それは、音もなく近づいて…

第一章:封筒の中の目次

私は、鮫島貴志という。警視庁特命捜査対策室で、長年日の目を見ることのなかった未解 決事件を専門に扱う捜査官だ。今回この場所に来たのは、最近発生した事案が、過去の未 解決事件の様相と類似しているという先輩調査官の見立てがあり、今一度過去の事件を確認しようという方針が出たためである。
これから綴られる記録において「編者」と記されているのは、私自身のことである。 警視庁本部ビル、地下三階。古い未解決事件の記録が眠る資料室の空気は、いつもひんやり と乾燥している。備え付けのデスクに、今しがた金庫 B から取り出した一通の大型封筒を 置いた。 表面には「静岡変形菌事案・特別指定資料」とだけ記され、分類番号は墨で塗り潰されている。私は、ゴム手袋をはめ、その封筒に手をかけた。中から出てきたのは、 数十年の時を経て茶褐色に変色した紙の束と、一通の「添え状」だった。

【編者注:本章は、封筒の最上部に添えられていた「案内状」および「目録」の忠実な転 記である】

…-(以下、封筒より取り出した一枚目の紙面)…-
██ ██御中 本封筒に含まれる資料群は、〇〇県警および厚生労働省管轄の特定研究班 が、昭和五十九年から平成二年にかけて収集した一連の記録である。資料の順序は、事案 発生の時系列に必ずしも一致しない。
私はページをめくる。二枚目は、資料の構成を示す「目録」だった。 【資料目録:静岡変形菌事案】
1. 静岡県東部、某山村における「消失」に関する聞き取り調査記録(録音反訳)
2. 旧・〇〇国立研究所、特別実験棟における「個体増殖」の観測データ(抄録)
3. 現場付近で回収された「幼体」の生理学的特徴に関する内部文書(秘)
4. ██ ██教授による、最終対処プロトコル「完全乾燥」の提案および失敗の顛末
5. ██消防団員、██氏の遺品より発見された日記(断片)

私は、最初の資料…「聞き取り調査記録」を手に取った。

【資料 1:聞き取り調査記録(反訳)】 調査日:19██年 6 月 14 日 場所:静岡県██郡 ██村 村立集会所 対象:██ ██氏(当時 42 歳・農業) 聞き手:静岡県警本部・捜 査第一課・██警部補
(以下、録音テープからの文字起こし)
警部補:…落ち着いてください。時間はあります。昨夜、庭の飼育小屋で何を見たのか、 もう一度詳しく教えていただけますか。
██氏:…さっきも言った通りだ。音なんてしなかった。朝、四時に目が覚めて、鶏に餌 をやろうと思って外に出た。
警部補:はい。
██氏:小屋の前に着いたとき、何か「膜」みたいなものが張っているのが見えた。それ は動いていたんだ。黄色い、血管みたいな網が、小屋の網戸を…内側から外側へ、じわじわと染み出すように広がっていた。
警部補:その時、中の鶏たちはどうしていましたか?
██氏:(沈黙、激しく咳き込む音)…成鳥は、騒ぐでもなく、おとなしかったよ。しか し、雛は一羽も居なかった。ヒヨコの産毛も、血の一滴も残ってなかった。ただ、床一面 に、あの黄色い「ニチャニチャしたやつ」が広がっていて…。
警部補:跡形もなかったと?
██氏:ああ。でも、よく見ると、その網のあちこちが不自然に膨らんでいるんだ。まる で、何かを「包んでいる」みたいに。私が呆然としていると、その膨らみのひとつが…ピクッ、と動いた。
警部補:動いた?



██氏:そうだ。膜の向こう側に、雛の…まだ黄色い毛が生えたばかりの、小さな嘴(く ちばし)の形が浮き上がった。でも、それはもう雛じゃない。粘液に包まれて、溶けかかって…粘菌の「体の一部」になっちまってたんだ。
警部補:ホー!
██氏:太陽が出てきたら、急に動きが止まった。それから、一時間もせんうちに茶色く 乾いて、ボロボロの粉になって崩れちまった。風が吹いたら、全部飛んでいったよ。

私は乾いた喉を鳴らし、次の資料、研究所の記録ファイルを手に取った。

【資料 2:特別実験棟における「個体増殖」の観測データ(抄録)】
[観測サマリー] 8 月 14 日の豪雨による湿度の急上昇を境に、従来の増殖速度を大幅に超過する「爆発的拡大」を確認。検体は、実験棟内に迷い込んだ小型哺乳類(ラット)のケージを感知した瞬間、秒速 5 ミリメートルという異常な速度で移動を開始した。これは、 記録されている既知の変形体の移動速度の、約 300 倍に相当する。
[増殖推移表(一部抜粋)] ・8 月 16 日 03:00:隣接する「乳幼児発達心理研究室」の壁 面より染み出しを確認。



[特記記録] 検体は「柔らかい生体組織」に対して強い誘引反応を示す。検体は獲物の周囲 で一度静止し、獲物の心拍動に同期するように細胞全体を拍動させる。これにより、対象 に「外的刺激」を悟らせることなく包囲を完了させる。
私は、資料を読み進める手が止まった。 「乳幼児発達心理研究室」という文字の横に、 青いインクで殴り書きされたメモがある。 『8 月 16 日未明、研究棟の宿直室にて、職員 の子弟(乳児・4 ヶ月)の行方が分からず。現場には多量の黄色い粘液のみ。』

私は重い溜息をつき、三枚目の資料を手に取った。

【資料 3:回収された「幼体」の生理学的特徴に関する内部文書(極秘)】
[分析結果報告] 発見時、対象物は直径約 40 センチメートルの「半透明な被膜」に覆われた球状の形態を呈していた。
細胞の共生と置換:回収された「幼体」の筋肉組織および神経系は、すでに変形菌の原形 質へと置換されていた。しかし、骨格の形状は維持されており、それが本来「人間の幼 児」であったことを無慈悲に証明している。
1. 擬似的な生命活動:粘菌特有の原形質流動が、かつての獲物の「循環器系」をなぞるように模倣している。
2. 神経伝達の流用:刺激を与えた際、被膜の内部から「泣き声」に似た高周波の震動 が観測された。

私は深く呼吸を整え、四番目の資料へとページをめくった。

【資料 4:最終対処プロトコル「完全乾燥」の提案および失敗の顛末】
[計画背景] 最大の脅威は、検体が「光と乾燥を嫌う」という弱点そのものにある。我々は この性質を利用し、事案発生地域一帯を『一斉に乾燥・照射』することで、粘菌の生存圏 を奪い、死滅させることが可能であると結論づけた。
[実施記録:プロトコル・サンライズ] 10 月 24 日未明。██市を中心とする半径 20 キロ メートル圏内において、化学乾燥剤の散布、および超高輝度ハロゲン照射を一斉に開始。
[失敗の分析と未曾有の事態] しかし、我々は致命的な誤算を犯していた。一斉乾燥によって崩壊した組織は、実は数兆個という「休眠胞子」の塊へと変質していた。現在、我々の 頭上には、目に見えないほど微細な『死の粉末』が、雨を、湿気を、そして「柔らかいエ サ」が揃うその時を待ちながら、静かに降り積もっている。
私は資料室の鍵を閉め、逃げ出したい衝動を抑え、最後の一冊…血に汚れた消防団員の日記を開いた。

【資料 5:██消防団員、██氏の遺品より発見された日記(断片)】
10 月 24 日 06:15 酷いことになった。乾燥剤を撒いた途端、黄色い膜がボロボロに崩れ て、村中が茶色の霧で前が見えなくなった。霧の向こうで、誰かが叫んでいる。「子供 が! 子供がいなくなった!」と。

10 月 24 日 08:00 逃げろ、と叫んだが声が出ない。私の足元に、黄色い筋が這い上がってきている。乾燥しているはずなのに、なぜ動く。違う。あれは「乾いたふり」をしていた だけだ。ライトを消すと、あいつらは一斉に膨らんだ。
私は、ノートを袋に戻し、デスクの上に放り出した。 私は資料室の照明を消すことがで きず、逃げるように地下から階段を駆け上がった。