ハイカラ実業家の古風で武士道な愛~水神の力を託されし武士は水神宮の娘を守り抜く~

 海璃と共に汽車を乗り継ぐこと3日3晩。4日目の早朝、ようやく帝都に到着した。
 汽車には祖父の用事に同行して短い距離を乗ったことはあるものの、水桜にとってはそれだけでも十分な旅であった。
 それが此度は知り合ったばかりの殿方との道連れ、不慣れな長旅。だが海璃は旅路の間ずっと紳士的で、常に水桜を労わり、その姿勢が崩れることはなかった。途中の駅で買ったお茶や弁当を差し出され、眠る時には肩とコートを貸してくれた。おかげで幾ばくか眠ることができた。

 帝都の西洋建築のモダンな煉瓦造りの駅舎の中は、まるで夢のような世界だった。岳麓縣の駅舎も立派な建物だったが、こちらはさらに壮大で水桜はただ圧倒されるばかりであった。行き交う人の波に「迷子になってはいけないから」と海璃に手を引かれて歩いていなければ、本当に迷っていたかもしれない。海璃の白い手袋越しに彼のひんやりとした指先の感触が伝わってくると、水桜の胸はかすかに震えた。

「迎えの車が来ているはずだ」
 駅舎を出ると、海璃は周辺を見渡す。すると、すぐに向こうから「おい、海璃!」と呼ぶ声が聞こえた。低く響く無骨で張りのある声だった。
「蓮太郎、迎えと留守番ご苦労だったな」
「ああ、無事の帰り、何よりだ、若」
 背の高い海璃よりわずかに上背のある強面の青年は、海璃と同じくすらりとした洋装姿で、大柄の筋肉質、短髪にキリリとした眉と目は、まさに大和男子の称号がふさわしい。
「貴殿が海璃の婚約者どのか。自分は若の秘書で青宮(あおみや)蓮太郎(れんたろう)と申す」
「あっ、あの、初めまして、深美水桜と申します」
(天水様はまことに私を花嫁にお考えで……? それになぜこうも早くに青宮様がご存じなのかしら?)
 不可思議に思うことはいくつもあり、困惑した顔で海璃に顔を向ける。
「湖鏡の天水の本家から電報を打たせた。だから蓮太郎は知っている」
 答えはすぐにもたらされたが、一体いつの間に……と驚くばかりの水桜であった。
 
 車は帝都にある海璃の屋敷に向かっている。その車中で海璃と蓮太郎の2人が同い年の幼馴染だと教えてもらった。青宮家は天水家の分家で共に事業を担っているということだ。
「俺も蓮太郎も帝都生まれの帝都育ちだが、年に幾度かは湖鏡の本家に戻り酒造の様子を見に行く。隠居すれば皆、本家に戻ることになる」
 海璃の両親は湖鏡地方、岳麓縣の本家で暮らしているという。
「では……私はご挨拶もしないまま、湖鏡を飛び出して来てしまったのですね……」
 元々不釣り合いの上、非礼も加わってしまった。海璃の両親に婚約者だと認めてもらえるのだろうか。自分でも訳もわからず落ち込んでいると、意外な答えがもたらされた。
「問題ない。あのような状況だ、父母もわかっている。蓮太郎に電報を打ったのも彼らだ」
「そうなのですか……!?」
 驚きのあまり目を白黒させる水桜を見て、海璃はふとその涼しげな目を柔らかく細めた。
「水桜は深美水神宮の娘、胸を張って我が天水家に嫁いでくれば良い」
 なぜ、と思ったがこれ以上は聞けなかった。屋敷に到着したからだ。

 天水家の屋敷は意外にも古風な武家屋敷だった。海璃の装いからてっきり洋館に住んでいるものだと勝手に想像していた。だが白壁に囲まれた屋敷は広い。
 与えられた部屋は埃1つ落ちていない美しく清められた広い和室。だが置かれている家具は箪笥も鏡台もすべてモダンなしつらえのものだった。
「こちらの箪笥は『チェスト』、あちらの鏡台は『ドレッサー』と呼ぶのですよ。これから宜しくお願いしますね、水桜様」
 教えてくれたのは、水桜付きの女中だと紹介された桔梗。
「様だなんて……水桜で構いません。宜しくお願いします、桔梗さん」
「ふふっ、水桜様は奥ゆかしい方ですね。可愛い」
 親しみを込めて背中をポンとはたかれる。水桜より少し年上の姉御肌な桔梗は気風の良い笑顔を見せた。
 
 さっそく桔梗によって屋敷内を案内され、屋敷に住まう者たちの紹介を受けていると、浴衣姿の海璃がやって来た。湯浴み後の艶やかな姿に、思わず顔から湯気が出そうになり手で覆う。
「おい、何で顔を隠しているんだ? 俺はこれから天水屋に行く。水桜も湯浴みをして、今日は休むと良い」
 旅から戻りすぐに仕事に向かう海璃に、自分にも何か仕事をさせて欲しいと頼んでみたが、「突然の長旅で疲れているだろう。今は休め」と言われてしまい、大人しく湯浴みをして床についた。いや正しくは『ベッド』という寝床についた。
 丁度良い弾力に身体の疲れが取れていくようだ。気がつけば熟睡、目が覚めた時には外は明るく、鳥のさえずりが聞こえてきた。どうやら丸々1日眠りこけていたようだ。

「天水屋に連れて行って下さるのですか?」
 朝餉の時間、海璃から「今日は我が家の『カンパニー』を案内する」と要請があった。同席していた蓮太郎から「天水屋のことです」と説明が入る。
 蓮太郎もこの屋敷に住んでいるということだ。そして天水家での食事は基本和食。海璃たちが外で洋食の機会が多いからだそうだ。
「あぁ、我が家の『仕事』について、水桜には早々に話したいと思う」
 海璃は水桜に向けて微笑んだ。目には慈愛の念が浮かんでいる。窓から差し込む朝の光でより一層笑顔が眩しく感じる。
 水桜のことを仕事で役に立てる人間だと期待してくれているのだろうか。そうだとしたら期待に違わぬよう精進せねばならない。

***
「これが『カンパニー』……! これが天水屋……! なんて立派な建物なの……!」
 帝都の中心部にある一等地はまるで西洋のような街並み、煉瓦造りの西洋建築が立ち並んでいる。その一角に天水屋という看板を掲げたカンパニーの建物があった。
てっきり大きめの酒店だと想像していたのだが、実際には3階建ての『ビルヂング』という建物に天水屋は入っていた。
「天水屋は酒問屋だ。天水酒造の酒は元より水都中の和酒はもちろんのこと、洋酒や調味料も仕入れている」
 1階は問屋になっていて小売もしているらしい。2階と3階は仕入れや営業活動、庶務などの仕事部屋になっていた。それぞれの課ごとに机と椅子が島のように並べられている。これが『カンパニー』というものなのだそうだ。

 次に案内されたのは社長室。天井も壁も床の絨毯も部屋全体が西洋風のしつらえになっていた。「これはデスク、これはテーブル、これはソファ」と家具の説明をしてくれたのだが、見るものすべてが初めてで目が回りそうだ。
「天水様は本当にハイカラなものがお好きなのですね」
 水桜は純粋に尊敬の念をもって問いかけた。カンパニーは父の代に設立したとは言え、これだけの物を揃えられるほど繁盛させているのだ。
「そうだな。古き時代からの最も守りたいもののために、新しい手段を必要としていた……」
 ふと影が差したような真剣な表情で海璃は答えた。隣で蓮太郎もうなずいている。
(古き時代からの……守りたいもの……?)
 出会った日の晩に感じた、彼の忠義心のようなものを思い出した。それは禍ツビトの討伐に関係があるのだろうか。

 コンコン、と軽く叩く音が聞こえると社長室の扉が開いた。
「ただいま帰りました。おや、さっそく婚約者さんをお連れしていたのですね」
 海璃たちと同じ年くらいの笑顔が爽やかな青年が入ってきて、愉快そうにこちらを見ている。
「あぁ、夜霧、遠路の仕入れご苦労だった。紹介する、俺の婚約者の深美水桜だ」
 水桜はおずおずとしながら「初めまして」と挨拶をした。
「初めまして、僕は白瀬(しらせ)夜霧(やぎり)といいます。いやあ、電話で婚約者ができたと聞いた時には驚きましたよ。でも、湖鏡の水神宮の娘さんだと聞いて納得です」
 水神宮の娘であることが、なぜ納得なのだろうと水桜が首を傾げていると、「その件は近々話す」と海璃によってこの話は終わった。

「あの、私は珠算が得意なのですが、それがお役に立ちそうなお仕事はありませんでしょうか?」
 ふと肝心なことを思いだし尋ねてみると、海璃からは「働く必要はないのだが、そばにいてくれるのはありがたい」と言われ、水桜は出納係の手伝いをすることに決まった。
 珠算は祖父から教わり、水神宮の帳簿をつける手伝いをしていた。女学校には通っていなかったが、必要な学問はすべて祖父から学んだ。それらの知識がこのカンパニーで通用するのかはわからないが、勉学あるのみだと意気込む。

「今夜は西洋会館で行われる舞踏会に招待されている。水桜は未の刻(午後13時から15時くらい)の間には仕事を終えて屋敷に帰るように。送迎は蓮太郎にさせる」
 さすがに帝都に来てまだ2日目なので、婚約者として同席しろとは言われなかった。密かに安堵していたが……
「天水屋はホテルやレストラン、料亭への卸し、大使館や政府の御用達でもある。そこから多くの繋がりができ、実業家として様々な宴や催しに招待される機会が多くある。だが夫婦同伴でない限り、これには俺1人で行く」
 海璃からばっさりと切り捨てられたような気がして、水桜は少なからず衝撃を受けた。
(やはり私が田舎の泥くさい娘だから……ここからの成長は望めないと期待されていないのね)
「社長、水桜さんが誤解していますよ。違うのです、社長が婚約者である水桜さんを連れて行ったら、他のお嬢様方が水桜さんに嫉妬心を抱き、嫌でも目立つことになる。天水家はそういう場では目立たないことも家訓の1つですから」
 夜霧の説明により、切り捨てられたわけではないことは理解できた。だがハイカラな麗人である海璃が目立たずにいるというのはどうにも飲み込めない。
「社長が目立たずにいるのは不可能です。地味な装いですと余計に不自然で悪目立ちしますし。ふさわしい華のある装いをしている方が自然に見えるのですよ」
 なるほどと納得しても良いのだろうか。だがこの夜、すべてが明らかになることを水桜はまだ知らない。

***
 海璃が屋敷に戻ったのは丑三つ時(午前2時から2時半くらい)のことだった。「先に休んでいろ」と言われていたものの、何となく寝付けないまま海璃の帰宅を待っていたのだが……
 帰宅した海璃の様子を見て心臓が跳ねる。
とても舞踏会の帰りとは思えないほどスーツは土埃で汚れ、擦り切れている。身体中から殺気がみなぎっており、肌に突き刺さるようだ。
(まるで戦って帰ってきたと言わんばかりの……。戦い……まさか……?)
「水桜……今から大事な話をする。良いか?」
「はい……」
 後から戻ってきた蓮太郎も同じようにボロボロの状態で、水桜は2人にまずは湯浴みをすることを薦めた。

「政府の特殊機関、帝国対禍防衛部隊指令――それが俺のもう1つの仕事だ」
 海璃たちが風呂を使った後、部屋に呼ばれた。海璃の指示で桔梗もついてきた。そこで聞かされた真実に水桜は驚きを隠せない。「政府の……防衛部隊……司令……」と思わずつぶやく。
「天水家は代々幕府に仕える武士であり、隠密であった。その隠れ蓑として酒造を生業としている。御一新の後、武士という身分はなくなったが、新政府によって組織の名を変え、引き続きの任務を命じられている」
 驚きはしたものの、やはり武家であったのだと腑に落ちる。
「今夜、政府の反乱分子の組織が舞踏会を襲撃する計画が立てられている――という情報を入手していた。組織自体はそれほど大きなものではないと把握していた」
禍ツビトにまつわる情報を集めている際に、他にもさまざまな情報が入ってくるのだという。
「それゆえ舞踏会には警察や軍の部隊と共に俺たちも乗り込んで密かに罠を張り、現行犯で捕獲したのだ」
 彼らの働きのおかげで、舞踏会に出席していた人々に怪我はなかったという。
「だが、奴らの中に禍ツビトが数人紛れ込んでおり、それが狂暴化してかなりの乱闘になった」
禍ツビトになった者の中には理性が効き、知恵の回る性質の者が存在するのだという。

「これから警察で詳しく取り調べを行なうが、捕縛された者どもは『禍ツビトが紛れ込んでいたことは知らなかった』と話していた。実際、奴らも見境をなくした禍ツビトに攻撃されていた」
 しばし、海璃は考え込んでから口を開いた。
「散り散りに存在していた禍ツビトを密かに集め、指示を聞かせて組織に紛れこませた者がいる――と俺は見ている」
 一体誰がそのようなことを……海璃の言葉に固唾を飲む。
「これは勘だが、先導する人物は禍ツビトではない。だが禍ツビトのことをよく知っている人間だ。今、夜霧に裏情報を探らせている」
 背後にいる人物を探らせるため。これまでも夜霧は仕入れ先を渡り歩きながらこの手の情報収集をするのが得意なのだという。
「そう言えば、白瀬様はこのお屋敷にお住まいではないのですか?」
「ああ、夜霧はカンパニーの寮に下宿している。その方が気楽なのだと。夜霧とは俺と蓮太郎が学生の時に出会い、それからは仲間であり、蓮太郎と同じく無二の友だ」
 秘書の青宮蓮太郎と仕入れ係の白瀬夜霧は、海璃にとって右腕と左腕となる大事な存在なのだと話してくれた。

「そしてこの屋敷の者は皆、代々天水家に仕えた隠密たちの子孫たちだ」
「えぇと、それでは桔梗さんもそうなのですか?」
「はい、隠密行動、水桜様の護衛はお任せ下さい。屋敷の者たちは皆、天水家に忠誠を誓った者ばかりです」
 桔梗はにこりと笑う。子孫とは言うが、どうやら現役のようだ。聞けば、湖鏡地方の本家にいる人たちも隠密なのだという。

***
 それから半月あまりが経ち、水桜は出納係の仕事を覚える日々を過ごしていた。水桜に仕事を教えてくれているのは穏やかな壮年の男性。今は奉公人とは言わない。社員または従業員と言うらしい。「呑み込みが早い。そろばんが得意で助かるよ」と重宝してくれている。皆の足を引っ張らぬよう、期待に応えなければと水桜は気を張っていた。

 夜になり、部屋に呼ばれて赴くと、庭に面した軒下の縁側に座り、海璃はくつろいだ浴衣姿で春の涼しい夜風にあたっていた。「こちらに来い」と言わんばかりに縁側を指先でトンと叩く。大人しく隣に腰掛けた。
「天水様は今日もずっとお出かけでしたね」
 朝、社長室を出てから夕刻を過ぎるまで、海璃はずっと外出していた。
「得意先を回って商談をしていた。……それと天水様ではない、海璃で良い」
 いきなり呼び方を変えろと言われても困ってしまう。だが「呼んでみろ」と促されたので、恥ずかしくて声が詰まる中、何とか「海璃様……」と絞り出すような声で呼んだ。すると、やや満足げに微笑んで「水桜」と名前を呼ばれた。
 出会った日から「水桜」と呼ばれていたけれど、呼ばれるたびに胸が高鳴り落ち着かなくなる。海璃にとっては呼ぶ必要があるだけで特別な意味合いはないというのに。

「海璃様がハイカラな装いをして社交の場に出かけられるのは、ご自身の使命のためだということが良くわかりました」
 もちろんカンパニーである天水屋の売り込みのためというのもある。だけどそれだけのためなら、この人はここまではしないだろう。すべては任務のため、使命のため、必要な情報収集をするための社交だったのだ。
「たしかに……真の俺は社交があまり得意ではない。華美な装いも好きではない。だがな、洋装は実に動きやすいんだ」
 その感動を手に取るように表すので、思わずクスッと笑ってしまった。
「合理的なものを取り入れない理由はない。西洋の新しきものには便利な道具も多いのだ。任務のためにこれらを使わない手はない」
「はい。ですが、海璃様は華美な装いは好まないと申されましたが……洋装の海璃様は美しくもありますが、武士のようでもあります」
 言葉にしてから自分は何を口走ってしまったのかと慌てる。海璃に至っては、「……どういうことだ?」と怒っているのではなく、本気で首をかしげている。
「あの……例えばですが、モダンな柄のスーツをお召しになられた海璃様は軽妙洒脱な紳士に見えます。ですが漆黒のスーツをお召しになられた時は何と言いますか、禁欲的な……まるで研ぎ澄まされた刀のような……」
「そ、そうか……」
 なぜだかお互いに照れ合ってしまった。

「古き時代からの最も守りたいもののために、新しい手段を必要としていた……水桜にはそう話したと思う」
 熱くなった頬を夜風が冷まし、静かな空気の中に海璃の声が溶けていく。
「天水家は元々幕府に仕えていたわけではない。かつては湖鏡地方の岳麓懸の辺りを治めていた豪族に仕える武士だった――それが水女神の魂のひとかけらを持って生まれたとも言われた姫を禍ツビトから守るために隠密として発足した。姫は湖鏡の平穏を願っていたのだという」
 時代が変遷して主君が変わっても、天水の人間は今でもその使命を胸に秘めている――海璃の目には炎が宿っているように見えた。
「それゆえか……天水家の中で100年に1度、俺のように水女神の加護を受けた者が生まれる。瘴気を斬る刀や、禍ツビトによる傷を治せるのはそのためだ」
 守るべき姫はもういない。だが愛する故郷である湖鏡地方を、しいては水都帝国を禍ツビトから守るためにその力を使う。それが水女神の加護を与えられた海璃の使命だった。

「その姫君の子孫が深美家。水桜は姫の子孫であり、水女神の加護を与えられている」
「私が……水女神様の……?」
「あぁ、そうだ。お前が子供を助けた時、禍ツビトが動けなくなっただろう。あれはお前が結界を張っていたからだ」
「結界……!? そんなこと、私にはできません」
 お千夜を助けに行ったあの時、たしかに禍ツビトは脚が動かせずこちらに来られない様子だった。だけど、自分は何もしていない。
「俺の目には、たしかに水桜が水女神の結界に守られているのが見えたのだ」
 それは水桜とて水女神にお仕えする身、哀れに思った水女神様が偶然お助け下さったのではないだろうか。決して水桜の力ではない。
「それは、私の力では……」
「ようやく見つけた、お前こそが俺の使命そのものだ。お前のために、俺はこの使命を果たす」
 強い意志の込められた言葉が伝えられる。情熱の宿った目が水桜をまっすぐに捉える。そしてふいに抱き寄せられた。
 
 洋装だと一見細身に見えるが、こうして浴衣姿でいると、その肉体が鍛え抜かれたしっかりしたものだとわかる。たくましい腕に抱かれ、引き締まった胸元に閉じ込められれば、浴衣越しに海璃のあたたかさが伝わってくる。
 男性に抱きしめられるのなんて初めてのことで、どうすれば良いのかわからない。それでも、海璃に抱きしめられるのは嫌ではなかった。むしろ、まだこのままでいたいと願ってしまうほどだ。

(だけど……私は本当に何もできないのよ……)
 海璃の話に出てきた姫君。その子孫が深美家であることを水桜は知らない。もしそれが本当のことだとしたら、水桜が姫君の子孫だというのもまた本当なのかもしれない。
 だけどもしこの先、真に水女神の加護を受け、その力で結界を張れるような巫女が現れたら……海璃はどうするのだろうか。
 あれほどまでに己が使命として、命を賭して姫君への、そして水女神への忠誠を誓っているのだ。水女神の力を持つ人が現れたら、彼が選ばないなどという選択肢はないはず。
 口約束だけの婚約者の水桜など、お役御免どころか、まがいものだと捨てられてしまうだろう。
(だとしたら、そうなる前に自分から身を引いて、ここを出た方が良いのかもしれない……)
 この温もりを手放すのは名残惜しい。まだ出会ってわずかだというのに。
(だけど、いずれ嫌われてしまう前に、自分から離さなければ……)

***
「水桜の元気がない」――と桔梗から報告を受けて、はや数日。故郷である湖鏡に帰りたくなったのではないか、と海璃は懸念していた。
 無理もない。何の準備もなく故郷を離れ、突然できた婚約者の元へ連れて来られたのだから。下手に心惑わすようなことはせず、そっと見守った方が良いのかもしれない。だが少しでも早く帝都に慣れるよう買い物にでも連れて行き、街案内をしようと誘ってみたのだが――
「いえ、お忙しい海璃様のお手を煩わせるようなことはできません」
 凛とした表情でぴしゃりと告げてきた水桜の意志は固く、「時間なら問題ない」「俺も買い物に行きたいからだ」などと理由を並べても、頑として首を縦に振らなかった。
 それほどまでに真面目さが過ぎる水桜は、カンパニーの仕事にもよく励んでいると海璃は感心していた。呑み込みが早く、珠算が得意な水桜は、見守っているこちらが微笑ましくなるほどよくやってくれていると思っている。
 だが、気を張り詰めすぎているところがある。他の者の足を引っ張らぬようにと肩に力が入っているのだろう。
(失敗しても良いのだ。もっと自分たちを……俺を頼って欲しい、もっと甘えれば良いのだ)
 しかし責任感が強い水桜は、誰かに頼ることを良しとせず、あくまで自分の足で立とうとしていることも海璃はわかっていた。

「海璃があまりにも水女神の姫君にこだわるから……ではないかな?」
 目の前で微笑を浮かべながらそう諭すのは白瀬夜霧。夜霧はカンパニーの仕事を離れると、友である海璃を名前で呼ぶ。
 例の舞踏会の事件以降、裏で糸を引く真の首謀者を探るべく、夜霧に調査を進めさせていた。探るうちに帝都のある清華地方を離れ、湖鏡地方に入っていた夜霧には、岳麓縣の湖鏡深美大神宮の様子も見に行かせていた。
 夜霧からは、水神宮は天水の者が見張りを続けていること、水桜の祖父が息災であること、そして『水神宮を拠点にして調査が進められるので一石二鳥です』と報告が入っていた。
 一旦戻った夜霧を屋敷に呼び、さらに詳しい話を報告させていたのだが、「水桜さんのことで悩んでいるんじゃないか?」と見抜かれてしまった。そこでやむなく「水桜に元気がない」と相談すると、今の答えが返ってきたのだ。

「忠義を尽くす対象にこだわるのは、当然のことだと思うのだが」
 至極当然だと海璃は言い切るも、夜霧の微笑の前にはかわされたような気分になる。
「海璃には水琴さんがまるで姫君の生まれ変わりのように見えているのかもしれない。けれど、只人の僕には水桜さんも只の美しい人にしか見えない」
 だからどうしたというのだ、と言い返そうとするも制止される。
「もし今後、さらに強大な水女神の加護を持つ者が現れないとは限らないよね」
「何が言いたい?」
「もしもそんな人が現れたら、海璃はどうするつもりだい? 水桜さんを捨ててそちらに行くと言ったとしても、僕は止めも責めもしないよ」
 夜霧は微笑を崩さない。海璃はグッと拳を握りしめるも、息を吐いて心を落ち着かせる。こういう風に人間の嫌な部分をつついてくるのは、清廉潔白を絵に描いたような蓮太郎にはできない、夜霧の役目だった。
「水桜を捨てるようなことはしない」
「ふうん、お屋敷で女中として雇ってあげる? それともこのままカンパニーに残して、寮で暮らしてもらうのも良いかもしれないね」
「水桜は婚約者として、いずれ俺の妻にする」
「喉から手が出るほど欲しい水女神の生まれ変わりが他にいたとしても、本当にそんなことができる? 水桜さんのことは妻として愛するけど、命を賭すのは別の女性……これだと両者が報われないよね」
(いちいち嫌なところをついてくる……だが夜霧の言うことにも一理ある)
 もし、水桜以上の水女神の生まれ変わりのような女性が現れてしまったら……自分はその女性を己の使命と信じ、この命を賭けるのだろうか。たとえ水桜を差し置いても……
 そんな存在など現れて欲しくない。水桜には水女神の加護がある。あの時の結界が水桜自身から発されるのをたしかにこの目で見た。海璃の刀剣と同じく虹のように幾重にも輝く結界を見たのだ。
(だが、たとえ水桜が何の力を持たない娘だとしても手放したくない。守りたいのは水桜なんだ)

 天水家は長きにわたり湖鏡深美水神宮を影から見守ってきた。だが、これまで両家で婚姻関係を結ぶことはなかった。天水家は隠密の家系、守るべき深美家を危険にさらすわけには行かないからだ。
 しかし、代替わりして初めて参拝に訪れた水神宮で水桜に出会い、一目で惹かれるものがあった。水桜を守りたいと心の底から願ったのだ。
 それが1人の女性に対しての想いなのか、水女神の加護を宿しているからなのかは……わからない。
 だが旅の道中、屋敷で暮らし始めてからも、水桜を守りたいと願う気持ちは膨れ上がるばかりだ。

「たしかに、水女神の姫君への忠義心は俺の魂に深く刻み込まれている。だが、その力を持つ人間の出現に左右されるのは間違っている」
 海璃は畳の一点を見つめながらつぶやき、顔を上げる。
「……どういうこと?」
 珍しくも訝しげに眉をひそめる夜霧。尋ねる風ではあるが、夜霧には海璃の言わんとしていることがきっとわかっている。
「武士ならば忠誠を尽くすのはただ1人。水女神の力を強く持つ者に捧げる道もある。だが俺が守りたいのは水桜だ。水桜こそが俺の使命だ」
「……そう。では、僕は湖鏡に戻って調査を続けるよ」
 夜霧はもう微笑んでいない。代わりに海璃の言葉に意を唱えることもしなかった。