ハイカラ実業家の古風で武士道な愛~水神の力を託されし武士は水神宮の娘を守り抜く~

 水都(すいと)帝国は水女神の加護を授けられし海に囲まれた島国である。東の清華(せいか)地方と西の湖鏡(こきょう)地方に分かれ、豊富な水資源に支えられて繁栄してきた。

***
「今日も一日無事でありますように、水女神様のご加護を」
 空気が澄んでひっそりとした早朝、深美(ふかみ)水桜(みお)は朝のお参りを済ませると、朝露が降りて木々の葉が青々と輝き始めた境内の掃除を開始した。

 湖鏡地方の主要都市の1つ、岳麓縣(がくれいけん)に古くからある神社――湖鏡深美水神宮は水桜の母の生家であり、水桜は神主である祖父と共にここで暮らしている。
 水桜の母は幼馴染である水桜の父と結婚した。だが裕福な酒造の娘が横恋慕してきて、優柔不断で八方美人、そのくせ性根は冷淡な水桜の父は、金に目がくらみ酒蔵の娘を選んだ挙句、一方的に離縁して水桜の母と生まれたばかりの水桜を置いて家を出て行った。
 祖父は自分勝手な水桜の父にこそ激高したが、水桜たちのことは大事に守ってくれた。だが、母は病で早々に亡くなってしまい、水桜は祖父に育てられた。家の水神宮は歴史だけは古く、寂れていく一方であったが、生まれてから18年間、清貧の中での祖父との暮らしは穏やかで幸せなものだった。

 境内の落ち葉を箒で掃き取りまとめていると、鳥居の向こうから参拝客がやって来るのが見えた。朝の参拝客は珍しくないが、この水神宮にはそれほど多くの参拝客は訪れない。そしてさらに水桜の目を引いたのは、その参拝客が洋装のハイカラな出で立ちをしていることだった。

 御一新から40年余りが経過した水都帝国の帝都は東の清華地方にある。これまで水都帝国は独自の文化を発展させてきたが、御一新を経て、海の向こうの諸外国から西洋風と呼ばれる文化が入ってきていることは知っている。帝都は元より各都市でも西洋化は進み、祖父と共に用事で訪れた岳麓縣の中心部の街でも、西洋風の建物が軒を連ねており驚いた記憶が新しい。洋装や、着物の上にコートと呼ばれる上着を羽織った御仁たちを何人も見かけた。

 だがこの参拝客――水桜より5つほど上に見える青年は、水桜の記憶の中のどの人物よりもお洒落で粋で洗練されており、すらりとした洋装がとてもよく似合っていた。
(比べられるほど洋装の方を見たわけではないけれど、だとしても……)
 岳麓縣の中でも田舎の森の入口にこの水神宮はある。普段見かけるのは着物姿の者がほとんどだ。それゆえ余計に眩しく見えたのだろう。でもそれを差し引いても、この青年の輝きは卓越しているように思えた。
 お洒落でハイカラな青年は、水桜が見たこともない柄の帽子をかぶっていたが、鳥居に入る時にそれを外した。少し癖毛なのか、ふんわりとして流れるような艶やかな黒髪をして、短髪と呼ぶには少し長めの髪型をしている。これも初めて見かけたが、この青年には不思議とよく馴染んでいる。思わず心の中で「素敵」「恰好良い」という言葉が出てくるほどだ。
「おはよう、お参りをしても宜しいか?」
 鳥居から参道を抜けてこちらにやってきた青年は、掃き掃除をしている水桜に声をかけてきた。近づいてみれば、見上げるほどに背が高い。
「おはようございます。もちろんです、どうぞ」
「ありがとう。君は神主どののお孫さんか?」
 眉目秀麗――とっさにそのような言葉が浮かぶほど、艶のある整った切れ長の目。その目がジッと水桜を捉え、思わず心臓が跳ねる。
「はい、そうですけれど」
「天水どの」
 青年からの問いかけに答えていると、社務所から神主である祖父が出てきて青年に呼び掛けた。
「これは深美どの、ご無沙汰しております。ご息災なによりです」
 祖父に向かって挨拶した青年は、初めて微笑みを見せた。
「天水どの、今年も奉納金を賜り感謝申し上げます。水女神様のため社殿の修繕などに使わせて頂きます」
 祖父が深々とお辞儀をしてお礼をすると、青年は「お役に立てて何よりです」と祖父の背を支え、さりげなく労わっていた。

「自分は天水(あまみ)海璃(かいり)という」
「天水様、深美水桜と申します」
「天水家は隣の縣に代々の大きな酒蔵を持っておられる。そして今では海璃どのが帝都で天水屋という立派でモダンな酒店を営んでおられるのだ」
 地元の名士である天水家のことは水桜でも知っている。だが、歴代の家長より湖鏡深美水神宮へ毎年少なくない額の奉納金が寄せられていたことは今初めて知った。そのおかげで自分たちが生きながらえてきたことも。
「なぜ話してくれなかったのか?」と水桜が問えば、天水家より「匿名の寄進で」と申し出があったからだという。それでも歴代の天水家当主は年に1度は密やかにお参りに来ていたそうだ。この度は代替わりにより海璃が訪れたのだ。
 
 海璃は社殿に向かうと真剣に祈っていた。それは静謐な空気の中で、長い時のように感じられた。海璃はこの後、岳麓縣にある酒蔵を見て廻るのだという。水桜たちを捨てた父が婿養子に入った酒淵(さかぶち)家の酒造にも訪れるのだろうかと思うと、なんだか悲しいような気分になってくる。

***
 その後、水桜は神社の近くにある村に来ていた。祖父から頼まれて氏子である家を訪問していたのだ。昼過ぎには来ていたものの、その家のおばあさんの話を聞いていたら、気づけば一刻(約2時間)が過ぎていた。まだ夕方には早いが、暗くなる前に神社に帰らないといけない。まだ社務所で仕事が残っているのもあるが、女子(おなご)1人で出歩くのは危ないからだ。
 この辺りは治安も良く神社にも近い。だけど祖父からは水桜の父のいる酒淵家と禍ツビトに気をつけるよう言われていた。

 <(マガ)ツビト>――この国の地中には、太古の昔、水女神により封印されし<禍神(マガツノカミ)>が眠っているという伝説がある。眠りについた禍神の呼吸は瘴気となり地表に現れて、瘴気は人間を狂暴で残酷な禍ツビトへと変えてしまう。
 岳麓縣のこの辺りは清らかな水が流れる地帯なので、瘴気の発生はほとんどないと言われていたが。
 
 神社までの帰り道、田んぼの周囲を流れる小川沿いに歩いていると、向こうから「きゃぁぁ……!」と子供たちが一心不乱に叫びながら逃げまどってきた。
「どうしたの!? 一体、何があったの!?」
 泥だらけになった子供たちが泣き叫びながら水桜の胸に飛び込んでくる。
「み、水桜姉ちゃん……怖いやつが……化け物が……!」
 震えて泣く子供たちに何とか事情を聞き出すと、広い田んぼの向こうに恐ろしい形相をした男が現れて、いきなり飛び掛かってきたらしい。子供たちが慌てて田んぼの中に逃げ込むと、男は田んぼの中には入ってこなかったという。そのまま逃げてこられたようだ。子供たちの話から察するに――禍ツビト。だが水桜も実際には見たことがなかった。
「どうしよう……お千夜がいない。お千夜を置いてきちゃった……!」
 子供のうちの1人が気づき、心配そうに周囲を見渡すも千夜の姿が見えない。千夜はまだ5歳の少女だ。
「わかった。私が見てくるから、みんなは早く家に帰るのよ。禍人が出たと大人たちに知らせて!」
 水桜は子供たちが逃げて来た方向へと走りだした。

「はっ……」
 水桜の目に飛び込んで来たのは、正気を失ったかのように獰猛な表情、泡を吹きそうなほど牙を剥いた男の姿だった。
「うぅ……」
 男に首を絞められ、だらりとぶら下がる小さな身体。田んぼの中から掴まれ出されてしまったようだ。千夜は恐怖と苦しみで声も出せずぐったりとしている。
「グガァァァ……」
 男が血に飢えた獣のように唸りながら千夜にかぶりつこうとした。
「だめ、離して!」
 水桜が全身で体当たりすると、男はあぜ道に転がり、千夜を掴んだ手を離した。水桜は急いで立ち上がり、ゴホゴホと咳き込む千夜を抱きかかえた。
「逃げるわよ、お千夜ちゃん」
 それなのに駆けだした瞬間、草履の鼻緒が切れてつまずいてしまった。
「わぁぁぁ、水桜お姉ちゃん!」
 なんとか千夜をかばいながら転んだが、こらえきれない恐怖のあまり千夜が泣き出した。
「グゴァァァ……」
 ゆらゆらと立ち上がった男は咆哮しながらこちらに向かって手を伸ばした――
(終わりだ……お千夜だけでも助けたかった……)
 だが、男はこれ以上こちらに近づけないようだった。水桜たちに牙を剥き、手を伸ばしてくるが、脚がそれ以上動かない。金縛りに遭い、「グギギ……」と、まるで悔しがっているみたいに見える。
(なんで……? 一体どういうこと……!?)
 まるでわからないが、これは好機かもしれない。がくがくと震える脚を奮い立たせ、どうにか立ち上がろうとした、その時だった――
 
 男の背後からヒュンと風を切るような音がしたかと思うと、男はバタリと崩れ落ちた。
「えっ……」
 何が起きたのかわからない。だが水桜の目の前には、今朝出会ったばかりの天水海璃がいた。光の加減によるものだろうか、まばゆく輝く刀を手にして。
「怪我はないか? もう大丈夫だ」
 水桜の着物は泥だらけ、脚や腕に転んだ時の擦り傷はあったが、禍ツビトによる負傷はない。だが千夜は首を絞められていたのだ。今は恐怖で気を失っている。息をしているので少し安堵したが、医師に診せた方が良いだろう。
 そう思っていると、海璃はしゃがんで千夜の首筋に手をかざした。すると海璃の手からは温かく眩しい光が溢れ出し、千夜の首にくっきりと残っていた絞められた時の痣は瞬く間に消えた。今ではすうすうと寝息を立てている。
 
 目の前で起こった不思議な現象にただ魅入っていた。だがハッと気づいて倒れている男を指し示した。
「この人……斬ったのですか?」
 海璃が切らなければ、いずれ男は動き出して殺されていた。これは助かったから生まれた考えだとわかっているが、今の世は帯刀禁止令が出されている。ましてや抜刀ともなれば罪に課されてしまうかもしれない。後で警官になんて説明するのだろう。助けてくれた海璃が罰されるのは受け入れられない。
「斬ったのは瘴気だ」
「えっ……」
 たしかに倒れた男の身体からは血が流れていない。その上、先程の正気を失った表情ではなくなっている。
 すると海璃が手に持っていたはずの刀が、その刀身ごとスーッと消えた。
「これは瘴気のみ斬ることができる特別な刀だ。俺は禍ツビト討伐のための抜刀を許可されている。だがこれは口外無用だ」
 水桜はうなずくことしかできなかった。氷のような研ぎ澄まされた迫力は、まるで武士のようだと思った。ほんの少し前まで存在していた武士という身分は、御一新により消滅した。
(この人のお家は武家ではなく、代々立派な酒造を営んでいるのよね……)
 西洋ハイカラな海璃だが、武士装束も似合いそうだ。むしろそちらの方が似合うかもしれないなどと水桜は考えてしまった。

***
 禍ツビトとなっていた男の身柄は、この後すぐに天水家の者が引き取りに来ると海璃は言った。
「ここを訪れる前に立ち寄った酒造の家でこの男を見かけた」
 朝、水神宮を訪れた後、ここよりも街に近い村の酒造に寄ったのだそうだ。
「昔か湖鏡の……岳麓の水を汚そうとする者がいるからだ」
 漆黒の瞳に怒りの炎が灯っていた。けれど、海璃がそれ以上を語ることはなかった。

 千夜を村にある家に送り届け、禍ツビトが現れたことを村長の家に報告に行くところまで海璃は一緒に来てくれた。天水の名を出すと、村長は平伏する勢いで話を聞いた。事情を説明してくれたのも海璃で、禍ツビトとなっていた者は天水で身柄を押さえた上で岳麓縣の軍部に報告するということで片付いた。

 村長の家を出たところで海璃と別れ、神社への帰路を急いだ。辺りはもうすっかり夕暮れだ。
 森の入口にある神社の敷地内に入ると、見慣れぬ自動車が止まっていた。境内から言い争うような声が聞こえる。
「水桜は渡さん! いいから早く帰ってくれ!」
「私はあいつの父親だ。返してもらう権利がある!」
 離れたところに祖父の姿が見える。対立するように祖父の前に立ちふさがる人影は3人。酒淵家に婿入りした父とその妻、そして娘の蝶子だった。
「何が返してもらう権利だ! 他家に婿養子に行ったお前など、あの子に何の関係もないわ」
「なんだと、このジジイ!」
 カッとなった酒淵家の父に殴られた祖父が境内の石畳の上に倒れ込む。
「おじいさん!」
 水桜は祖父の元に駆け寄り、その身を支えた。そしてキッと酒淵の父を睨みつける。
「何てことをするのですか! 帰って下さい!」
 しかし、酒淵の父は取って付けたよう気味の悪い笑顔を浮かべた。
「おお、水桜。可愛い我が娘。お前を迎えに来たのだよ」
 にやりと笑う妖怪のような表情に、水桜はぞくりとした。
「あなたを我が酒淵家の娘として迎え入れて差し上げると言っているのよ。感謝なさい」
 そう語るのは酒淵家の父の妻だ。かつて両親に横恋慕し、母から父を奪った女。だが結局この女を選んだのは父だ。
「だけど、こんな時間まで外をうろついて、泥だらけのみすぼらしい女が姉だなんて私はお断りよ」
 さげすむような目で水桜を見下しているのは彼らの間に生まれた娘、蝶子だった。
「私とて今でも憎い忌々しい恋敵の娘なんて視界にも入れたくないですけれど、どうせすぐ出て行くのだから……」
「おい、お前たち、よさないか……」
 酒淵家の父がこちらの顔色をうかがいながら、妻と娘に何か言い咎めようとしている。
「どういうことですか?」
 水桜は問い詰めた。元より酒淵家に行く気など一切ない。それにきっとろくでもない理由が隠されているに違いなかった。

 水桜が10歳を過ぎた頃にも、こうして3人で神社に乗り込んで来たことがあった。水桜を蝶子の世話係の下女にするため引き取りに来たのだ。ましてや顔合わせと称して蝶子まで連れてくる始末であった。
 この時、日頃清廉かつ滅私の心で神に仕える祖父が、『水桜に近づいたら末代まで祟って根絶やしにしてくれるわ』と、神職らしからぬ怒りを見せたおかげで彼らはようやくその場を去った。
 その後は、双方の村長同士で話をつけた結果、「酒淵家が深美家に近づくのは金輪際ご法度」と酒淵家に沙汰が下された。それが今になって性懲りもなく再びやって来たのだ。

「実はだな、水桜。お前に素晴らしい縁談を持ってきたのだよ」
「縁談……?」
「そう、お前はもう18歳。これ以上ない良縁だ。お義父上とお前には苦労をかけてしまったから、そのお詫びのようなものだ。きっとお前の母親もあの世で喜ぶはずだ」
 慈悲深い笑顔を作っているようで目の奥は笑っていない。卑しい性根が目に現れている。母はどうしてこんな男が良かったのか。幼馴染の情にほだされたのか。それとも大人になって変わってしまったのか。
「甘い戯言で心にもない嘘を吐きおって! 私の目を欺けると思うなよ」
 祖父の言葉に水桜もうなずく。
「縁談など必要ありません。お帰り下さい。もう2度とこの家の敷居をまたがないで」
「だがそうもいかないのだよ。我が酒造が今とても厳しい状況に置かれていることは知っているだろうか?」
 父はまるで憐みを乞うような眼差しで見つめてくる。
 酒淵酒造が傾いているという噂はこの村にも聞こえてきた。黙っていても売れる酒にあぐらをかき、家長である父は仕事もせず遊興に耽け、妻と娘には贅沢三昧をさせている。苦言を呈した古くからの奉公人は皆クビにされた。真面目に働いていた職人たちにまともな給金も出さず、皆逃げてしまった。今いるのはゴロツキのような輩だという。借金をしているという噂もあった。

「岳麓縣で天水には及ばないが、灰金屋という大店の酒店があるだろう。その灰金屋の大旦那がお前を後妻にと望んで下さっているのだ」
 灰金屋と言えば悪名高い高利貸し。その大旦那と言えば聞こえてくるのは姑息で醜悪、私利私欲の申し子、何より父よりも年上。そんな人の後妻に入るだなんて身の毛もよだつ。
「お断りします。金輪際そんな話は持ってこないで下さい。私たちに関わってこないで」
「灰金屋は水桜が嫁いでくれれば、我が家の借金を帳消しにすると言って下さっている。お前は母親に似て美しい娘だからね。それにもう承諾の返事はしているのだ。後はお前が向こう様に行くだけなのだよ」
 酒淵の父が指で合図すると、林の中からガラの悪い男たちが現れ、水桜の身柄を拘束する。
「なっ……ちょっと離して!」
「おだまりなさい!」
 強い勢いで頬をはたかれた。父の妻から平手で打たれたのだ。
「酒淵の名前で大店に嫁げるのよ。遊郭に売られるよりマシだと感謝なさい!」
「お母様の言う通りよ。私たち親子の役に立てるのだと地べたにひざまずき、むせび泣いて感謝しなさいよ」
 同調した蝶子も憎々しげに水桜の頬を打つ。祖父が「水桜……!」と叫ぶのが聞こえる。
「2人とも、大事な身代金の顔に傷がつくからやめなさい。それからお前たちも、灰金屋に連れて行くまでの間に、この娘に対し良からぬことを考えないように。傷ものになっていたら借金の帳消しが却下されるやもしれない。そうなったらお前たちの給金にも降りかかるのだぞ」
 酒淵の父が妻と娘、そして手下の男たちに指示を下す。
「水桜を離せ!」
祖父が男たちに食らいつくように飛び掛かった。拘束の腕が緩む。
「水桜、逃げなさい! 私のことは良いから、早く!」
「でも、おじいさん……」
「このジジイ、殺してやる」
 突き飛ばされ、石畳の上に転倒した祖父を男たちが足蹴にしようとした時だった。

 一陣の突風が吹いたかと思うと、手下の男たちは目にも見えない早さで一撃のもとに薙ぎ払われた。その場に泡を吹いて倒れている。
「あなたは……」
 薄暗い黄昏の逢魔が時、闇を纏ったかのような漆黒のコート。水桜の目の前には天水海璃がいた。
 だが先程とは違い、あの不思議な刀を抜いてはいなかった。素手だけで男たちを倒したのだ。
「水桜に用事があって参ったのだ。だが……」
 海璃はギロリと酒淵の父たちを睨みつけた。
「今日の昼間、酒の質があまりにも落ちたゆえ、お前たちとの取引は終わりだと告げた。その足で慌てて金の工面のために、この娘を売り飛ばそうとしたのか」
「と、とんでもありません、天水様。私どもは娘のために良き縁談を用意したに過ぎません」
「しかし水桜本人は嫌がっている。祖父もしかりだ。その上、たとえお前が生ませた娘であれど、すでに縁は切れている。お前たちのしたことは、よその娘をかどわかそうとしたのと相違ない」
「そ、そんな……滅相もございません」
「深美家には2度と介入するな。水桜は俺の婚約者だ」
「えっ……!」
 これには水桜も驚きの声が出てしまった。だけどおそらく海璃は水桜たちを守るため、今後酒淵家が手を出せないように嘘をついてくれたのだろう。慌てて口を押えた。

「お前の手下の輩どもは天水の者がしかるべき場所へ出頭させる。こいつらが喋れば、お前たちの悪事は明るみに出る。他にも叩けば埃の出る身、お縄になるのを震えて待つか、夜逃げでもするか?」
 海璃は冷たい微笑を浮かべながら酒淵家当主に問うた。
「わ、わかりました。深美家には2度と近づきません。ですから天水様も酒淵家への追求はご勘弁下さい」
 怯えながらも媚びる父に、海璃は何の返答も寄越さなかった。父は慌てて「帰るぞ」と言い、妻と蝶子を促したが、2人は納得できない様子でこの場を離れようとしなかった。

「あら、あなた。私、良き案を思い浮かびましたわ。天水様に助けて頂けば宜しいのよ。同業のよしみ、歴史の深い名家同士、手を取り合えば宜しいのですわ。海璃様と蝶子が結婚して、子供のうちの1人に酒淵家を継がせれば宜しいのよ」
「お母様、名案ですわ。ねえ海璃様、酒淵家はきっと天水家のお役に立てますわ。海璃様のお力で我が家をお立て直し下されば、きっと……! この娘のような泥だらけの薄汚い女ではなく、海璃様には酒淵家の華である私がふさわしいですわ。貴方様の人生に彩りを与えて差し上げられます」
 おそらく昼間の商談では取引停止を伝えられ、もはや灰金屋に頼るほか打つ手はないと追い詰められていた。だがここに来て、自分たちより遥かに格下の水桜が天水海璃の婚約者だと聞き、自分たちにこそ機会が恵まれるはずだと発想を転換したようだ。

「たしかに……追い詰められて灰金屋に助けを求めることしか頭になかったが、我が家は歴史ある酒淵家、天水家も見限りはしないだろう。天水様、ぜひ我が家にもうひと度の機会をお与え下さい。天水様が立て直して下さった後は、ご満足頂ける品質の酒を必ずご提供いたしますゆえ……ひいっ!」
 恍惚とした様子で語っていた酒淵の父は、海璃を見るなり恐怖で飛び上がる。海璃は容赦のない、射抜くような視線で酒淵家一同を睨みつけていた。これには3人とも震え上がっていた。
「それほどまでに牢獄に入りたいのか? それとも、牢獄が極楽だと思えるような罰を受けたいのか?」
「も……申し訳ありません。この場は失礼いたします!」
 父は慌てて妻と蝶子を連れて馬車まで逃げ帰って行った。

「天水様、お助け下さりありがとうございました」
 心底からの安堵と感謝の思いで、水桜は深々と頭を下げた。
「いや、遅くなりすまなかった。深美どの、傷の手当をいたしましょう」
 海璃は労わるように祖父を支えながら起き上がらせた。
「天水どの、かたじけない。本当に助かりました」
「水神宮には天水の者を見張りに置いて行きます。万が一また酒淵家の人間がやって来たとしても返り討ちにするでしょう。良く効く湿布薬もお持ちします。そして水桜を帝都に連れて行きたいのだが宜しいか?」
 まるで湿布薬のついでのような言い草だが、水桜の身を案じて帝都で保護してくれるという話なのだろう。
「天水どの、私は水桜さえその気でしたら構いません。なにぶんふつつかな娘ではありますが、気立ての良い、賢い娘でございます。なにとぞ末永くお頼み申し上げます」
 ふつつかと言いながら、孫を自慢しているではないか。何とも恥ずかしい。それに祖父は海璃の真意をわかっていない。
「おじいさん、天水様は深美家を保護するためにああいう風に言って下さったのよ。勘違いしてはいけないわ。ですが、天水様、私でお役に立てるのでしたら、帝都でお屋敷の下働きでもお店のお手伝いでも何でもさせて頂きます」
 海璃に向き直り、謹んでその役目を引き受けた……はずだった。
「先程も申した通り、俺の婚約者になって欲しい」
「それはまことの話だったのですか?」
「まことも何も、俺は本気だ。深美の血を引く娘、水桜、お前は自分でも気づいていない力を秘めている。お前こそが俺の一筋の道を照らす光となる。俺と共に来い、水桜」
 忠義を尽くす者――海璃から感じるのは、彼が信じるものへの忠義の心だった。それが一体何なのかは、今の水桜にはわからないけれど。