階堂が、最近……喋りすぎる」
九条がぽつりと言う。喋りすぎる、の言い方が責めていない。心配している言い方だ。
「喋りすぎて、喉がやられてる。……本人は気づいてない」
二階堂は気づかないふりが上手い。九条は、気づかないふりの裏側を見てしまう。医者だからだ。人の身体の裏側を見てしまう。
「飴を渡すのが、説明になるのか」
「……ならない。だから布袋に入れた。業務の書類に見えるだろ」
九条はそこで、ほんの少しだけ笑った。笑ったのに、目は笑っていない。苦い笑いだ。自分がこういう小細工をすることが、九条自身にとって意外なのだろう。
俺はその瞬間、九条の「意外な一面」を見た気がした。優しさを、制度の中で隠す技術。露骨に優しくすると物語になる。物語になると、相手が縛られる。縛られると、呼吸が削れる。だから、九条は飴を「書類」に偽装する。
九条は、優しい。だが優しさをそのまま出さない。出せない。出した瞬間、制度と噂と検索がそれを奪っていくのを知っているからだ。
「真壁」
九条が言う。俺の名前を呼ぶ声が、少しだけ低い。
「……今日は、見てたのか」
見てた。言い当てられると、俺は少しだけ居心地が悪い。覗き見をしていたみたいになる。実際そうだ。
「見てた」
俺は嘘をつかない。
「やめろ」
九条が言った。短い。だが拒絶ではない。たぶん、頼みだ。
「やめろ。……見られると、固定される」
九条はそう言った。固定される。俺たちの言葉だ。九条は自分が固定されるのを怖がる。俺は九条が壊れるのを怖がる。怖がり方が違うだけで、根は同じだ。
「じゃあ、見ない。……でも、必要なときは、後ろにいる」
俺は言った。後ろにいる、というのは、見ないという意味じゃない。だが、九条が望む距離を守るという意味だ。
九条は答えない。答えないが、吸入器を机に置く手が少しだけ緩む。緩むのが、了承のサインだ。
退庁時刻を過ぎ、庁舎の空気が少しだけ温くなる。夜は、言葉の監視が薄れる。薄れる分、危ない。人は疲れると余計なことを喋る。
九条はコートを着て、猫の色紙を封筒に入れ、布袋を持った。飴缶も入っている。九条は飴缶を自分のものだと言わない。誰かのためのものだと言わない。そのどちらも、物語になるからだ。
廊下に出ると、さっきの女性職員たちが、わざとらしくない距離で立っていた。待っていたわけじゃない、と言い張れる距離。だが、待っていた。
「九条先生、お疲れさまです」
「お疲れさまです」
九条が返す。声は淡い。それでも、彼女たちの頬が少しだけ赤くなる。好きな人に名前を呼ばれる前の空気だ。
一人が、小さな紙袋を差し出した。
「これ……差見じゃないです。今日、患者さんのご家族からいただいて……。九条先生、甘いの苦手って言ってたけど、これはたぶん大丈夫です。……蜂蜜じゃなくて、りんごのやつ」
九条は一瞬、目を見開いた。甘いの苦手。そんな情報が彼女たちに渡っている。九条はきっと、何気なく言ったのだろう。何気なく言ったことが、誰かにとっては大事な「推し情報」になる。世界はそうやって、個人を集めてしまう。
九条は受け取らない……と思った。受け取れば、関係が固定される。固定されれば、相手は期待する。期待は重い。重いと、呼吸が削れる。
だが九条は、紙袋を受け取った。受け取り方が、猫を描くときの手だった。
「ありがとう。あとでいただきます」
たぶん本当だ。九条は嘘をつくとき、語尾が硬くなる。今の語尾は硬くない。
女性職員たちが、息を殺して笑った。嬉しいときの笑い方だ。
九条はその笑いを見ていないふりをした。見てしまうと、彼女たちの生活が九条の責任になる。九条は責任を背負わないふりをする。背負うと潰れるからだ。
俺はその横で、布袋を受け取った。九条が、俺に渡した。飴缶の入った布袋を、俺に。
「二階堂に」
「分かった」
俺が答えると、九条は頷かない。頷かないのが九条だ。頷けば確定する。確定は怖い。怖いから、九条は曖昧に生きる。曖昧に生きるために、事実だけは正確に書く。
庁舎を出ると、夜の空気が肺に刺さる。九条は息を吸って、すぐ吐いた。吸いすぎない。発作を避ける呼吸だ。
「送る」
俺が言うと、九条は「いらない」と言わなかった。言わないことが、無防備だった。
車に乗る。九条は助手席に座り、シートベルトを締める。締め方が少し雑だ。雑になるのは、疲れている証拠だ。
信号待ちの間、九条が紙袋から小さな飴を一つ取り出した。包装を剥く指が、猫を描く指だ。九条は飴を口に入れ、舌の上で転がした。目を閉じる。閉じる時間が、ほんの一秒長い。
その一秒が、九条の今日の「無防備」だった。
「……甘い」
九条が小さく言った。感想を口にするのは珍しい。しかも、俺に聞かせるための声だ。
「嫌いじゃないのか」
「嫌いじゃない。……苦手なだけだ」
九条はそう言って、窓の外を見た。街灯の光が、頬を白く照らす。白さは弱さに見える。だが九条は弱さを見せるのが下手だ。下手だから、たまに見えると強い。
俺はハンドルを握ったまま、何も言わなかった。言えば、今の一秒が物語になる。物語になると、九条の生活が削れる。削らせたくない。
代わりに、車を少しだけゆっくり走らせた。順番の人間のやり方で、九条の呼吸の時間を増やす。
九条は飴を転がしながら、ぽつりと呟いた。
「……悪くなかった」
俺は横顔を見なかった。何がとは聞かない。
「そうか」
俺はそれだけ返した。
九条はそれ以上言わない。言わないまま、右の胸の奥で鼓動を確かめるように、ほんの少しだけ姿勢を正した。手は当てない。動作は残さない。だが、俺には分かった。
九条は今日を終えた。出社から退庁まで、誰かに憧れられ、誰かに怖がられ、誰かに推され、誰かに飴を渡し、猫を描き、呼吸を繋いだ。
それだけの一日が、九条にとっては戦いだ。
俺はその戦いを、順番の人間として、ただ隣で見ている。見ているだけで、少しだけ守れると思っている。守れると思ってしまうのが、俺の罪だ。
信号が青になり、車が前へ進む。九条の横顔は、夜の光の中で静かに白い。
白いのに、確かに生きていた。
警視庁の庁舎に入ってくる人間は、だいたい二種類に分かれる。足音が先に来るやつと、気配だけ先に来るやつだ。九条は後者だった。扉の向こうでカードキーが鳴る、その一拍前に、空気が少しだけ冷える。
出勤時刻ぎりぎり――いや、ぎりぎりに見えるだけで、本人の中では十分前なのだろう――九条は、医務院の白衣ではなく、黒いコートのまま、こちらへ歩いてくる。
俺は捜査一課のフロアへ向かう途中で、階段踊り場の壁に寄り、手帳を開いたふりをしていた。用はない。ただ見ている。
九条は、いつも通りの歩幅で、いつも通りの顔をして、いつも通りに消える。変化がないように見せるのが上手い。上手いという言い方も違う。上手くなった、の方が近い。
九条が通り過ぎたあと、遅れて空気が戻る。体温じゃない。言葉の温度だ。誰も喋っていないのに、場の圧が少しだけ緩む。
それを、後ろから来た新人が、息を吸い損ねたみたいな顔で見ていた。
「……九条先生、ですよね」
声を掛けてきたのは、今年入ってきた若い男だ。捜査員ではない。鑑識課の補助で、資料運びや写真の整理で庁舎を走っている。名札には「相原」とあった。声が妙に乾いている。
「そうだ」
俺が答えると、相原は頷いたが、頷きの速さが不自然だった。落ち着けと言われた直後の人間の頷きだ。
「……やっぱり、ああいう感じなんですね」
「どういう感じだ」
「……静かで、綺麗で、……怖い」
最後の一語だけ、喉の奥で小さく割れた。憧れと恐れは似ている。どちらも距離を取る。
相原は、九条の背中が角を曲がって見えなくなったあとも、しばらく視線を戻せなかった。追いかけたいのに追いついたら壊れると知っている目だった。
「お前、会ったことあるのか」
「いえ……一回、医務院の廊下で、資料を……。落としそうになって、九条先生が……拾ってくれて」
相原の言葉が、そこで急に柔らかくなる。拾ってくれて、の部分だけ、体温が出た。
「拾い方が、……すごく丁寧で。手袋してないのに、指先が、なんていうか、遺体に触る手じゃないっていうか」
言い過ぎたと気づいたのか、相原は慌てて口を閉じた。誰もが九条を「死体に触る人」として見てしまう。その見方の外に、九条がいる瞬間を見た人間は、いったん困る。
九条は事実を固定する男だ。固定することで守っているのは、遺体でも事件でもなく、自分の生活に見える。――そんな設計を、二階堂が「役割」と呼んでいたのを思い出す。順番、固定、言葉。俺たちは役割でぶつかり合って、役割で救われていく。
その日、俺は珍しく、九条の一日を最初から最後まで追うつもりでいた。
大きな理由はない。ないが、ないと言い切ると、嘘になる。昨夜、九条から短いメッセージが来ていた。
『今日は、少し遅くなる』
内容はそれだけだ。遅くなる、の理由が書かれていない。それが九条の「優しさ」だと、俺は知っている。理由を書けば、相手の中で出来事が膨らむ。膨らんだ出来事は、生活を削る。
俺は削りたくない。だから見て、測って、手順を選ぶ。これが俺のやり方だ。
午前の会議が一つ終わり、捜査方針が固まり、現場へ出る段取りが決まったあと、俺は医務院へ向かった。用は、ある。表向きは遺体の確認だ。だが今日は、用がなくても行っただろう。
医務院の廊下は、いつ来ても白い。白さは清潔のためではない。感情の置き場所を奪うためにある。九条がそこで生きていけるのは、奪われる前に自分で置かないからだ。
検案室の前で、若い女性職員が二人、声を潜めて立っていた。医療事務の子たちだろう。制服の襟元に、名札ではなく小さなキーホルダーが揺れている。誰かのキャラクターの顔。ここでそういうものを付けるのは勇気がいる。九条はそういう勇気を黙って許す男でもある。
「九条先生、今日いる?」
「いるけど、今は集中してる。入らない方がいいよ」
小声の会話が聞こえた。集中してる、の言い方が妙に親しい。怖い人の話ではない。
「ねえ、昨日の横顔見た? マスクしてたのに、やばかった」
「見た。あの睫毛。あれ、反則」
笑い声が抑えきれず、白い廊下に薄く漏れる。彼女たちは、俺に気づくと慌てて口を閉じた。規律のためじゃない。恥ずかしさだ。ファン層という言葉が頭をよぎり、俺は視線を外した。
九条は、知られている。噂と検索で「物語化」される形で知られる危険もあれば、ただ単純に、静かな美形として人気があるという種類の知られ方もある。二階堂が言っていた。「前半は萌えで引っ張って、後半で不可逆に落とす」。九条は、落とされる側にも引っ張る側にもなれる。
検案室の扉の前で、俺はノックをしない。九条はノックの音に反応して呼吸が浅くなることがある。代わりに、少し離れた場所で立つ。視界の端に入る距離。気配が先に届く距離。
扉が開いたのは、俺が立ってから三分後だった。中から出てきたのは九条ではなく、若い男性研修医だった。白衣の袖が少し長く、歩幅が落ち着かない。九条のところに来る研修医は、だいたいこういう顔になる。
研修医は俺を見ると、体を固くして会釈をした。俺が刑事だと分かったのだろう。恐怖の種類が変わる。医者が恐れるのは、死体ではない。責任の固定だ。
「九条は中か」
俺が聞くと、研修医は一瞬迷ってから、頷いた。
「はい……今、所見まとめてます」
その声が、妙に敬語の密度が高い。憧れと恐れが混じった敬語だ。
研修医は扉の横に寄り、俺に道を空けた。道を空ける動作が過剰に丁寧だった。九条の影響だ。九条の周りでは、みんな少しだけ丁寧になる。丁寧になりすぎて、逆にぎこちなくなる。
俺は扉を開け、検案室に入った。
空調の冷気が、皮膚ではなく喉の奥を冷やす。九条は検案台の横で、書面にペンを走らせていた。手袋はしていない。ペンは、遺体に触れる手ではなく、生活を守る手だった。
「真壁」
九条は顔を上げずに名前だけ呼んだ。名前の呼び方に、感情は乗らない。だが、乗らないことが、俺には分かる合図になる。
「今日は遅くなるって聞いた」
「……聞かせた」
九条のペン先が一瞬だけ止まる。聞かせた、という言い方。知らせた、ではない。俺が知るべきだと判断した情報だけ、渡した。そういう言い方だ。
「何がある」
「検案が一件増えた。あと、説明が必要な件がある」
九条は「説明」と言うとき、少しだけ口角を落とす。嫌悪ではない。警戒だ。説明は、誰かの安心のために作られる。安心は、個人の生活を削って成立することがある。
俺は九条の横に立ち、検案台の上にある遺体を見た。今日は交通事故の可能性が高い。外傷が明確で、事件性は薄い。薄いほど、油断が危険だ。薄い事件ほど、言葉が勝手に膨らむ。
「研修医、ついてるのか」
「松岡。真面目だ」
九条がそう言った瞬間、扉の外の研修医――松岡が、聞かれていたと気づいたように肩を揺らした。扉のガラス越しに、彼の耳が赤くなるのが見えた。褒められると弱い。九条に褒められると、もっと弱い。
九条は、自分が人を引っ張ることを知っている。知っているから、必要以上に引っ張らない。だが、引っ張らないことが、逆に引っ張る。
「九条」
俺が呼ぶと、九条はペンを置いた。置き方が、机に音を立てない置き方だった。そこに神経を使っているとき、九条は疲れている。
「昼、食べてないだろ」
「……食べた」
嘘だ。嘘のとき、九条は語尾を短くする。詳しく言うと破綻するからだ。
俺は何も言わず、検案室の隅に置かれている小さな棚を見た。医務院の職員が置きっぱなしにする紙コップ、インスタントのスープ、飴。だが、その棚の奥に、見慣れないものがあった。
薄い布の袋。紐で口を縛ってある。袋の端から、黒い線が覗いている。マジックペン。何かを描く道具だ。
九条が、絵を描く? そんなことをする人間には見えない。
俺の視線に気づいたのか、九条がほんの一瞬だけ肩を固くした。
「それ」
俺が言うと、九条は「それ」と同じ速度で答えた。
「……松岡が、置いた」
置いた、の言い方が、微妙に嘘に見えた。九条は嘘が下手だ。下手だから、普段は嘘をつかない。だが、つくときがある。生活を守るためだ。
検案が一段落し、九条が所見をプリントアウトし、研修医へ指示を出す。指示の内容は、驚くほど簡潔だった。余計な比喩がない。余計な感情もない。だが、言い方だけが少し柔らかい。
「ここ、言い切らないで。可能性って書いて。確定は、あとで」
「はい」
松岡の返事が早い。早すぎる。九条の言葉を一語も落としたくない返事だ。
九条はそれに気づいていないふりをする。気づいているはずなのに。
昼過ぎ、俺は捜査一課へ戻り、現場に出て、戻ってきた。報告を上げ、次の段取りを組んだ。いつも通りの一日だ。だが、頭の片隅で、九条の「遅くなる」が引っかかり続けていた。
夕方、医務院の廊下を通ると、あの女性職員たちが、今度は普通の声で話していた。普通の声は、彼女たちにとって日常だ。九条がいる場所では、日常の声が少しだけ抑えられる。それでも日常は戻ってくる。戻ってくるから、守られる。
「九条先生、今日も顔色悪くない?」
「悪いよね。ていうか、いつも白い」
「でもさ、たまに笑うと、死ぬ」
死ぬ、という言い方に、悪意はない。好きだからこそ、言葉が軽くなる。軽い言葉は、重い現実を扱わないで済む。九条にとっては、その軽さが救いになることもある。
俺は廊下の角で立ち止まり、九条の部屋の前を見た。扉が少しだけ開いている。中から、紙の擦れる音がする。ペンの音ではない。紙を折る音だ。
俺は息を殺して、扉の隙間から中を見た。
九条が、椅子に座っていた。白衣を脱ぎ、シャツの袖を肘までまくっている。右の手首に、細い跡が見えた。時計の跡ではない。何かのゴムが食い込んだ跡。――吸入器のバンドか。喘息の発作のときに使うものだ。九条はそれを隠さない。隠す余裕がないときだけ、見える。
机の上には、薄い色紙が何枚か並んでいた。そこに、黒い線で小さな図形が描かれている。臓器の図ではない。もっと単純で、もっと子どもっぽい――猫の顔だ。丸い目、少し尖った耳。線は丁寧で、余計な装飾がない。なのに、妙に表情がある。
九条が、猫を描いている。
意外、という言葉が喉まで来て、止まった。意外と言ってしまえば、それは九条を「医者の枠」に閉じ込める言葉になる。九条は枠が嫌いだ。枠が人を殺すことを知っている。
九条は、色紙の端に小さく文字を書いていた。
『おだいじに』
ひらがなだった。医者の字じゃない。業務文書の字でもない。誰かに渡す字だ。
扉の外の足音がして、九条の肩がわずかに揺れた。揺れたが、振り向かない。振り向かないまま、声だけ出す。
「松岡。入るなら、ノック」
「す、すみません!」
松岡が飛び込んでくる。彼の視線が机の上の猫に一瞬だけ落ちて、すぐ逸れる。見たのに見なかったふりをする速度が速い。九条に嫌われたくない速度だ。
「これ、あの……今日、受付に来た女の子が……」
松岡が差し出したのは、小さな手紙だった。封筒に、子どもの字で「九条せんせいへ」と書いてある。
九条の指先が、その封筒に触れる寸前で止まる。触れれば、受け取ったことになる。受け取ったことになれば、相手の物語が始まる。九条は、物語が嫌いだ。だが、目の前の封筒は、物語というより「気持ち」だった。
九条は、ため息をつかない。代わりに、肩の力をほんの少し抜いた。
「……それで、猫か」
俺は心の中で言った。声には出さない。
松岡が頷く。
「女の子、九条先生のこと……推しって言ってました。……その、医務院に推しって言葉、変ですよね」
「変だ」
九条は即答した。即答の速さが、照れ隠しに見えた。九条が照れる、という事実に、俺は少しだけ安心した。安心してはいけないのに。
「でも、ありがたい」
九条は、封筒を受け取った。受け取る手が、妙に慎重だった。遺体を扱う手じゃない。生活を扱う手だ。
九条は封筒を開け、中の紙を見た。視線が紙の上で止まる時間が長い。書かれている字を読むだけじゃない。書かれている空気を読む時間だ。
九条の喉が一度だけ鳴った。咳ではない。咳の一歩手前。発作の予兆に似た音。九条はそれを、誰にも気づかせないように飲み込んだ。飲み込むのが上手い。上手いから、危ない。
俺は扉を押して中に入った。ノックはしない。今はノックの音が要らない。
九条が顔を上げる。驚きはない。驚きがないのに、目だけが少しだけ硬い。見られたくないものを見られた目だ。
「真壁」
「遅くなるって、これか」
俺は机の上の猫を指ささない。代わりに、封筒を顎で示した。
九条は封筒を机の引き出しに入れた。隠す動作が早い。早すぎる。
「仕事の一部だ」
「違う」
俺が言うと、九条の眉がほんの少し動いた。怒りではない。反射だ。固定されるのが嫌いな反射。
「九条。……今、息が浅い」
俺は言った。言い方を、できるだけ手順に寄せる。感情を混ぜると、九条は逃げる。
九条は、答えない。答えない代わりに、机の端に指を置いた。右手。指先が白い。力が入っている。
松岡が、その場に立ち尽くしたまま、目を泳がせている。助けたいのに、踏み込んだら壊れると分かっている目だ。相原と同じ目だ。男は九条に憧れて、九条を怖がる。怖がりながら、救いたいと思ってしまう。九条はそういう人間を引き寄せる。
「松岡」
九条が呼ぶ。声はいつも通りだ。いつも通りだからこそ、無理をしていると分かる。
「今日はもう上がってください。残りは私がやります」
「でも……」
「いい」
九条が言う。短い。短いが、切り捨てじゃない。守りだ。九条は、若い男を自分の「物語」に巻き込みたくない。
松岡は唇を噛み、深く頭を下げて出ていった。出ていく背中が、悔しさで固い。憧れの人を助けられない悔しさだ。
扉が閉まり、室内に二人になる。
九条は、机の上の色紙を片づけようとした。片づける動作が雑になる。雑になるのは、呼吸が苦しいときだ。
俺は色紙を一枚、指先で押さえた。九条の動きが止まる。
「返すのか」
「……渡す」
九条の声が少し掠れる。掠れは、冷気のせいではない。
「誰に」
「受付に来た子。……発作で搬送されたことがある」
九条はそこで言葉を切った。切る理由は、余計な説明をしないためだ。説明は物語になる。物語は人を殺す。九条はそれを知っている。だから、必要最低限の事実だけ言う。
「その子が、……怖がってた」
怖がってた、の後に、九条は続きを言わない。続きを言えば、九条が「優しい医者」になる。優しい医者という物語は、時に本人を縛る。九条は縛られたくない。縛られたくないのに、目の前の子どもを放っておけない。
九条は、矛盾でできている。
「猫で、怖さが消えるのか」
俺が聞くと、九条は少しだけ口角を上げた。笑いではない。諦めに近い。
「消えない。……でも、息が戻る時間が、数秒でも増える」
九条の言葉が、そこで少しだけ柔らかくなる。医者の言葉じゃない。人の言葉だ。
俺はその数秒を、軽いと思えなかった。喘息の数秒は、命の境界だ。俺は中学のとき、それを見た。九条が暴れるように呼吸を探して、教室が凍りついたあの時間を思い出す。九条は、その記憶を「説明」しない。しないまま、今も生きている。
九条は、机の引き出しから小さな吸入器を取り出した。取り出し方が早い。予兆が来ている。
「九条」
「平気だ」
平気だ、が嘘だと分かる。嘘なのに言うのは、俺に「順番」を渡すためだ。次に何をすべきか、俺が選べるように。
「座れ」
俺が言うと、九条は一瞬だけ反抗の目をした。反抗の目をしたまま、椅子に座った。座る動作が無防備だった。背中を預けるのが下手な男が、今日は背中を椅子に預けた。
九条の右手が、胸の右側へ行きかけて止まる。止まるのは癖だ。胸に手を当てる動作は、誰かの餌になる。九条は餌になる動作をしない。その代わり、指先で机の縁を強く押す。痛みで呼吸を繋ぐやり方だ。
俺は黙って、コートのポケットから水のペットボトルを出した。九条は俺がそれを持っていることに驚かない。驚かないのが、俺たちの関係だ。
九条は水を一口飲み、吸入器を使った。吸って、吐く。吸って、吐く。音が少しだけ荒い。荒いのに、表情は崩さない。崩さないことが、九条の「固定」だ。
俺は時計を見た。時間を測る。測ることで、落ち着く。手順の人間は、時間を測ると落ち着く。
「……遅くなる理由は、これだけじゃないだろ」
俺が言うと、九条は目を伏せた。目を伏せるのは、弱さを見せるときだ。九条が人前で目を伏せるのは珍しい。
「説明が必要な件があるって言った」
「それが何だ」
九条は少しだけ迷ってから、引き出しの奥を開けた。さっきの布袋が出てくる。黒いペンも一緒に。
「……これを、渡してほしいと言われた」
「誰に」
「二階堂」
二階堂。言葉の男。言葉で守って、言葉で殺す男。
九条は布袋を開け、中から小さな缶を取り出した。缶の表には、猫のシールが貼ってある。市販のものだ。だが、そのシールの貼り方が丁寧すぎる。
「何だ」
「飴」
九条が言った。
飴。医務院の冷気の中で、飴は生存のための道具だ。喉の乾きを誤魔化し、発作の予兆を遅らせる。だが、九条が飴を「缶」に入れて持っているのは見たことがなかった。
「二階堂が、最近……喋りすぎる」
九条がぽつりと言う。喋りすぎる、の言い方が責めていない。心配している言い方だ。
「喋りすぎて、喉がやられてる。……本人は気づいてない」
二階堂は気づかないふりが上手い。九条は、気づかないふりの裏側を見てしまう。医者だからだ。人の身体の裏側を見てしまう。
「飴を渡すのが、説明になるのか」
「……ならない。だから布袋に入れた。業務の書類に見えるだろ」
九条はそこで、ほんの少しだけ笑った。笑ったのに、目は笑っていない。苦い笑いだ。自分がこういう小細工をすることが、九条自身にとって意外なのだろう。
俺はその瞬間、九条の「意外な一面」を見た気がした。優しさを、制度の中で隠す技術。露骨に優しくすると物語になる。物語になると、相手が縛られる。縛られると、呼吸が削れる。だから、九条は飴を「書類」に偽装する。
九条は、優しい。だが優しさをそのまま出さない。出せない。出した瞬間、制度と噂と検索がそれを奪っていくのを知っているからだ。
「真壁」
九条が言う。俺の名前を呼ぶ声が、少しだけ低い。
「……今日は、見てたのか」
見てた。言い当てられると、俺は少しだけ居心地が悪い。覗き見をしていたみたいになる。実際そうだ。
「見てた」
俺は嘘をつかない。
「やめろ」
九条が言った。短い。だが拒絶ではない。たぶん、頼みだ。
「やめろ。……見られると、固定される」
九条はそう言った。固定される。俺たちの言葉だ。九条は自分が固定されるのを怖がる。俺は九条が壊れるのを怖がる。怖がり方が違うだけで、根は同じだ。
「じゃあ、見ない。……でも、必要なときは、後ろにいる」
俺は言った。後ろにいる、というのは、見ないという意味じゃない。だが、九条が望む距離を守るという意味だ。
九条は答えない。答えないが、吸入器を机に置く手が少しだけ緩む。緩むのが、了承のサインだ。
退庁時刻を過ぎ、庁舎の空気が少しだけ温くなる。夜は、言葉の監視が薄れる。薄れる分、危ない。人は疲れると余計なことを喋る。
九条はコートを着て、猫の色紙を封筒に入れ、布袋を持った。飴缶も入っている。九条は飴缶を自分のものだと言わない。誰かのためのものだと言わない。そのどちらも、物語になるからだ。
廊下に出ると、さっきの女性職員たちが、わざとらしくない距離で立っていた。待っていたわけじゃない、と言い張れる距離。だが、待っていた。
「九条先生、お疲れさまです」
「お疲れさまです」
九条が返す。声は淡い。それでも、彼女たちの頬が少しだけ赤くなる。好きな人に名前を呼ばれる前の空気だ。
一人が、小さな紙袋を差し出した。
「これ……差見じゃないです。今日、患者さんのご家族からいただいて……。九条先生、甘いの苦手って言ってたけど、これはたぶん大丈夫です。……蜂蜜じゃなくて、りんごのやつ」
九条は一瞬、目を見開いた。甘いの苦手。そんな情報が彼女たちに渡っている。九条はきっと、何気なく言ったのだろう。何気なく言ったことが、誰かにとっては大事な「推し情報」になる。世界はそうやって、個人を集めてしまう。
九条は受け取らない……と思った。受け取れば、関係が固定される。固定されれば、相手は期待する。期待は重い。重いと、呼吸が削れる。
だが九条は、紙袋を受け取った。受け取り方が、猫を描くときの手だった。
「ありがとう。あとでいただきます」
たぶん本当だ。九条は嘘をつくとき、語尾が硬くなる。今の語尾は硬くない。
女性職員たちが、息を殺して笑った。嬉しいときの笑い方だ。
九条はその笑いを見ていないふりをした。見てしまうと、彼女たちの生活が九条の責任になる。九条は責任を背負わないふりをする。背負うと潰れるからだ。
俺はその横で、布袋を受け取った。九条が、俺に渡した。飴缶の入った布袋を、俺に。
「二階堂に」
「分かった」
俺が答えると、九条は頷かない。頷かないのが九条だ。頷けば確定する。確定は怖い。怖いから、九条は曖昧に生きる。曖昧に生きるために、事実だけは正確に書く。
庁舎を出ると、夜の空気が肺に刺さる。九条は息を吸って、すぐ吐いた。吸いすぎない。発作を避ける呼吸だ。
「送る」
俺が言うと、九条は「いらない」と言わなかった。言わないことが、無防備だった。
車に乗る。九条は助手席に座り、シートベルトを締める。締め方が少し雑だ。雑になるのは、疲れている証拠だ。
信号待ちの間、九条が紙袋から小さな飴を一つ取り出した。包装を剥く指が、猫を描く指だ。九条は飴を口に入れ、舌の上で転がした。目を閉じる。閉じる時間が、ほんの一秒長い。
その一秒が、九条の今日の「無防備」だった。
「……甘い」
九条が小さく言った。感想を口にするのは珍しい。しかも、俺に聞かせるための声だ。
「嫌いじゃないのか」
「嫌いじゃない。……苦手なだけだ」
九条はそう言って、窓の外を見た。街灯の光が、頬を白く照らす。白さは弱さに見える。だが九条は弱さを見せるのが下手だ。下手だから、たまに見えると強い。
俺はハンドルを握ったまま、何も言わなかった。言えば、今の一秒が物語になる。物語になると、九条の生活が削れる。削らせたくない。
代わりに、車を少しだけゆっくり走らせた。順番の人間のやり方で、九条の呼吸の時間を増やす。
九条は飴を転がしながら、ぽつりと呟いた。
「……悪くなかった」
俺は横顔を見なかった。何がとは聞かない。
「そうか」
俺はそれだけ返した。
九条はそれ以上言わない。言わないまま、右の胸の奥で鼓動を確かめるように、ほんの少しだけ姿勢を正した。手は当てない。動作は残さない。だが、俺には分かった。
九条は今日を終えた。出社から退庁まで、誰かに憧れられ、誰かに怖がられ、誰かに推され、誰かに飴を渡し、猫を描き、呼吸を繋いだ。
それだけの一日が、九条にとっては戦いだ。
俺はその戦いを、順番の人間として、ただ隣で見ている。見ているだけで、少しだけ守れると思っている。守れると思ってしまうのが、俺の罪だ。
信号が青になり、車が前へ進む。九条の横顔は、夜の光の中で静かに白い。
白いのに、確かに生きていた。
