第二章:研究所内部記録
地上階の喧騒に戻っても、私の指先に残るあの「冷え」は消えなかった。私はデスクに戻 り、二番目の資料群…「研究所内部記録」の束を手に取った。
【編者注:本章は、旧・〇〇国立研究所の培養室および研究室に残されていた実験日誌、 内部メール、私的な研究ノートを、時系列に従って再構成したものである】
19██年 5 月 12 日(月) 天候:晴 記録者:助手 杉山(仮名) 午前 9 時、培養室 A にてサンプル「S-17」を観察。驚くべき成長速度だ。通常、この種の変形菌は、培地の栄養 が枯渇すれば成長を止めるはずだ。 しかし S-17 は、培地のないガラス壁面を乗り越え、 湿度計のセンサーに向かって細い「脈」を伸ばしていた。 顕微鏡下での観察中、妙な感覚 に陥る。
【内部メール:5 月 13 日 10:15】 From: ██教授 To: 研究室メンバー一同 S-17 につい て、不用意に外部や他部署へ漏らすことは厳禁とする。
【研究ノート(私的記録):5 月 16 日】 今日、清掃業者の男性から奇妙な苦情を受けた。 「最近、床の埃が変にまとまりやすくて、掃いても舞わない」というのだ。 廊下を確認 すると、タイルの継ぎ目に、乾いた膜のようなものが薄く張り付いていた。私はその 「膜」をエタノールで拭き取った。
19██年 5 月 20 日(金)S-17 が、ついに「分裂」を拒否し始めた。S-17 は、ひとつの巨 大な、終わりのない細胞であり続けることを選んでいる。 夜、静まり返った実験室で耳 を澄ますと、「シュウッ…シュウッ…」という微かな音が聞こえる。 それは細胞の中で原 形質(細胞膜の内側の物質のこと)が流れる音だ。
【内部会議メモ:5 月 27 日 18:00】
██教授:…いいか、現時点で外部への報告は一切不要だ。
杉山助手:しかし教授、地下の配管ダクトにまで S-17 の「被膜」が確認されています。これは明らかに漏出です。
██教授:「漏出」という言葉を使うな。あれはただの残留物だ。
施設管理課長:…教授、清掃業者から別の相談が来ています。研究所裏の集積所に、最近 「野良猫」が集まらなくなったと。
██教授:(机を叩く音)偶然だ! S-17 は引き続き内部で管理し、明日の朝までにダクト の清掃を完了させろ。
【清掃業者作業日報(抜粋):5 月 28 日】 昨夜の指示通り、地下配管および排水溝の高圧 洗浄を実施。排水口周辺に「黄色いゴムのようなヘドロ」が多量に付着しており、除去に 難航。 洗浄液をかけると、ヘドロが脈打つように震えたと作業員の一人が主張している。
【研究ノート(私的記録):6 月 2 日】 培養室は空になった。S-17 は「全量廃棄」された ことになっている。だが、今日、私は見てしまった。 研究所の裏手、廃棄物集積所の近く にある深い側溝。その暗がりに、黄色い、血管のような細い筋が、地面を這うようにして 森の方へ伸びていくのを。
集積所の隅で、子ネズミが死んでいた。黄色い網に包み込まれ、毛の一本一本までが粘液 に浸り、ゆっくりと「平ら」になっていた。私は助けを呼ぶことも、それを報告すること もできなかった。
いまもどこかで、かつてこの研究所から逃げ出した「謎のイエロー菌」の末裔が、眠りながら獲物を待っているのだろうか。
地上階の喧騒に戻っても、私の指先に残るあの「冷え」は消えなかった。私はデスクに戻 り、二番目の資料群…「研究所内部記録」の束を手に取った。
【編者注:本章は、旧・〇〇国立研究所の培養室および研究室に残されていた実験日誌、 内部メール、私的な研究ノートを、時系列に従って再構成したものである】
19██年 5 月 12 日(月) 天候:晴 記録者:助手 杉山(仮名) 午前 9 時、培養室 A にてサンプル「S-17」を観察。驚くべき成長速度だ。通常、この種の変形菌は、培地の栄養 が枯渇すれば成長を止めるはずだ。 しかし S-17 は、培地のないガラス壁面を乗り越え、 湿度計のセンサーに向かって細い「脈」を伸ばしていた。 顕微鏡下での観察中、妙な感覚 に陥る。
【内部メール:5 月 13 日 10:15】 From: ██教授 To: 研究室メンバー一同 S-17 につい て、不用意に外部や他部署へ漏らすことは厳禁とする。
【研究ノート(私的記録):5 月 16 日】 今日、清掃業者の男性から奇妙な苦情を受けた。 「最近、床の埃が変にまとまりやすくて、掃いても舞わない」というのだ。 廊下を確認 すると、タイルの継ぎ目に、乾いた膜のようなものが薄く張り付いていた。私はその 「膜」をエタノールで拭き取った。
19██年 5 月 20 日(金)S-17 が、ついに「分裂」を拒否し始めた。S-17 は、ひとつの巨 大な、終わりのない細胞であり続けることを選んでいる。 夜、静まり返った実験室で耳 を澄ますと、「シュウッ…シュウッ…」という微かな音が聞こえる。 それは細胞の中で原 形質(細胞膜の内側の物質のこと)が流れる音だ。
【内部会議メモ:5 月 27 日 18:00】
██教授:…いいか、現時点で外部への報告は一切不要だ。
杉山助手:しかし教授、地下の配管ダクトにまで S-17 の「被膜」が確認されています。これは明らかに漏出です。
██教授:「漏出」という言葉を使うな。あれはただの残留物だ。
施設管理課長:…教授、清掃業者から別の相談が来ています。研究所裏の集積所に、最近 「野良猫」が集まらなくなったと。
██教授:(机を叩く音)偶然だ! S-17 は引き続き内部で管理し、明日の朝までにダクト の清掃を完了させろ。
【清掃業者作業日報(抜粋):5 月 28 日】 昨夜の指示通り、地下配管および排水溝の高圧 洗浄を実施。排水口周辺に「黄色いゴムのようなヘドロ」が多量に付着しており、除去に 難航。 洗浄液をかけると、ヘドロが脈打つように震えたと作業員の一人が主張している。
【研究ノート(私的記録):6 月 2 日】 培養室は空になった。S-17 は「全量廃棄」された ことになっている。だが、今日、私は見てしまった。 研究所の裏手、廃棄物集積所の近く にある深い側溝。その暗がりに、黄色い、血管のような細い筋が、地面を這うようにして 森の方へ伸びていくのを。
集積所の隅で、子ネズミが死んでいた。黄色い網に包み込まれ、毛の一本一本までが粘液 に浸り、ゆっくりと「平ら」になっていた。私は助けを呼ぶことも、それを報告すること もできなかった。
いまもどこかで、かつてこの研究所から逃げ出した「謎のイエロー菌」の末裔が、眠りながら獲物を待っているのだろうか。

